ローター・コッホ:ベルリン・フィル黄金期を築いた巨匠の「歌心」 とドイツ・オーボエの系譜

クラシック音楽

不滅の「クリスタル・トーン」

オーケストラの中で、木管楽器のソロ、特にオーボエの音色に心惹かれた経験はありませんか?。その中でも20世紀後半のクラシック界において、ひときわ異彩を放った巨匠がローター・コッホ(Lothar Koch)です。

彼の演奏は「太く丸く甘い音色」と評され、まるで澄み切ったクリスタルのような硬質な響きを持つ「クリスタル・トーン」と称されました。
この記事を通して、カラヤン時代のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(BPO)黄金期を象徴したローター・コッホの波乱に満ちた生涯と、彼が後世に遺した不滅の演奏哲学について深く掘り下げていきます。
その音楽的深みに触れることで、オーボエという楽器の真の魅力と、クラシック演奏の奥深さを知ることができるでしょう。

ローター・コッホが奏でた「歌う楽器」の魅力

ローター・コッホのキャリアと「太く丸い音色」

ローター・コッホは1935年7月1日、ドイツのフェルバートで生まれました。彼は10代から音楽の才能を開花させます。

  • 6歳でリコーダー(ドイツ語でブロックフレーテ)を始め、バロック音楽に親しみました。
  • 12歳の頃、ケルンで聴いたシューマンのピアノ協奏曲とベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』の演奏で、オーボエの美しいソロに魅了され、この楽器を志します。
  • 17歳でフライブルク・フィルハーモニー管弦楽団の首席オーボエ奏者に就任。
  • 1957年、21歳の春にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席オーボエ奏者という、世界最高峰のポストに就任します。

コッホはヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)が率いるBPOの「黄金時代」を、フルートのジェームス・ゴールウェイやクラリネットのカール・ライスターらと共に支えたスタープレイヤーでした。
彼の音色は、太く丸く甘い音色と評され、その存在感と安定感はドイツのオーボエ奏者の代表格とされています。

まずこれを聴くべき!初心者におすすめのローター・コッホ名曲

ローター・コッホの演奏はオーケストラ作品で知られていますが、まずは彼がソリストとして活躍した協奏曲から聴いてみるのがおすすめです。

マルチェッロ:オーボエ協奏曲「ヴェニスの愛」

映画『ベニスの愛』にも使用された、哀愁漂う美しい旋律を持つ作品です。特に第2楽章の「もの悲しいカンティレーナ」の叙情的な美しさは、コッホの深く透明な音色が存分に堪能できる聴きどころです。

R.シュトラウス:オーボエ協奏曲 ニ長調 (D major)

コッホの録音は「歴代録音の最高峰」として高く評価されています。澄み切った流麗な旋律が心地よく、若き日のコッホの太く安定した音色が際立っています。

【ローター・コッホの言葉:オーボエは「歌う楽器」】

彼はオーボエを「歌う楽器であって、決してヴィルトゥオーゾな楽器ではない」と強調していました。その理由は、音楽の本質である歌心を表現することが最も大切だと考えていたからです。装飾や技巧よりも、音楽に込められた感情を豊かに奏でることが、彼の演奏の根幹にありました。

演奏技術と音色の特異性

コッホの演奏は、20世紀ドイツのオーボエ奏者の典型とされる独自のスタイルによって特徴づけられます。
彼の音色は「太く丸く甘い音色」と評され、その存在感と安定感によってドイツのオーボエ奏者の代表格とされています。評論家からは、「澄んだクリスタルのような硬質な音」とも表現されました。彼の演奏は「比類のない密度と安定感」を持つ「太い柱の上に横たわるがごとき歌の線」と形容されています。
彼の音色はしばしば「暗い音色」と表現されましたが、コッホ自身は「暗いのではなく、明るい音だ(Es ist nicht dunkel, es ist hell!)」と訂正しています。

リードと楽器への哲学

彼は短いドイツ・カットを施したリードを使用しており、それは「特別にぶ厚い」ものであったとされます。コッホは、リードの品質を非常に重視し、「素晴らしいリードがあるなら幾らでも支払う」と語っていました。
彼は弟子たちに対し、「楽器はほどほどで良い!どのメーカーでも良し。ただ、できればリードは練習でも良いものを使いなさい」と指導していました。

演奏技法

ヴィブラート:音色には「振幅の深くて速いヴィブラート」が陰影を添え、その表現力は一時代を画した「ジャーマン・オーボエの典型」をなすものとされます。1958年のマゼール指揮BPOとの録音において、コッホは連続的ヴィブラートを使用しモダンな演奏の始まりを示したとされています。

