魂の深淵に触れる:シューベルトD.960「最後のソナタ」が到達した悟りの境地と不滅の価値

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  1. 🎧 ピアノソナタ第21番 (シューベルト)が持つ「時を超える力」
  2. 📖 ピアノソナタ第21番:誕生の物語と隠された音の秘密
    1. 感情への作用と各楽章の秘密
      1. 第1楽章:Molto moderato(変ロ長調、ソナタ形式)
      2. 第2楽章:Andante sostenuto(嬰ハ短調、三部形式)
      3. 第3楽章:Scherzo(Allegro vivace con delicatezza、変ロ長調)
      4. 第4楽章:Allegro ma non troppo(変ロ長調、ソナタ・ロンド形式)
  3. 🎤 演奏家が向き合った情熱と苦悩:ピアノソナタ第21番の核心
    1. アルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel):「厳格な知的統制と、ロマンティストの心」
    2. スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter):「運命とデモンそのものが目前に在る」
    3. マリア・ジョアン・ピリス(Maria João Pires):「シューベルトが乗り移った語り」
  4. ✨ 聴き比べる至福の瞬間:感情を揺さぶるお薦めの名演
    1. スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter)— 異形の決定盤(1972年録音)
    2. アルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel)— 彼岸の世界に佇む最後の言葉(2008年引退ライブ)
    3. クララ・ハスキル(Clara Haskil)— 枯淡の奥に燃える情熱(1951年録音)
    4. 比較対象としての名演:内田光子、ツィメルマン、そして協奏曲版
  5. 🔗 心が共鳴する場所:「類似の芸術作品」を探して
    1. 歌曲集『冬の旅』D. 911 — 孤独な魂の足取り
    2. 歌曲集『白鳥の歌』D. 957 より「海辺にて」(Am Meer) — 祈りと受容
    3. ベートーヴェン:ピアノソナタ第32番 ハ短調 Op. 111 — 最後のソナタの崇高さ
    4. 吉松隆『ピアノ協奏曲《メモ・フローラ》』— 現代の共鳴
  6. 🕊️ 不朽のメロディが未来へ:残された「変わらない価値」とは

🎧 ピアノソナタ第21番 (シューベルト)が持つ「時を超える力」

人はなぜ、時代を超えて響き続ける音楽にかくも心を震わされるのでしょうか。私たちはその作曲家が生きた時代や当事者が抱えた苦悩を知らずとも、ただ旋律に耳を澄ますだけで深い感動の波にさらわれてしまいます。
フランツ・シューベルト(Franz Schubert, 1797-1828)がその短い生涯の最後に残したピアノソナタ第21番 変ロ長調 D.960は、まさにそのような「時を超える力」を持つ、魂の傑作といえるでしょう。

このソナタが書かれたのは、1828年9月。シューベルトが31歳で亡くなる、わずか2ヶ月前のことです。
30代前半という若さで病に倒れ、死が間近に迫る中で生み出されたこの作品には、絶望や悲愴感といった感情よりも、むしろ「悟りの境地」に至ったかのような、純粋で澄み切った心が反映されています。そこには生への諦めではなく、すべてを受け入れた者の清々しさすら漂うのです。

彼のピアノソナタはベートーヴェンの圧倒的な存在感の影で、長大で構成力が弱いと長らく不当な評価を受けてきました。しかし時が経つにつれて、D.960をはじめとする後期のソナタ群はベートーヴェンの後期ソナタ群と並ぶ「非常に偉大な作品」として、その真価が認められるようになりました。
このソナタは規模の大きな4楽章構成で、全曲演奏すれば約40分を要する長大な作品です。その広大なスケールの中には、孤独諦観、そして生への憧れ祈りの光が複雑に交錯しています。

跳躍の少ない歌謡的な主題、突如として現れる低音の神秘的なトリル、そして調性の予想外の移ろいが織りなすその音楽世界は、聴き手を深い内省の旅へと誘います。
シューベルトは自らの命の炎が消える直前に、この作品を通して私たち聞き手に何を語りかけようとしたのでしょうか。技巧的な華やかさよりも内面が語る物語を大切にするこの「魂のソナタ」の深淵に、今こそ迫ってみたいと思います。

