世界を魅了した「イパネマの娘」:知られざる成功の裏側と革新的な影響力

洋楽

『イパネマの娘』の真実 誕生秘話から現代の再創造まで

イパネマの娘」は世界で最も広く知られ、愛されているボサノヴァの楽曲の一つです。その美しいメロディと歌詞は、半世紀以上にわたり多くの人々を魅了し続けています。
カフェミュージックやラウンジミュージックとして認識されることもありますが、この曲の背後には誕生の心惹かれる物語、文化的な変遷、そして現代における新たな解釈の歴史が隠されています。
今回は「イパネマの娘」の奥深い世界を、その誕生秘話から現代の再創造まで、詳細にご紹介します。

名曲の誕生とイパネマのミューズ

「イパネマの娘」は1962年に、ブラジルの作曲家アントニオ・カルロス・ジョビンと詩人ヴィニシウス・ヂ・モライスによって生み出されました。彼らは1957年以来、ボサノヴァムーブメントを牽引する名コンビとして知られていました。
しかし二人の間には、ジョビンの才能を独占したがるモライスと、活動の幅を広げたかったジョビンとの間で思惑のずれが生じ、この曲が彼ら最後のコンビ作品となります。それでも二人の友情は、モライスが亡くなるまで続きました。

この曲は、彼らがよく通っていたリオデジャネイロのイパネマ海岸近くの「ヴェローゾ」というバーで、当時17歳の少女ヘロー・ピニェイロ(本名ヘロイーザ・エネイダ・メネーゼス・パエズ・ピント)さんからインスピレーションを得て誕生したと言われています。
彼女は長身でスタイルが良く、近所でも有名な美少女でした。母親のタバコを買いに店を訪れるたびに、その優雅な歩き方(モライスは「まさに詩だ」と評しました)がジョビンとモライスの目に留まったそうです。

広く語られる伝説では、二人がヴェローゾの店内で即興的に曲を作ったとされています。実際にはそれぞれの自宅で、ある程度の期間をかけて制作されたものです。
しかしこのバーが曲の着想の場となったことは事実であり、後に「ガロータ・ヂ・イパネマ」と店名を変更するほど、この曲と深く結びついています。
ヘロー・ピニェイロさん自身も曲の大ヒット後、自分が曲のモデルだったことを知って驚き、モデルや女優、TV司会者として活躍しました。1999年には自身のビーチウェアブランドに「ガロータ・ヂ・イパネマ」という名前を使用します。
これに対しジョビンとモライスの著作権継承者たちが訴訟を起こしましたが、裁判所はヘローさんに有利な判決を下し、彼女は名前の使用を続けることができました。彼女は2023年7月7日で、80歳になったそうです。

「イパネマの娘」は、1962年8月2日にリオデジャネイロのナイトクラブ「オ・ボン・グルメ」で開催されたステージショー「エンコントロ」で、ジョビン、ジョアン・ジルベルト、そして素人歌手だったモライスの三人によって初めて公に披露されました。このショーはボサノヴァの創始者たちが共演した夢のような顔合わせで、彼ら三人で共演したのはこの時だけです。
モライスは外交官だったためクラブ出演を咎められましたが、報酬を受け取らず友人たちの飲食代を無料にすると宣言し、結果的に彼自身が酒を飲みすぎて高額な飲食代を支払う羽目になったという逸話が残っています。
最初の商業録音は1962年にペリー・ヒベイロによって行われました。

世界を魅了した英語詞とアストラッド・ジルベルトの貢献

「イパネマの娘」が世界的なヒットとなったのは、1963年にジャズサックス奏者スタン・ゲッツとジョアン・ジルベルトによるアルバム『ゲッツ/ジルベルト』に収録されたバージョンがきっかけです。
このアルバムはジャズとボサノヴァ融合の最高傑作の一つとして、広く認識されています。

国際的なヒットに欠かせなかったのは、英語詞の存在でした。
英語を話せる人物が必要となり、偶然スタジオに居合わせたジョアンの当時の妻、アストラッド・ジルベルトが歌うことになります。
彼女は訓練されたプロの歌手ではなく、飾らない素朴な歌声を披露します。その声がこの曲の魅力となり、世界的なブレイクスルーをもたらしました。
アストラッドの参加は当初予定されておらず、彼女自身による売り込みや、プロデューサーのクリード・テイラーが商業的価値を計算し、「飛び入り参加」という筋書きを作ったとする説もあります。

英語詞はノーマン・ギンベルによって書かれましたが、ポルトガル語の原詞とは異なるニュアンスを持っています。

詩人ヴィニシウス・ヂ・モライスのポルトガル語による原詞は「通り過ぎる少女の美しさが、やがて薄れていく若さ、自分だけのものではない美しさという悲しさを伴って世界に恩寵を与え、より彼女を美しくする」という、哲学的で詩的な内容です。
一方、ギンベルの英語詞では「彼が彼女に恋をしているが、彼女は彼に気付かない」という報われない愛の物語が語られます。

ジャーナリストのセルジオ・アウグストは、ポルトガル語版の「無関心」と英語版の「冷淡さ」の間には大きな違いがあると指摘しています。この意味の違いから、アメリカの大衆がこの曲をより親しみやすく感じる一因となりました。
ギンベルは「イパネマ」という言葉が歯磨き粉の「Ipana」を連想させるとして、曲名から削除するよう強く主張し、ジョビンとの間で激しい口論になったと言われます。

「イパネマの娘」は1965年のグラミー賞で最優秀レコード賞を受賞し、ジャズインストゥルメンタル賞とアルバムオブザイヤーも獲得しました。
その後、ビートルズの「イエスタデイ」に次ぐ世界で2番目に多く録音されたポップソングとして知られるようになります。
この世界的な成功の陰で、アストラッド・ジルベルトはわずか120ドルのセッション料しか受け取らず、著作権料は一切支払われませんでした。スタン・ゲッツは彼女を「有名にした」と公言していますが、実際には彼女が正当な報酬を受け取らないよう画策していたとも言われています。

