『地獄の黙示録』はフランシス・フォード・コッポラ監督による1979年の傑作戦争映画で、ジョゼフ・コンラッドの小説『闇の奥』を原作としています。ベトナム戦争を舞台に、人間の狂気と闇を哲学的に探求し、映画史に大きな影響を与えました。
作品概要と制作背景
『地獄の黙示録』はベトナム戦争が激化する1960年代末を舞台に、アメリカ陸軍のウィラード大尉が、カンボジアの奥地に自身の王国を築いたカーツ大佐の暗殺任務を受ける物語です。
この映画の制作は、数々の未曽有のトラブルに見舞われ、「完成しないのではないか」「コッポラはこれで終わりだ」と囁かれたほど困難を極めます。その背景には以下のような要因がありました。
予算と日程の膨張
当初1,200万ドルの予算で6週間の撮影期間を予定していましたが、撮影開始から3ヶ月も経たないうちに予算を使い切り、コッポラ監督は自宅とワイナリーを銀行に譲渡し、3,000万ドルもの私財を投じることになりました。撮影も数週間遅れ、最終的に長期に及びました。
キャスティングの難航
カーツ大佐役には当初、オーソン・ウェルズやスティーヴ・マックィーンが候補に挙がりましたが実現せず、最終的にマーロン・ブランドが承諾しました。しかし、ブランドは撮影現場に役のイメージとは異なる肥満体型で現れ、セリフも覚えようとせず、自身の主張を現場で通そうとするなど、制作に混乱をもたらしました。
ウィラード大尉役も、当初ハーヴェイ・カイテルに決まっていましたが、撮影開始2週間で降板し、マーティン・シーンが代役を務めることになります。撮影現場では酒やドラッグが蔓延し、マーティン・シーンは飲酒問題や心臓発作に見舞われました。コッポラ監督自身も心労で倒れ、3度にわたって自殺を宣言するほど精神的に追い詰められたのです。
主要登場人物と俳優
ベンジャミン・L・ウィラード大尉(マーティン・シーン):ベトナム戦争に憑りつかれ、妻と離婚してまで戦場に戻ってきた人物。
カーツ大佐暗殺の特命を受け、彼の王国を目指して川を遡上します。
演じたマーティン・シーンは心臓発作を起こすなど、過酷な撮影を経験しました。
ウォルター・E・カーツ大佐(マーロン・ブランド):かつては輝かしい功績を持つアメリカ陸軍の英雄でしたが、軍規を無視し、カンボジア奥地に自身の王国を築き、原住民を支配しています。
肥満体型で撮影に臨み、アドリブでの演技が多かったとされます。
その思想や行動は、観客の間でも様々な解釈が生まれる「難解さ」を象徴しています。
ビル・キルゴア中佐(ロバート・デュヴァル):精鋭の第1騎兵師団を指揮するサーフィン狂の指揮官。
ベトコンの拠点を攻撃する際に「ワルキューレの騎行」を爆音で流すシーンは特に有名です。
その狂気に満ちた行動と発言(「朝のナパーム弾の臭いは格別だ」)は、本作の狂気とカオスを象徴するキャラクターとして評価されています。
ジェイ・“シェフ”・ヒックス(フレデリック・フォレスト):ウィラードの部下の一人。全米映画批評家協会賞助演男優賞を受賞しました。
ランス・B・ジョンソン(サム・ボトムズ):有名なサーファーであり、キルゴア中佐が彼に執着するきっかけとなります。
撮影中にLSDやマリファナを使用していたとされます。
タイロン・“クリーン”・ミラー(ローレンス・フィッシュバーン):ウィラードの部下の一人。当時14歳でしたが、年齢を偽ってオーディションに合格し出演しました。
ジョージ・“チーフ”・フィリップス(アルバート・ホール):哨戒艇の艇長。
報道写真家(デニス・ホッパー):カーツの王国にいるアメリカ人フォトジャーナリスト。演じる当人が、薬物中毒でセリフが覚えられないなどの問題を起こしました。
ルーカス大佐(ハリソン・フォード):ウィラードにカーツの暗殺任務を命じる軍上層部の人物。ハリソン・フォードはカメオ出演のような形で登場しており、役名はジョージ・ルーカスに由来しています。
物語の構造とテーマ
物語はウィラードが川を遡上する旅の過程で、戦争がもたらす異様な光景と人間の狂気に次々と遭遇していく構成になっています。
