ブリジット・フォンテーヌ『ラジオのように』1969年の世界を変えた異形の名盤

洋楽

🎼 『ラジオのように』が語りかける、世界の真実

皆様、お元気でいらっしゃいますか。いつも長文にお付き合いいただき、ありがとうございます。

音楽というものは時として、私たちの理解の枠組みを軽々と飛び越えてしまうことがありますね。まるで見知らぬ惑星から届いたメッセージのように、強烈な磁場を放ちながら心に突き刺さってくるのです。

ブリジット・フォンテーヌの傑作『ラジオのように(Comme à la radio)』は、まさにそんな作品の一つかもしれません。

初めてこのアルバムを聴いたときのあの異様な衝撃を、今でも鮮明に覚えていらっしゃる方も多いことでしょう。多くのリスナーにとってそれは、「シャンソン」という言葉から連想される優雅さや哀愁とは、かけ離れた体験だったに違いありません。

これは一体、ジャズなのでしょうか。それとも前衛的な詩の朗読なのでしょうか。あるいはどちらでもない、分類不能なアートなのでしょうか。

この摩訶不思議で国籍不詳なサウンドは、1969年の発表から半世紀以上が経過した今も全く色褪せることなく、私たちに様々な”何か”を語りかけています。時代を刻印しながらも、時を越えて聴き継がれる作品なのです。

なぜ『ラジオのように』はこれほどまでに、私たちを惹きつけるのでしょうか。

その秘密は稀有な才能たちの奇跡的な邂逅と、世界に対する透徹した眼差しの中に見つけることができるでしょう。

この傑作が持つ深遠な魅力を、音楽の構造から共鳴する他の芸術作品まで、じっくりと紐解いていきたいと思っています。

どうぞ、ブリジット・フォンテーヌが作り上げた退廃と虚無、そして美しさが混ざり合った唯一無二の世界観へ、皆様をご案内させてください。

📜 隠されたフリー・ジャズと詩の秘密

この歴史的な傑作が生まれたのは、1969年です。

当時30歳だったブリジット・フォンテーヌは、フランスの音楽界において従来の「コケティッシュで女性的な神秘性」を拒み、中性的な、時には無性愛的なルックスで、周囲とは一線を画す異彩を放っていました。
彼女の音楽は1960年代の繊細なフレンチ・ポップのキャンバスの上に描かれた、奇妙でけばけばしい色合いを持っていたのです。

このアルバムは彼女のキャリアの中でも、特に重要な位置を占めています。セカンド・アルバム(数え方によって3rdアルバム)にあたります。

運命のパリとアート・アンサンブル・オブ・シカゴ

この作品が生まれた背景には、1969年のパリの特別な「気運」がありました。

前年の1968年、フランスでは「五月革命」が起こり、若者たちが古い価値観から解放される潮目が生まれています。この時期、ヨーロッパだけでなくアメリカやアフリカ諸国からも、多くのアーティストやミュージシャンがパリに集まっていたのです。

その中に、アメリカ・シカゴから渡仏していた革新的なフリー・ジャズ・グループ、アート・アンサンブル・オブ・シカゴ(AEOC)がいました。AEOCは1969年から1971年にかけてパリを拠点に活動し、『ラジオのように』の制作に参加することになります。まさに奇跡的な邂逅です。

AEOCのメンバーは、トランペットのレスター・ボウイ、サックス/オーボエのジョセフ・ジャーマン、フルートのロスコー・ミッチェル、ベースのマラカイ・フェイヴァースといった面々です。
彼らは「多楽器主義」を掲げ、舞台に膨大な数の民族楽器や打楽器を並べ、それらを無造作に、即興で演奏することで知られています。
彼らの音楽はブルース、ジャズ、民謡の断片、うめき声、通りの喧騒などあらゆる音を取り込み、アフリカ風の化粧や衣装が儀式性を高めていました。

AEOCの濃密でプリミティヴな演奏、(フォンテーヌの公私にわたるパートナーとなるアルジェリア・ベルベル人の)アレスキ・ベルカセム呪術的で空間的なパーカッションがフォンテーヌの詩と融合し、類を見ない化学反応を起こしたのです。

詩と朗読:静寂を埋めるための「音」

アルバムの核となるのは、フォンテーヌの「詩」です。彼女の歌唱法はしばしば「スポークン・ワード」や「非リズム的」な朗読、あるいは「即興的なヴォーカル・アクロバット」と評されます。そのヴォーカルは、強靭なストイシズムと知性に貫かれています。

