カルロ・マリア・ジュリーニ: 高貴なる音楽の「聖職者」揺るぎなき信念と人生の軌跡

クラシック音楽

ジュリーニの生涯と人間性

カルロ・マリア・ジュリーニ(1914年~2005年)は、音楽家としても人間としても、深く尊敬された稀有な指揮者でした。彼の人生とキャリアは、信念、謙虚さ、そして何よりも音楽への深い愛情に貫かれています。楽譜の徹底した読み込みと細部への丁寧な構築が特徴であり、ドイツ的な構築美とイタリア的な流麗さが融合した、独自の音楽世界を築き上げました。

ジュリーニの生涯と人となり

幼少期と初期の音楽教育

ジュリーニは1914年5月9日にイタリアのプッリャ州バルレッタで生まれ、少年期を北イタリアのボルツァーノで過ごしました。
当時のボルツァーノがオーストリア領だったため、彼はドイツ語の環境で育ちます。ローマのサンタ・チェチーリア音楽院でヴァイオリン、ヴィオラ、作曲を学び、アウグステオ管弦楽団(現在のサンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団)でヴィオラ奏者としてキャリアをスタートさせました。
最初にヴィオラを選んだこと自体が、その控えめな人間性を表しています。
ヴィオラ奏者として、フルトヴェングラーワルターストラヴィンスキーR.シュトラウスといった名指揮者たちの下で演奏し、感銘と影響を受けました。その後、サンタ・チェチーリア音楽院指揮科に再入学し、卒業コンクールで第1位を獲得しています。

第二次世界大戦中の強い信念

1940年(26歳)に召集され、第二次世界大戦に参加しました。彼は戦場に向かう際に弟と、「戦争は怖い。でもどんなに相手が近くから銃を向けてきても、決して相手を殺すことだけはしないようにしよう」と約束を交わしたそうです。
1943年の休戦協定の頃には少尉でしたが、休戦後、ナチスに加わることを拒否したため、9か月間指名手配される身となりました。彼の揺るぎない信念と、筋の通った人柄を如実に示しています。

スカラ座時代とコンサート指揮者へのシフト

戦後、ローマ・イタリア放送響ミラノ・イタリア放送響の首席指揮者を歴任し、1953年(39歳)にはミラノ・スカラ座の音楽監督に就任しました。彼はオペラの分野でも卓越した才能を発揮し、マリア・カラスレナータ・テバルディの全盛期を支えました。

スカラ座時代にはEMIと契約して、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団と数多くの録音を残しています。特にマリア・カラスを主役とした1955年のライブ録音であるヴェルディの『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』は、名高い演奏とされています。この頃のジュリーニの指揮は後のゆったりとしたテンポと異なり、推進力があり、覇気に満ちた演奏が特徴でした。

しかし、1956年にはスカラ座を辞任しています。 1960年代に入り、歌手や演出家とのトラブルが絶えないオペラ界と距離を置き、コンサート指揮者としての活動に軸足を移していきました。これは「運営のことは考えず、音楽だけに専念する」という強い意志の表れでもありました。

愛妻家としての側面と活動拠点の変化

1969年にはシカゴ交響楽団の首席客演指揮者に就任し、音楽監督のゲオルグ・ショルティ(「鷹」と称されるパワフルな演奏)とジュリーニ(「鳩」と称される歌心を引き出す演奏)という二人体制の下、シカゴ響は「世界最強のオーケストラ」と評される「黄金時代」を迎えました。
ジュリーニはこの時期、旋律を最大限に引き出し聴く者を天国へ誘うかのような美しさと慈愛に満ちたマーラー交響曲第9番(1976年録音)など、数々の名演を残し、日本での名声を確立します。

1984年、ジュリーニはロサンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督のポストを、妻の病気を理由に辞任します。妻のそばにいたいという理由からどこにも属さず、フリーの客演指揮者として活動をヨーロッパに限定しました。彼がどれほど妻を深く愛し、大切にしていたかを示すエピソードです。
当時、世界のトップ指揮者の地位を保証されながら妻の看病を最優先した生き方こそ、ジュリーニという人を象徴しています。
この時期の演奏はさらにテンポがゆったりとなり、息の長いフレージングによって旋律の美しさを際立たせるスタイルが徹底されました。音の一つ一つを噛みしめるように、丁寧な演奏が晩年の特徴とされています。

