音楽映画で、本当に心に響くものに出会えていますか?
2015年2月、長年この業界に身を置く人が新宿の映画館で『はじまりのうた』を観た時、その本質にじんわりと心温まるような体験をしたそうです。
映画『はじまりのうた』あらすじ
『はじまりのうた』は、アカデミー賞受賞作品『ONCE ダブリンの街角で』のジョン・カーニー監督が手掛けたアメリカの音楽映画です。原題の「Begin Again」は「再び始める」という意味を持ち、人生の再出発をテーマに描かれています。
この映画は当初アメリカでわずか5館での上映だったものの、口コミで人気が広がり、最終的に1,300館以上にまで拡大する異例の大ヒットを記録しました。
登場人物たちの苦境
物語は、失意のどん底にいる二人の主要人物の姿から始まります。
グレタ(キーラ・ナイトレイ)
長年の恋人でソングライティングのパートナーでもあったデイヴ(アダム・レヴィーン)と共に、彼のメジャーレーベルとの契約を機にイギリスからニューヨークへ移り住みます。しかし、デイヴが成功の道を歩む中で別の女性と浮気したことが発覚し、グレタは彼と別れ、失意のまま友人のスティーヴ(ジェームズ・コーデン)を頼ります。
ダン(マーク・ラファロ)
かつてグラミー賞を2度受賞し、90年代のヒップホップブームを牽引した名プロデューサーでしたが、現在は時代に乗り遅れ、自分で立ち上げたレコード会社「ディストレスト・レコード」からも解雇されてしまいます。私生活でも妻ミリアム(キャサリン・キーナー)と別居し、娘バイオレット(ヘイリー・スタインフェルド)との関係もぎくしゃくしています。
運命的な出会い
ある夜、スティーヴに励まされてライブバーで自作の歌を披露していたグレタの歌声に、偶然居合わせた酔っぱらいのダンが心を奪われます。ダンはグレタのギター一本の演奏に、頭の中でドラム、ピアノ、バイオリン、チェロといったバンドの音が聞こえるほど、その才能に強いインスピレーションを受けました。彼はグレタにアルバム制作とデビューの話を持ちかけますが、グレタは最初は乗り気ではありません。
ニューヨークを録音スタジオに
しかし、アルバム制作の資金がないという現実を前に、ダンは型破りなアイデアを提案します。それは通常の録音スタジオを使わず、ニューヨークの街角をスタジオ代わりにゲリラ的にレコーディングを行うというものでした。
路地裏、ビルの屋上、地下鉄のホームなど、ニューヨークのあらゆる場所で、街の喧騒や環境音をも音楽の要素として取り入れながらレコーディングが進められます。
仲間たちの参加と変化
ダンは、腕は立つがギャラは後払いで良い無名のミュージシャンたちを集め、バンドを編成します。
その中にはダンの娘バイオレットもギターとして参加し、グレタとの交流を通じて彼女の心にも変化が訪れます。
ダンの旧知の世界的なラッパー、トラブルガム(シーロー・グリーン)も彼らの活動を支援します。
グレタの友人であるスティーヴも彼女に居場所と発表の場を提供し、レコーディングを支える重要な存在となります。
ダンとグレタは、お互いのプレイリストを共有しながらニューヨークの街を歩き、音楽を通じて互いのルーツや価値観を理解し、絆を深めていきます。
この過程でダンは「陳腐でつまらない景色が、美しく光り輝く真珠になる。音楽でね」と語り、音楽の持つ魔法の力を表現します。
彼らの音楽制作は傷ついていた二人の心を癒し、それぞれの人生に新たな活力を与えていきます。
デイヴとの再会と選択
アルバムが完成に近づく頃、デイヴはグレタに連絡を取り、かつて二人が作った大切な曲「Lost Stars」を披露します。
しかしデイヴがその曲をポップス調にアレンジし、自身の商業的な成功を優先していることにグレタは失望します。
グレタは曲の持つ「繊細なバラード」としての良さが失われたと感じ、彼との音楽性や価値観の違いを再認識し、最終的にデイヴとは別の道を選ぶことを決意します。
最高の「はじまり」へ
グレタはダンの古巣のレコードレーベルとの契約を蹴ります。そして自分たちの純粋な音楽を世に出すため、路上ライブで完成したアルバムを破格の1ドルでインターネット販売しようと、ダンに提案するのでした。
この無謀な企画は世界的なラッパーの紹介をきっかけに大ヒットとなり、小さな奇跡を起こしたのです。
