ザ・ジャムは、1970年代後半から1980年代初頭にかけてイギリスの音楽シーンに大きな足跡を残した、最も影響力のあるバンドの一つです。ポール・ウェラー、ブルース・フォクストン、リック・バックラーの3人からなる彼らは、その独特のサウンド、社会的な歌詞、そして圧倒的なエネルギーで名を馳せました。
バンドの結成と初期
ザ・ジャムのルーツは、1972年にイングランドのサリー州ウォーキングにあるシアウォーター・セカンダリー・スクールで形成されます。
若かったポール・ウェラーはベースギターと力強いボーカルを担当し、音楽への情熱を共有する友人たちとバンドを結成しました。彼らの活動は、地元のクラブ「マイケルズ」での精力的なパフォーマンスから始まります。
1970年代半ばにかけて、バンドのラインナップは固まり、ギタリスト兼ボーカリストのスティーブ・ブルックスとドラマーのリック・バックラーが加わりました。しかしブルックスは初期にバンドを離れ、その後も新しいギタリストが加入しないまま、ウェラー、バックラー、ブルース・フォクストン(当初はギター、後にウェラーの説得によりベースを担当)の3ピースバンドとして活動を続けます。
バンドのキャリアを通じて、ウェラーの父親であるジョン・ウェラーがマネジメントを務めました。1977年2月には、ポリドール・レコードとレコード契約を締結しています。
音楽スタイルと影響
ザ・ジャムは、1977年のパンク・ロックの初期に登場したバンドの中でも特に人気があり、英国のポップミュージックに最も大きな影響を与えました。彼らはスマートな仕立てのスーツを着用することで、当時のパンクバンドのほとんどと一線を画し、見た目においてはモッズ・リバイバルバンドの典型でした。
モッズとは、1950年代後半から1960年代にかけてイギリスで生まれた若者文化、ライフスタイルの総称です。ファッションとしては細身のスーツ、ボタンダウンシャツ、ナロータイ、M-51パーカ(モッズコート)の着用が定番でした。
彼らのサウンドはモッズ文化の本質をパフォーマンスに注入し、そのモッズムーブメントとロックンロールのルーツを融合させることで進化します。ポール・ウェラーの作詞能力とギタープレイ、ブルース・フォクストンの巧みで推進力のあるベースラインにより、一見シンプルながらも、思考とスタイルにおいては複雑で洗練されたサウンドを持っていました。
初期のザ・ジャムは、ザ・フーやキンクスといった1960年代の英国バンドから強い影響を受けています。ェラー自身もザ・ビートルズの『リボルバー』やマイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』からの影響を語っています。彼らの音楽はパンクの荒々しさ、モッズのエレガンス、そして60年代のビートバンドのメロディとリズムが融合したものでした。
ウェラーの歌詞には、若者の不安や怒り、都市生活、階級問題といった社会的なテーマが鋭く反映され、当時の英国社会を映し出す鏡としての役割も果たしていました。
3人組という編成でありながら、ザ・ジャムは4ピースバンドのように響かせようと非常に努力していました。リック・バックラーはドラムを叩く際に、リンゴ・スターの哲学からヒントを得て、「曲こそがスターである」という考えを持っていました。彼らの音楽はパンクの価値観を維持しながらも、よりポップ志向に進化していきました。
代表作
「In the City」 (1977)
ザ・ジャムのデビューシングルであり、彼らの音楽キャリアの始まりを告げる曲です。1977年4月29日にポリドール・レコードからリリースされ、UKチャートのトップ40にランクインし、バンドの素晴らしいスタートを切りました。この曲は、キャッチーなメロディ、激しいギターリフ、ポール・ウェラーの特徴的なボーカルが融合しており、世代のフラストレーションや願望を音楽で表現し、多くのファンの共感を呼びました。
デビューアルバム『In the City』はわずか11日間でレコーディングされ、初期のザ・フーの作品をより速く、より荒々しくしたようなサウンドと評されました。
『All Mod Cons』 (1978)
バンドの3rdアルバムである『All Mod Cons』は、1978年11月3日にリリースされ、彼らのキャリアにおいて最も重要で高く評価されているアルバムの一つです。先行する『This is the Modern World』が商業的・批評的に振るわなかったため、本作には大きな期待が寄せられていました。
