日本音楽界に多大な足跡を残した唯一無二のドラマー
日本の音楽シーンにおいて、その名を知らぬ者はいないとされる伝説的なドラマー、村上“ポンタ”秀一氏。彼が残した足跡は、ジャズ、ロック、J-POP、歌謡曲といったジャンルの垣根を軽々と飛び越え、数多くのアーティストの楽曲を彩り、日本の音楽史に深く刻まれています。
この記事では彼の音楽家としての偉業、哲学、人間性までを深掘りし、彼の音楽に触れたことのない方から長年のファンまで、改めてその魅力と影響力を感じていただけるよう解説します。
村上“ポンタ”秀一とは?日本音楽界のレジェンドドラマー
村上“ポンタ”秀一は、1951年1月1日に兵庫県西宮市で生まれ。2021年3月9日に70歳で逝去した日本のドラム奏者です。
彼の愛称である「ポンタ」は、4歳半まで京都の祇園に預けられていた際に、彼を育てた母親の友人の芸妓「ポンタ姐さん」に由来しています。この愛称は小学校時代からずっと使われ続け、彼自身の名前の一部として定着します。
ポンタ氏はジャズ、フュージョン、ロック、J-POP、歌謡曲など、ジャンルを問わず、国内外でセッションドラマーやスタジオミュージシャンとして活躍しました。そのキャリアは1972年にフォークグループ「赤い鳥」に参加したことから始まり、日本の音楽シーンにおいて「なくてはならない存在」としての地位を確立します。
14,000曲以上に参加!ジャンルを超えた活動とセッションワーク
村上“ポンタ”秀一のキャリアを語る上で最も驚異的なのは、その参加作品の膨大さです。彼のレコーディング総数は、ゆうに1万4,000曲を超えると言われています。彼は日本のトップアーティストたちのレコーディングやライブに、数多く参加してきました。
J-POP / 歌謡曲
井上陽水、吉田拓郎、山下達郎、松任谷由実、吉田美奈子、矢沢永吉、沢田研二、さだまさし、長渕剛、角松敏生、尾崎豊、DREAMS COME TRUE、森高千里、ピンク・レディー、キャンディーズなど。
ジャズ / フュージョン
渡辺貞夫、山下洋輔、松岡直也、坂本龍一、渡辺香津美、高中正義、Charなど。
これだけ多岐にわたるアーティストと共演できたのは、「音楽に垣根がない」という柔軟な音楽性と、繊細さと豪快さを併せ持つ個性的なドラムワークがあったからに他なりません。彼のドラムは単なるリズム楽器を超え、まるで歌を歌っているようだと評されました。
ドラムに対する哲学と演奏スタイル
村上“ポンタ”秀一は、単なる技術者ではなく、ドラムを「音楽の香辛料」、そして「歌」を重んじる「歌伴ドラマー」と捉えていました。
「歌」を重んじる稀有な歌伴ドラマー
インタビューで「俺が俺が俺が、と言ってるのが俺のドラム」と豪語する一方で、第三者からは「実は“歌”を重んじることにかけては、他の追随を許さない稀有な“歌伴ドラマー”でもあった」との評価です。
レコーディングにおいては譜面よりも歌詞を重視し、歌詞カードを見ながら演奏することもありました。歌手が不安を感じている時に、ドラマーがアイコンタクトで笑顔を見せて安心させてあげることが重要だと考えていました。
歌手の調子が悪いと感じた場合は、テンポを調整して歌いやすくするなどの細やかな気遣いを欠かしませんでした。この「歌い手への寄り添い」こそがポンタさんのドラミングの真髄であり、多くの歌手から絶大な信頼を得た理由です。
変幻自在のグルーヴと音質へのこだわり
ポンタさんのドラムプレイは「変幻自在に曲を彩り音を操る」と評されます。レコーディングでは曲によってドラムセットのセッティングや音色、グルーヴをガラッと変えることもありました。ライブでは複数のセットを持ち込み、曲ごとに叩き分けることもあったほどです。
彼の音質へのこだわりは、半端でなかったと言われています。
道具の追求
「職人や仕事人と思ってドラムをやりたいんだったら、まず“道具を知れ”」と語り、ドラムの音がどう鳴るかを徹底的に探求しました。例えば12インチのタムに現存する全てのヘッドを購入し、試すことでチューニングを習得しました。
現場での対応力
どんな現場でも10秒で「俺の音」に変えることができ、レンタルした楽器でも5分あれば自分のチューニングに合わせました。これは叩いた時のタッチ感と音を耳で聴いて、即座に調整する能力があったためです。
マイキングへの理解
ホール規模の会場では、マイク乗りが良いチューニングも可能でした。彼にとってのドラムは単なるリズムではなく、表現力と色気を持つものであり、情景や叙情を描くことができるものでした。
このような音へのこだわりから、ドラマーとしてだけでなく、エンジニア的な側面でも楽しませる才能があります。
職人としての探求心と後進への影響
ポンタさんは自らを「最高のプロのアマチュア」、そして「職人」と称し、音楽業界のトップに立ちながらも常に新しいものを追求し続ける姿勢を崩しませんでした。