呼吸とフレージング:カラヤンから「歌詞(歌)のことを考えてごらん」と指導された経験から、「自然な呼吸フレージング」の大切さを悟り、オーボエは「歌う楽器であって、決してヴィルトゥオーゾ(超絶技巧)な楽器ではない」という哲学を持っていました。彼によるとオーボエ奏者が「息が余って困る」のは、「フレージングが悪いから」だとしています。

即興と装飾:バロック音楽の演奏では即興的な装飾を自ら工夫して加えましたが、ラジオやテレビの録音など確実性が求められる現代では、あらかじめ自作の装飾を楽譜に書いて演奏していました。
安定性:オーケストラの大音響の中でも、彼の音は埋もれることなく、常に安定した音を響かせ、瞬く間に会場の空間を満たしました。

他の奏者との比較

コッホの演奏スタイルは、同時代や先行するドイツの奏者、またフランスの奏者と比較することで、その特異性が際立ちます。

先代/師カ­ール・シュタインスとの対比:BPOの先代首席であったカ­ール・シュタインス(Karl Steins, 1919年生まれ)の音色は、「触れれば消えそうなほど繊細」で「素朴」であり、ヴィルトゥオーゾ性はなく、音と音の間の「間」を活かした「慎み深いのに色気がある音」と評されます。これに対し、コッホの音色は太く硬質であり、対照的です。

同時代のアメリカの巨匠レイ・スティルとの比較:レイ・スティル(Ray Still)がマルチェッロの協奏曲で聴かせる「素朴な味わい」で「オーソドックスな演奏」に対し、コッホは「即興的なアドリブを効かせたソリスティックな妙技」を聴かせ、対照的でした。

後任アルブレヒト・マイヤーとの比較:コッホの後任となったアルブレヒト・マイヤー(Albrecht Mayer)は、コッホとは異なる音色ですが、「表情の豊かさと息の長さと強靭さを併せ持ったフレーズ感覚」を持ち、「現代の巨人」と称されています。

フランス系の奏者との比較:コッホのスタイルは、ピエール・ピエルロハインツ・ホリガーといったフランス系の名手とは異なる、ドイツ系オーボエ奏者の中でも「別格の存在」とされています。コッホはシェレンベルガーに対し、「わたしの音はふくらみがあり、率直で感情的だが、わたしの音はもっと軽快で知的だ」と、自身の演奏スタイルを比較して述べています。

黄金期を支えた演奏哲学と知られざるエピソード

「クリスタル・トーン」の秘密:リードとヴィブラートの真実

コッホの演奏スタイルは、従来のオーボエ演奏に革命をもたらしたと言われています。その特徴は、単に「甘い」だけでなく、強靭な安定感硬質な響きにあります。

リードへのこだわり: コッホのリードは短いドイツ・カットが施されており、非常にぶ厚かったとされます。彼は「硬く引き締まった音」で演奏し、オーケストラの大音響の中でも決して音が埋もれることなく、会場の空間を一瞬で満たしました。

ヴィブラートと解釈: コッホの演奏は、深くて速いヴィブラートを伴いながらも、それが決して邪魔にならない独自の魅力を持っていました。1958年のBPOとの録音(指揮マゼール)は、モダンな連続的ヴィブラートを用いる、スコアに忠実な解釈の始まりを示す歴史的な演奏とみなされています。

評論家の評価: 評論家の木幡一誠氏(『200CDベルリンフィル物語』より)は、コッホの演奏を「太い柱の上に横たわるがごとき歌の線」の「比類のない密度と安定感」を持つものとして最敬礼に値すると評しています。

カラヤンからの決定的な教え

コッホが音楽家として最も大切な教訓を得たのは、カラヤンからの指導でした。

カラヤンからの「歌(歌詞)」の教え

1957年のBPO初来日時のことです。私はモーツァルトの『ドン・ファン』の長いソロを「一息で吹けるのが自慢」で、実際に本番でそれをやってのけました。
終演後、カラヤンさんが私のところへやってきて言いました。「今日のソロは素晴らしかった。だけど君はどこかに不渡り手形でも持っているのか。歌詞のことを考えてごらん」と。
私はその時、「自然な呼吸フレーズ」の大切さを悟りました。オーボエ奏者が「息が余って困る」と言うのは、結局のところ「フレージングが悪いから」なのです。カラヤンさんは美しいフレーズを歌って示してくれました。

知られざる人間的エピソードとリードへの情熱(Q&A形式)

Q1: カラヤン時代のBPO首席奏者は皆「酒好き」だったのですか?

