作曲者が「失敗作」と呼んだ傑作
フランシス・プーランクの音楽と聞いて、どんなイメージを思い浮かべますか?
エスプリの効いた洒脱なメロディ、軽やかでおしゃれなハーモニー…いかにもパリジャンらしい、そんな音楽を想像する方も多いかもしれません。
しかし彼の内面には、敬虔な信仰心と官能的な欲望、陽気さと深い悲しみが常に同居していました。プーランク自身が「半分は修道士、半分はやんちゃ坊主」と語ったこの二面性が最も激しく、赤裸々に表出されたのが今回ご紹介する『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ FP 119』です。
このソナタは戦争のただ中で生まれ、悲劇的な死を遂げた一人の詩人に捧げられました。しかし驚くべきことに、作曲者プーランク自身はこの作品を「怪物(le monstre)」と呼び、後年には「間違いなく失敗作です」とまで語っていたのです。
作曲者自身が不満を抱いていたこの作品が、なぜこれほど多くの録音を生み、今なお世界中の演奏家や聴衆を惹きつけてやまないのでしょうか?
その鍵を握るのは、このソナタに捧げられた詩人、フェデリコ・ガルシア・ロルカの壮絶な最期と、プーランクがその死に寄せた個人的で深い共感にあります。
この記事を読めば、曲の背後にあるドラマチックな物語からどなたにも楽しめる聴きどころ、そして作曲者の自己評価と現代の評価の間に横たわる深い魅力まで、余すところなく知ることができます。
さあ、プーランク唯一のヴァイオリンソナタの世界へ、そして二人の芸術家の魂が交差する地点へと旅立ちましょう。
プーランク「ヴァイオリン・ソナタ」3つの聴きどころ
まずは初めて聴かれる方にも、この曲の魅力を身近に感じられる3つのポイントをご紹介します。難しい理屈は抜きにして、二人の芸術家を巡る物語を感じながら聴いてみてください。
聴きどころ①:ロルカの処刑と戦争の物語
このソナタが作曲されたのは1942年から43年、第二次世界大戦でパリがナチス・ドイツに占領されていた暗い時代です。プーランクはこのソナタを、スペインが生んだ天才詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカ(1898-1936)の思い出に捧げました。
ロルカの死は、病死や事故死ではありません。
1936年7月、フランシスコ・フランコ将軍率いる右派勢力が軍事蜂起し、スペイン内戦が勃発します。ロルカの故郷グラナダでは、内戦前からスペイン・ファシズムを掲げるファランヘ党が勢力を拡大しており、不穏な空気が漂っていました。
ロルカ自身は公の言動で共和派支持の立場を明確にしていたため、ファシストたちから危険視されていたのです。さらに彼が同性愛者であったことも、極右勢力にとっては唾棄すべき対象と見なされる一因でした。
友人たちの警告にもかかわらず、ロルカは7月にグラナダへ帰郷してしまいます。そのわずか3日後にクーデターが起き、彼は身の危険を感じて、友人でファランヘ党員でもあったルイス・ロサレスの家に身を隠しました。
しかしその甲斐なく、ロサレスの留守中にファシストの一隊に連行されてしまいます。そして1936年8月19日の早朝、裁判もないままグラナダ近郊のオリーブ畑で、他の共和主義者たちと共に銃殺されたのです。享年38歳でした。彼の遺体は今も見つかっていません。
このソナタは、こうした理不尽な暴力によって命を奪われた一人の芸術家への追悼であり、ファシズムに対する音楽による抵抗の表明なのです。この痛ましい背景を知るだけで、曲全体に漂う緊張感や悲壮感がより深く心に響くはずです。
聴きどころ②:スペインのギターが聴こえる第2楽章
3つの楽章からなるこのソナタの中でも、特に印象的なのが穏やかで美しい第2楽章「インテルメッツォ」です。
ロルカの詩からの引用: 楽譜の冒頭には、ロルカの詩「六本の弦」の一節「ギターは夢たちを泣かせる(La guitare fait pleurer les songes)」が記されています。
ヴァイオリンのピッツィカート: この楽章では、ヴァイオリンが弓を使わず指で弦を弾く「ピッツィカート」という奏法が効果的に使われています。
この乾いた音色が、まるでスペインのギターの爪弾きのように聴こえ、ロルカへのオマージュを色濃く感じさせます。ロルカの詩にはギターが頻繁に登場し、それはアンダルシアの民衆の声を象徴するものでした。
この楽章はプーランクが「少しスペイン風」「メランコリックな即興」と述べた通り、悲しみを湛えつつも美しい世界を描き出しています。
聴きどころ③:ロルカの最期を思わせる衝撃のラストシーン
第3楽章「プレスト・トラジコ(悲劇的に速く)」は、目まぐるしく情景が変化しますが、特に聴き逃せないのがラストです。プーランク自身は「生の躍動感が、悲劇的なコーダに突然砕かれる」と述べています。
激しい音楽が葬送行進曲のような雰囲気に変わった後、ピアノが叩きつける強烈な和音が二発、鳴り響きます。これはロルカを襲った「銃声」を、そしてその直後のヴァイオリンの甲高い音は彼の「悲鳴」を思わせます。そして全てが終わった後の、不気味な静寂と乾いた音…
この衝撃的な結末は、ロルカの処刑という悲劇を知る者にとって、一度聴いたら忘れられない強烈な印象を残します。
プーランクとロルカ、二つの魂の共鳴
このソナタの背景を知ると、さらに音楽の細部に隠されたプーランクのこだわりに気づくことができます。ここでは二人の芸術家の人生を重ね合わせながら、少しマニアックな視点で解説します。
Q1. なぜプーランクはこのソナタを「失敗作」と呼び、ヴァイオリンを嫌っていたの?
