モダンジャズ・ピアノの聖典
「ジャズピアノの名盤といえば?」という問いに、必ずと言っていいほど名前が挙がる一枚のアルバムがあります。それが、バド・パウエルの『The Amazing Bud Powell, Vol. 1』です。
しかし、初めてこのアルバムを手に取ったとき、こんな疑問や思いを抱いたことはありませんか?
「“ウン・ポコ・ロコ”という曲が3回も続くのはなぜ?」「なんだか狂気じみていて、聴き疲れてしまう…」。ジャズを深く聴き込んできた方なら、「このアルバムの本当の歴史的価値はどこにあるのだろう?」と、さらなる探求心に駆られたかもしれません。
この記事は、そんなあなたのための徹底解説ガイドです。この一枚のレコードに込められた革命的な音楽と、その背後にある天才ピアニストの壮絶な物語を、初心者から愛好家まで、それぞれの視点で紐解いていきます。
この記事を読めば、あなたは以下のことを得られます。
ジャズ初心者の方へ: なぜこのアルバムがモダンジャズ・ピアノの「教科書」と呼ばれるのか、その理由がわかります。まずはどこからどの曲を聴けばその凄さがわかるのか、具体的な聴き方のポイントを丁寧に解説します。
ジャズ愛好家の方へ: この歴史的セッションが行われた背景、パウエルの壮絶な人生との関わり、彼の革新的なフレーズが後世のミュージシャンたちに与えた具体的な影響まで、新たな発見に満ちた深い洞察を提供します。
すべての方へ: バド・パウエルの音楽が、なぜ今もなお強烈な輝きを放ち続けるのか。その光と影の物語を通して、ジャズを聴く喜びが何倍にも深まることをお約束します。
さあ、モダンジャズ・ピアノのすべてが凝縮された「アメイジング(驚異的)」な一枚のアルバムを巡る旅に出かけましょう。
まずはここから!『The Amazing Bud Powell Vol.1』の聴きどころ
ジャズの歴史は複雑で難しく感じるかもしれませんが、このアルバムの「凄さ」は、ポイントを押さえれば誰でも体感できます。このアルバムがなぜ特別なのか、まずは3つの大きな特徴に分けてご紹介します。
アルバムを聴く前に知っておきたい基礎知識
このアルバムはもともと、1949年と1951年に録音されたSP盤(当時のシングルレコード)の音源を集めて作られました。そのため最初は10インチのLP盤として発売され、後に曲を追加して12インチのLP盤として再発売されるなど、バージョンによって収録曲や曲順が異なります。
CD化される際にさらに別テイクが追加され、現在では20曲以上収録されている盤もあります。少しややこしいですが、「1949年のクインテット・セッション」と「1951年のトリオ・セッション」という2つのグループの演奏が入っている、と覚えておけば大丈夫です。
時代を切り拓いた二つのセッションと伝説のメンバーたち
このアルバムの価値を理解する上で欠かせないのが、参加したミュージシャンたちの顔ぶれです。彼らは単なる伴奏者ではなく、それぞれがジャズの歴史を動かした巨人たちでした。
1949年セッション:ビバップの炎を燃やすクインテット
1949年8月9日のセッションは、まさにビバップのオールスターが集結した歴史的な録音です。
- ファッツ・ナヴァロ (トランペット): 夭逝した天才として知られ、その輝かしい音色と創造性豊かなフレーズは、マイルス・デイヴィスが敬意と競争心を抱くほどでした。この録音は彼のキャリアの中でも、特に輝きを放つ演奏の一つです。
- ソニー・ロリンズ (テナーサックス): 録音当時、わずか18歳。チャーリー・パーカーの熱烈な信奉者でありながら、すでに独自のスタイルを確立しつつあるエネルギッシュな演奏を聴かせます。彼の参加はこのセッションの歴史的価値をさらに高めています。
- トミー・ポッター (ベース): チャーリー・パーカーのバンドで活躍した、信頼性の高いベーシスト。安定したビートでバンド全体をしっかりと支えています。
- ロイ・ヘインズ (ドラムス): 後にジャズ界のレジェンドとなる革新的なドラマー。彼のシャープで切れ味鋭いドラミングが、このセッションに特別な推進力を与えています。
1951年セッション:緊張感が生む創造の極致、ピアノ・トリオ
1951年5月1日のセッションは、ピアノ・トリオという最小限の編成で、パウエルの音楽性の核心に迫る演奏が繰り広げられました。
- カーリー・ラッセル (ベース): ビバップ期に数多くのセッションで活躍したベーシスト。彼の的確なベースラインが、パウエルとローチの自由なインタープレイの土台を築いています。
