ジャズハーモニカの歴史を変えた男
「ハーモニカ」と聞いて、どんな音楽を思い浮かべますか?童謡やブルース、フォークソングを連想する方が多いかもしれません。では、「ハーモニカが主役のジャズ」と言われたら意外に感じるでしょうか。
実はその「意外」を、「至高の芸術」にまで高めた音楽家がいました。彼の名はトゥーツ・シールマンス。ベルギー出身の彼は、ポケットに入るこの小さな楽器でジャズの歴史に大きな足跡を残します。日本では「ハーモニカおじさん」の愛称でも親しまれた彼ですが、その音楽は世界中の巨匠たちを魅了し、数えきれないほどの感動を生み出してきました。
この記事を読めば、あなたもきっとトゥーツ・シールマンスの虜になるはずです。
初めての方は、彼がいかに親しみやすく私たちの日常に溶け込んでいるかを知り、ハーモニカジャズへの第一歩を踏み出せるでしょう。
ジャズ愛好家の方なら、彼が成し遂げた音楽的革命の奥深さに触れ、さらにジャズの世界を深く楽しめるようになります。
彼の生涯、音楽の魅力、そして聴くべき名盤まで。さあ、一緒に「笑顔と涙の間で歌う」ハーモニカの音色に耳を傾けてみましょう。
まずはここから!身近に感じるトゥーツ・シールマンス
「ジャズは少し難しそう…」と感じる方もご安心ください。トゥーツの音楽は、私たちのすぐそばにあります。
日本では「ハーモニカおじさん」!
日本では「ハーモニカおじさん」の愛称で親しまれていました。「セサミ・ストリート」のテーマソングのハーモニカを吹いているのが、彼だったのです。その温かい人柄がにじみ出るような演奏は、多くの人々の記憶に残っています。しかし、彼の活躍はそれだけにとどまりません。
実は超一流!ポップスターたちも愛した音色
トゥーツ・シールマンスはジャンルを超えて、数多くのトップアーティストから共演を熱望された音楽家でした。
ポール・サイモン、ビリー・ジョエル、スティング、ナタリー・コールなど、錚々たるメンバーが彼のハーモニカの音色を求めました。ビリー・ジョエルの名曲「Leave a Tender Moment Alone」でのソロは、彼の演奏がいかにポップスの世界でも輝きを放っていたかを示す好例です。
ジャズの歴史を変えた革命家としてのトゥーツ
トゥーツ・シールマンスの真価は、その親しみやすさだけではありません。彼はハーモニカという楽器の可能性を極限まで押し広げ、ジャズの歴史に名を刻んだ「革命家」でした。
ギターから始まったジャズの道
彼のキャリアはギタリストとしてスタートしました。特にベルギー出身の偉大なギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトから強い影響を受けています。しかし彼が本当に世界を驚かせたのは、ハーモニカを手にした時でした。
第二次大戦後、アメリカから押し寄せてきたビバップという新しいジャズの波。チャーリー・パーカーらが築いたこの複雑でスピーディーな音楽スタイルを、トゥーツはハーモニカで完璧に演奏してみせたのです。それまでフォークやブルースの楽器と見なされていたハーモニカにとって、まさに革命的な出来事でした。
Q&Aで深掘り!トゥーツ・シールマンスの音楽の秘密
Q. なぜトゥーツ・シールマンスは「ジャズ・ハーモニカの巨匠」と呼ばれるのですか?
A. ハーモニカという楽器を「シリアスなジャズ楽器」として確立した最初の人物だからです。彼が登場するまでハーモニカは、ブルースやフォーク、あるいは「おもちゃ」の楽器と見なされることがほとんどでした。
シールマンスは、チャーリー・パーカーらに代表される当時最先端のジャズであった「ビバップ」の高度な音楽語法やハーモニー、俊敏なメロディラインをクロマチック・ハーモニカで見事に表現してみせました。
これは革命的なことであり、ベニー・グッドマン、チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、ジョージ・シアリングといったジャズの巨人たちとの共演を通じて、ハーモニカの地位を飛躍的に向上させました。
音楽家のハワード・レヴィはシールマンスを「超越的な音楽家」と評し、「彼はハーモニカを演奏していたのではなく、ハーモニカを通して音楽を演奏していた」と述べています。クインシー・ジョーンズも、「我々の時代の最も偉大な音楽家の一人」と称賛しています。