📖 ピアノソナタ第21番:誕生の物語と隠された音の秘密

このソナタD.960は、ハ短調D.958、イ長調D.959と並ぶ「後期3大ピアノソナタ」の最後を飾る作品です。シューベルトは1828年、亡くなる年の春頃からこれらのソナタの構想を練り始め、D.960は同年9月26日に完成しました。死(1828年11月19日)のわずか2ヶ月前の出来事です。
この時期、シューベルトは病状の悪化と回復を繰り返しながらも、『ミサ曲第6番D.950』や『弦楽五重奏曲D.956』、歌曲集『白鳥の歌』の一部など、膨大かつ充実した傑作群を次々と生み出していました。これはまさに、人智を超えた超人的な創作力と言えるでしょう。

D.960は古典派的なソナタ形式を踏まえつつも、真にシューベルト独自の音楽語法が確立された作品です。ベートーヴェンのように主題を小動機に分解し構築するのではなく、主題の旋律線を崩さず、繰り返される転調と響きの移ろいによって音楽を構築しているのが大きな特徴です。
このソナタは交響曲と同じ4楽章構成を取り、構造的に大きなものを創ろうとするシューベルトの意図がうかがえます。

感情への作用と各楽章の秘密

第1楽章:Molto moderato(変ロ長調、ソナタ形式)

この楽章は演奏時間が20分にも及ぶ長大さで、冒頭の主題は「天上の音楽」のような静謐さを感じさせます。この主題は教会の鐘の奉献式のために作曲された《信仰、希望、そして愛》(D.954)と音楽的に類似しており、「救い」や「愛」への祈りという要素を含んでいると解釈する研究もあります。
主題提示部(提示部)は、変ロ長調の主調と属調(ヘ長調)の間に三度調である変ト長調(Ges-dur)による主題が挟まれるという、三調提示部という特徴的な構造を持っています。これにより古典ソナタ形式が持つ調的な緊張関係が緩和され、シューベルトが重視した響きの移り変わりに重点が置かれています。この長大な提示部の構成は、シューベルト自身の「喜びと悲しみは常に一体である」という概念が音楽に反映されている可能性も指摘されています。
この楽章の主題提示では、穏やかなアルペジオのフレーズが半終止で閉じられた後、低音域に不気味なトリル(第8小節、Ges音)が突如として現れるのが印象的です。このトリルは作品中何度も登場し、単なる美しい音楽の裏に、死に対する恐怖運命的な何かが潜んでいることを示唆しているかのようです。
音楽学者のディーター・シュネーベルは、この低音のトリルやフェルマータ(休止)などが、音楽的時間を「静止状態」に導く「時間の点」として作用し、時間の流れへの異議を唱えていると分析しています。

第2楽章:Andante sostenuto(嬰ハ短調、三部形式)

シューベルトの「心の声」が最も聴こえる楽章と言われることもあり、孤独感と諦観に満ちた嬰ハ短調の主題が提示されます。この嬰ハ短調(cis-moll)は、シューベルトにとって「さすらい」を表現する際に好んで用いた調性であり、「過去」への志向や「愛の苦しみ」といった概念が内在しています。
特徴的なのは休符を伴いながら続く、第3音を含まない伴奏のオスティナート(執拗な反復)です。これは十字架音型や空虚五度といった時間や永遠性を象徴する要素と組み合わされ、孤独を一層引き立たせる「間」を生み出しています。
中間部はイ長調の暖かな響きとなり、しばしば安らぎ希望、あるいは天国を連想させます。再現部で主題が半終止した後、突然ハ長調(C-dur)に転じますが、これは調号のない長調であり、「人智を超えたもの」としての世界を目の前に映し出す瞬間と解釈されます。

第3楽章:Scherzo(Allegro vivace con delicatezza、変ロ長調)