- マックス・ローチ (ドラムス): ケニー・クラークと共にモダン・ジャズ・ドラミングを確立した革命家。彼のドラムは単なるリズムキープに留まらず、パウエルのピアノと対話し、音楽を新たな次元へと導きます。
初心者におすすめの聴き方ガイド
たくさんの曲が入っていて、どれから聴けばいいか迷ってしまいますよね。まずは以下の順番で聴いてみてください。
ステップ1:クインテットの熱気を体感する! まずは1949年のクインテット編成から聴いてみましょう。「Bouncing with Bud」や「Wail」は、ビバップの楽しさと勢いが見事に表現されています。パウエルのピアノソロはもちろん、ファッツ・ナヴァロの輝かしいトランペットと、若きソニー・ロリンズのエネルギッシュなサックスにも注目してください。
ステップ2:トリオの緊張感に浸る! 次に1951年のトリオ編成の演奏、特にスタンダード曲「A Night in Tunisia(チュニジアの夜)」を聴いてみましょう。ここではパウエルが、いかにピアノという楽器の可能性を押し広げたかがわかります。彼の左手はシンプルな和音でリズムを支え、右手はまるで歌うように、時には叫ぶように、自由なメロディを紡ぎ出します。
ステップ3:いよいよ「ウン・ポコ・ロコ」に挑戦! アルバムのハイライトである「Un Poco Loco」。この曲の持つ原始的なエネルギーと緊張感こそが、パウエルの音楽の核心に迫る鍵なのです。
ジャズ愛好家へ贈る、バド・パウエルの深淵:狂気と創造の奇跡
このアルバムがなぜ「モダンジャズ・ピアノ史上最高傑作の一つ」とまで言われるのか。その理由は、単に演奏技術が優れているからだけではありません。この録音が行われた時期のパウエルの壮絶な人生と、ビバップという音楽が生まれた時代の熱気を知ることで、その真価はさらに深く理解できるはずです。
奇跡の録音期間:二度の電気ショック療法の狭間で
バド・パウエルの輝かしいキャリアの裏には、深刻な精神疾患との闘いの歴史がありました。1945年にフィラデルフィアで警官から受けた暴行による頭部への重傷は、彼のその後の人生に決定的な影を落とします。
パウエルは統合失調症と診断され、1947年と1951年以降に過酷な電気ショック療法(ECT)を受けています。驚くべきことに、『The Amazing Bud Powell, Vol. 1』に収録されている1949年と1951年5月のセッションは、まさにこの二度の電気ショック療法の合間という、彼の創造性が最も燃え上がった奇跡的な期間に行われたのです。彼の内面の葛藤は、「Un Poco Loco」 や「Dance of the Infidels(異教徒たちの踊り)」 といった曲名にも象徴的に表れています。
「ウン・ポコ・ロコ」の奇跡:三位一体のインタープレイ
このアルバムの核心であり、パウエルの天才性を最も象徴するのが1951年のトリオによる「Un Poco Loco」です。ここでのバド・パウエル、カーリー・ラッセル、マックス・ローチの三者は、単なるピアノ、ベース、ドラムではありません。彼らは一体となり、ジャズの歴史における画期的な瞬間を創造しました。
この曲はスペイン語で、「ちょっとイカれてる」という意味を持ちます。その名にふさわしくエネルギッシュでリズミカルな変化に富んだ構成が特徴です。1951年5月1日に録音されたこの曲の3つのテイクを聴き比べると、パウエルとドラマーのマックス・ローチのインタープレイがテイクを重ねるごとに洗練され、アイデアが研ぎ澄まされていく様子が手に取るようにわかります。
特に注目すべきは、曲が持つ文化的・音楽的な革新性です。当時まだ黎明期にあったアフロ・キューバン・ジャズの要素を取り入れただけでなく、研究者からはその反復性やハーモニーに「パン・アフリカン」な影響が見られると指摘されています。異文化のリズムを取り入れたという以上に、その後のモダンジャズにおける「黒人性(blackness)」の表現の一部となった、文化的に重要な作品であったことを意味します。
リスナーにとっては、この3連続の演奏が強烈な緊張感とワイルドな魅力を生み出しており、このアルバムを象徴する体験となっています。ちなみに長い間、テイク1がマスターテイクだと思われていましたが、実際には3番目がマスター・テイクです。しかしテイク1もそれに比肩するレベルの演奏であり、この3つのテイク全体が一つの完成された芸術作品と言えるでしょう。