このアルバムはバンドのサウンドが「よりメロディック」に進化し、「音響的に大きく前進」したことを示しており、彼らのキャリアの最高点と見なされることもあります。『All Mod Cons』には、「Down in the Tube Station at Midnight」や「English Rose」といった名曲が収録されており、パンクシーンからより興味深い領域へと移行しているバンドの姿を感じさせます。
「Going Underground」 (1980)
ザ・ジャムにとって初の全英シングルチャート1位を獲得したシングルです。当初は「Dreams of Children」との両A面リリースが予定されていましたが、レーベルのミスにより「Going Underground」が前面に押し出され、大きな注目を集めました。
この曲は当時の英国社会と無関心に対する痛烈な批判であり、現代生活からの逃避というウェラーのお気に入りのテーマを表現しています。その強力で抵抗しがたいメロディは、リリースされるやいなやチャートの1位を記録しました。
『Sound Affects』 (1980)
バンドの5枚目のスタジオアルバムで、1980年11月28日にリリースされました。本作は、バンド自身が共同プロデュースを務めた唯一のジャムのアルバムです。ウェラーは、このアルバムをザ・ジャムの最高傑作と評しています。
『Sound Affects』は英国アルバムチャートで2位を記録し、米国でもビルボードチャートで72位に達し、彼らにとって最も成功したアルバムとなりました。アルバムには、彼らにとって2番目の全英1位シングルである「Start!」と、アコースティックな名曲「That’s Entertainment」が収録されています。
「That’s Entertainment」 (1980)
ポール・ウェラーがパブから酔って帰宅した後、約15分で書いたとされるアコースティックな名曲です。働く階級の日常の退屈さを描いた辛辣な社会批判の歌であり、英国でシングルとして正式リリースはされませんでしたが、輸入盤としてUKチャートで21位にランクインしました。ローリング・ストーン誌の「史上最高の500曲」リストにも選ばれています。
『The Gift』 (1982)
ザ・ジャムの6枚目にして最後のスタジオアルバムであり、1982年3月12日にポリドール・レコードからリリースされました。このアルバムは、バンドの芸術的な成長と音楽的才能の証とされています。
初期のパンクやモッズの影響を受けたサウンドから脱却し、より幅広い音楽的影響を取り入れ、洗練された成熟したサウンドを披露しました。ファンク、ソウル、モータウンのスタイルを取り入れた曲が多く、特に「Town Called Malice」がその代表例です。『The Gift』はUKチャートで1位を獲得し、バンドにとって唯一の快挙となりました。
「悪意という名の街(Town Called Malice)」 (1982)
『The Gift』からの代表的なトラックであり、バンドの代名詞ともいえる曲です。この象徴的な歌は、キャッチーなメロディと鋭い歌詞を融合させ、日常生活の苦悩と願望についてコメントしています。この曲は「Precious」との両A面シングルとしてリリースされ、バンドにとって3度目の全英1位を獲得しました。ザ・ビートルズ以来、BBCの『トップ・オブ・ザ・ポップス』で2曲を演奏した最初のグループとなりました。
ポール・ウェラーとその役割
ポール・ウェラーは、ザ・ジャムのリードボーカル、ギタリスト、そしてメインのソングライターであり、そのキャリアを通じてバンドの主要な原動力でした。
ウェラーの歌詞は、彼のワーキングクラスの背景を反映しており、日々の苦悩、怒り、喜び、希望といった労働者階級の人々の感情を表現しました。彼は熱心な読書家でもあり、ジョージ・オーウェルの作品から影響を受け、その政治的視点を歌詞に取り入れました。例えば『サウンド・アフェクツ』の裏ジャケットには、パーシー・ビッシュ・シェリーの詩「無秩序の仮面」の一節が引用されています。
キャリアの初期には、挑発的な態度で注目を集めるため保守党に投票すると発言したこともありました。後にその真意は、ザ・クラッシュの左翼的な政治姿勢への反動であると釈明しています。彼は自身の信念を強く主張し、左翼的な大義を支持するようになりました。