偶然の出会い 音楽の魔法
才能ある音楽が、どうすれば人々に届くのか。
これは業界人がキャリアの中で、常に問い続けているはずのテーマです。
ヒットの波に乗ろうと数字ばかりを追いかけ、本当に心に響く音を見落としかけた時期がきっとあるはずです。新人アーティストの発掘会議で、データ上の評価が低いからとそのデモテープを無下に扱ったこともあるでしょう。
後にそのアーティストがインディーズで大成功を収めたと聞き、愕然とした経験もあるはずです。
この映画の主人公、落ち目の音楽プロデューサーであるダンは、まさに彼らが過去に陥りかけた「目に見える成功」にとらわれていた人物です。
彼はかつて敏腕プロデューサーとして一流レーベルを立ち上げ、1990年代のヒップホップブームを牽引し、グラミー賞も二度受賞します。
それから数年間、鳴かず飛ばずで会社の指揮権を失い、妻子とも別居する日々を送っていました。
そんな彼が自暴自棄になりかけた夜、友人に引っ張り出されたライブバーで、失意のシンガーソングライター、グレタの歌声に偶然出会います。
グレタの歌を聞いたダンは、誰も演奏していないはずのピアノやバイオリンの音が頭の中で響き、彼女の歌にアレンジが加わっていくのを「耳で」聴きます。
このシーンは音楽の持つ原初的な力を信じ、その可能性を「耳で」見つけ出すことの大切さを教えてくれます。
時に私たちは表面的な情報や過去の経験に縛られ、本質を見失うことがあります。
しかしダンは、心の耳でグレタの真の才能を見抜いたのです。
街角の響き 創造の舞台
音楽を制作する上で、「スタジオ」は神聖な場所とされてきました。
しかし予算がない中で最高の音を作るという課題に直面したダンとグレタは、驚くべきアイデアを思いつきます。
それはニューヨークの街角をそのまま録音スタジオにしてしまうという、型破りな挑戦でした。
路地裏、ビルの屋上、地下鉄のホームなど、彼らは様々な場所でゲリラレコーディングを敢行します。
この映画のジョン・カーニー監督は自身も元バンドマンで、1990年から1993年までアイルランドのロックバンド「The Frames」の初代ベーシストとして活動していました。
監督は撮影スタッフに対し、「目で見て選ぶな、アルバムを録音したくなる場所を耳で選べ」と指示したそうです。
このこだわりが、作品全体に流れる音楽への深い愛情とリアリティを生み出しています。
ニューヨークという街は、映画にとっても特別な舞台です。
エンパイア・ステート・ビル、タイムズ・スクエア、ユニオン・スクエア、ハーレム、ロウワー・イーストサイド、セントラル・パーク、イーストヴィレッジなど、マンハッタンの様々な場所が作品に登場し、街の喧騒や風のそよぎ、人々の声までもが音楽の一部として取り込まれていきます。
これは単なる「背景」ではなく、ニューヨークそのものが作品の「共演者」であるかのようです。
この無謀とも思える企画は、小さな奇跡を生み出しました。
映画は当初、全米でわずか5館での公開でしたが、口コミで人気を博し、最終的には1,300館以上で上映される異例の大ヒットを遂げます。
日本では2015年に公開され、当初10館でのスタートでした。公開後たちまち話題となり、単館公開ながら興行収入1億5千万円を突破しました。
この数字はまさに「音楽への純粋な想い」が観客に伝わり、共感を呼んだ証と言えるでしょう。
心の歌声 ロストスターズ
『はじまりのうた』には数多くの心に残る楽曲が登場しますが、中でも主題歌である「Lost Stars」は、この作品の核とも言える存在です。この曲はグレタが恋人のデイヴのために作詞作曲したもので、映画の中でキーラ・ナイトレイとアダム・レヴィーンがそれぞれ異なるバージョンで歌い上げます。
あるエンジニアはこの曲の歌詞の深さを、映画を観て初めて痛感したと言います。
あるとき新曲の制作に行き詰まりひたすら理論で攻めていた彼に、ベテランのエンジニアが「お前は心の耳を閉じている」と言い放ったそうです。
その言葉はまさに、「Lost Stars」が教えてくれる「感情と音楽の繋がり」に通じるものでした。
「Lost Stars」は、第87回アカデミー賞歌曲賞にもノミネートされています。
