サム・リヴァースの音楽はジャズの地平を広げ、多くの聴衆とミュージシャンに今なお深い影響を与え続けています。時に難解と評されながらも、彼のキャリアは常に時代の最先端を走り続けた探求の旅でした。今回は彼の生涯と音楽、そして彼がジャズ界に残した不朽の遺産を、複数の視点から深く掘り下げていきます。
ジャズの変革期を駆け抜けた生涯と「闘士」の精神
サム・リヴァース(1923-2011)はジャズの歴史において、変革の象徴のような存在です。彼の生涯はビバップからフリージャズ、そしてロフトジャズへと続くジャズの激動期と重なります。
若き日にはセシル・テイラーのコンボに在籍し、その後の冒険的な音楽性の基盤を築きました。
リヴァースは常に、自身の音楽的信念を貫き通した「闘士」と称されます。彼のキャリアは経済的に厳しい状況に直面することも少なくありませんでしたが、自身の芸術性を妥協することなく、商業的な成功よりも純粋な表現を追求しました。
この精神は、彼がニューヨークで運営した「Studio Rivbea」に集う多くの若手ミュージシャンたちにも引き継がれていきます。
亡くなった後もその音楽が再評価され続けているのは、その真摯な芸術性が時代を超えて輝きを放ち続けている証左です。
リトアニアの「ノー・ビジネス・レコーズ」が、評価やリスナーを得にくい彼の音楽を良好な音質とユニークなデザインで、世界に再発信しました。「仕事ではない、使命だ」とまで称するほど、彼の遺した音楽の重要性が示されています。
彼の生涯は、ジャズという音楽が生き方を投影する芸術であることを私たちに教えてくれます。
マイルス・クインテット、そしてブルーノートでの飛躍
リヴァースのキャリアは、1964年、マイルス・デイヴィス・クインテットへの短期間の参加によって大きな転機を迎えます。
当時18歳のドラマー、トニー・ウィリアムスの推薦で、ジョージ・コールマンの後任としてバンドに加わり、アルバム『マイルス・イン・トーキョー』で鮮烈な演奏を披露しました。
当時の論評ではリヴァーズの実験的なスタイルとマイルスの音楽が「水と油の関係」と評されることもありましたが、彼は毎回異なるアプローチで演奏し、マイルスはリヴァースがバンドに新たな自由度を加えたと評価しています。
この共演は彼の名声を一気に高め、アメリカジャズ界での認知度を確固たるものにしました。
マイルス・クインテットを去った後、リヴァースはブルーノート・レコードと契約し、リーダーとして4枚の傑作を録音します。
ブルーノートでの最初のアルバムは、1964年12月21日に録音された『フューシャ・スウィング・ソング』です。このアルバムでは、ジャッキー・バイアード(ピアノ)、ロン・カーター(ベース)、トニー・ウィリアムス(ドラム)といった名だたるミュージシャンが参加し、力強く、どこか瞑想的なテナーサックスの響きを存分に堪能できます。
その後も彼はブルーノートで、豪華メンバーが参加した『コントゥアーズ』(1965年5月21日録音)や『ア・ニュー・コンセプション』(1966年10月11日録音)、『ディメンションズ・アンド・エクステンションズ』(1967年3月17日録音)といった作品を発表し、その音楽性を深めていきました。
これらの作品はテナーサックスに留まらず、ソプラノサックスやフルートも操るマルチリード奏者としての才能を遺憾なく発揮しています。
当時のリスナーは彼の音楽を「新主流派」という括りに入れ、従来のハードバップとは異なるため、馴染めないと感じる人も多くいました。時に「難解すぎる」と受け取られ、フリー・ジャズという言葉がリスナーに心理的な障壁をもたらすこともありました。
これは彼の音楽が持つ革新性ゆえの反応であり、時間が経つにつれてその真価が理解されていくことになります。彼のブルーノート時代の作品はジャズの歴史における重要なマイルストーンとして、今もなお多くのリスナーに聴き継がれています。
サム・リヴァースの音楽哲学:インサイド・アウトサイドと「澱」の美学
サム・リヴァースの音楽を深く理解するためには、その独自の音楽スタイルと哲学に触れる必要があります。彼の演奏はフリージャズという言葉では捉えきれない、深い論理と美学に貫かれています。
「インサイド・アウトサイド」のアプローチ
ブルーノート最初のアルバム『フューシャ・スウィング・ソング』で顕著なのが、「インサイド・アウトサイド」と呼ばれる即興演奏のアプローチです。
これはプレイヤーが、厳密なハーモニック・フレームワークから「外に出る」(アウトする)演奏をしつつも、元の構造にシームレスに戻ることができるよう、隠れたつながり(インサイドな要素)を保持するというものです。