『闇の奥』からの翻案: 映画はコンラッドの小説『闇の奥』を原作としていますが、舞台をコンゴからベトナム戦争下のカンボジアに移し、大幅にアレンジしています。『闇の奥』が文明の虚構性や人間の「闇」の根源を観念的に探求する難解な作品であるように、『地獄の黙示録』も単なる戦争映画の枠を超えた哲学的・思索的なテーマを提示しています。
「空虚へと向かう旅」と自己同一性の崩壊: ウィラードの川を上る旅は物理的な進展だけでなく、精神的な深層へと向かう旅でもあります。彼がカーツの資料を読み込むにつれて、戦争の狂気を深く理解し、自身の思想や行動が豹変していく様子が描かれます。一部の批評では、ウィラードの自己同一性が崩壊したのではないか、あるいは存在の「虚無を見た」のではないかと指摘されています。
戦争の狂気と人間の本性: 映画はキルゴア中佐の常軌を逸した行動、ドラッグに溺れる兵士たち、慰問に来たプレイメイトを巡る混乱など、戦場の異常な状況を描き出し、戦争が人間にもたらす狂気、矛盾、不条理さを浮き彫りにします。
カーツ大佐の思想: カーツはベトコンの冷酷さに「迷いのない純粋な意志」を感じ取り、「恐怖」を受け入れ、それを絶対的な力として崇拝する境地に達しています。彼の王国は、文明や倫理観が崩壊した「地獄の真ん中」と表現されます。カーツの最期の言葉「恐怖だ」は、彼自身の自己矛盾、あるいは人間性の「闇の奥」を象徴していると解釈されています。
ウィラードの選択: ウィラードはカーツを暗殺することで彼の影響圏から抜け出すと同時に、彼に成り代わる可能性も示唆されます。しかし彼は王位を辞退し、元の組織に戻るわけでもなく、虚無へと向かった、あるいは左右どちらにも属さない「第三極」として描かれているという解釈も存在します。最終的に彼は、カーツから感じた「存在の虚無」から王になることを辞退し、故郷へ帰ろうと試みます。
映画全体の映像表現と影響
『地獄の黙示録』は、その映像表現においても非常に強い個性を持ち、観る者に強烈な印象を与えます。映画全体を覆うカオスと狂気が、視覚的に見事に表現されています。
泥沼のプロジェクト
混沌と現実の具現化: 『地獄の黙示録』は、その制作過程自体が巨大なカオスであったことで知られています。この制作の混乱、乱調が、題材であるベトナム戦争の巨大な泥沼プロジェクトのカオスをそのまま体現し、結果的に超絶的なリアリティにつながっているのです。
観客にとって親切な「枠組み」はなく、主人公たちの行動が「行き当たりばったり」に描かれることで、状況に反応するだけの「脈絡のなさ」が戦場のリアリティとして表現されます。これはコッポラが、ラストが決まらない中で即興的に撮影を進めたことの「副産物」であり、「作為のない、本物の混乱状態」を描き出した「奇跡のような怪我の功名」と呼べるものです。
サイケデリックな性質: 本作には全体として「サイケデリック」な質感があり、それは「知覚の拡大」を意味します。撮影現場にドラッグが持ち込まれたせいだけでなく、兵士たちがベトナム戦争をサイケデリックな体験として経験せざるを得なかった状況が描かれています。
映画はまるでドラッグトリップのように、長く、疲れ果てるような旅の感覚を観客に与えるのです。
映像美と狂気: 戦争の暴力や狂気をテーマとしながらも、それらを視覚的に美しく描くことに成功しています。カーツの王国へ向かう途中の夕暮れや薄暗い川の様子など、自然の美しい光景が、人間の狂気や戦争の汚さをより強調しています。
特徴的な映像シーンと表現
オープニングとナパーム弾の爆撃シーン: 映画の冒頭、ジャングルの上をヘリコプターが飛び、ナパーム弾がヤシの密林に落とされ炎が上がる映像は非常に印象的です。このシーンは映画の魅力を90%占めるとも言われる「映画史上最高の戦闘シーン」の一つであり、ナパーム弾の威力とアメリカ軍の武力の脅威を表現しています。本物の森を燃やして撮影されたもので、今では絶対に撮ることのできないシーンの一つとされています。
