ボブ・ディラン『欲望』徹底解説!
ボブ・ディランと聞いて、あなたはどんなイメージを思い浮かべますか?
「フォークの神様」「プロテストソングの旗手」、あるいは「ノーベル文学賞を受賞した詩人」…。そのどれもが正解ですが、彼の音楽は時に難解で、どこから聴けばいいか迷ってしまうという声も少なくありません。
もしあなたがそんな一人なら、あるいはディランの新たな魅力に触れたいと願う長年のファンなら、ぜひ1976年に発表されたアルバム『欲望(Desire)』に耳を傾けてみてください。
この記事では、ボブ・ディランのキャリアにおいて商業的に最も成功し、今なお多くのファンを魅了し続ける名盤『欲望』の全貌を、初心者にも分かりやすく、そして愛好家も新たな発見ができるように徹底的に解き明かしていきます。
この記事を読めば、以下のことが分かります。
- なぜ『欲望』はディラン入門に最適なのか
- アルバムを彩る個性豊かな楽曲の物語と聴きどころ
- 混沌としたレコーディングから奇跡が生まれた制作秘話
- より深くディランの世界に浸るための鑑賞ポイント
さあ、ディランが描く情熱と哀愁、そして怒りに満ちた物語の世界へ旅立ちましょう。
まずはここから!ディラン『欲望』が特別な3つの理由
『欲望』は、ディランの数ある名盤の中でも特に異彩を放つ作品です。難解なイメージを一旦脇に置いて、まずはこのアルバムが持つ「聴きやすさ」と「面白さ」の秘密を3つのポイントに絞ってご紹介します。
心を揺さぶるジプシー・ヴァイオリンの旋律
このアルバムのサウンドを決定づけているのが、ヴァイオリニスト、スカーレット・リヴェラの存在です。
ディランがある日、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジを車で移動中にヴァイオリンケースを抱えて歩く彼女を見かけ、その場でスカウトしたという逸話はあまりにも有名です。彼女自身も「もし私がディランの車より先にその通りを渡っていたら、彼に声をかけてもらうことはなかったのです」と、この運命的な出会いを語っています。
彼女の弾くヴァイオリンは優雅なイメージとは異なり、時に激しく、時に物悲しく、まるでジプシー音楽のように情熱的です。このエキゾチックな音色がアルバム全体を貫き、ディランの音楽にこれまでなかった新たな彩りと「音の厚み」を与えているのです。
短編小説のように引き込まれる物語
『欲望』に収録された9曲中7曲は、劇作家のジャック・レヴィとの共作です。臨床心理学者でもあったレヴィの参加によって、ディランの歌詞はより物語性が強まり、まるで一本の映画や短編小説を読むかのように楽しむことができます。
「ハリケーン」: 殺人の冤罪で投獄された黒人ボクサー、ルービン・”ハリケーン”・カーターの無実を訴える8分半の叙事詩。ディランの激しい怒りとヴァイオリンが、物語の緊迫感を劇的に高めます。
「アイシス」: 妻を置いて冒険の旅に出た男が、宝探しを通じて再び愛に目覚めるまでを描くミステリアスな物語。エジプト神話をモチーフにした壮大なストーリーが展開されます。
「ドゥランゴのロマンス」: 追手から逃れる無法者のカップルの悲恋を描く、映画のような一曲。メキシコの乾いた風景が目に浮かぶようなサウンドと、悲劇的な結末を予感させるストーリーが胸を打ちます。
「コーヒーもう一杯」: 旅立つ男が、ある女性との別れ際に抱く決意と逡巡を歌った幻想的な曲。中近東を思わせるミステリアスなメロディが印象的です。
「オー,シスター」: ディランとエミルー・ハリスのハーモニーが絶妙な一曲。時という大きな流れに抗い、愛する人との再会を痛切に願う呼びかけの歌です。