リバーズはこのプロセスにおいて、ビバップのハーモニー概念を新たなレベルに引き上げ、ジャズ即興演奏者が「物語を語る」能力と常に統合させていました。
彼の演奏はまるで聴衆を未知の領域へと誘いながらも、必ず帰るべき場所を用意しているかのようです。
「ふがふが系」の音色と「澱」の概念
彼のテナーサックスの音色を、高野雲氏は「ふがふが系」と形容されています。各音の粒立ちの境界がはっきりしない、抽象的なフレーズが特徴です。
西洋音楽の理論からすれば「気持ち悪い」と感じられるかもしれませんが、ジャズの非西洋音楽的、アフリカ音楽的な本質に由来するとされています。
アフリカ音楽には、西洋音楽のスケール法では割り切れない音(ブルーノートなど)が含まれており、それがジャズに「澱」のような音色として蓄積されます。
この「澱」のような独特の音色こそが、彼の演奏に深いソウルと個性を与え、一聴して忘れられない強烈なインパクトを残すのです。
フリージャズとフリーミュージックの峻別
リヴァースの音楽はしばしば、フリージャズの枠組みで語られます。
ちなみにフリージャズとフリーミュージックには、明確な違いがあります。
オーネット・コールマンやジョン・コルトレーンが確立したフリージャズは、フレーズとしてのテーマが存在し、既成概念(形式、調性、メロディ、コード進行、リズム、4ビートなど)を否定しつつも、革新的なジャズを生み出すスタイルです。
一方でフリーミュージックは、フリージャズのようにテーマが必須でなく、ノイズや不確定性音楽の要素が多分にあります。
リヴァースが「フリーミュージック」に陥ることはありませんでした。彼が追求したのは、形式を解体しながらもジャズの根底にある「ソウル(魂)」を失わない、本物のフリージャズでした。
誕生から半世紀以上を経た今、彼のような古い世代のミュージシャンが提示するフリージャズは、魂のあり方を再認識するための「古典」として、その価値を増しているのです。
「スタジオ・リヴビー」:ロフトジャズという新たな共同体の創造
サム・リヴァースの功績は、優れた演奏家であったことだけに留まりません。彼はニューヨークのジャズシーンにおいて、「スタジオ・リヴビー(Studio Rivbea)」という重要なロフトスペースを運営し、1970年代のフリージャズムーブメントの中心的拠点となりました。
当時、経済的な厳しさから、ミュージシャンが自主的にスタジオを借りて演奏の場とする「ロフト」が、ニューヨークで次々と生まれます。
その中でもスタジオ・リヴビーは、特別な存在でした。このスタジオは単なる演奏の場ではなく、音楽家たちが自由に表現し、交流できる共同体のような空間だったのです。
多くの若手ミュージシャンにとって登竜門のような場所であり、ヘンリー・スレッドギル率いるAIRやチコ・フリーマン、デイヴィッド・マレイ、バリー・アルチュールといった多くの革新的なアーティストたちがここで活動しました。
「リヴビー(Rivbea)」という名前は、リヴァースの姓「Riv」と、彼の創作活動を精神的に支えた妻ベアトリス(Beatrice)の「Bea」を組み合わせたものです。
この名前には彼の音楽への深い愛情と、妻への感謝の念が込められています。
ベアトリスはリヴァースの音楽活動、特にロフトの運営において、かけがえのない精神的支えとなっていました。彼女の存在を通して、スタジオ・リヴビーが商業的な場所ではなく、音楽家たちの魂が息づく温かい共同体であったことが伺えます。
約150人以上を収容できる広さを持っていたこのロフトは、既存の商業的な音楽シーンとは一線を画し、純粋な芸術追求の場として機能していました。このスタジオは最初のニューヨーク・ジャズ・ミュージシャン・フェスティバルの開催場所としても知られており、当時のジャズシーンにおいて非常に重要な「場」を提供し、革新的な音楽がそこから多く生まれます。
探求は終わらない:ビッグバンドから不朽の遺産へ
ブルーノートを離れた後も、リヴァースの音楽的探求は止まることがありません。彼はインパルス!、ECM、ブラック・セイント、FMP、Natoといった多様なレーベルから作品を発表し、常に自身の音楽を更新し続けました。
特筆すべきは、彼のキャリア後半におけるビッグバンド編成への挑戦です。
インパルス!からリリースされた初のビッグバンド・アルバム『クリスタリゼーション』は、彼がフリージャズの領域を超えて、より大規模なアンサンブルでの表現を追求した証です。彼は自身の「リヴビー・オーケストラ」を率いて活動し、『Culmination & Inspiration』(1998年、RCA)や、没後にリリースされた『Sam Rivers & the Rivbea Orchestra: Trilogy』(2006年録音)などの作品を発表しました。