川を遡る旅路: ウィラードたちが川を上っていく行為は、文字通り「狂気に近づく」ことを象徴しています。映画が進むにつれて時代が退行しているかのような感覚を与え、近代的な戦争から前時代的な、そして最終的に原始的な風景へと変化していきます。この「川上りの作品構造」は、「生と死の境界」「浄化と再生」「自己の喪失」「神話的な試練」「人間性の崩壊」といった多層的なテーマを象徴しています。
手のクローズアップ: 映画全体を通して手のクローズアップが頻繁に登場します。これらは物理的な攻防、霊的な能力、法的な能力のシンボルと解釈され、言葉よりも本音を表すものとして使われています。
〇 ウィラードの流血した手は、彼が戦争そのものに取り憑かれ、流血を望んでいる本能を示唆しています。
〇 米軍上層部の手は、彼らの言葉が建前である中で、ウィラードに暗殺任務を強制する「法的能力」や「物理的な攻防のシンボル」として映し出され、観客に「この人達はヤバい」という不信感を与えます。
〇 カーツの王国では、カーツの手が「霊的能力のシンボル」として使用され、民が王の死を悟るきっかけとなります。
カーツ大佐の登場と描写: カーツは日の光の下にあまり出てこず、暗闇の中で顔の半分しか見えない西洋画のような雰囲気で登場します。これは彼の「狂気」や「神秘性」を示唆しています。
マーロン・ブランドの体重増加に合わせて、カーツ大佐の健康状態の優れない身体という設定が加えられました。彼の哲学的な語りは脚本が未完成だったため、マーロン・ブランドの即興演技による「時間稼ぎ」の部分も大きかったとされています。
水牛の生贄の儀式: カーツ大佐の殺害シーンは、部族民が水牛を生贄に捧げる儀式と交互に映し出されます。この儀式は即興的に撮影現場で起こったもので、急遽ラストシーンに採用されました。
制作状況と映像への影響
本作はコッポラが私財を投じて製作し、自らの映画作家としての人生を賭けた作品でした。撮影現場は「まるで本当に戦時中のようだった」とキャストが語るほど過酷で、コッポラ自身も心臓発作や自殺宣言を繰り返すほどの精神状態に陥りました。
〇 フィリピンでのロケでは当初、米軍からの協力が得られず、フィリピン軍のヘリコプターやF-5戦闘機を使用しましたが、フィリピン国内のゲリラ戦によりヘリが実戦に動員され、撮影スケジュールが乱れることが頻繁にありました。
〇 台風によるセットの崩壊も発生しましたが、その模様は撮影され、ストーリーに取り入れられました。
〇 マーロン・ブランドやデニス・ホッパーといった俳優たちの問題行動(体重過多、薬物依存、セリフ覚えの悪さ、即興演技)も、コッポラのコントロールが及ばない「カオス」を増幅させました。
『地獄の黙示録』の映像は、まるで監督自身が狂気に染まっていく過程をフィルムに焼き付けたかのように、観る者にも狂気と混沌が伝播してくる、強烈な体験と言えるでしょう。それは戦争という名の「悪夢」そのものを、視覚と聴覚を通じて体感させるようなものです。
音楽が語る狂気と神話性
ドアーズの「ジ・エンド」(The End)
〇 この曲は映画の冒頭とクライマックスの両方で使用されており、主人公ウィラードの行為に深い意味を与えています。
〇 ドアーズの1967年のファースト・アルバムに収録された約10分に及ぶこの曲は、近親相姦や父殺しを連想させる謎めいた歌詞が特徴です。
〇 特にオイディプス神話(父殺しと母子相姦の物語)を強く暗示しており、これはウィラードがカーツを殺すという「王殺し」の物語に重ね合わされます。この神話的なモチーフは、映画のファンタジー性を高める効果もあります。
〇 曲の歌詞「父親を殺してやりたい」「母親に何らかのことをしたい」は、精神的に未熟な子供の揺らぎ(ぐらつき)を示唆していると解釈されます。
〇 コッポラ監督がこの曲を選んだのは、ジム・モリソンとコッポラが共にUCLAの映画学科出身であった縁もありますが、ベトナム戦争がカウンターカルチャーの時代に重なる戦争であったことが大きな理由とされます。