表題曲「ラジオのように」の歌詞を見てみましょう。

「それはまったく/ラジオから聞こえてくるようなもの」というフレーズから始まります。そしてそれは「なんでもない/ただの音楽にすぎない」「ただの言葉、言葉、言葉にすぎない」と繰り返されます。

なぜなら「沈黙は耐え難い」からです。ラジオの音は「静寂を埋めるための/ほんとにただのちょっとした音」なのです。

しかしフォンテーヌは、この「なんでもない」音の中に世界の恐ろしい現実を次々と挿入していきます。

「この瞬間に/たくさんの猫が/道路で轢かれているかもしれない」。 「この瞬間に/アル中の医者が若い娘の体の上で/『まさか死ぬんじゃないだろうな、このあばずれめは』と罵っています」。 「この瞬間に/二人の警官が救急車に乗り込んで/頭を負傷した若い男を川に放り投げています」。

そして「世界は寒い」。あまりに寒いから「火事が起こる」のだと。

AEOCの演奏はこの冷たく、時に絶望的な叙景に対し、摩訶不思議なサウンドで応えます。ドラムはポリリズミックで土着的であり、ベースラインはタイトで、その上にフルートやトランペットが涼しげに流れます。このクールでありながら熱い演奏がフォンテーヌの退廃的なヴォーカルと絡み合い、聴く者の感情を揺さぶり続けるのです。

🎤 ブリジット・フォンテーヌ『ラジオのように』の核心

『ラジオのように』はその特異性ゆえに、多くの音楽家や批評家たちに、長きにわたって多大な影響を与えてきました。彼らの言葉に耳を傾けることで、作品が持つ深みと情熱をより深く理解することができます。

音楽評論家・間章氏の言葉

日本の音楽評論家である故・間章(あいだ あきら)氏は、日本盤(1972年2月発売)のライナーノーツを手がけました。氏にとって初めてのライナーノーツ執筆だったそうです。専門とするフリー・ジャズや実験音楽の文脈で、極めて重要な作品との判断からだったでしょう。

間章氏はAEOCの音楽、特に彼らが体現したジャズの運動を評する中で、「ひたむきなさやけき内なる自由の輝き」という言葉を用いています。

AEOCはシカゴのアフリカ系アメリカ人音楽家による自助組織「AACM」の運動を体現しており、彼らがパリで録音したこの作品には無秩序に見えて、実は素晴らしい自由の輝きが満ち溢れているのです。

大貫妙子氏が語る影響

日本のシンガーソングライターである大貫妙子さんは、自身のキャリアにおける転換点となったアルバム『ROMANTIQUE』(1980年)を制作する際、プロデューサーの牧村憲一さんから「ヨーロッパっぽい音楽をやってみない?」と提案され、そのサウンドイメージとしてブリジット・フォンテーヌの名前を挙げています。

大貫さんは「フランソワーズ・アルディですね。それと『ラジオのように』のブリジット・フォンテーヌ」と語り、フォンテーヌの「語るようなヴォーカルに、自分の歌い方のひとつを見つけた感じがしました」と振り返っています。
それまでの「アーッ」といった乱暴な歌い方とは異なり、このアルバム以降、フランス語独特の息の抜き方を意識し、歌い方がはっきりと変化したそうです。

大貫さんの音楽を聴かれる方であれば、彼女の優しくも静謐な歌声の背後に、フォンテーヌが切り開いた「語りの世界」が深く息づいているのを感じるのではないでしょうか。

『ラジオのように』は、日本を代表する音楽家にも表現の新しい道筋を示した、時代を超えた指針だったのです。

共演者ジャン=フィリップ・リキエル氏の証言

フォンテーヌとアレスキはアルバム制作後も多くのコンサートを行いましたが、共演者であったジャン=フィリップ・リキエル氏は、彼らのステージについて貴重な証言を残しています。

彼はブリジットとアレスキのショーが「書かれ、目印が付けられている」にもかかわらず、「彼らはほとんど永続的な即興演奏の状況に身を置いています」と述べています。

その結果として生まれる雰囲気を、「まったくもって素晴らしい、美しく、非常に啓発的な雰囲気」と高く評価しています。

AEOCとのスタジオ録音(1969年)だけでなく、彼らのライブ・パフォーマンス全体が即興と自由という、芸術の根源的な要素に支えられていたことが分かります。
AEOCのフリー・ジャズとフォンテーヌの「詩」が組み合わさることで、形式にとらわれない「一期一会のアート」が生み出されていたのです。

✨ 『ラジオのように』を最高に味わうには?