A1. まさにその通りで、プーランクは独奏ヴァイオリンという楽器自体に強い苦手意識を持っていました。彼は弦楽器よりも木管楽器を好み、友人への手紙では「ピアノのアルペジオの上でヴァイオリンがプリマドンナを気取るのには吐き気がする」とまで書いています。
このソナタは、フランスの天才ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴーの執拗な依頼がなければ完成しなかったでしょう。
彼はブラームスを手本に、ヴァイオリンとピアノが完全に対等なパートナーとして渡り合うことを目指しました。しかし、この不慣れな楽器との格闘の末に生まれた作品を彼は「怪物(le monstre)」と呼び、後年「このソナタは間違いなく失敗作です」と公言するなど、生涯を通じて自己評価は低いままでした。
Q2. なぜプーランクは、面識もなかったロルカにこの曲を捧げたの?処刑の何が彼をそこまで駆り立てたの?
A2. 直接的な親しい交流はなかったものの、二人の人生には驚くほど多くの共通点があり、プーランクはロルカの悲劇に深い個人的共感を覚えていました。
似た境遇: 二人はほぼ同い年で(プーランクは献辞にロルカの生年を自分と同じ1899年と誤って記しています)、共に裕福な家庭に生まれ、音楽好きな母親の影響を強く受けて育ちました。
芸術への情熱: 青年期にはダリやピカソといった前衛芸術家たちと交流しながらも、政治とは一定の距離を保っていました。
セクシュアリティの共有と悲劇への共鳴: そして最も重要な共通点が、二人が同性愛者であったということです。敬虔なカトリック教徒でもあったプーランクは、自身の信仰とセクシュアリティとの間で生涯葛藤し続けました。
一方、ロルカがファシストによって処刑された際、その理由の一つに同性愛者であることが挙げられ、殺害時にはそれを揶揄する罵声が浴びせられたと言われています。
この事実は、同じ性的指向を持つプーランクにとって到底許しがたい、他人事とは思えない悲劇だったに違いありません。ロルカの死はプーランクにとって、ファシズムの暴力によって自由を、そして愛する権利を奪われた一人の人間に対する魂からの祈りであり、抑えきれない怒りの表明だったのです。
このソナタに込められた「très violent(とても暴力的に)」といったプーランクには珍しい直接的な感情表現は、この個人的な憤りが源泉となっていると考えられます。
Q3. 作曲者本人も不満だったのに、なぜこれほど多くの録音があり、聴衆を惹きつけるの?