この楽章の指示にある「con delicatezza」(繊細に、優美に)が、この愛らしいスケルツォの性質を示しています。この優美な曲想は、前年に作曲された歌曲『リュートに寄せて』(D.905)の伴奏曲が発展したものです。
この楽章は田舎風のスケルツォと貴族のメヌエットの要素を融合させ、「身分を超えた連帯」「社会的な絆の導入」という側面が見出せます。

第4楽章:Allegro ma non troppo(変ロ長調、ソナタ・ロンド形式)

冒頭はG音のオクターブに導かれてハ短調のドミナントから始まり、不安定さを醸し出します。この出だしは、前年の『4つの即興曲D.899』の第1番の構成から着想を得ています。
全体は軽快でありながら、「常に何かに追い立てられているような焦り」すら感じさせる楽想が交錯します。
途中には、第19番の終楽章にも用いられたタランテラ風のリズムの激しいパッセージが現れます。このタランテラは死の概念とも結びつくリズムであり、死を振り切ろうとする最後の抵抗のようにも聞こえます。
曲の終結部(コーダ)はプレストで力強く駆け抜け、「お終い」と語っているかのようです。この最後の華やかな終止は、シューベルトが彷徨い続けた末にようやく手に入れた成功の表現であるという解釈と、最後に現れる半音低められた第6音(Ges)が地上における願いが成就しないことの影を暗示しているという解釈もあり、アンビバレントなものです。


🎤 演奏家が向き合った情熱と苦悩:ピアノソナタ第21番の核心

このD.960の解釈は、ピアニストの人生観やこの作品に潜む「死」や「運命」の捉え方によって大きく異なります。多くの演奏家が技巧的な華やかさ以上に、この曲が持つ内面的な深さと格闘しているのです。

アルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel):「厳格な知的統制と、ロマンティストの心」

アルフレッド・ブレンデルはシューベルトのピアノソナタ第21番D.960において、「壮大な構築感」「厳格な知的統制」のバランスを追求しています。彼はキャリアを通じてベートーヴェン作品の解釈で「知的探求の極致」と評されてきましたが、このシューベルトの演奏を聴くと、実は「ロマンティスト」なのではないかと感じる聴者も多いようです。
彼は著作で徹底した楽曲分析(アナリーゼ)を行う理性的な側面を持つ一方で、演奏そのものは非常に「感覚的」な行為で押し通していいます。

ブレンデルが特に言及しているのが、第1楽章主題提示部の繰り返し(反復)の是非です。彼は反復を省略し、展開部へ進む演奏家の一人です。
ブレンデルは、反復のための9小節の「経過楽句」が、他のソナタの熱気を帯びた領域から「侵入してきた異分子」のように感じられ、このソナタの美しさを損なうと考えています。彼はこの経過楽句を、このソナタの流れには不似合いな「余分な楽想」と解釈し、省略することで「形として完全なものになった」と解釈しているのです。
対して、シューベルトは形式的なこだわりにおいてベートーヴェンよりも「古風」であり、この省略に賛同しかねるという意見もあります。しかしブレンデルの演奏はその徹底した知性の先に、感情が「こみ上げる切なさ」となって表れ、まるで「目がウルウルしている」かのような情緒豊かさを持つのです。

スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter):「運命とデモンそのものが目前に在る」

20世紀を代表する巨匠ピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルは、シューベルトのD.960を演奏する上で作品の「核心」を捉えようとしました。 ピアニストの舘野泉は、ブレンデルやルプーの演奏が「あまりにも多くのことに気配りしすぎる」のに対し、リヒテルの演奏は「そうしたことを感じさせず、運命とデモンそのものが目前に在るという感じであった」と記しています。
リヒテル盤はその異常に遅いテンポ(特に第1楽章は約24分半)で有名であり、音楽はすべて「問わず語りのモノローグ」のように聞こえます。彼の演奏は人生の「深淵」を露わにするようで、暗く、重く、深い音楽がとめどなく広がっていく壮大さがあります。

リヒテルの演奏は、初めて聴く人には「朴訥とした語り口」や「鈍重な感じ」に聞こえるかもしれませんが、その奥にはひとかどの経験を積んだ「芯の強い篤実な語り」が宿っています。
聴き手はこの演奏の巨大さに圧倒され、孤独や諦観といった複雑な感情が「どうにもならないこと」として迫ってくるのを感じるでしょう。
リヒテルはこの曲の核心を、人生における抗いようのない力との対峙として表現したのです。

