ジャズ界の未解決事件:ワーデル・グレイ謎の死と「Twisted」に刻まれた不朽のメロディ

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ワーデル・グレイの概要と評価

ワーデル・グレイ(Wardell Gray)は1940年代に活躍したアメリカのテナー・サックス奏者です。実力は抜群でありながら、現在のジャズファンには知名度が低い傾向にある人物です。しかし、彼が活動していた当時は「かなりの存在感があった」とされており、モダン・テナー・サックスのパイオニアの一人とも評されます。

彼の演奏スタイルは、ビバップとスイングの中間の風味を醸し出すような独特のセンスがあり、チャーリー・パーカーのバップの語法をレスター・ヤングが演奏したかのような、「流れるように歌う」イメージを持っていたと言われています。
ビバップを嫌っていたことで知られるベニー・グッドマンも、「ワーデル・グレイがバップを演奏するなら、バップも素晴らしいものになる。なぜならグレイが圧倒的に素晴らしいからさ」と絶賛していました。ジャズ史において非常に重要な存在でありながら、その早すぎる死により「忘れられたテナー奏者」になってしまったことが惜しまれます。

生い立ちと音楽的形成

ワーデル・グレイは1921年2月13日にオクラホマシティで生まれ、音楽一家の4人兄弟の末っ子でした。
1929年に家族がデトロイトに移住したことが、音楽への情熱を見出すきっかけとなります。義理の兄にクラリネットを教わり、レスター・ヤングの演奏を聴いてテナー・サックスに一気に魅了されたことで、彼の音楽への旅路は決定づけられました。

キャス工業高校での学びを通じて多様な音楽的影響を受け、パフォーマンスへの意欲をさらに高めていきます。
地元のダンスバンドでの経験を積む中で彼のサックスの才能は輝き始め、リズムとメロディを深く心に刻んでいきました。
ブロースタイルはレスター・ヤング直系と評されていますが、当初はベン・ウェブスターからサックスの個人レッスンを受けていたそうです。彼はレスターのスピリットをしっかりと受け継いだ、歌心あふれる正統派テナーマンでした。

西海岸での台頭とデクスター・ゴードンとのテナー・バトル

1946年後半にアール・ハインズ楽団を離れた後、グレイはカリフォルニア州ロサンゼルスに定住します。
ロサンゼルスに到着するとすぐに、エディ・ラグナのサンセット・レーベルで、ドド・マルマローザの強力なサポートを得て、自身の名義で最初のセッションを録音しています。
このセッションから「イージー・スウィング」や「ザ・マン・アイ・ラブ」など、素晴らしい曲が生まれました。

当時のロサンゼルス・ジャズ・シーンの中心はセントラル・アベニュー沿いのクラブにあり、グレイはジャックス・バスケット・ルーム、ダウン・ビート、ラブジョイズ、クラブ・アラバムなどで、主に営業時間外のセッションで演奏し、成功を収めます。
特に注目すべきはセントラル・アベニューのクラブで、デクスター・ゴードン(Dexter Gordon)と繰り広げた「テナー・バトル」です。
グレイの軽快で素早い演奏は、ゴードンの大きく激しいサウンドに匹敵し、彼らのテナー・ジョスト(サックスの掛け合い)は、当時のセントラル・アベニュー・シーンの象徴となりました。
デクスター・ゴードンはグレイの演奏が「とても滑らかで、とてもクリーンで、たくさんの意欲と豊富なアイデア」を持っていたと回想しています。

彼らの名声が広まり始めると、ロス・ラッセルは彼らのバトルの一つを「ザ・チェイス(The Chase)」という曲でシミュレートさせました。
この曲はワーデル・グレイが全国的に知られる最初の録音となり、「世界で最もエキサイティングな音楽コンテストの一つ」と評価されました。
この成功から、ディスクジョッキーのジーン・ノーマンが企画した「ジャスト・ジャズ」シリーズ出演など、ロサンゼルスとその近郊の公開セッションで、グレイはさらに頭角を表し始めます。

ビッグバンドでの活動と主要な録音

グレイは、ジャズ界の大物バンドであるカウント・ベイシーベニー・グッドマンのオーケストラに参加しました。当初ビバップに嫌悪感を示していたベニー・グッドマンに感銘を与え、彼の小グループに雇われたのです。
グッドマンはメトロノーム誌に「ワーデル・グレイがバップであるなら、それは素晴らしいことだ。彼は素晴らしい!」とコメントしています。グッドマンの新しいグループには、若きスウェーデンのクラリネット奏者エイク・ハッセルガルドなどが参加していました。

1948年後半から1949年前半にかけてカウント・ベイシー・オーケストラと共演し、その間にタッド・ダメロンアル・ヘイグとのレコーディングもこなしました。チャーリー・パーカーが最も輝いていた時期、ダイアル・レーベルでの録音にも参加しています。
1949年に一度ベイシーを離れグッドマンに戻りますが、ツアー頻度の多さから居心地の悪さを感じ、経済的圧力でビッグバンドを解散したベイシーのセプテットに1950年7月に再加入しました。この環境はグレイにとって快適で、グループは成功を収めます。彼のスイング・ブランドにとって、ベイシーのリズム・セクションは理想的でした。