『ラジオのように』はブリジット・フォンテーヌのキャリアにおける代表作ですが、彼女自身や他のアーティストによって、様々な形で再解釈されてきました。この名曲を深く味わうためのお薦めの演奏バージョンを比較してみましょう。

オリジナル・スタジオ・バージョン(1969年)

まず聴くべきは、1969年にパリのスタジオ・アベス、モンマルトルで録音されたアート・アンサンブル・オブ・シカゴ(AEOC)とのオリジナル・バージョンです。

この演奏はAEOCとの奇跡的な邂逅を刻んだ歴史的名盤とされ、その演奏構造は非常にユニークです。
曲のトーンは静寂と緊張感に満ちており、AEOCによる多種多様な楽器を用いた演奏は濃密でプリミティヴな質感を持っています。
特にタイトル曲では、ベースラインが時間を刻む一方でフォンテーヌのヴォーカルはしばしば非リズム的語りかけ自由詩の探求や即興的な優雅さを見せてくれます。
彼女の語り(スポークン・ワード)と背景で鳴り響くフルートやトランペットの絡み合いが、不穏な浮遊感を生み出しているのです。

このバージョンこそは真のマスターピースであり、多くのリスナーの脳天を打ち砕いたセンセーションの源なのです。

戸川純によるカバー(2000年)

日本で「ラジオのように」をカバーしたアーティストは複数いますが、特に注目されるのは戸川純さんによる2000年のアルバム『20th 戸川純』に収録されたバージョンです。

ほとんど完コピのようなアレンジでありながら、オリジナルの持つ世界観に対し非常に正統的で、心に迫る解釈を提示していると言われています。

聴き手の心に響くのは、戸川さんのヴォーカルから滲み出る「追い詰められてしまって怯えきっている小動物のような佇まい」です。
原曲が持つ冷たくて絶望的な情景(猫が轢かれる、警官が若者を川に投げ込むなど)に対し、戸川さんはまるで片言のフランス語(のように聞こえる発話)で、言語やメッセージとしての体裁を超えた、感情そのものをぶつけてくるようです。

オリジナルが持つ「知性のストイシズム」とはまた違う、「純粋な恐怖と脆さ」を感じさせるこのカバーは、名演として語り継がれています。

ライブ・パフォーマンス(1970年頃)

AEOCとのコラボレーションはスタジオを出て、ライブ会場でもその爆発的なエネルギーを見せました。特にAEOCのメンバーとフォンテーヌ、そしてアレスキが参加した1969年から1970年のパリのテアトル・デュ・ヴィユー=コロンビエでの公演は伝説的です。

先に紹介したように、共演者は彼らのステージを「ほとんど永続的な即興演奏」と表現しており、会場には幻想的で啓発的な雰囲気が満ちていたそうです。

アルバムに収録されている「夏、夏(L’été l’été)」などの曲の当時のライブ映像は、彼らのステージがいかに自由でアヴァンギャルドだったかを今に伝えています。
AEOCのメンバーが民族楽器も含む膨大な数の楽器を叩き、吹き鳴らし、フォンテーヌがその予測不能な音の渦の中で変幻自在に言葉を操る姿は、まさに「制御された狂気」の瞬間だったと言えるでしょう。

これらの名演を比較することで、私たちはスタジオの完成度カバーが持つ新しい感情の深さ、そしてライブの持つ即興的なエネルギーという、この作品の多面的な魅力を堪能できるはずです。


🔗 心が共鳴する「類似の芸術作品」を探して

『ラジオのように』の魅力は音楽ジャンルの枠を超え、文学や他の芸術作品と深く共鳴する世界観を持っていることにもあります。このアルバムが放つ反逆の精神冷徹な叙情性に、共通のテーマを見いだせる作品を探ってみましょう。

フランク・ザッパに匹敵する「わけのわからなさ」:キャプテン・ビーフハート『トラウト・マスク・レプリカ』

『ラジオのように』はそのあまりにアヴァンギャルド理解の範疇を超えた音楽性から、同じく1969年リリースの奇妙な傑作、キャプテン・ビーフハートの『トラウト・マスク・レプリカ』と並び称されることがあります。

どちらのアルバムも「わけがわからんがそれなりに多くの人たちに愛されている名盤」として、ポップミュージックの枠組みを軽々と飛び越えてしまいます。
フォンテーヌが前衛シャンソンとフリー・ジャズを融合させたように、ビーフハートもブルースを根底に持ちながら、極端に不協和で複雑なリズム、そして奇妙なスポークン・ワードを多用し、リスナーを混乱と陶酔の間に引きずり込みます。