「ブラック・ダイアモンド湾」: 火山の噴火で沈みゆく島を舞台に、そこにいる人々の人間模様と、その悲劇をテレビで無関心に眺める男の視点を対比させた、映画的な楽曲です。
「サラ」: 当時の妻サラ・ディランへ捧げられた、赤裸々なラブソング。過去の幸せな思い出を振り返りながら「僕のふがいなさを許しておくれ」「僕を捨てないで、行かないでおくれ」と、ストレートに愛と後悔を歌い上げます。
歌姫エミルー・ハリスとの美しいハーモニー
このアルバムのもう一つの大きな魅力は、カントリー界の歌姫エミルー・ハリスによるバッキング・ボーカルです。当時まだデビュー間もなかった彼女ですが、その透き通るような美しい歌声はディランのしゃがれ声と見事に絡み合い、楽曲に深い奥行きと切なさをもたらしています。
この共演はディランから直接電話で誘われたものの、エミルーは最初誰からの電話か分からなかったという逸話が残っています。このアルバムへの参加は、彼女が後にスターダムにのし上がる大きなきっかけとなりました。
『欲望』の深淵へ:制作秘話と多角的な解釈
『欲望』の魅力は、その聴きやすさだけではありません。ここからはアルバムの背景にある混沌とした制作過程や、専門家による深い分析を通して、この名盤が持つさらなる深みに迫ります。
ジャック・レヴィとの共作と「映画的」手法
ディランがキャリアの頂点で、劇作家であるジャック・レヴィをなぜ共作者として迎えたのか。その理由は、ディランが自身の音楽に「物語性」と「視覚的イメージ」を求めていたからだと考えられます。
レヴィはもともと舞台演出家であり、ザ・バーズのロジャー・マッギンとの共作経験もある人物でした。ディランの抽象的なアイデアを具体的なストーリーへと昇華させる手腕を持っていたのです。二人の共同作業は、ディランがレヴィに「アイシス」の初期バージョンを聴かせたことから始まりました。
このコラボレーションにより、『欲望』の楽曲はまるで映画の脚本のように緻密な構成を持つに至りました。特に「ハリケーン」では、複数の登場人物のセリフとナレーションがシームレスに織り交ぜられ、聴き手を物語の渦中へと引き込みます。
混沌から生まれた奇跡のサウンド – レコーディング秘話
『欲望』のサウンドは緻密な計算ではなく、むしろ混沌としたセッションの中から奇跡的に生まれました。
当初ディランは、ニューヨーク中のミュージシャンをスタジオに集め、大編成でのレコーディングを試みました。エリック・クラプトンも参加したそのセッションは、あまりに多くのプレイヤーがいたためまとまりがつかず、大混乱に陥ったと言います。クラプトンは後に、ディランに少人数のバンドで録音するよう助言したと語っています。
この失敗を経て、ディランは方針を転換。スカーレット・リヴェラ、エミルー・ハリス、ロブ・ストーナー(ベース)、ハウィー・ワイス(ドラム)といった少数の核となるメンバーだけを呼び戻し、レコーディングを再開しました。
このセッションは楽譜も事前の打ち合わせもほとんどない、即興的なものでした。ディランがおもむろにギターを弾き始めると、他のメンバーがそれに合わせていく。ほぼ一発録りに近い緊張感の中で、あの生々しく情熱的なサウンドが生まれたのです。
Q&Aでさらにディープに
Q. 「ハリケーン」はなぜ再レコーディングされたの?
A. 当初の歌詞に、事件の目撃者が「死体を漁った」という、事実と異なる名誉毀損の可能性のある表現があったためです。レコード会社の弁護士の指摘を受け、ディランは歌詞を修正し、よりアップテンポなバージョンで再録音しました。この際、バッキング・ボーカルはエミルー・ハリスからロニー・ブレイクリーに交代しています。