これらの作品はジャズの歴史的な構造とビッグバンドの形態を組み合わせるという、リヴァースの革新的なアプローチを示しています。個々のプレイヤーが持つ自由な発想が、壮大なハーモニーの中で見事に調和する様は、まさに音楽の魔法と呼ぶにふさわしいものでした。
サム・リヴァースの音楽はリスナーに常に「問い」を投げかけ、既成概念にとらわれない自由な精神を教えてくれます。時に難解に聴こえるかもしれませんが、その奥には常に真摯な探求心と、音楽に対する純粋な情熱が宿っているのです。
それはリスナーに対する、挑戦でもあります。その挑戦を受け入れたとき、私たちは新たな音楽の地平が広がっていることに気づかされます。
彼の作品は現在もCDやLPとして流通しており、オンラインデータベースでもその広範な活動を確認できます。
彼の音楽が今なお多くの人々に求められ聴かれ続けているのは、その革新性と普遍的な魅力が時代を超えて響き続けている証拠に他なりません。
彼の尽きることのない創作意欲と常に新しいサウンドを追求する姿勢は、ジャズという音楽の可能性を広げ続けたのです。
推薦盤
『フューシャ・スウィング・ソング(Fuchsia Swing Song)』 (Blue Note, 1964年または1965年録音): サム・リヴァースのブルーノートからの記念すべき初リーダーアルバムです。
ジャッキー・バイアード、ハービー・ハンコック、フレディ・ハバード、トニー・ウィリアムスといった豪華なメンバーが参加しています。
このアルバムは彼の「インサイド・アウトサイド」という、ビバップのハーモニー概念を拡張しつつも、即興の中に隠れたつながりを保持する革新的なアプローチを象徴しています。
評論家からはトニー・ウィリアムスのシンバルレガートの美しさや、リヴァースのサックスの独特な音色に注目が集まっています。
『ア・ニュー・コンセプション(A New Conception)』 (Blue Note): リヴァースのワンホーン・カルテットによる充実した作品で、ジャズスタンダードを自由な解釈で演奏しています。「Secret Love」でのリヴァースのフルートなど、軽快で素晴らしい音楽です。
リード・マイルスがデザインしたジャケットアートワークも秀逸で、垂直に配置された「A」の文字に続いて「Anti」と読める仕掛けがあるなど、細部にまでこだわった完璧なレイアウトが特徴です。
『コンツアーズ(Contours)』 (Blue Note): ブルーノートからのセカンドアルバムで、ポスト・バップ・ジャズをさらに発展させたと評されています。
『クリスタルズ(Crystals)』 (1974年): ビッグバンド編成でフリージャズを演奏したアルバムで、「バースツ(Bursts)」という曲が収録されています。
『カレミネーション・アンド・インスピレーション(Culmination & Inspiration)』 (RCA, 1998年): 彼のリヴビー・オーケストラによるアルバムです。
『サム・リヴァース&ザ・リヴビー・オーケストラ:トリロジー(Sam Rivers & the Rivbea Orchestra: Trilogy)』 (2006年オーランド録音、没後リリース): このアルバムには、リヴァース自身の作曲によるオーケストラ作品が収録されています。
サム・リヴァースが遺したもの
サム・リヴァースは、その生涯を通じて常に音楽の最前線で活動し、ジャズの可能性を広げ続けた真のパイオニアです。彼の残した作品群は、単なる歴史的な記録にとどまらず、今もなお多くのミュージシャンやリスナーに影響を与え続けています。
彼の音楽は「フリージャズ」という一ジャンルに収まるものではなく、その後の多くのミュージシャンに多大なインスピレーションを与えました。彼が提唱した「Studio Rivbea」のようなアーティスト主導のスペースは、ニューヨークのアート・アンサンブル・オブ・シカゴやAACMのようなクリエイティブな音楽コミュニティにも通じるものがありました。これらの活動は、音楽家たちが自身の作品を自由に発表し、互いに刺激し合う場を創り出すことの重要性を示しました。
サム・リヴァースは「偽物フリー」ではない、「本物」のジャズの魂を体現したミュージシャンでした。その功績はジャズの古典として再認識されるべきものです。彼は自身の類稀なる才能と、共に音を奏でた数多くの偉大なミュージシャンたちとの「対話」によって、ジャズという芸術の地平をどこまでも広げ続けました。
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