日本のジャズ歌手の草分けとして知られるマーサ三宅(本名:三宅光子)さんが、2025年5月14日に死去されたとのことです。92歳でした。
マーサ三宅さんは、日本のジャズ界において多大な功績を残し、その後のシーンに大きな影響を与えた特別な存在です。彼女のキャリア、歌唱、教育活動、そして受けた評価から、その貢献と影響力を見て取ることができます。
ジャズ歌手としての草分け的な活動
マーサ三宅(三宅光子)さんは、1953年に日本音楽学校を卒業した後、プロのジャズ歌手として活動を始めました。当時の日本は戦後の混乱期であり、彼女自身も「生活していくために苦しまぎれに歌手になった」と語っていたように、多くの先人たちと同様に米軍キャンプで歌い始めたことがキャリアの原点でした。1954年には当時人気のジャズバンド「レイモンド・コンデとゲイ・セプテット」の専属歌手となり、頭角を現します。
彼女のレコードデビューは1955年で、マーキュリーレコードからSP盤がリリースされ、1958年には初のLPアルバム『東京キャナリーズ』を発表しました。これは、戦後のジャズ復興期における彼女の活動がいかに早かったかを示しています。
当時のジャズはビバップ、モダン・ジャズの流れがメインストリームとなっていました。マーサ三宅さんはそうした変化の中でも自分のスタイルと変わりゆくジャズとの共存をはかり、ジャズ・ボーカルの第一線に立ち続けました。
時代の影響でジャズのアルバムをリリースすることが難しかった時期に、シャンソンのレコーディングの話があり、シャンソンのアルバム「わたしはカモメ」がヒットしたというエピソードもあります。
歴史の流れに左右されないボーカル
女性ヴォーカル不動のトップ
彼女の歌唱は、辛口で知られるジャズ評論家であった大橋巨泉さんも褒めたほどであり、たっぷりとした声量とリズムの切れ味が持ち味でした。卓越した英語の発音も評判だったそうです。
スイングジャーナル誌の人気投票では、1959年以降、女性ヴォーカル部門で常にトップの座を維持し 、長きにわたり多くのジャズファンからの支持を得ていました。
マーサ三宅さんは歌手として、ジャズの新しい波にも対応しながら第一線で活躍し、その実力と功績は数々の受賞歴によって公的に認められました。教育者としても多くの後進を育て、日本のジャズヴォーカルシーンの発展に不可欠な貢献を果たしました。日本のジャズ界において「特別な存在」であり、その功績と影響力ははかり知れません。
純粋なジャズヴォーカリスト
彼女は、ジャズとポップスの境界が比較的曖昧だった時代に活躍しました。歌謡曲やシャンソンなど歌う機会がありつつも、「純粋なジャズヴォーカリスト」としての道を一筋に歩み続けたことは、特筆すべき功績の一つです 。
スイングスタイルを基本としながらも、時代の変化に対応し、モダンジャズも歌いこなし、スイングジャーナル誌の人気投票では1959年以降、女性ヴォーカル部門で常にトップの座を維持しました。彼女の歌声は、たっぷりとした声量とリズムの切れ味が持ち味でした。
日本のジャズヴォーカルのレベル向上に貢献
卓越した英語力と表現力 マーサ三宅さんの歌唱における大きな強みの一つは、卓越した英語の発音です。これはお母様の教育方針で、英会話の家庭教師がついていたことによるとされています。その英語の発音は外国人リスナーからも評判が良かったと言われています。
クラシックの発声法も学び、トーチソング的なバラードを得意としていました。この高い英語力と歌唱力によって、彼女は本場のジャズのフィーリングを表現することができ、日本のジャズヴォーカルのレベル向上に貢献しました。
マーサ三宅ヴォーカルハウス
後進育成への多大な貢献 マーサ三宅さんのもう一つの大きな功績は、教育者としての活動です。歌手として活躍する傍ら、1972年には「マーサ三宅ヴォーカルハウス」を開校し、多くの後進の指導に情熱を注ぎました 。
多くの大物歌手を輩出
このヴォーカルハウスは2018年まで続き 、大橋純子さんや今陽子さん、芹洋子さんといった著名な歌手をはじめ、4,000人以上の生徒が学びました。教え子の中には先生の推薦を受けてアジア音楽祭に出場し、金賞を獲得してプロになるきっかけをつかんだ人もいます。
日本ジャズ界のマザー・テレサ