なぜこの一枚は「特別」なのか?Q&Aで探る深層
Q. このアルバムが後のミュージシャンに与えた具体的影響は何ですか?
A. その影響は計り知れず、特にパウエルのメロディックな語彙(ボキャブラリー)は、後の多くのミュージシャンの作品に「暗号」のように引用されています。 彼のフレーズは同時代のミュージシャンたちの間で瞬く間に共有され、新たな創造の源泉となりました。以下に具体的な例を挙げます。
マイルス・デイヴィス: 彼はパウエルの熱心な崇拝者の一人でした。1947年に録音した自身の曲「Half Nelson」では、パウエルの「Wail」の冒頭フレーズを引用しています。さらに同じセッションの「Sippin’ At Bells」では、「Dance of the Infidels」のユニークなブルース進行を借用しています。また、パウエルの「Hallucinations」を「Budo」と改題して録音したことも有名です。
ソニー・クラーク: パウエルの影響を強く受けたピアニストであるソニー・クラークも、その影響を隠しません。彼の代表曲「Cool Struttin’」のソロの中には、「Wail」や「Dance of the Infidels」のフレーズが巧みに織り込まれています。さらに彼のオリジナル曲「Junka」は、「Dance of the Infidels」の冒頭フレーズを中心的なメロディに据えています。
ホレス・シルヴァー: ハード・バップを代表するピアニストである彼は、インタビューで「バド・パウエルのソロをレコードからたくさんコピーした」と公言しています。彼のソロ、例えば「Doodlin’」「Horoscope」「Silver’s Serenade」には、パウエルのフレーズからの引用が見られます。
ギル・エヴァンス: 天才アレンジャーとして知られる彼もまた、パウエルへの敬意を示しています。彼のアレンジした楽曲「Bud and Bird」の冒頭では、なんとパウエルがチャーリー・パーカーの「Buzzy」で弾いたソロの最初の1コーラスを、そのままオーケストレーションしているのです。これらの例は氷山の一角に過ぎず、パウエルのメロディがいかにジャズの共通言語として浸透していったかを物語っています。
Q. 1949年のクインテットと1951年のトリオ、演奏のキャラクターに違いはありますか?
A. はい、明確な違いがあります。どちらも最高レベルの演奏ですが、その性質や目的が異なります。
1949年8月9日のクインテット・セッションは、若き天才たちが集結した「オールスター・セッション」の趣があります。
メンバーは夭逝の天才トランペッター、ファッツ・ナヴァロ、当時まだ18歳だったテナーサックスの巨人ソニー・ロリンズ、そしてリズムセクションにはトミー・ポッターとロイ・ヘインズという、まさにビバップのドリームチームです。ここではエネルギッシュで、祝祭的な雰囲気に満ちた演奏が繰り広げられています。
一方、1951年5月1日のトリオ・セッションはより内省的で緊張感に満ち、パウエル自身の自己表現の極致を追求した演奏と言えるでしょう。
カーリー・ラッセルとマックス・ローチとのトリオで録音された「Un Poco Loco」や「A Night in Tunisia」は、感情の深さと音楽的な複雑さをむき出しにした、聴く者に強烈な印象を残す「驚異的」演奏です。