この「わけのわからなさ」こそが既存の価値観への挑戦であり、芸術的価値を生み出す原動力だったと言えるでしょう。聴く者に対し、「何を聴いているのか」「何を理解すべきか」という根本的な問いを突きつける点で、両作品は強く共鳴しています。

日本のヨーロピアン志向の源流:大貫妙子『ROMANTIQUE』

先述の通り、日本のシンガーソングライター大貫妙子さんは1980年のアルバム『ROMANTIQUE』のサウンドイメージとして、ブリジット・フォンテーヌの名前を具体的に挙げています。

大貫さんは、当時の日本の音楽シーンで主流だった「アメリカン・フレーヴァーではないもの」、つまりヨーロッパ的な志向を追求していました。特にフォンテーヌの「フランス語独特の息の抜き方」を意識した「語るようなヴォーカル」に、自身の表現方法を見出します。

『ROMANTIQUE』は、坂本龍一さんや加藤和彦さんといった豪華なアレンジャー陣と共に「映画のようにロマンティックに、あるいは壮大に音楽で表現しよう」と試みた結果生まれた作品です。ヨーロッパの町を旅するイメージや、「ボヘミアン」に例えられる孤独な精神世界を描いています。

大貫さんがフォンテーヌに影響を受け、従来の歌謡曲的な表現を脱し冷めた視線とロマンティシズムを両立させた「新しいシャツ」を着たことは、フランスの先鋭的な芸術が日本のアート・ポップの夜明けに深く関わっていた証拠と言えるでしょう。

絶望を叫ぶ日本の抒情派パンク:ILL BONE(イル・ボーン)

1980年代の日本のパンクバンド、ILL BONE(イル・ボーン)もまた、『ラジオのように』に強く影響を受けていたことがわかっています。

バンドの中心人物であった中田潤さんは自身のブログで、フォンテーヌの「ラジオのように」を前身バンド「造反医学」時代に、「一番うちでかけてた曲」と述べています。
ILL BONEは「抒情派PUNK」と形容され、その楽曲は政治性と抒情性を併せ持っていました。

フォンテーヌの歌詞は、「世界は寒い」という断定的なキーワードを掲げています。
それは現代社会の絶望的で皮肉な情景を次々と描写し、「何も起こらない、何も重要じゃない」というニヒリズム(虚無主義)を宣言するものです。しかし最後には、「行かないで」と切実に訴えかけます。
この、絶望と希望が混在した感情の揺らぎが、ILL BONEのパンク精神と強く共鳴していたのかもしれません。

フォンテーヌの作品は遠く離れた日本の反骨精神にも、時代を超えた影響を与えているのです。


🕊️ 1969年のパリ、奇跡の結晶

ブリジット・フォンテーヌの『ラジオのように』は、1969年のパリという特殊なコスモポリタンな環境自由な表現を求める時代の気運の中で、アート・アンサンブル・オブ・シカゴという最高の才能と出会い、奇跡の結晶として生まれました。

このアルバムは単なる音楽作品という枠を超え、詩と即興、フリー・ジャズとシャンソンを融合させた真のアヴァンギャルド・ポップの金字塔として、今なお輝き続けているのです。

フォンテーヌが表現した世界は、どこまでも冷徹で厳しく、時に耐え難い静寂に満ちています。
彼女は「世界は寒い」というキーワードを投げかけながら、社会の不条理や個人の孤独を、まるでニュース速報のように淡々と語り上げます。そしてすべての惨劇がまるで「ラジオから聞こえてくるようなもの」、取るに足らない、重要性のない雑音であるかのように突き放すのです。

この強靭なストイシズム知性に貫かれた作品は、同時に、私たちに深い情感を残します。

「翻訳家さん、翻訳して」と投げかけながら最後にフォンテーヌが繰り返す言葉は、聴く者の心に、深く深くこだまします。

行かないで

この冷たい世界の中で、最後に残された人間的な繋がりへの切なる願いでしょう。すべてがラジオから流れる「ただの言葉」に過ぎないとしても、この一言によって聴く者の心に朽ちることのないメッセージが響き渡るのです。

『ラジオのように』が未来へ繋ぐのは、形式やジャンルにとらわれることなく常に新しい創造に挑戦し続ける勇気です。この厳しい現実の中でも他者との繋がりを諦めない、ささやかで、しかし変わらない「情熱」の大切さかもしれません。

『ラジオのように』はこれからも多くの探求者たちの耳元で、優しくもコケティッシュな囁きを続けることでしょう。

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