伝説の全方位型ジャズ!
ジャズを聴き始めたばかりの方、そして愛好家の皆さん、こんにちは。
「聴くべきジャズの名盤」というリストを目にしたとき、時として身構えてしまうことはありませんか?特に1960年代のジャズは、ハード・バップの熱気とフリー・ジャズの混沌が入り混じり、どこから手をつけていいか迷うこともありますよね。
今日ご紹介する一枚は、そんな時代の渦中で「難解さ」と「聴きやすさ」の奇跡的なバランスを実現した作品です。
ピアニスト兼作曲家、アンドリュー・ヒル(Andrew Hill)の最高傑作『ポイント・オブ・ディパーチャー(Point of Departure)』。
このアルバムはジャズの歴史における「新たな出発点」を明確に示し、参加メンバーの豪華さ、楽曲の奥深さ、そして何よりもその演奏の凄まじさから、今なお「色褪せない傑作」として愛され続けているのです。
この記事を読めばジャズ初心者の方は、難しそうなタイトルを持つアルバムのどこに注目すればその魅力を感じられるかがわかります。そして愛好家の方は、このアルバムがジャズ史においてどれほど歴史的かつ革新的な重みを持っていたかを、さらに深く理解できるはずです。
さあ、1964年3月21日、ニュージャージー州ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオで録音の制御されたアヴァンギャルドの金字塔へと、一緒に出発しましょう。この音楽の扉を開けることができて、本当に嬉しく思います。
なぜこのアルバムは「聴きやすい革命」なのか?
「アヴァンギャルド」や「プログレッシブ」と聞くと、難しそうに感じるかもしれません。ご安心ください。このアルバムの凄さは、決して「無秩序な騒音」ではありません。むしろ緻密な設計図に基づいて、最高の職人たちが自由に躍動している様子を捉えている点にあります。
『ポイント・オブ・ディパーチャー』の基本情報
まず、このアルバムがどれだけ特別な作品であるかを知るために、基本的な情報をまとめてみました。
| 項目 | 詳細 |
|---|---|
| アーティスト | アンドリュー・ヒル (Andrew Hill) |
| 録音日 | 1964年3月21日 |
| リリース年 | 1965年4月 |
| レーベル | ブルーノート・レコード (Blue Note) |
| スタイル | ポスト・バップ/アヴァンギャルド・ジャズ |
| 参加メンバー | アンドリュー・ヒル(p)、ケニー・ドーハム(tp)、エリック・ドルフィー(as, bcl, fl)、ジョー・ヘンダーソン(ts)、リチャード・デイヴィス(b)、トニー・ウィリアムス(ds) |
このメンバーを見ただけで、ジャズファンなら誰もが「アンリアル(非現実的)!」と叫んでしまうでしょう。特にフロントの3管(トランペット、アルトサックス/バスクラリネット、テナーサックス)の驚異的なリズム隊の組み合わせは、まさに「ジャズ界のアベンジャーズ」です。
まずはここに注目!
複雑な和声や非対称なフレーズ(曲のメロディや構成が不規則なこと)に戸惑ったら、まずはこの3つのポイントに耳を傾けてみてください。
【初めて聴く人におすすめ!3つの聴きどころ】
驚異のリズム隊:トニー・ウィリアムスの「ハリケーン・ドラム」
トニー・ウィリアムスは当時まだ18歳。しかし彼のドラミングは単なる伴奏ではなく、曲を前進させる推進力そのものです。特に1曲目「Refuge」や4曲目「Flight 19」での殺気立ち、スピード感に満ちた鋭いビートは尋常ではありません。曲の形式に縛られず、予測不能なタイミングで音楽を押し出す彼のドラムに、思わず胸が高鳴るはずです。
予測不能な天才:エリック・ドルフィーの「音色」の変化
このアルバムのサウンドを特徴づけているのは、エリック・ドルフィーの存在です。彼はアルト・サックスだけでなく、バスクラリネットとフルートも演奏しています。特にバスクラリネットの深く憂鬱で、時に不気味にも美しい響きは、ヒルの抽象的な楽曲に異次元の色彩を加えています。曲によって楽器がどう変わるか(特に「Spectrum」で3種の楽器を使い分けている)に注目すると、聴くのがグッと楽しくなりますよ。
「幾何学的スイング」:ヒルのピアノに慣れる
リーダーのアンドリュー・ヒルのピアノは、最初はたどたどしく型破りに聴こえるかもしれません。しかし彼はセロニアス・モンクのように角張りながらも、より平易で明るい響きを保ちつつスイングを生み出しています。彼のソロは突然音が飛んだりリズムがずれたりしますが、その不安定さこそがこの音楽の緊張感を生み出している源なのです。
交差する才能と歴史的重み