彼女の指導は厳しさの中にも温かさがあり、多くの生徒にとってかけがえのない存在でした。日本のジャズ界の未来を担う若手育成への尽力は、「日本ジャズ界のマザー・テレサ」と称されるほど大きな影響力を持つものでした。
数々の受賞・受章
数々の受賞・受章にみる揺るぎない評価 長年にわたるマーサ三宅さんの功績は、公的にも高く評価されています。1988年には、ジャズ界で権威のある第13回南里文雄賞を受賞しました。これは女性歌手としては初の受賞であり、笈田敏夫さんに次いで歌手全体で2人目という快挙です。
さらに1990年には、第6回日本ジャズヴォーカル賞大賞を受賞しています。1994年には、女性歌手として初めて芸術祭賞を受賞するなど、その実力と貢献は高く評価されました。
国の栄誉としては、2000年に紫綬褒章を、2006年には旭日小綬章を受章しています。これらの受賞・受章歴は、彼女が日本のジャズ界に残した多大な功績と、文化芸術への貢献が広く認められた証と言えます。
娘は大橋美加
マーサ三宅さんは、タレントでありジャズ評論家としても知られる大橋巨泉さんと婚姻されていました。後にお二人は別れていますが、それまでに二人の娘さんをもうけました。
大橋美加さんは、マーサさんと巨泉さんの娘です。短大在学中に東京大学ジャズ研究部に所属したことをきっかけに、ジャズシンガーとしてデビューしました。
1986年(昭和61年)にアルバムをリリースし、昭和62年に第3回日本ジャズ・ヴォーカル賞新人賞を受賞しています。2018年には、日本ジャズヴォーカル賞大賞を受賞しました。
大橋美加さんはジャズシンガーとしての活動の他、音楽(ジャズ)、映画音楽、子育て、洋楽の英語詞の解釈についての教養講座など、講演活動も行っています。日本の著名なジャズシンガーであり、ジャズ界のレジェンドであるマーサ三宅さんの娘として、その音楽のキャリアを築いてこられました。
教え子であるジャズシンガーの平賀マリカさんは、大橋巨泉さんと別れてから、マーサ三宅さんが二人の娘さんを育て上げるのにご苦労されてきたであろうと振り返ります。音楽生活60周年記念パーティでのマーサ三宅さんの様子を見て、「本当にご苦労もされてきたとは思えないほどの美しいいでたちでした」とも述べています。
生涯貫いたジャズ一筋
マーサ三宅さんの存在は日本のジャズ史において極めて重要です。戦後のジャズブーム期から活動を開始し 、ジャズ一筋の姿勢を貫き、卓越した歌唱力と英語力で多くのファンを魅了しました。ヴォーカルハウスでの教育活動を通じて、数多くの後進を育成し、日本のジャズ界のレベルアップと継承に貢献しました。
「日本のジャズ歌手の草分け」「日本JAZZ界の重鎮」 と称されるように、単なる一歌手ではなく、日本のジャズヴォーカルの歴史を形作った特別な存在と言えるでしょう。彼女の功績と影響力は、日本のジャズ界において永遠に語り継がれていくはずです。

海外で、70~80年代の日本のジャズ(個人的にはフュージョンという別ジャンルで捉えていますが)の認知が上ってきているようです。
カシオペアやT-Squareなど、演奏のクォリティが高く耳に心地いいサウンドが、他国の若い世代に受け入れられています。J-POPが徐々に浸透していく流れと、同じなのかもしれません。大橋純子と美乃家セントラルステイションの「シンプル・ラブ」など、両者の良いところ総獲りみたいなスゴイ曲です。
昭和初期、「日本のジャズ」はダンスバンドから始まり、敗戦後に駐留するアメリカ軍の兵士たちが故郷で聴いた音楽を熱望したことから広がります。誰もが食うため必死に本場を真似た「ジャズ」に、日本独自のテイストが加えられていきました。
マーサさんの「日本のジャズ」は、本国以上に「ジャズ」にこだわった音楽かもしれません。かつての黒人による、やむに已まれず溢れ出す情動のような音と異なり、あるべき音楽の「正しい」姿に最後までこだわっていたように受け止めています。これは「日本のジャズ」のオリジナル文化であるジャズ喫茶にも通じる、日本人固有の特性かもしれません。
マーサ三宅さん、たくさんの良き音楽をありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。
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