学びへの貪欲さ
齢60歳を超えてなお向上心を怠らず、タワーレコードで若いドラマーに「カッコいい」と言われるCDを自ら探し求めたり、小さなライブハウスに足を運んで若手の演奏をチェックしたりしました。
交流と育成
「コイツはいい」と感じたミュージシャンには新人であっても「一緒にやろうよ」と声をかけるなど、後進の育成に力を注ぎました。彼の弟子には、楠瀬誠志郎氏もいます。
音楽外からのインスピレーション
音楽だけでなく他の分野の職人の技からも影響を受け、それを自身の音楽に活かしていました。
人間性:豪快さの裏にある繊細さと優しさ
公私ともに豪快なエピソードが多いポンタ氏ですが、その裏には繊細さと優しさがありました。
初対面の印象
彼の教則ビデオなどから「怖い」「厳しい」といったイメージを持たれることが多かったものの、実際に会った人々は彼を「めちゃくちゃ優しい」「周りをよく見てケアできる人」だと評します。特に初対面の人や若手に対しては、非常に腰が低く、気遣いを見せました。
「ボーヤ」(アシスタント)への配慮
アシスタント(ボーヤ)への扱いは厳しく、「親に必ず挨拶する」「1年以上やらせない」という独自のルールを課していました。アシスタントが自分といる場所で長くいるうち馴れ合い、音楽家としてダメになることを防ぐための、ポンタ氏なりの愛情表現でした。
歌手への気遣い
歌い手を包み込み、安心させてあげることをドラマーの責任と捉えていました。Tina氏がアレサ・フランクリンの楽曲を歌う前に自信をなくしていると、「俺はいつでもお前の後ろでドラムを叩くよ」と声をかけ、Tina氏を感激させました。
彼の人間性は音楽性と同様に、多くの人々を惹きつける大きな要因でした。
健康問題と逝去
残念ながら村上“ポンタ”秀一氏は、2021年3月9日に70歳でこの世を去りました。2月8日に視床出血のため入院し、意識が戻らないままの死去でした。
山下達郎氏はポンタ氏の酒豪ぶりを語り、「酒が彼の命を縮めてしまったのだろう」と述べています。同時に「その豪快さの陰にあった繊細さを自分は知っている」「本当に優しいやつなんです。それは最初に会った時から変わらない」と、友を偲んでいます。
村上“ポンタ”秀一のキャリアを彩るエピソード
彼の長いキャリアには、数々の伝説的なエピソードが残されています。
「赤い鳥」オーディションの逸話
ポンタ氏のドラマーとしての天賦の才能を示す最も有名なエピソードの一つが、「赤い鳥」のオーディションです。
彼はドラムを始めようと思ってから1年半もの間スティックを持たずに、イメージトレーニングと呼吸法、そしてドラムパターンを「歌う」練習に徹しました。彼の考えでは「歌うものがないのにスペックを持ったってダメ」だったからです。
実際にスティックを握り始めてわずか1週間ほどの時に「赤い鳥」のオーディションを受け、見事合格します。
オーディションでは、彼の前に叩いた7人のドラマーには無反応だったバンドメンバーが、ポンタ氏の演奏後には「はい、皆さん、これで決まりだから気をつけて帰って下さい」と、残りの20人の志望者を帰らせたという逸話が残っています。彼は当時、自信満々に「俺に決まるから」と他の志望者に言い放ったとも言われています。
このエピソードは、単に素人が有名グループに合格したという話ではなく、村上“ポンタ”秀一という稀有な才能が解き放たれた瞬間だったとされています。
多忙を極めたスタジオミュージシャン時代
プロデビュー後、ポンタ氏は「年間1,000曲以上のレコーディングを行う超売れっ子スタジオミュージシャン」となり、日本のポップス黎明期を支えました。
最盛期には「1日に複数のアーティストのレコーディングを担当することもあった」ため、各スタジオにドラムセットを常設していたほどです。1曲あたり約12,000円のギャラで、最高記録は6時間で84曲をこなしたこともあったそうです。
彼のスケジュール帳を見たハービー・ハンコックが「お前は一体どんなすごいお城に住んでるんだ?」と驚いた逸話も残っています。
PONTA BOX結成秘話
長年、サポートドラマーとして日本の音楽シーンを支えてきたポンタ氏は、1993年に自身初のリーダーバンド「PONTA BOX」を結成しました。
20年以上にわたるプロ活動で初めてのリーダーバンドであり、「ジャズのジャの字も知らない若いやつらが初めて聴きにきた時、『お、かっこいい』と言うような、そういうバンドをイメージしていた」と語っています。
目指したのはジャズに固執せず、「環境音楽に近い、風景を感じさせる演奏」であり、3人のプレイヤーが「対話」する中で繊細なメロディを紡ぎ出すことをテーマとしていました。
このバンドは国内外で高い評価を獲得し、世界三大ジャズフェスティバルの1つであるモントルー・ジャズ・フェスティバルにも出演しました。
ポンタさんの名言
彼の音楽性や哲学は、数々の言葉にも表れています。