ジミー・レイニーのギターと歌とのユニゾンのテーマが楽しい「Five Star」も、彼の素晴らしい演奏の一つとして挙げられます。

代表的な演奏の紹介

ワーデル・グレイの代表的な演奏をいくつか紹介します。

「Twisted」
彼の代表的なオリジナル曲で、1949年11月11日にニューヨークで録音されました。
この曲は、後にアニー・ロスが歌詞を付けて「ヴォーカリーズ」として歌い、ベストセラーとなるなど、ジャズ史に残る古典的作品となりました。
プレスティッジ・レーベルの『Wardell Gray Memorial Vol. 1』に収録されており、複数の別テイクも存在します。

「The Chase」
デクスター・ゴードンとのテナー・バトルを再現した画期的な録音で、ワーデルの名声を全国に広めるきっかけとなりました。

「The Hunt」
1947年にロサンゼルスのエルクス・ボールルームで行われたデクスター・ゴードンとのライブコンサートの録音で、18分間のパフォーマンスが8枚の78回転レコードとしてリリースされました。後には3枚組CDセットとして、コンサート全体がリリースされています。

「Easy Swing」 & 「The Man I Love」
ロサンゼルスに到着してすぐの、エディ・ラグナのサンセット・レーベルでの最初のセッションで録音された曲です。

「Just You, Just Me」 & 「Sweet Georgia Brown」
ディスクジョッキーのジーン・ノーマンが企画した「ジャスト・ジャズ」シリーズの公開セッションで演奏されました。これらの曲の未編集バージョンも後に発表されています。

「Lavonne」
1953年2月20日録音で、『Wardell Gray Memorial Vol. 1』に収録されています。

「Move」
1950年8月27日録音で、デクスター・ゴードンとの2テナーでのソロ競演が含まれています。『Wardell Gray Memorial Vol. 2』に収録されています。

「Farmer’s Market」
1952年1月21日録音で、アート・ファーマーやハンプトン・ホーズとのセッションです。『Wardell Gray Memorial Vol. 2』に収録されています。

「Hollywood Freeway」
1950年にサンフランシスコ退役軍人記念館でジェラルド・ウィルソンのビッグバンドと共演したライブ録音。ズート・シムズとエキサイティングなコーラスを交換したブルースです。

「Taking A Chance On Love」
1952年9月のライブ録音で、アート・ファーマー(トランペット)、ハンプトン・ホーズ(ピアノ)らが参加しています。ウエストコーストの有名なライブスポット、ヘイグでの音源とされています。

後期のキャリアと謎の死

1951年から1952年にかけて、ワーデル・グレイのレコーディングセッションは減少し、彼が音楽業界に幻滅している兆候が見られ始めます。
知人の証言によると、この頃から本格的に麻薬に手を染めるようになったと言われ、心身ともに大きな被害を与えたと想像されます。
1955年1月に行われた最後のスタジオセッションでは、演奏は力強いものの、全盛期と比較すれば繊細さに欠けるものでした。

1955年5月25日、ワーデル・グレイは34歳の若さで亡くなります。
彼の遺体はラスベガスの砂漠で発見され、首の骨が折れた状態で見つかりました。
死因は撲殺とされていますが、犯人は不明のまま事故死として処理されています。

彼の死因については、その他にも複数の説があります。
オーバードーズ(薬物の過剰摂取)によりホテルの部屋で死亡し、警察とのトラブルを避けるために友人が遺体を砂漠に運んだ際に、首が折れたというもの。
一方で、グレイは薬物中毒ではなかったと主張する関係者もいて、死亡時のOD説を否定する声もあります。

彼の死はリー・モーガンの射殺事件と同じくらい衝撃的であるにもかかわらず、当時のジャズ界でそれほど大きなニュースにならなかったと推測されます。
死の数年前から麻薬に溺れ、録音が少なく、プレイも精彩を欠いていたためですが、麻薬絡みのトラブルでギャングに「消された」という説が有力視されたことも、背景にあったようです。

遺産とジャズ界への影響

ワーデル・グレイは、ジャズの歴史の過渡期に位置する重要なミュージシャンです。
レスター・ヤングが確立したスイングのスタイルにチャーリー・パーカーのビバップの語法を取り入れ、彼自身の洗練された流麗なスタイルを築き上げました。この卓越した能力により、スイングとバップの両方のセッションで重宝されたのです。

彼の演奏は同時代のミュージシャンから厚い信頼を得ており、オールスターバンドなどで演奏する際は彼が最初にソロを取り、その後の演奏に勢いをつけていったと伝えられています。
デクスター・ゴードンと比較されることも多いのですが、当時はグレイの方が一枚上手だったという評価もありました。

彼の短いキャリアと悲劇的な最期により、残された音源が比較的少ないことが、現代において知名度が伸び悩む一因とされています。
しかし彼の音楽は、流麗さと創造性に特徴づけられており、その職人技は同時代の音楽家に影響を与えるだけでなく、将来世代のジャズミュージシャンに高い基準を設定しました。
彼の遺産はジャズ史の不可欠な部分として残り、彼の芸術性は永遠であり、その作品は数々のトリビュートや回顧展で称えられています。
ワーデル・グレイはレコード愛好家の間で現在も愛され続けており、ビニール文化の中で脈々と生き続けているのです。

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