マリア・ジョアン・ピリス(Maria João Pires):「シューベルトが乗り移った語り」

マリア・ジョアン・ピリスは「すこぶる個性的」であり、大抵の曲に幻想的な雰囲気を加味し深みを増すことで知られています。 ここでの演奏は、まるでシューベルトが乗り移って語っているようです。彼女の表現力は恐るべきものであり、気を抜ける箇所がどこにもありません。
第1楽章では「死を受け入れた心境」を柔らかく優しく語りかけ、第2楽章では「止めようにも止められない死への歩み」を穏やかに表現し、第4楽章の終結部ではシューベルトの「これでお終い」という一言が聞こえてくるかのようです。この演奏を聴くと、聴き手にはシューベルトへの惜別の思いが湧き上がってくるのです。

この作品の深さを探求するプロフェッショナルの言葉に触れることは、聴き手の内面に新たな窓を開きます。特にピリスの言葉は、単なる技術論を超え、作曲家の魂に迫ろうとする演奏家の情熱と敬意を伝えてくれます。

✨ 聴き比べる至福の瞬間:感情を揺さぶるお薦めの名演

シューベルトのピアノソナタ第21番D.960はその奥深い内面性ゆえに、ピアニストの個性が色濃く反映される作品です。古典的な構成の追求から、極限の感情表現まで、多岐にわたる名演が存在します。ここでは、芸術的価値が高く、解釈が対照的な3つ(+1つの特殊なバージョン)の演奏を比較します。

スヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav Richter)— 異形の決定盤(1972年録音)

リヒテルの1972年録音は、D.960の「異形の決定盤」として非常に有名です。

客観的分析
第1楽章のテンポは異常に遅く、通常20分前後のところを24分を超える演奏時間で進行します。音の分離はやや鈍重な感じもしますが、その巨大なスケール感が圧倒的です。
感情的視点
この演奏は、人生の深淵を覗き込むような、暗く、重く、深い音楽が広がる「人生をかけた至芸」です。音楽は、あたかも「村人のつたない昔語り」のように訥々と語りかけますが、その語り口には「ひとかどの経験をしてきた芯の強さ」が感じられます。聴き手はこの巨大さゆえに多大なエネルギーを消費しますが、運命と対峙するシューベルトの魂のドラマに引き込まれてしまうのです。

アルフレッド・ブレンデル(Alfred Brendel)— 彼岸の世界に佇む最後の言葉(2008年引退ライブ)

ブレンデルはD.960を複数回録音していますが、2008年の引退(フェアウェル)リサイタルのライブ録音は、特別な重みを持っています。

客観的分析
テンポやダイナミクスに大きな変化は少なく、ひたすら淡々と弾き進められます。音色は硬質ながら金属的ではなく、クリスタルのように底光りする美しいトーンです。第1楽章の提示部反復を省略している点は、彼の知的な解釈に基づいています。
感情的視点
冒頭から「何か彼岸の世界に居るようなただならぬ雰囲気」に包まれています。表現意欲をあえて感じさせず、楽器が自分で鳴っているかのように感じられるこの演奏は、虚飾の無い控えめな表現の中に豊かな情感や孤独感を湛えています。これは分析と統制を極めた末に到達した、次元の異なる安らぎの境地といえるでしょう。

クララ・ハスキル(Clara Haskil)— 枯淡の奥に燃える情熱(1951年録音)

クララ・ハスキルの演奏は、昨今の「凝りすぎたシューベルト演奏」とは対極に位置する、淡々とした歌に満ちた音楽です。

客観的分析
テンポは早めで、D.960としては最も短い演奏時間の一つとされます。低音の響きは深いものの全体的にテンポが速く、陰影が濃いのが特徴です。彼女は何の気負いもなく、淡々と歌いついでいきます。
感情的視点
ある評者はこの演奏を「枯れた演奏」と評しましたが、その枯淡の奥には「炎が燃えている」ことを見逃してはいけません。激しく叫ぶことはありませんが、孤独感と切迫感がはっきりと現れています。弱音になったときに溢れてくる詩情は忘れがたく、「ふつうならぐっと力がこもるところをさらと撫でるように通り過ぎていく」様子に、「うれしいため息」のような女性らしさや温もりが漂います。