『ポイント・オブ・ディパーチャー』は、1960年代中盤のジャズが迎えていた激しい変化、すなわちハード・バップからアヴァンギャルドへの移行期を、「内部から革命」しようとしたヒルの知性が凝縮された作品です。
ヒルの作曲術:構造を保ちながら「自由」を探求する
アンドリュー・ヒルはピアニストというだけでなく、先駆的な作曲家として評価されています。彼はハード・バップのリズムや和声の技術を完全に放棄するのではなく、その可能性を拡張しようとしました。彼の楽曲は「迷路のようなメロディ(labyrinthine melodies)」や「非対称なフレージング(asymmetrical phrasing)」、「分数リズム(fractured rhythms)」を特徴としています。
彼の音楽がフリー・ジャズと決定的に違うのは、その「制御された探求心」です。
【アルフレッド・ライオンの慧眼】
ブルーノートの共同創設者であるアルフレッド・ライオンは、型破りなピアニスト/作曲家を好む傾向がありました。1947年にセロニアス・モンクと契約し、50年代後半にはハービー・ニコルズを録音しています。ライオンがアンドリュー・ヒルと契約した際、音楽評論家のマイケル・カスクーナは、ライオンが「モンクやニコルズを初めて聴いたときと同じだ」と感じたことを伝えています。それほどヒルの生み出す素材は独創的でした。
ライオンはヒルの才能に惚れ込み、1963年から1964年のわずか8ヶ月間で『Black Fire』『Smoke Stack』『Judgment!』、そして本作を含む5枚ものリーダー・アルバムを制作させたのです。
天才たちの「一期一会」が生んだサウンド
このセッションが奇跡的と言われるのは、メンバーそれぞれの個性がヒルの複雑な楽曲の中で最大限に引き出されているからです。
トニー・ウィリアムスがもたらした「リズムの自由」
ヒル自身は、当時18歳だったトニー・ウィリアムスの参加によって「明らかにリズム面での自由が増した」と語っています。
ウィリアムスの「極めて自由な時間感覚」とリチャード・デイヴィスの「現存する最高のベーシスト」としての確かなベースラインが合わさることで、ホーン隊はコードパターンから離れて、よりトーナル・センター(中心となる音)を基にした自由な演奏が可能になりました。
これは後のマイルス・デイヴィス・クインテットの音楽性にも、大きな影響を与えたとされています。
哀愁のトランペッター:ケニー・ドーハムの存在意義
ハード・バップのベテランであるケニー・ドーハムは、このアヴァンギャルドなセッションにいるため「異種格闘技戦に迷い込んだ」かのように評されることもあります。
しかしヒルは彼を「最も過小評価されているプレイヤー」として高く評価し、彼の参加が「新しい方向性で考え、演奏する」きっかけになったと述べています。
ドーハムの渋みのある音色は、ドルフィーやヘンダーソンの尖った音像の中に見事な対比(コントラスト)を作り出しています。
【悲劇の「Dedication」】
「最後の曲『Dedication』は、大きな喪失感を表現するために書いたんだ。もともとタイトルは『Cadaver(死体)』だったんだよ。演奏後、ケニー・ドーハムは涙ぐんでいたんだ。それほどこの曲には感情が込められていた」アンドリュー・ヒル(ピアノ)

ドーハムの繊細な心に響くほど美しい曲だったのか…。しかもこの録音のわずか3ヶ月後に、ドルフィーがヨーロッパで亡くなるなんて。「Dedication」はまるで予言のような深い哀しみに満ちているようで、ため息をつきたくなる。
『ポイント・オブ・ディパーチャー』Q&A
このアルバムの核心に迫る疑問を、Q&A形式で深掘りします。
Q1:このアルバムの楽曲は、なぜこんなにも「形がゆがんでいる」のでしょうか?
A: ヒルの作曲は、「クロマティック(半音階的)なスタイル」や「非対称なフレージング」が特徴です。例えば、最も親しみやすいとされる「New Monastery」でさえ、モンクのような角張ったモチーフを持ち、一筋縄ではいかない魅力を放っています。これはハード・バップの定型的なコード進行から離れ、メロディとリズムが主導する独自の音楽構造を追求した結果です。
Q2:エリック・ドルフィーの参加が、このアルバムに与えた決定的な影響は何ですか?
A: ドルフィーの存在は、このアルバムをアヴァンギャルドの試金石に押し上げました。彼の演奏は「完璧な理知」と「自由な感情」を両立させており、特にアルトサックスでの咆哮するようにアグレッシブなソロ(「Refuge」など)や、バスクラリネットの「憂鬱な響き」は、他のどのメンバーにも出せない異質な色彩を加えました。ドルフィーの「完成された個性」はヒルの複雑な楽曲を見事に表現し、この作品の魅力を何倍にも高めているのです。
Q3:このアルバムの邦題『離心点』には、どのような意味があるのでしょうか?