〇 ドアーズのバンド名はオルダス・ハクスリーの著書『知覚の扉』に由来し、彼らが詩的でサイケデリックなバンドであることを示しています。
〇 ジム・モリソンはライブ中に、Fワード(ファック)を平気で使うなど刺激的な言動で知られており、映画ではこの曲のFワードの部分はカットされているものの、カーツ大佐が「戦闘機の機体にファックと書くことは許されない」と語る場面で、自由を重んじるアメリカの矛盾を暗に示しています。
〇 ベトナムの兵士たちの間でもドアーズの曲は人気があり、故郷を思い出し、自分が忘れられた存在でないと感じ、慰めとなっていたそうです。
〇 サイケデリックは「知覚の拡大」を意味し、この曲の使用はベトナム戦争自体のサイケデリックな性質を表現しているとも考えられます。
ローリング・ストーンズの「サティスファクション」(Satisfaction)
〇 ラジオから流れるこの曲に合わせて、兵士たちが腰をくねらせて水上スキーを楽しむシーンで使用されます。
〇 このシーンは、映画全体の持続的な緊張感の中で、一時的な緩和の機能を果たしています。
〇 ローリング・ストーンズは1965年にこの曲をリリースしました。
リヒャルト・ワーグナーの「ワルキューレの騎行」(Ride of the Valkyries)
〇 キルゴア中佐率いる航空部隊が、敵の村落を襲撃する際に大音量で流される、映画史上最も有名なクラシック音楽の使用例の一つです。
〇 この音楽は、ナパーム弾がベトナムの平原を焼き払う映像と共に、戦争のグロテスクさを効果的に表現しています。
〇 「ワルキューレの騎行」を戦意高揚の音楽として使うのはコッポラの独創ではなく、第二次世界大戦中から各国で見られ、特にナチス・ドイツのプロパガンダ映画で好んで使われていた史実が背景にあります。
〇 ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』の一部であり、戦死者を運ぶ女神ワルキューレが馬に乗って登場するイメージが、ヘリコプターに乗り換えた現代の兵士たちに重ねられています。
この曲は愛情や憧れだけでなく、憎悪や闘争本能といった人間の心の奥底に潜む暗い情念を解き放つ力を持つと評されています。
〇 この戦闘シーンは映画の魅力を90%占めるとも言われ、コッポラはこのシーンの編集後、黒澤明に見せに行ったとされています。
〇 この曲の使用は、ベトナム戦争時に人気だった『ロード・オブ・ザ・リング』のファンタジー流行も視野に入れられている可能性があり、現実の戦争とファンタジーの戦争の類似性を示唆しています。
クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルの「スージーQ」(Susie Q)
〇 プレイメイトによる慰問ショーのBGMとして使用され、兵士たちが欲情してステージに殺到し、混乱に陥るシーンを彩ります。
〇 このシーンは、若い兵士たちの性欲が未練がましくしぶとい様子を描き、戦争の狂気の中での人間の本能を露わにしています。
ジミ・ヘンドリクス風のギターソロ
〇 戦場のラジオから流れるジミ・ヘンドリクス風のギターソロは、ロック・フェスに代表されるカウンターカルチャーとベトナム戦争の地続きな関係性を示しています。
〇 これは反戦を掲げるロックと、そのロックを聴きながら戦場にいる兵士たちの間に大きな隔たりがないことを示唆する、コッポラの演出とされています。
カーマイン・コッポラとフランシス・フォード・コッポラのスコア
〇 映画全体の音楽は、フランシス・フォード・コッポラの父親であるカーマイン・コッポラが主に担当しています。
〇 フランシスは当初、シンセサイザーの第一人者である冨田勲に音楽を依頼しましたが、契約の関係で実現しませんでした。
〇 コッポラは冨田のCD-4(4チャンネルステレオ)方式のLPレコード『惑星』に影響を受けていました。その音響制作を意識して映画のサウンドを構築し、アカデミー録音賞を受賞しています。これは当時として、時代を先取りした取り組みでした。