- 「俺が俺が俺が、と言ってるのが俺のドラム」
- 「ドラムってものが、リズムをドコドコやってるより、どれだけ色っぽくて表現力があって、どれだけ情景や叙情を描けるか、そういうことをもっと啓蒙していきたい」
- 「初心者がやりがちなんだと、右手をもこうして右足をどこで入れて左手をこうやってなんてやり始めたらもうそれは音楽じゃないでしょう」
- 「叩きたいこと(歌)がないのにスティックを持ったってダメ」
- 「断る事が結果的には信頼関係を深めることになるんだ」
- 「俺は最高のアマチュアだと思ってる」
- 「職人や仕事人と思ってドラムをやりたいんだったら、まず“道具を知れ”」
- 「日本のスタジオミュージシャンにアホが多いと俺が思うのは矢沢にそうやって譜面を投げられたりすると、こんな売り方をして傲慢に聞こえるかもしれないけど俺基本的な自分の役目歌手をフォローしてあげることだと思っているのね。俺が背後で叩いていることで安心して歌うことができる」
これらの言葉からは、彼の音楽に対する深い洞察と、自身の役割に対する強い信念が伺えます。
推薦アルバム
村上“ポンタ”秀一の音楽を深く知るために、彼の多岐にわたる作品の中から、特に推薦したいアルバムをいくつか紹介します。
決定盤
PONTA BOX 『LIVE AT MONTREUX JAZZ FESTIVAL』
彼のリーダーバンド「PONTA BOX」が世界三大ジャズフェスティバルの一つであるモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演した際のライブ音源。無名の日本人トリオが聴衆の心を一瞬で掴んだ。
ビル・エヴァンス・トリオへのオマージュを込めたジャケットも特徴的。
ポンタ氏の目指す「対話する音楽」が凝縮された名盤。
山下達郎 『IT’S A POPPIN’ TIME』
山下達郎のライブアルバムであり、ポンタ氏のドラムプレイが存分に堪能できる一枚。山下達郎自身もポンタ氏の最高の演奏の一つとして挙げています。
ライブの熱気が伝わる迫力ある演奏は必聴です。
定番
村上“ポンタ”秀一 『WELCOME TO MY LIFE』
彼のデビュー25周年(1998年当時)を記念してリリースされた企画盤で、矢野顕子、沢田研二、森高千里、井上陽水など、96人もの豪華ゲストが参加したカヴァー曲集。
ポンタ氏の音楽性の幅広さ、そして彼がいかに多くのアーティストから愛され、信頼されていたかを象徴する作品です。
PONTA BOX meets YOSHIDA MINAKO
PONTA BOXと吉田美奈子によるコラボレーション第一作。珠玉のジャズ・スタンダード・カヴァー集となっており、「バードランドの子守唄」「ワルツ・フォー・デビイ」などが収録されています。
吉田美奈子の歌声とPONTA BOXの演奏が絶妙に融合した作品です。
異色盤
村上“ポンタ”秀一 『Live! Rhythm Designer』

2006年に行われた村上“ポンタ”秀一のソロライブパフォーマンスを収録したDVD。4台のドラムセットを曲ごとに使い分け、16台のカメラを駆使して撮影された映像は、彼のドラムプレイの細部までを捉えています。
ゲストボーカリストに南佳孝、Tinaを迎えたパフォーマンスも必見で、ドラムと歌のDuoというTinaにとって衝撃的な体験となったライブです。
深町純『驚異のパーカッション・サウンド!!』
1976年にリリースされた、ドラムスと鍵盤のデュオという当時としては斬新なスタイルのアルバム。
ポンタ氏の初期のリーダー作の一つであり、彼の実験的な音楽性や、音への飽くなき探求心を感じられる作品です。
まとめ:日本音楽界の“師匠”村上“ポンタ”秀一の不朽の遺産
村上“ポンタ”秀一はその卓越した技術、音楽に対する深い洞察、そして人間的な魅力で、日本の音楽界に計り知れない影響を与えた稀代の音楽家でした。彼のドラムは歌い手に寄り添い、曲の情景を描き出し、聴く者の心を揺さぶる「歌心」に溢れていました。
彼は生涯を通じて「職人」として自身の音楽を追求し、後進の育成に心を砕きました。その「音」と「魂」は、彼が参加した1万4,000曲を超える膨大な作品の中に生き続け、これからも多くの人々に感動を与え続けるでしょう。
彼の哲学は「良いものを作っても売れるとは限らない」「自分の信念を貫く」というプロとしての厳しさと、「出会いは縁のもの」「常に謙虚であれ」という人間としての温かさに満ちていました。
ポンタ氏の音楽は音楽を愛する全ての人々に、「音楽とは何か」「どうあるべきか」を問いかけ続けています。ぜひ、彼の数々の名盤を手に取り、その唯一無二のドラムサウンドを体験してみてください。きっとあなたの音楽観にも、新たな発見があるはずです。
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