A3. それこそがこのソナタが持つ最大の魅力であり、謎でもあります。批評家からは「少しがっかりさせられる」、「唯一の価値はロルカの思い出に書かれたこと」などと厳しい評価も受けてきました。
その評価とは裏腹に、この作品は数多くの録音が存在し、現代の演奏家や聴衆を惹きつけてやみません。その理由は、いくつかの側面に分けられます。
抗いがたい物語の力: このソナタは単なる音楽作品ではなく、ロルカの非業の死と戦争への抵抗という強力な物語を持っています。特に第3楽章の終結部は、ロルカの処刑をあまりにも生々しく描き出しており、戦争の悲劇と理不尽さに対する力強いメッセージとして聴き手の心を打ちます。
ヴァイオリニストのミリアム・フリードが指摘するように、プーランクは美しい旋律を提示してはすぐに不協和音で破壊するという手法を多用しますが、これもまた、暴力によって日常が破壊される時代の空気を反映しているのかもしれません。
音楽自体のドラマ性: 作曲者の自己評価とは別に、音楽そのものが非常にドラマチックです。
第1楽章の情熱的なクライマックスでは、ヴァイオリンが高く舞い上がるような旋律を奏で、聴く者を圧倒します。
ギターの響きを模した第2楽章は、悲しみを湛えつつも甘美で、聴き手の心に深く染み入ります。そして第3楽章は、スリリングな展開から悲劇的な結末へと向かう構成が聴き手に強烈なカタルシスをもたらします。
演奏家にとっての挑戦: このソナタは、ヴァイオリンとピアノの両パートに高度な技術と表現力が要求される難曲です。特にプーランクが目指したピアノとヴァイオリンの対等な関係は、二人のソリストが火花を散らすような緊張感のあるアンサンブルを生み出し、演奏家にとって大きな挑戦となっています。
結局のところ、プーランク自身の葛藤や不満さえも作品の一部となり、その「不完全さ」や「矛盾」が、かえって人間的な深みと抗いがたい魅力を生み出しているのかもしれません。
【聴き比べ】プーランク ヴァイオリンソナタの名盤5選
このソナタは、その複雑な背景から演奏家によって解釈が大きく分かれる作品です。ここでは、特徴の異なる5つの名盤をご紹介します。
ジネット・ヌヴー(Ginette Neveu)
この曲の誕生のきっかけとなった初演者です。残念ながら彼女によるこの曲の録音は残されていませんが、彼女の情熱的で気迫に満ちた演奏スタイルを想像しながら他の演奏を聴くと、作品に込められた本来の魂を感じられるかもしれません。彼女は初演後、1949年に飛行機事故により30歳の若さでこの世を去りました。
ミドリ & ロバート・マクドナルド(Midori & Robert McDonald)
現代における最高の録音の一つとして、多くのファンから熱烈な支持を受けています。特に第1楽章の情熱的なクライマックスの構築が見事で、ヴァイオリンの高く舞い上がるような旋律とピアノのきらめくようなパッセージが織りなす演奏は圧巻です。
パトリツィア・コパチンスカヤ & ポリーナ・レシチェンコ(Patricia Kopatсhinskaja & Polina Leschenko)
伝統的な美しさとは対極にある、野性的でエキセントリックな演奏です。乾ききった音色と淡々としたテンポで、プーランクの音楽の洒落た雰囲気や抒情性をあえて排し、ストラヴィンスキーから受け継いだ原始主義的な側面を鋭くえぐり出しています。
デヴォリナ・ガマロヴァ & ピーター・ローズ(Devorina Gamalova & Peter Rhodes)
プーランクの伝記作家ベンジャミン・イヴリーが「最高」と評価したとされる録音です。この演奏を聴くと、このソナタが単なる悲歌ではなく、戦争の暴力性や世界の崩壊を描いた力強い反戦のメッセージであることが明確に伝わってきます。
ユーディ・メニューイン & ジャック・フェヴリエ(Yehudi Menuhin & Jacques Février)
歴史的名盤として長年聴き継がれている録音の一つです。プーランクの友人でもあったピアニスト、フェヴリエとの共演は、作品の持つフランス的なエスプリと深い悲しみを格調高く表現しています。
矛盾の中に輝く、心揺さぶる傑作
プーランクのヴァイオリンソナタは、彼が自ら「失敗作」と断じた矛盾に満ちた作品です。しかしその音楽には、ファシズムの凶弾に倒れた詩人ロルカへの深い追悼の念、戦争という理不尽な暴力への怒りと抵抗、そして「修道士と不良」が同居すると言われたプーランク自身の複雑な内面が、赤裸々に刻み込まれています。
特にロルカが同性愛者であったがゆえにその命を奪われたという事実は、同じセクシュアリティを持つプーランクにとって、このソナタを個人的な祈りと怒りの表明へと昇華させる重要な動機となりました。
作曲者の自己評価と現代における高い評価とのギャップは、この作品が単なる形式美を追求したものではなく、時代と個人の苦悩が生んだ「魂のドキュメント」であることを示しています。その生々しさ、情熱、そしてロルカの処刑という悲劇の記憶こそが、批評や作曲者本人の言葉を超えて、私たちの心を強く揺さぶるのです。
洒脱なだけではない、プーランクの魂の叫びが込められたこのソナタを、ぜひ一度お気に入りの演奏で聴いてみてください。きっと、その「矛盾した傑作」の虜になることでしょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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