ウェラーのソングライティングは、キャリアを通じて大きく成長します。そのスタイルはキンクス時代のレイ・デイヴィスと、比較されるほどでした。彼は「モッドファーザー」として知られ、モッズ文化だけでなく、音楽界全体に多大な影響を与えました。
ザ・ジャム解散の理由は、ウェラーがバンドとの活動で達成できることは全て達成したと感じたためであり、彼が望まなかった「年老いて恥ずかしい存在」になることを避けるためでもありました。彼は新しい音楽的可能性を探求するためにバンドを解散するという大胆な決断を下し、これは「ポップ界で最も勇敢な決断」と称されました。
ザ・ジャム解散後、ウェラーはすぐにキーボード奏者のミック・タルボットとスタイル・カウンシルを結成し、新たな音楽の方向性を模索しました。その後ソロアーティストとしても成功を収め、2010年にはブルース・フォクストンと自身のソロアルバム『Wake Up the Nation』で2曲を共同制作しています。ザ・ジャムの再結成については「決して、絶対に起こりえない」と断固として否定しており、それは彼らが「全てを賭けて築き上げてきたものに反する」と述べています。
しかし2007年、デビュー30周年を機に、ポール・ウェラー抜きで「From The Jam」名義の再結成ツアーが行われました。
バンドの解散とその後
ザ・ジャムは、彼らの人気の頂点にいた1982年10月30日、解散を発表しました。ポール・ウェラーは、グループとして音楽的にも商業的にも全てを成し遂げたと感じたため、新しい音楽的可能性を探求するためにバンドを解散すると述べました。ブルース・フォクストンは、この解散を「今まで飲み込んだ中で最も苦い薬だった」と表現し、リック・バックラーも「関係者全員にとって大きな衝撃だった」と語っています。バックラーは、ウェラーが解散理由として挙げた「トレッドミル(ルームランナー、ランニングマシン)に乗っているようだった」という説明を「でたらめ」だと考えており、バンドのマネジメントの問題やロイヤリティに関する潜在的な問題から、ウェラーが先に幕を引いたのだと推測しています。
解散後、ウェラーはスタイル・カウンシルを結成し、後にソロキャリアも成功させました。ブルース・フォクストンは、1983年に初のソロシングル「Freak」をリリースし、UKチャートで23位を記録しました。2006年には、リック・バックラーがザ・ジャムの楽曲を演奏するバンド「The Gift」を結成し、後にフォクストンも合流して「From the Jam」と改名しました。しかし、バックラーは2009年にFrom the Jamを脱退しました。その理由として、ポール・ウェラーなしに活動を続けると、単なるトリビュートバンドになってしまうという懸念があったからです。
リック・バックラーは2025年2月17日、69歳で短い闘病の末に亡くなりました。彼の死は、ポール・ウェラーとブルース・フォクストンを含む多くのファンや音楽仲間から追悼の意が捧げられました。
アメリカでの認知度
ザ・ジャムは英国で絶大な人気を誇り、真のロックスターとなりましたが、米国ではほとんど注目されませんでした。彼らの曲「悪意という名の街(Town Called Malice)」は映画のサウンドトラックで使用されることはありましたが、アメリカのFMラジオで流れることはほとんどありませんでした。
米国で彼らが成功しなかった理由の一つとして、「あまりにも露骨に英国的であったため、アメリカ人が共感できなかった」という意見があります。ポール・ウェラーも米国では「決してブレイクしなかった」とされています。1977年と1978年の米国ツアーも成功には至らず、バンドの心には苦い思い出を残しました。一部のファンは、英国での成功が米国でも努力なしに通用するとウェラーが思い込んでいたため、米国市場での「努力を怠った」ことが原因だと推測しています。
まとめ
ザ・ジャムは、1970年代後半から1980年代初頭にかけてイギリスの音楽シーンに忘れがたい足跡を残した、最も影響力があり、愛されたバンドの一つです。ポール・ウェラー、ブルース・フォクストン、リック・バックラーの3人の才能あるミュージシャンによって構成された彼らは、その特徴的なサウンド、社会意識の高い歌詞、そして紛れもないエネルギーで名声を博しました。
ザ・ジャムは当時のイギリスの若者の「生き方そのもの」であり、英国音楽史において揺るぎない地位を確立しているのです。
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