Q. 代表曲「Bluesette」はどのようにして生まれ、なぜこれほど愛されているのでしょうか?
A. この曲は1962年、ブリュッセルの楽屋でヴァイオリンの巨匠ステファン・グラッペリと同室になった際に、ギターをチューニングしながら口笛でメロディを思いついたことから生まれました。この曲は世界的なヒットとなり、100人以上のアーティストにカバーされるジャズ・スタンダードとなっています。
「Bluesette」が愛される秘密は、その音楽的な奥深さにあります。
独創的なスタイル: シールマンス自身の演奏では、ギターと口笛をユニゾンで奏でるという彼のトレードマークともいえるスタイルが披露されています。
音楽理論的な洗練: ちょっと聴きには軽やかなジャズ・ワルツですが、音楽理論的には24小節形式のブルースであり、ビバップ的なコード進行(II-V進行)を巧みに用いた、複雑で洗練された楽曲です。
普遍的なメロディ: 美しく、どこか切ないメロディは、ジャズファンだけでなく幅広い層の心に響きました。
Q. シールマンスのハーモニカの音色にはどのような秘密がありますか?愛用した楽器についても教えてください。
A. 彼の音色の秘密は「歌心」あふれる叙情性と、彼自身が表現した「笑顔と涙の間(between a smile and a tear)」にあります。彼の演奏は技術的な正確さだけでなく、聴く者の心に直接語りかけるような温かさと感情の深みを持っていました。
この唯一無二のサウンドを生み出すために、彼はドイツのHOHNER(ホーナー)社製のクロマチック・ハーモニカを長年愛用しました。特に彼のために作られた2つのシグネチャーモデルが有名です。
Toots “Mellow Tone”: ボディに洋梨の木(ペアウッド)を使用し、その名の通りメロウで甘く、柔らかく温かみのあるサウンドが特徴です。晩年は主にこの12穴モデルを使用していたと言われています。
Toots “Hard Bopper”: ブルースやロックなど、よりハードなサウンドのために設計されたモデルで、厚いリードプレートにより大きな音量とレスポンスの良さを実現しています。
Q. 演奏スタイルの特徴は何ですか?超絶技巧と「歌心」はどのように共存しているのでしょうか?
A. 彼の演奏スタイルは高度なビバップの語彙と、心に響く叙情的なメロディという二つの要素が奇跡的に共存している点に特徴があります。
キャリア初期の彼は、ビバップの複雑なフレーズをハーモニカで正確に演奏する超絶技巧でジャズ界に衝撃を与えました。1958年のアルバム『Man Bites Harmonica!』はその代表作です。
1981年に脳卒中を患い、ギターの演奏が困難になってからはハーモニカに専念するようになります。彼のスタイルはより少ない音数でメロディと歌詞(の心)を深く表現する方向へと深化しました。速いパッセージよりも、音色そのものや感情表現に重きを置くようになったのです。
この変化が彼の「歌心」をより際立たせ、多くのポップスター(ポール・サイモン、ビリー・ジョエルなど)や映画音楽の世界からも求められる理由となりました。
Q. ギタリストや口笛の名手としての一面もあったそうですが、それはどのようなものですか?
A. 彼はキャリアの初期において、ハーモニカ奏者としてだけでなく、非常に優れたギタリストとしても知られていました。ベルギーの伝説的ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトに大きな影響を受けてギターを始め、ベニー・グッドマンやジョージ・シアリングのバンドでは主にギタリストとして活躍しました。
彼の口笛(ホイッスル)も非常に有名で、特にギターのメロディラインと口笛をユニゾンで奏でるスタイルが代名詞となります。このテクニックは代表曲「Bluesette」で最も効果的に使われています。彼の口笛はアメリカの有名な「オールド・スパイス」というアフターシェーブのCMでも、長年使用されました。
Q. 映画『真夜中のカーボーイ』のハーモニカ演奏は本当に彼によるものですか?
A. そうです。しかし、少し複雑な経緯があります。結論から言うと映画の劇中で流れるハーモニカは、トゥーツ・シールマンス本人による演奏です。
一方で、サウンドトラックとしてリリースされたアルバム(LPレコード)に収録されているバージョンは、イギリスのハーモニカ奏者トミー・ライリーが演奏しています。これは、映画の音楽監督だったジョン・バリーが、アルバム制作のためにロンドンで一部のトラックを再録音したためです。この事実は、トミー・ライリーの元マネージャーや息子によっても確認されています。
そのため、聴く音源によって演奏者が異なるという、音楽ファンにとっては興味深い事実があります。
「私は笑顔と涙の間の小さな空間で一番心地よい」
― トゥーツ・シールマンス
この言葉は、彼の音楽の本質を見事に表現しています。喜びと悲しみ、楽しさと切なさ。その両方の感情が溶け合った、人間味あふれる音色こそが、トゥーツ・シールマンスの真骨頂なのです。
トゥーツ・シールマンスを聴くならこの3枚!