比較対象としての名演:内田光子、ツィメルマン、そして協奏曲版

内田光子(1997年録音)は、繊細な表現の極致と称されます。特に第1楽章と第2楽章のニュアンスの変化には神経が行き届いており、「ピアノという楽器はかくも繊細な表現が可能な楽器であったのか」と、聴き手に認識を新たにさせるほどの圧巻の演奏です。

クリスティアン・ツィメルマン(2016年録音)は暖かさ、優しさ、平穏さを特筆すべきものとして表現します。彼の演奏は普遍的であり、表現の幅が自然と広がる力強さを持っています。デモーニッシュな要素を求めるならリヒテルですが、ツィメルマンは楽譜の美しさ、素晴らしさを十全に引き出しています。

さらに日本の作曲家吉松隆は、このD.960をオーケストラとピアノのための協奏曲版として編曲しています(『シューベルト@ピアノ協奏曲』)。吉松はこの曲の虜になり、「好きな曲だったのでオーケストラで鳴らしてみたかった」という純粋な好奇心からこの編曲を完成させました。
ピアニストの田部京子によって世界初演され、ピアノ独奏曲の持つ内面的な世界が、オーケストラの響きによって壮大に拡張された、ユニークな鑑賞体験を提供しました。

シューベルトのピアノ・コンチェルト – 坪能 克裕 公式ウェブサイト Ⅲ(2001〜)

🔗 心が共鳴する場所:「類似の芸術作品」を探して

D.960はシューベルトが死を前にして、自身の人生と向き合った結果生み出された作品群の一つです。そのため同時期に制作された声楽曲や、彼が生涯を通じて抱えていたテーマである「さすらい」(Wanderer)の概念と深く結びついています。

歌曲集『冬の旅』D. 911 — 孤独な魂の足取り

D.960は前年に書かれた歌曲集『冬の旅』、「内面的な関連性」が見出されています。
『冬の旅』は失恋を機に旅に出た主人公が、全24曲を通して目的のない旅を続ける物語であり、その音楽は凄絶な孤独感を描き出しています。

D.960におけるリズムやパッセージは、「足取り」(Wanderer/Weg)というキーワードで捉えられます。例えば第1楽章の冒頭は、まるで「霧がかかった森の中を散歩しているような」静かで穏やかな足取りに聞こえるのです。しかしその後の展開では、あてのない世界を彷徨い安らぎが見つからない中、歩みを止められない状態が描写されます。

これはまさに、『冬の旅』で描かれるあてのない旅に疲れた「重い足取り」や、死の世界へと入っていくようなリズムと共鳴しているのです。
この「さすらい」のテーマはシューベルト自身が教職を捨て、作曲家として自立するために家を飛び出し、友人宅を転々とするという放浪の生活を送っていた事実とも深く通じています。

歌曲集『白鳥の歌』D. 957 より「海辺にて」(Am Meer) — 祈りと受容

D.960は、同時期に作曲されたハイネの詩による歌曲集『白鳥の歌』(遺作として出版されたためこの名がついた)と共通したテーマを持っています。 特にD.960の第1楽章の曲想は、『白鳥の歌』の第12曲「海辺にて」の曲想に類似していると指摘されています。

この「海辺にて」の音楽的表現を分析すると、コラールとトレモロの交替という手法が用いられています。コラールは過去を全否定しない姿勢を、そしてトレモロは巨大な存在(人間の力を超えたもの)を象徴します。

D.960の第1楽章の冒頭主題(コラール的)とその後に続く低音のトリル(トレモロ)は、祈りと不安、あるいは混沌と救いの対立という点で、この「海辺にて」の構造と深く共鳴しているのです。