これらの楽曲は『地獄の黙示録』が描く戦争の不条理、狂気、人間の心の闇を深く象徴し、観客に強烈な感覚的体験をもたらす重要な要素となっています。音楽は混沌とした戦場に響き渡る叫び声や狂気への誘いのように、観客の心に深く刻まれたことでしょう。
異なるバージョンと評価
『地獄の黙示録』には複数のバージョンが存在し、それぞれ異なる鑑賞体験を提供します。
1979年劇場公開版: 当初、大画面の劇場では70mmフィルム版(147分)、小さい劇場ではエンドクレジットとともにカーツの王国爆破シーンが含まれる35mmフィルム版(153分)が公開されました。
特別完全版(Redux): 2001年に公開されたバージョンで、約50分長い202分となりました。キルゴア中佐からサーフボードを盗むシーンやプレイメイトとの交流シーン、フランス人入植者の豪邸でのシーンなどが追加されています。このバージョンは、9.11同時多発テロとアフガニスタン侵攻の時期に公開され、「コッポラが9.11を予言していた」という根拠のない宣伝もされましたが、作品の政治的・歴史的視点を強化する一方で、「蛇足」と感じる意見もありました。
ファイナル・カット: 2019年にコッポラ監督自身が再編集した最終版で、劇場公開版と特別完全版の良いとこ取りを目指したとされます。
映画は公開当初から賛否両論がありましたが、現在では「アメリカ映画史上最高の傑作」の一つとして高く評価されています。カンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを受賞し、アカデミー賞では撮影賞と音響賞を獲得しました。批評家たちは「泥沼のベトナム戦争がアメリカ人に与えた心の闇を、衝撃的な映像として残した怪作」と結論付けています。
作品解釈の多様性
『地獄の黙示録』は、その多層的な表現により、様々な解釈を可能にする作品です。
政治的批評と「二項対立」: 一部の批評は、映画を「右翼的だ」と批判したり、左翼と右翼という二項対立の議論で片付けようとしますが、それでは作品の「ダイナミックさ」や「物足りなさ」を感じさせるという意見もあります。
脱構築と「第三項」: ウィラードが王位を放棄し、リベラルにも保守にも向かわず「虚無」に向かった、あるいは「弁証法的」に解決したという「脱構築説」も存在します。これは既存の考えでは制御できない「危険な存在」の登場を示唆し、物事を左右どちらかに帰結させるべきだという結論に導くこともできてしまう、とされています。
東洋的なるものへの敗北とアイデンティティの喪失: 物語の後半では、西洋的なものが東洋の密林や自然に凌駕され、欧米人の脆弱さが描かれているという見方もできます。カーツが知的で繊細であるがゆえに東洋に飲み込まれ、ウィラードがカーツを排除した後も王国に君臨せず自国へ帰る行為は、西洋的なるものが東洋的なるものに敗北を認めず、優位性を示すためだったという解釈もあります。
制作過程が作品のカオスを体現: コッポラ監督が制作中にラストが決まらず「哲学っぽいこと」をカーツに語らせたり、マーロン・ブランドの即興演技が多かったりした結果、映画全体が「意味のない場当たり的な行動」の連続となり、その「脈絡のなさ」が戦場のリアリティに繋がっているという指摘があります。この作品は「精巧な構築美」とは程遠く、制作過程のカオスがそのままパッケージされた「いびつな映画」であるとも評さていれるのです。
『地獄の黙示録』は、まるで複雑に絡み合ったジャングルの奥地を進むボートのようです。明確な目的地(カーツ暗殺)はあっても、その途中で遭遇する予測不能な出来事、狂気、矛盾、そして深い「闇」は観客を巻き込み、一筋縄ではいかない多層的な意味と感情を呼び起こします。
それは映画という枠組みを超えて、人間の本質や文明の矛盾、そして戦争の不条理を問い続ける、終わりのない旅を映し出しているかのようです。
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