A: 『ポイント・オブ・ディパーチャー』の直訳は「出発点」ですが、かつて日本盤LPでは『離心点』という邦題が付けられた時期もありました。これは「中心から離れていく点」という意味合いを持ち、メインストリーム(主流)から離れ、独自の道を進むヒルの音楽性を象徴していると言えます。ジャズ評論家たちはこの音楽がハード・バップの基礎を内部から崩し、「古い慣用句を繰り返すのではなく、新しい表現を追求している」と評しています。
『Point of Departure』を愛するなら聴くべき関連作
『ポイント・オブ・ディパーチャー』は、アンドリュー・ヒルとその時代を代表する革新的なミュージシャンたちの才能が交差した結果生まれた傑作です。このアルバムを深く楽しめたなら、次に聴くべき関連作品や注目すべきアーティストを紹介します。
エリック・ドルフィー 『アウト・トゥ・ランチ!』(Out To Lunch!)
『Point of Departure』の録音のわずか1ヶ月前に、同じブルーノートで録音されたドルフィー自身のリーダー作です。
ドルフィーが目指した「幾何学的で抽象的なジャズ」の最高峰とされ、このアルバムにも参加したリチャード・デイヴィス(ベース)とトニー・ウィリアムス(ドラムス)が参加しています。ヒルのアルバムを気に入ったなら、リズム隊の共通性からもこの「従兄弟のような」作品に必ずハマるでしょう。
アンドリュー・ヒル 『ブラック・ファイア』(Black Fire)
本作の約4ヶ月前に録音されたヒルのブルーノート・デビュー作であり、彼の「特異な音楽的ボキャブラリー」が既に完成していたことを示しています。
ジョー・ヘンダーソン(テナー・サックス)、リチャード・デイヴィス(ベース)、ロイ・ヘインズ(ドラムス)という、本作とは異なるよりソリッドなカルテット編成で、ヒルの「鋭角的な半音階のメロディ」と「緻密なポリリズム」を堪能できます。ヒルの独創的なジャズを掘り下げるなら、ここが「真の出発点」です。
ボビー・ハッチャーソン 『ダイアローグ』(Dialogue)
『Point of Departure』と同じく1964年〜65年にかけてブルーノートからリリースされた、新主流派ジャズのショーケースです。ヒルもピアノで参加し、多くの楽曲を提供しています。
ヴィブラフォンのボビー・ハッチャーソン、テナーサックスのサム・リヴァース、トランペットのフレディ・ハバードらが参加しており、『Point of Departure』と非常に近い、抽象的でありながら構造的なサウンドを感じられます。ヒルの作曲家としての深さを知る上で欠かせない一枚です。
注目すべき演奏家:リチャード・デイヴィス (Richard Davis)
ヒルの複雑な楽曲を支え続けたのが、ベーシストのリチャード・デイヴィスです。彼は『Black Fire』から本作まで、ヒルの初期ブルーノートセッションの全てに参加しています。
ヒルが「現存する最高のベーシスト」と称した通り、彼の演奏はただの伴奏ではなく、重厚で脂肪の乗った(fat)ベースワークで、音楽全体を地上に引き留めています。彼の存在なくしてトニー・ウィリアムスの自由奔放なドラムも、ヒルの抽象的な和声も成立しなかったでしょう。
この「離心点」から、あなた自身のジャズの旅へ
アンドリュー・ヒルにとって、『ポイント・オブ・ディパーチャー』は自身の特異な音楽ヴィジョンが完璧に実現した記念碑的な作品です。
このアルバムはポスト・バップの領域を大きく広げつつ、無軌道なフリー・ジャズには陥らない「制御された自由」という、60年代ジャズのもう一つの素晴らしい道筋を示してくれました。
彼の音楽は聴く者に「努力」を要求するかもしれませんが、その分、何度も聴き返すことでその迷宮のような構造の論理が理解できるようになり、深い喜びをもたらしてくれます。
この音楽を聴き終えた後、あなたのジャズ観はきっと変わっているはずです。他のジャズアルバムを聴いたとき、あまりに定型的で「紋切り型」だと感じてしまうかもしれませんね。そんな風に心が揺さぶられたなら、このアルバムがあなたの「離心点」、つまり、既存の価値観から離れたあなた自身のジャズの旅の始まりになった証拠です。
さあ、次はどの傑作を聴きましょうか?
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。あなたのジャズライフがアンドリュー・ヒルの音楽のように、常に独創的な探求に満ちていますように。


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