キーラ・ナイトレイの少し鼻にかかったような、しかし透明感のある歌声、そしてマルーン5のボーカリストであるアダム・レヴィーンの力強くも情感豊かな歌声が、この曲に多角的な魅力を与えています。
特にデイヴが、ツアー中に仕上げたポップス調の「Lost Stars」をライブでグレタの元のアレンジを交えながら歌い上げるシーンは、彼の葛藤と未練、そして音楽に対する情熱が凝縮されていて、観る者の胸に迫ります。
再生の軌跡 人間関係
この映画は単なるラブストーリーではありません。
グレタとダン、それぞれが人生のどん底にいる中で出会い、音楽を通じて自分自身と向き合い、再生していく人間ドラマが描かれます。
ある評論家は、「ロマンチックな結末がない」ことを指摘するかもしれません。しかしこの点こそが、この映画最大の魅力なのです。
グレタは恋人のデイヴに裏切られ、音楽への情熱を失いかけていました。
一方のダンは家庭も仕事も破綻し、酒に溺れる日々を送っています。
ニューヨークの街角で共にアルバムを制作する中、彼らは互いを尊重し、信頼し合う関係を築いていきます。
特に印象的なのは、二人が二股イヤホンジャックで互いのプレイリストを聴きながらニューヨークの街を歩き、クラブで踊るシーンです。
彼らは周りの人々とは違う音楽を聴きながら、自分たちだけの世界を楽しんでいます。
これは形式にとらわれず、自分たちの「好き」を追求することの喜びを象徴しています。
アルバム制作を通じて、ダンは娘のバイオレットや元妻ミリアムとの関係を修復しようと努めます。
バイオレットがアルバム制作に加わり、ギターソロを披露するシーンは、彼女の成長と自信の回復を力強く描いています。
グレタの友人であるスティーヴもまた、温かく彼らを支えます。彼は傷ついたグレタに優しく寄り添い、発表の場を提供し、ゲリラ録音では自然にバックを務めました。
音楽で結ばれた絆は時に血縁より強く、人々を支える力になるのです。
情熱の監督 ジョンカーニー
ジョン・カーニー監督は、『ONCE ダブリンの街角で』や『シング・ストリート 未来へのうた』といった音楽映画の名匠として知られています。
彼の作品がこれほどまでに心に響くのは、彼自身が音楽に対する深い理解と情熱を持っているからです。
彼は俳優たちにも音楽的なリアリティを求め、キーラ・ナイトレイが歌声を初披露するにあたり、何度も歌のダメ出しをしたと言われています。
厳しい指導だったかもしれませんが、そのおかげで実際の演奏シーンは実に自然で、観客は本当に音楽がその場で生まれているかのような臨場感を味わうことができたのです。
監督は、俳優が「安全地帯」から一歩踏み出すことを促すのが好きだと語っています。
キーラ・ナイトレイのような有名女優が、これまでにないシンガーソングライター役に挑戦する。アダム・レヴィーンのようなトップアーティストが、俳優としてスクリーンデビューを果たす。
相反する才能を持つ二人がそれぞれの新たな挑戦の中で輝く姿は、観る者に大きな感動を与えます。
安定を求めるだけではつまらないものが生まれてしまう。その信念がカーニー監督の作品には、一貫して流れているのです。
新たなはじまりのために
『はじまりのうた』は音楽の持つ無限の可能性と、そこから生まれる人々の再生の物語を鮮やかに描いています。この作品は私たちが日々の生活の中で見落としがちな「小さな奇跡」や「本質的な価値」に気づかせてくれます。
今すぐあなたも、心に響く「はじまり」を体験してみませんか。
音楽の魔法に耳を傾ける
日常の喧騒の中に、新たな発見のヒントが隠されているかもしれません。好きな音楽を深く味わい、五感を研ぎ澄ましてみてください。
「創造の舞台」を見つける
完璧な環境を待つのではなく、今いる場所で、今できる方法で、あなたらしい表現を試してみてください。意外な場所が、あなたのクリエイティブな「スタジオ」になるでしょう。
「再生の物語」を紡ぐ
過去の失敗や現状の困難に囚われず、小さな一歩を踏み出してみませんか。音楽が人との繋がりを生み、新たな自分に出会うきっかけをくれるはずです。
この映画があなたの人生に、新たなメロディを奏でることを心から願っています。
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