トゥーツ・シールマンスの広大な音楽世界を旅する上で、羅針盤となる3枚の傑作アルバムがあります。それぞれが彼のキャリアの異なる時期を捉え、彼の多才さと音楽的進化を示しています。誰もが新たな発見を得られるであろうこれらの名盤を、さらに詳しく見ていきましょう。
『Man Bites Harmonica!』 (1958年)
ハーモニカがジャズの主役になった革命的アルバム
このアルバムは、トゥーツ・シールマンスがハーモニカという楽器を「シリアスなジャズ楽器」として確立させた、まさに金字塔と言える作品です。1958年にリバーサイド・レコードからリリースされた本作は、彼が当時最先端であったビバップの音楽言語を、クロマチック・ハーモニカでいかに表現したかを見事に証明しています。
聴きどころと特徴
ビバップ・ハーモニカの誕生: 本作で聴けるトゥーツの演奏は、リズミカルにもメロディ的にもスウィンギーで正確無比です。それまでクロマチック・ハーモニカで聴くことのなかったビバップの複雑なフレーズを駆使しており、彼自身もこの録音を「1957年のビバッパーとしての自分の演奏」と振り返っています。
ルイ・アームストロングからチャーリー・パーカーへと続くジャズの系譜を、彼がいかに深く理解していたかが伝わってきます。
豪華な共演者とユニークな編成: このストレートアヘッドなジャズ・アルバムで彼を支えるのは、当代きっての名手たちです。ピアノにケニー・ドリュー、ベースにセロニアス・モンクとの共演で知られるウィルバー・ウェア、そしてドラムスにはアート・テイラーという、強力なリズム・セクションが参加しています。
特筆すべきは、フロントの相棒としてバリトン・サックスの巨匠ペッパー・アダムスが参加している点です。ハーモニカとバリトン・サックスという異色の組み合わせは、非常に珍しいながらも驚くほど効果的に機能しています。滑るように速いパッセージを得意とするハーモニカと、豪放でブリブリとした低音が魅力のバリトン・サックスの対比が、アルバムに独特の深みと面白みを与えています。
ギタリストとしての一面も: 「18th Century Ballroom」や「Soul Station」といった曲では、ハーモニカだけでなく彼自身のギター演奏もフィーチャーされており、キャリア初期の彼の姿を垣間見ることができます。
このアルバムは、トゥーツの音楽が時間と共にどのように発展していったかを理解するための素晴らしい視点を提供してくれます。ハーモニカがサックスやトランペットといった花形楽器と対等に渡り合えることを証明した、歴史的な一枚です。
『Affinity』 (ビル・エヴァンスとの共演盤) (1979年)
「ジャズ・ハーモニカの頂点」と評される奇跡の対話
トゥーツ・シールマンスの数ある録音の中でも、多くのファンや評論家が「最高傑作」や「無人島に持っていく一枚」として挙げるのが、ピアノの詩人ビル・エヴァンスとの共演盤である本作です。1978年10月から11月にかけて録音され、1979年にワーナー・ブラザーズからリリースされました。リーダーがどちらかという区別が不要なほど、二人の天才による真に協力的な音楽が収められています。トゥーツ自身も、このセッションをお気に入りの一つとして挙げています。
聴きどころと特徴
二人の天才の完璧な融和: このアルバムの魅力は、何と言ってもトゥーツとエヴァンスの魔法のような一体感にあります。初めての公式共演であったにもかかわらず、その呼吸の合い方は長年連れ添ったデュオのようです。
エヴァンス特有の繊細なハーモニーに対し、トゥーツは一瞬の躊躇もなく完璧に寄り添い、美しいメロディを紡ぎ出します。トゥーツ自身がこのアルバムの選曲に大きく関わっており、その結果、ジャズ・スタンダードから現代的なポップスまで、多彩な楽曲が収録されています。
adventurous(冒険的)な演奏: トゥーツは本作で長いソロを取り、冒険的なハーモニーの道を探求し、非対称なフレーズを駆使しています。
ポール・サイモンの《きみの愛のために(I Do It For Your Love)》でのテンポ・ルバート(テンポの揺らぎ)における絶妙な interplay(相互作用) や、ミシェル・ルグランの《真夜中の向こう側》で聴けるエレクトリック・ピアノとハーモニカの玄妙な美しさは、このアルバムでしか聴くことのできないものです。