晩年の活動と音楽哲学

彼は晩年、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団バイエルン放送交響楽団フィルハーモニア管弦楽団、ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団など、ヨーロッパの名門オーケストラを客演しました。
晩年の演奏はゆったりとしたテンポと「歌」を根本とするアプローチが特徴で、例えばミラノ・スカラ座フィルとのベートーヴェン交響曲第7番では、弦の内声部がクリアに聴こえるよう管楽器を抑え気味に演奏させています。

ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツが82歳になった1987年、彼の希望で共演し、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番を演奏・録音したことは、音楽史に残る伝説的な出来事でした。ホロヴィッツから、深い信頼を寄せられていたのです。

ジュリーニの言葉は、その謙虚さと音楽への深い敬意を表しています。
来日インタビューで「あなたにとって音楽とは?」と問われた際、彼はしばらく考えた後、「生命です。音楽はいかなる人も一人残らず、想像力を通して生命を吸収することを許す芸術です。建築や絵画、彫刻や文学と比べても、音楽ほどそれを受け取る人間の想像力を自由に、そして豊かに生かす芸術はありません」と答えています。
自身の指揮については、「私が指揮をする時、いや、作品を取り上げるということは私が生きている、その生の一部分で、私の頭脳がそうしたわけでもなく、スコアに関する知識でもなく、人生の一部分にならなくてはいけないのです。スコアとは作曲家が書いてくれたもので、指揮者は作曲家のしもべにならなければなりません。作曲家は天才で、私は何者でもありません」と語っており、その謙虚な人柄と作曲家への深い敬意がうかがえます。

サイモン・ラトルが指揮に悩んでいた時、ジュリーニは「なんの心配もいらない。作品の方からあなたに指揮して欲しいとドアを叩きに来るときがあるものです。その時に取り上げればよいのですよ」と語り、ラトルを勇気づけました。彼が音楽を自然なものとして捉え、無理強いせず、内面から湧き出るものを大切にしていた証しです。
彼の助手を務めたチョン・ミュンフンは、ジュリーニを「音楽に奉仕するため、そして音楽を通して人類に奉仕するための「聖職者」のイメージに限りなく近い人物」と評しています。
ジュリーニの演奏は決してスペクタクルを追求するものではなく、常に深く、内面的に「必要」な表現でありました。

戦後のキャリアとスカラ座時代

戦後、ローマ・イタリア放送響、ミラノ・イタリア放送響の首席指揮者を歴任し、1953年(39歳)にはミラノ・スカラ座の音楽監督に就任しました。彼はオペラの分野でも卓越した才能を発揮し、若くしてこの名門劇場の音楽監督に就任したことは広く知られています。

コンサート指揮者へのシフトとアメリカでの活躍

1960年代に入ると、歌手や演出家とのトラブルが絶えないオペラ界と距離を置き、コンサート指揮者としての活動に軸足を移していきました。

シカゴ交響楽団首席客演指揮者(1969-1978年)

この時期、シカゴ響は音楽監督のサー・ゲオルグ・ショルティ(「鷹」と称されるパワフルな演奏)とジュリーニ(「鳩」と称される歌心を引き出す演奏)という二人の巨匠の協力体制の下、「世界最強のオーケストラ」と評されるほどの「黄金時代」を迎えました。
ジュリーニはシカゴ響と多くの名演を残しており、特に1976年録音のマーラー交響曲第9番は、米国グラミー賞、国際レコード批評家賞、モントルー国際レコード賞、ドイツレコード賞、国際ディスク大賞、日本のレコード・アカデミー賞など、世界各国から数多くの賞を受賞した「名盤中の名盤」として高く評価されています。
この演奏は旋律を最大限に引き出し、聴く者を天国へと誘うかのような美しさと慈愛に満ちた世界観が特徴です。
ムソルグスキー(ラヴェル編)の『展覧会の絵』(1976年録音)も、「豪演」と評されています。この時期の録音は後年のジュリーニの演奏とは異なる、パワフルで緊迫感のあるアプローチも見られます。