このアルバム一枚で、祝祭的なクインテット、鬼気迫るトリオという、パウエルの持つ二つの異なる顔を味わえることこそが、本作の大きな魅力なのです。
Q. パウエルは「ピアノ界のチャーリー・パーカー」と呼ばれますが、二人の本当の関係は?
A. パウエルがパーカーの革新的なフレーズをピアノに応用したことは事実ですが、二人は単なる師弟関係ではなく、ビバップを共に創造した対等な仲間でした。 パウエルとパーカーは同時代人として互いに影響を与え合いながら、ビバップという新しい音楽言語を築き上げていきます。
彼らは1947年5月に、サヴォイ・レーベルで唯一となるスタジオ共演を果たしています。「Buzzy」のパウエルのソロは、パーカーのブルースに対して優雅さと応答性をもって応える素晴らしい演奏として記録されています。
さらに、二人の関係性を象徴する強烈な証言があります。ピアニストのルイス・ペルドモはこう語っています。 「バード(パーカーの愛称)を威圧できた唯一の男、それがバド・パウエルだった」
この言葉はパウエルが単なるパーカーの模倣者ではなく、パーカーでさえ一目置かざるを得ないほどの独創性と実力を持った、対等な存在であったことを雄弁に物語っています。
これを聴け!『The Amazing Bud Powell Vol.1』と合わせて聴きたい名盤3選
この歴史的傑作をより深く味わうために、パウエルのキャリアにおける他の重要なアルバムと、このアルバムに参加したキーパーソンの名盤を併せてご紹介します。
1. バド・パウエル『Jazz Giant』(Verve)
『The Amazing Bud Powell Vol.1』とほぼ同時期、1949年と1950年に録音された、パウエルのもう一つの金字塔的アルバムです。特に注目すべきは、パウエルのオリジナル曲「Tempus Fugit(光陰矢の如し)」です。
この曲のタイトルが示す通り、矢のように駆け抜ける高速のパッセージと、その中に宿る哀愁と迫力は、聴く者を圧倒します。ピアニストのビル・エヴァンスは、パウエルを「比類なき独創性」を持つ唯一無二のミュージシャンと称賛しました。その言葉を体現したかのような演奏がここにあります。『The Amazing Bud Powell Vol.1』のセッションと聴き比べることで、この時期のパウエルの創造性がいかに爆発していたかが実感できるはずです。
2. ファッツ・ナヴァロ『The Fabulous Fats Navarro Vol. 1』(Blue Note)
『The Amazing Bud Powell Vol.1』の1949年セッションに参加した夭逝の天才トランペッター、ファッツ・ナヴァロ。彼のリーダー作であるこのアルバムには、なんとパウエルがサイドマンとして参加したクインテット・セッション(1949年8月9日)の別テイクが収録されています。
つまり、『The Amazing Bud Powell Vol.1』と同じ日の同じメンバーによる演奏を、別の視点から聴くことができるのです。ナヴァロの輝かしくもどこか哀愁を帯びたトランペットを主役として聴くことで、この歴史的なセッションの多面的な魅力がさらに深く理解できるでしょう。
3. ソニー・ロリンズ『Sonny Rollins with the Modern Jazz Quartet』(Prestige)
1949年のセッション当時、まだ18歳だったソニー・ロリンズ。その数年後、彼がモダン・ジャズ・カルテット(MJQ)と共演したこのアルバムは、彼がパーカーの模倣から脱却し、自身のスタイルを確立していく過程を捉えた重要な一枚です。
『The Amazing Bud Powell Vol.1』での若々しくエネルギッシュな演奏から、より思慮深く、構成力のあるソロへと進化していく様子が聴き取れます。パウエルとの共演を原点の一つとして、ロリンズという巨人がどのようにして独自の音世界を築き上げていったのか、その軌跡を辿る上で欠かせない作品です。
なぜ『The Amazing Bud Powell Vol.1』は聴き継がれるのか
バド・パウエルは、技巧派ピアニストという枠には収まり切りません。ジャズピアノという楽器の役割そのものを変革し、後世のミュージシャンたちが進むべき道を切り拓いた真の革命家でした。
その革命のすべてが凝縮されているのが、この『The Amazing Bud Powell, Vol. 1』です。このアルバムは、以下の理由から、ジャズ史における不滅の金字塔として輝き続けています。
革命のドキュメント: 右手で管楽器のようなフレーズを弾き、左手でリズムを刻むという、モダンジャズ・ピアノの奏法がここで完成されました。
時代の証言: ビバップという新しい音楽が持つ熱気、緊張感、そして創造の喜びが、若き天才たちの火花散る演奏によって生々しく記録されています。
魂の記録: 深刻な精神疾患という深い闇の中から絞り出した、「アメイジング」としか言いようのない、眩いばかりの光を放つ音楽がここにあります。
創造の源泉: このアルバムで生まれた革新的なフレーズやアイデアは、マイルス・デイヴィスをはじめとする数多のミュージシャンに引用され、ジャズの言語そのものを豊かにしました。
『The Amazing Bud Powell, Vol. 1』を聴くことは、一枚のアルバムを鑑賞すること以上の体験です。それはバド・パウエルという一人の人間の苦悩と栄光、そしてビバップという音楽がジャズの歴史を永遠に変えた瞬間に立ち会うことなのです。
この一枚があなたのジャズの世界をより深く、豊かなものにしてくれることを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。あなたがこのアルバムから感じたこと、お気に入りのトラックをぜひコメントで教えてください。
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