Q. 「イシス」の物語は何を意味しているの?
A. ディラン自身はライブで「結婚についての歌」と紹介しています。物語はエジプト神話の女神イシスが、殺害されバラバラにされた夫オシリスを探し出し再生させる神話を下敷きにしています。
一度は破綻しかけた妻サラとの関係を自らの冒険(精神的な死と再生の旅)を経て取り戻そうとする、ディラン自身の結婚生活のアレゴリーと見るのが一般的な解釈です。
Q. 「コーヒーもう一杯」の「下の谷」って何のこと?
A. 「下の谷(the valley below)」というフレーズは、旧約聖書の詩篇23篇にある「死の陰の谷」を暗示しているという見方が有力です。この解釈によれば、語り手は単なる別れや旅立ちだけでなく、死をも覚悟するほどの重大な決意を固めていることになります。
「もう一杯」という言葉から、一杯では決心がつかない男の逡巡や去りがたい女性への愛情の深さが表現されているとも読み取れます。
Q. 「オー,シスター」の美しいハーモニーの秘密は?
A. この曲でのエミルー・ハリスとのハーモニーは絶品ですが、実は彼女のボーカルパートは、バンドのベーシックトラックが録音された翌日にオーバーダビングされたものです。即興性の高いセッションの中で、これは数少ない例外の一つでした。
Q. なぜ「ジョーイ」は問題作と言われるの?
A. 11分を超える大作「ジョーイ」は、実在したマフィアのジョーイ・ギャロを英雄的に描いたことで、リリース当時から大きな論争を巻き起こします。多くの批評家は、冷酷な犯罪者を美化するものだと激しく非難しました。
しかしこの曲を、フランシス・フォード・コッポラの映画『ゴッドファーザー』のようなギャング叙事詩のパロディと捉える解釈もあります。信頼できない語り手によってギャロを極端に理想化することで、ハリウッド的な物語の作り方そのものを批評しているという、深読みもできるのです。
Q. 「ドゥランゴのロマンス」にはどんな背景があるの?
A. この曲は、ディラン自身が「エイリアス」という役で出演したサム・ペキンパー監督の映画『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973年)から強い影響を受けていると言われています。映画の撮影地がメキシコのドゥランゴであり、無法者の逃避行というテーマも共通しています。
サウンド面では、当初の大人数セッションで録音された唯一のトラックで、エリック・クラプトンのギターを聴くことができる貴重な音源です。
Q. 「ブラック・ダイヤモンド湾」は何に影響されて作られたの?
A. この曲はポーランド出身のイギリスの小説家ジョゼフ・コンラッドの小説『勝利(Victory)』から、大きなインスピレーションを得ています。曲のタイトル、舞台となる島、火山といった要素はすべて小説からの引用です。アルバムの裏ジャケットにはコンラッドの肖像画がコラージュされており、その影響の大きさを物語っています。
Q. なぜ「サラ」はこれほどまでに自伝的なのですか?
A. アルバム制作当時、ディランと妻サラの関係は離婚の危機に瀕していました。この曲は妻への愛と後悔、そして関係修復への切実な願いを込めた、極めて個人的なメッセージでした。
この曲が録音された1975年7月31日のスタジオにはサラ本人がおり、ディランは彼女の目の前でこの歌を歌ったと伝えられています。この歌がきっかけで二人は一時的に和解しましたが、残念ながら1977年に離婚に至りました。
Q. ディランはなぜ歌詞を「文学」ではないと言うの?
A. ディランは2016年にノーベル文学賞を受賞しましたが、彼自身は一貫して自分の作品を「文学(literature)」ではなく、「歌(songs)」だと語っています。これは彼の作品が言葉(歌詞)だけでなく、声、メロディ、演奏といった「音」と一体になったパフォーマンスによってはじめて完成するという強い信念の表れです。
『欲望』を聴くことは歌詞を「解釈」するだけでなく、サウンド全体を「体験」し、あなた自身の内面で「理解」するプロセスなのです。
『欲望』の世界をさらに広げるキーパーソンたち
『欲望』の魅力を知ったなら、次はこのアルバムを創造した個性豊かな共演者たちにも注目してみましょう。彼らの存在なくして、この奇跡のアルバムは生まれませんでした。
スカーレット・リヴェラ(ヴァイオリン)
ヴァイオリニストのスカーレット・リヴェラは、アルバム『欲望』のサウンドを決定づけた最も重要な人物の一人です。
ディランとの運命的な出会い