日本でジュリーニの名声が確立されたのは、このシカゴ響との「第九」シリーズの発売やロサンゼルス・フィル音楽監督就任の1970年代後半からです。

ウィーン交響楽団首席指揮者(1973-1976年)

ブルックナー交響曲第2番(1974年録音)のような、信じがたいほど美しい演奏を残しています。

ロサンゼルス・フィルハーモニック音楽監督(1978-1984年)

妻の病気を理由に辞任するまで、彼は運営には関わらず音楽だけに専念する条件でこのポストを引き受けました。若いメンバーの多いロス・フィルとの共演を楽しみ、ベートーヴェンの交響曲、シューマンの『ライン』、チャイコフスキーの『悲愴』などの多くのレコーディングを残します。ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」(1978年録音)はしっかりとした骨格と溢れる歌心が特徴で、作品から旋律を見事に引き出すジュリーニの手腕が光ります。

晩年の活動と音楽観

1984年にロス・フィルの音楽監督を辞任してからはヨーロッパに拠点を移し、特定のオーケストラに属さず、フリーの客演指揮者として活動しました。この時期の演奏はさらにテンポがゆったりとなり、息の長いフレージングによって旋律の美しさを際立たせるスタイルが徹底されます。音の一つ一つを噛みしめるように、丁寧に演奏する点が晩年の特徴とされています。

客演オーケストラ

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、バイエルン放送交響楽団、フィルハーモニア管弦楽団、ミラノ・スカラ座フィルハーモニー管弦楽団など、ヨーロッパの名門オーケストラを指揮しました。

主要録音

ウィーン・フィルとのブラームス交響曲全集(1989-1991年)は、遅く重いテンポで音楽を高揚させるジュリーニらしい表現が特徴で、特に第4番は優れていると評されています。

ベルリン・フィルとのヴェルディのレクイエム(1989年)は、97分にも及ぶ壮大な演奏です。
フィルハーモニア管とのフォーレのレクイエム(1986年)は、崇高で慈愛に満ちた祈りの音楽として、特に合唱と独唱の美しさが際立っています。

ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツが82歳になった1987年に、彼の希望で共演し、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番を演奏・録音したことは、音楽史に残る伝説的な出来事とされています。
ミラノ・スカラ座フィルとは、ベートーヴェンの交響曲全集(第1番から第8番、1991-1993年)に取り組みました。特に交響曲第8番は、歌心に溢れ、ジュリーニの良さが存分に発揮された最高の演奏と評価されています。

交響曲第7番では、弦の内声部がクリアに聴こえるよう管楽器を抑え気味に演奏させ、「歌」を根本とするアプローチが特徴です。第9番を録音することはなく、惜しまれながらプロジェクトは未完に終わりました。

孤高の巨匠 精神の貴族

ジュリーニは世界的な名声を持っていたにもかかわらず、特定のポストに就いていた期間が短かったため、「孤高の巨匠」として生涯を閉じました。彼の人柄は誠実で、権力欲がなく、音楽以外の雑事を拒む傾向がありました。

彼の死に際しては、クラウディオ・アバドリッカルド・ムーティ、当時のロサンゼルス・フィルの音楽監督であったエサ=ペッカ・サロネン など、多くの同業者が追悼コメントを寄せています。ウォルター・レッグは若き日のジュリーニに必要なのはレパートリーだと述べましたが、ジュリーニは自身が深く理解している作品のみを指揮することで、巨匠としての地位を確立しました。

彼の演奏は「堅固な構成力」を持ち、「イタリア人ならではの美しいカンタービレ」が特徴です。音楽に対しては謙虚で真摯であり、常に温かさと細心の注意が込められています。彼の指揮を「貴族的」と形容されることがあります。緻密にして濃厚、ポリフォニックな独立性を保ちつつ音楽を練り上げるための手段として、遅いテンポが用いられました。オーケストラの団員からも最大限の敬意を払われ、シカゴ響、ウィーン響、ロス・フィルの演奏は、ジュリーニが指揮する音楽は別格だったと語り継がれています。

ジュリーニは1998年に指揮活動から引退し、2005年6月14日に91歳で亡くなりました。その墓所は北イタリアのボルツァーノにあります。彼は常に誠実な姿勢で音楽と向き合い、聴く者の心に深い感動を与える「枯れることを知らない音楽」を生み出し続けました。

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