コッホは「無類の酒好き」として知られていました。彼の言葉として「オーボエを吹いているか、ピアノを弾いているか、レコードを聴いているか、それとも酒を飲んでいるかだ」と言われたほどです。しかし、そのようなコンディションであっても、彼は録音曲を難なく吹きこなし、特にアダージョの美しさに録音室のスタッフが仕事を忘れ、息を殺して聴き入ったという逸話が残されています。

Q2: リード作りへの哲学は?

リード製作はオーボエ奏者にとって生涯の課題ですが、コッホはリードの品質に絶大な信頼を置いていました。彼は「素晴らしいリードがあるなら幾らでも支払う」とまで語っています。また、彼の指導では「楽器はほどほどで良い。どのメーカーでも良し。でもリードはできれば練習でも良いものを使いなさい」という教えがありました。

Q3: 北京空港での事故からどうやって復帰したのですか?

1979年10月、BPOの演奏旅行で北京空港に到着した際、タラップからの転落事故に遭い重傷を負いました。重症とアルコール依存症(脱疽)の闘病を経て、一時は引退しましたが、その後復活してBPOに復帰し、1991年まで首席奏者を務め上げました。

ドイツ・オーボエの系譜:師と後継者たち

コッホは1957年にBPO首席に就任する際、当時すでに首席だったカール・シュタインスらと共演していました。また、コッホの退団後(1991年9月)、後継者としてアルブレヒト・マイヤーらが台頭します。

カール・シュタインス: コッホの師の一人であり、BPO黄金期を築いた一員でもあります。1950年代のカラヤン指揮BPOによるモーツァルト交響曲第29番の録音では、彼の奏でる「触れれば消えそうなほど繊細」で「素朴な音」が、後のコッホの「硬質な音」と対照的であるとして、現代のオーボエ愛好家から再評価されています。

アルブレヒト・マイヤー (Albrecht Mayer): 現代のBPO首席オーボエ奏者であり、コッホが築いたドイツ・オーボエの伝統を引き継ぐ「現代の巨人」の一人です。彼の演奏は、音色だけでなく、表情の豊かさと強靭なフレーズ感覚に満ちており、音楽的説得力を持つと評されています。

フランソワ・ルルー (François Leleux): 現代のオーボエ界で最高の奏者の一人です。元バイエルン放送響首席であり、レ・ヴァン・フランセのメンバー。

名盤・演奏家紹介パート

コッホの演奏を聴くための決定盤3選

ローター・コッホの全盛期の演奏は、BPOとの録音に数多く残されています。特に彼のソリストとしての妙技を堪能できる名盤を3点ご紹介します。

R.シュトラウス:オーボエ協奏曲 ニ長調

共演: ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音: 1969年
聴きどころ: コッホ34歳時の若く脂の乗った演奏。この録音は、批評家から「歴代録音の最高峰」と絶賛されています。

モーツァルト:オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314

共演: ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音: 1971年
聴きどころ: 第1楽章のコッホ自作のカデンツァ(5:58頃)は、天上で小鳥が戯れているような歓びと愉悦に溢れた「絶品」です。

マルチェッロ:オーボエ協奏曲ハ短調

共演: ベルリン弦楽合奏団、ペーター・シュヴァルツ(Hpsi)
録音: 1974年
聴きどころ: 技巧と表現力が融合した演奏で、特に第3楽章のアクロバット的な名人芸は「神業的テクニック」と評されています。

ローター・コッホが遺した「歌心」と「強靭な音」

ローター・コッホは、1957年から34年間にわたりベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席オーボエ奏者を務め、カラヤン時代の「黄金時代」を象徴する偉大な存在でした。
彼の演奏はその太く安定した音色圧倒的な技巧 に加え、カラヤンから学んだ「歌詞(歌)」を意識した自然なフレージング が融合したことで、聴く者の心を深く揺さぶります。
音色は「クリスタル・トーン」と称される硬質な強靭さがありましたが、それは単なる技巧ではなく、彼が追求した「オーボエは歌う楽器である」という哲学に基づいています。

ぜひ、この記事で紹介した彼の名盤に触れ、その音楽的深みを体験してください。オーボエ奏者でなくても、コッホの「歌心」に満ちた演奏はクラシック音楽の楽しみ方を広げてくれるでしょう。

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