ボブ・ディランが彼女と出会ったのは1975年6月、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジでした。ディランは車で移動中に、ヴァイオリンケースを抱えて歩いているリヴェラを見かけ、その場で車を止めて声をかけます。ディランは彼女をリハーサルスタジオに誘い、午後の間、新しい曲に合わせて演奏させました。その演奏に感銘を受けたディランは、彼女をレコーディングに招き入れたのです。
リヴェラ自身はこの出会いを、「百万分の一の確率」「もし私がディランの車より先にその通りを渡っていたら、彼に声をかけてもらうことはなかった」と語り、偶然が彼女の人生を大きく変えたと振り返っています。
『欲望』への貢献
リヴェラの演奏はクラシックの教育を受けた伝統的なスタイルとは異なり、ジプシー音楽を思わせる情熱的でエキゾチックなものでした。彼女のヴァイオリンはアルバム全体に独特のうねりとミステリアスな雰囲気をもたらし、「もうひとつのヴォーカル」として機能します。
特にディランのハーモニカとの掛け合いは絶妙で、楽曲に大きな彩りを与えています。 レコーディングは非常に即興的で、ディランから具体的な指示はほとんどなく、「下のほうを弾いてくれ(低音部で)」といった抽象的なものが多かったとリヴェラは回想します。多くの場合、リハーサルと本番が一体となったセッションで、1〜2テイクで録音は完了しました。
その後のキャリア
ディランとの共演は、当時まだ無名だったリヴェラのキャリアを大きく飛躍させました。彼女は『欲望』のレコーディング後、ローリング・サンダー・レヴューのツアーにも参加。その後はソロアーティストとして活動する傍ら、トレーシー・チャップマン、インディゴ・ガールズ、ケブ・モなど多くのアーティストの作品に参加し、多彩なキャリアを築いています。
エミルー・ハリス(ボーカル)
カントリー界の歌姫として知られるエミルー・ハリスは、『欲望』にバッキング・ボーカルとして参加し、その歌声でアルバムに深い情感を与えました。
参加の経緯
ディランは以前から彼女の歌声を気に入っており、ローリング・サンダー・レヴューのツアーにも誘っていました。アルバム制作にあたり、ディランから直接電話で参加を依頼されたものの、エミルーは最初、どの「ボブ」からの電話か分からなかったという逸話が残っています。
『欲望』への貢献
彼女の透き通るような美しい歌声は、ディランのしゃがれ声と見事なコントラストを描き、楽曲に奥行きと切なさを加えました。「コーヒーもう一杯」や「オー,シスター」での二人のハーモニーは特に印象的で、聴く者の心を揺さぶります。 レコーディングはディランの即興的なスタイルで行われ、楽譜もなく、彼が合図をした時に歌い始めるという緊張感のあるものでした。
キャリアへの影響
グラム・パーソンズとの活動で既に一部では知られていましたが、『欲望』への参加は彼女のキャリアにおける大きな転機となりました。この共演後、彼女のアルバム『エリート・ホテル』が大ヒットし、カントリー界のスターとしての地位を不動のものにしました。
ジャック・レヴィ(作詞)
劇作家、舞台演出家、そして臨床心理学者でもあるジャック・レヴィは、『欲望』の多くの楽曲でディランの共作者としてクレジットされています。
ディランとの共作
ディランは、ザ・バーズのロジャー・マッギンとの共作経験もあるレヴィの演劇的な才能に感銘を受け、コラボレーションを申し込みました。二人の共同作業は「イシス」の初期バージョンから始まり、ディランの断片的なアイデアをレヴィが物語として構築していく形で行われました。 この共作により『欲望』の楽曲は、「映画的」「演劇的」と評される強い物語性を持つようになりました。
あなたの心の「欲望」を解き放つ一枚
ボブ・ディランの『欲望』は、情熱的なサウンド、映画のような物語、そして生々しい感情が見事に融合した、ロック史に残る奇跡のようなアルバムです。
まず、そのドラマチックなメロディと分かりやすいストーリーを楽しんでください。
長年のファンの方は、混沌とした制作過程や幾重にも重なる歌詞の解釈に思いを馳せながら、改めてその深淵に触れてみてください。
ディラン自身が「音楽は詩ではなく、体験するものだ」と語るように、『欲望』は理屈で理解するのではなく、心で感じるべき作品です。このアルバムを聴くことは、あなた自身の心の奥底にある何かを揺さぶり、新たな感情を発見する旅になるかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。さあ、今すぐ『欲望』を再生し、あなただけの物語を見つけに出かけましょう。
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