歴史的セッションの裏話: この共演は、エヴァンスのマネージャー、ヘレン・キーンからの電話で始まりました。当初は2曲のみの参加予定でしたが、トゥーツがクラブで演奏するのを聴いたエヴァンスが即座に共演を熱望。
セッションが始まると、エヴァンスはトゥーツが自身のレパートリーとして持っていた《酒とバラの日々》の編曲を気に入り、そのまま採用したほどでした。トゥーツが「自分が吹きすぎではないか」と心配すると、エヴァンスは「君がこれだけ吹けるということを人々に知ってほしいんだ」と答えたという逸話も残っています。
名手たちの集結: このセッションには、ラリー・シュナイダー(サックス)、そして本作がエヴァンス・トリオ初参加となるマーク・ジョンソン(ベース)、最後の参加となったエリオット・ジグムンド(ドラムス)が参加しています。
本作はジャズ・ハーモニカという楽器の表現力の頂点を示すと同時に、二人の偉大な音楽家による心温まる対話を記録した、永遠に色褪せることのない名盤です。
『The Brasil Project』 (1992年)
ブラジル音楽への深い愛が結晶した、色彩豊かな傑作
1990年代のトゥーツを代表する作品が、ブラジル音楽への深い愛情を結集させたこの『The Brasil Project』です。1992年にBMGからリリースされたこのアルバムは、トゥーツのハーモニカがいかにブラジル音楽特有のサウダージ(郷愁や切なさ)を表現するのに完璧な楽器であるかを証明しました。
聴きどころと特徴
ブラジルのオールスターとの共演: このアルバムの最大の魅力は、ブラジル音楽界の「who’s who(オールスター)」とも言うべき豪華なアーティストたちが参加している点です。イヴァン・リンス、ジョアン・ボスコ、ジルベルト・ジル、ミルトン・ナシメント、カエターノ・ヴェローゾ、シコ・ブアルキ、エリアーニ・エリアスなど、錚々たるメンバーが名を連ねています。
このプロジェクトは、ギタリスト兼プロデューサーのオスカー・カストロ=ネヴィスの提案で実現しました。
ハーモニカとブラジル音楽の完璧な相性: トゥーツは、ブラジル音楽の魅力を「マイナーセブンスのコードに宿る“笑顔と涙の間”の感覚だ」と語っています。この感覚は彼自身の音楽哲学とも深く共鳴するものであり、彼のハーモニカの音色はブラジルのメロディとリズムに自然に溶け込んでいます。
ジョアン・ボスコやジャヴァンによる楽曲は特に素晴らしく、伝説的ギタリスト、ルイス・ボンファが自作曲《黒いオルフェ》を決定的な形で演奏しているのも聴きどころの一つです。
新たな「Bluesette」: アルバムのハイライトの一つとして、彼自身の代表曲「Bluesette」を4/4拍子にアレンジしたバージョンが収録されています。おなじみのワルツのリズムとは一味違う、ボサノヴァ風の軽快なアレンジが新鮮です。
卓越したプロダクション・バリューも特筆すべき点で、トゥーツの演奏はキャリアの中でも特に傑出しています。このアルバムは世界的に人気を博し、翌年には続編となる『The Brasil Project Vol. 2』も制作されました。ブラジル音楽ファンはもちろん、すべての音楽ファンにおすすめしたい色彩豊かな名盤です。
ハーモニカで世界を感動させた「ブリュッセルのストリートキッド」
3歳でアコーディオンを手にし、ジャンゴ・ラインハルトに憧れてギターを弾き、ルイ・アームストロングに衝撃を受けてジャズの道へ。そして、ハーモニカという「おもちゃ」と言われた楽器を手に、ジャズの世界に革命を起こしたトゥーツ・シールマンス。
彼は自身のことを、故郷ブリュッセルの言葉で「Ket(ストリートキッド)」と呼び、その親しみやすい人柄で多くの人々に愛されました。しかしひとたび楽器を手にすれば、その音色は国境もジャンルも超え、世界中の人々の心を震わせました。
今回ご紹介したのは、彼の広大な音楽世界のほんの一部にすぎません。
親しみやすいメロディと温かい音色
ビバップを演奏する超絶技巧
ジャンルを超えた数々のコラボレーション
ぜひ、ご紹介したアルバムの中から一枚、手に取って聴いてみてください。きっとあなたの音楽ライブラリに、かけがえのない宝物が加わるはずです。彼のハーモニカが奏でる「笑顔と涙の間」の音楽が、あなたの心に深く響くことを願っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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