ベートーヴェン:ピアノソナタ第32番 ハ短調 Op. 111 — 最後のソナタの崇高さ

シューベルトはベートーヴェンを心から尊敬しており、その死(1827年3月)は創作活動に大きな契機を与えました。晩年の3つのソナタは、ベートーヴェンへのオマージュ、あるいはそれとの「対峙」というテーマを内包しています。 D.960はベートーヴェンの最後のソナタである第32番Op. 111と同じく、作曲家が残した「最後のソナタ」としての崇高な地位を共有しています。

Op. 111の第1楽章冒頭の和音を聴くときと同様に、D.960の最終楽章冒頭のG音のオクターブを聴くとき、聴き手は「身が引き締まるような想い」を抱くのです。
D.960の第1楽章の長大さや、交響曲に似た4楽章構成は、ベートーヴェンが確立した古典形式の限界を押し広げようとする試みでもありました。
しかしベートーヴェンのフィナーレが力強い「成就」を目指すのに対し、D.960の終結部は最後に半音低められた第6音の影を残すという違いがあり、ここに運命に抗いきれないシューベルトの繊細な心情が表れていると考えられます。

吉松隆『ピアノ協奏曲《メモ・フローラ》』— 現代の共鳴

現代日本の作曲家である吉松隆がD.960にインスパイアされて作曲した『ピアノ協奏曲《メモ・フローラ》』(Op. 67)は、このソナタが現代に与える影響を示す好例です。

吉松は田部京子のD.960のCDを聴いて魅了され、D.960をピアノ協奏曲に編曲するという「かなり気まぐれな(純粋な好奇心に駆られた)作品」まで制作しています。このソナタの持つ「美しいという表現では全然足りない」魅力が、時代やジャンルを超えて現代の芸術家にも深く共鳴し続けていることを示しています。

🕊️ 不朽のメロディが未来へ:残された「変わらない価値」とは

フランツ・シューベルトのピアノソナタ第21番 変ロ長調 D.960は、彼が31年の短い生涯の最後に到達したピアノ音楽の王冠に煌めく作品であり、ベートーヴェン以後に書かれた最も美しいソナタであるという評価も、決して誉めすぎではないでしょう。

このソナタには人生の深い淵のようなものが見えながらも、生命に宿る光、祈りがもたらす光も見えています。それは死を目前に控えた作曲家が、孤独の中で自分自身と向き合い、「信仰、希望、そして愛」という普遍的な価値を探求した、魂の対話の記録に他なりません。

D.960の根底には、苦しみが永遠に続くことを象徴するような暗い「現実を象徴する表現」と、高音域でのフレーズの繰り返しやA-dur(イ長調)といった「非現実的な世界」を連想させる表現が混在しています。
これはシューベルトが暗い現実に対して、いかに幸福と平安を見つけようとする姿勢を持っていたかを示しているのです。彼が求めていた「愛」は、現実の世界では叶わない「憧れ」のままだったかもしれませんが、その「救いとしての愛」への祈りは、音楽として見事に昇華されています。

シューベルトの音楽は音が少ない分、書かれている音の意味の重さが大きいと考えられます。
演奏家たちはその楽譜の裏にある作曲家の思考や人生における葛藤を推し量り、「心なくして演奏することはできない」と語ります。
この作品が多くのピアニストや聴衆にとって「とても大切な音楽」となり、「不滅」の遺産として何世紀もの時を生き続けているのは、私たちがこの音楽の中に、形や流行に左右されない「変わらない価値」を見出しているからなのです。

シューベルトは人生の終盤に自己の内面を見つめ、音楽という形で私たちに問いかけました。
その問いは、「あなたがこの足取りにどのような感情を感じるか」、「あなたの心の奥深くにある愛とは何か」、というものです。

この青年から溢れ出た純粋で透き通ったメロディーは未来永劫、人々の心に響き渡り続けるに違いありません。
このD.960を聴くたびに、私たちは自らの人生の重み、そしてその中にある希望の光を再確認することができるでしょう。
さあ、彼の最後のソナタに耳を傾け、あなた自身の「さすらいの物語」を紡いでみませんか。

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