アストラッド・ジルベルトの “無邪気でおっとりとした” 声がセンセーションを呼ぶってことが、オレには分かっていた。当時の彼女は主婦だったけど、「イパネマの娘」を英語で歌ってほしかったからアルバムに参加させたんだ。「イパネマの娘」はヒットしたし、彼女にとっては幸運な出来事だったね

スタン・ゲッツ イギリスのジャズ誌への1964年のインタビュー

この出来事は当時の音楽業界におけるアーティストの搾取と、不平等を象徴する悲しい物語として語り継がれています。
ノーマン・ギンベルはアメリカでの著作権料の大部分を得ることになり、ジョビンはこれに懲りて、その後は自曲の英語詞についても自力で書くようになったそうです。

ブラジルからの視点と複雑な感情

「イパネマの娘」がアメリカで大ヒットし、アストラッド・ジルベルトが「ボサノヴァの女王」と呼ばれるようになった一方で、ブラジル本国で彼女の知名度は、ほとんど上がりませんでした。彼女が海外で成功を収めたことが、一部のブラジル人から「裏切り行為」と見なされたためです。
ボサノヴァ発祥の地では、この曲がアメリカ的商業主義に蹂躙された象徴と見なされ、特にコアなボサノヴァ愛好家からは複雑な感情を抱かれていました。
アストラッド自身も、ブラジルの報道機関からの「過酷な批判と不当な皮肉」に深く傷つき、1965年のコンサート以降、ブラジルで歌うことは二度とありませんでした。
国際的な成功の裏で、原産国との間に文化的な隔たりが生じたのです。

『ゲッツ/ジルベルト』のレコーディング中も、ゲッツはボサノヴァへの理解が不十分で傲慢な態度を取り、ジョアン・ジルベルトもその横柄な態度やビジネス優先の扱いを嫌いました。
英語を話せたジョビンは、気難しいジョアンと傲慢なゲッツとの間に挟まれ、両者の調整に苦労したそうです。
例えばジョアンがポルトガル語でゲッツを罵倒した際、ジョビンが咄嗟に「あなたと演奏できて光栄である」と嘘の通訳をしたものの、ゲッツはなおも疑っていたという話もあります。
これらの軋轢があったにもかかわらず、アルバム自体は非常に素晴らしい作品に仕上がりました。

ちなみに1964年、ジョアンとアストラッドは離婚します。
ブラジルのマスコミはスタン・ゲッツとアストラッド・ジルベルトが不倫しているという噂を大々的に報じて、彼女を非難しました。アストラッドの不貞が離婚の原因であったとの、印象操作です。
実際に浮気をしていたのはどうやらジョアンの方だったようですが、彼らは「裏切り者」より「母国の英雄」の肩を持ったのでしょう。
ゲッツやジョアンは音楽家としては最高峰の存在でも、人間性はクズで、マスコミは昔からマスゴミだったというわけです。

普遍的な魅力の継承と現代の再創造

時代は移り変わり、「イパネマの娘」は今もなお、さまざまなアーティストによって再創造され続けています。
2016年のリオデジャネイロオリンピック開会式では、作曲者ジョビンの孫であるダニエル・ジョビンが演奏し、ブラジルのスーパーモデル、ジゼル・ブンチェンがこの曲に乗せて登場し、その普遍的な魅力を改めて世界に示しました。

オリンピック・パラリンピックのマスコットも、作曲・作詞者の名前から「ヴィニシウス」と「トム」と名付けられます。
この開会式後、Spotifyではこの曲のストリーミング再生が1200%増加し、1日4万回も再生されたと報じられました。

ブラジルのポップスター、アニッタは、2021年に「Girl from Rio」を発表しました。
この曲は「イパネマの娘」のメロディをサンプリングしつつ、歌詞で現代のリオの女性像を表現しています。
オリジナルの「背が高く、日に焼けた、若く愛らしい」女性像とは異なり、アニッタの「Girl from Rio」はより多様で現代的なリオの女性の姿、例えば、豊かな体型やビーチでのバーベキュー、ブリーチされた体毛などを描写しています。

ミュージックビデオではクラシックなポルシェに乗った1960年代のリオの女性から始まり、現代のリオのよりBサイド(あまり知られていない側面)」の風景、例えば国際空港近くの人工プールでビキニ姿のアニッタがバスから降りてくるシーンへと移り変わります。
これはリオの女性たちのリアルな姿を世界に伝え、ブラジル文化を再評価してもらいたいというアニッタの挑戦でもありました。
彼女の曲はYouTubeで2400万回再生され、ブラジル人から「自分たちが表現されている」と共感を呼びます。

ビリー・アイリッシュの「Billie Bossa Nova」やSZAによる「Boy from South Detroit」(「イパネマの娘」の歌詞「Tall and Tan and Young and Lovely」を「Young and He Fine and He Tall and He Handsome」に再構築)など、現代のアーティストもボサノヴァのリズムや雰囲気を自身の楽曲に取り入れています。

ヒップホップアーティストのJuice WRLDやCucoも、ボサノヴァのリズムを取り入れた楽曲をリリースし、若年層にこのジャンルを再認識させました。
TikTokでは、任天堂WiiのMiiチャンネルのテーマや子供向けアニメ『The Backyardigans』の「Castaways」といったボサノヴァ風の楽曲がミームとして人気を集め、若年層にボサノヴァが再発見されるきっかけにもなりました。
これらの現象はボサノヴァが過去のジャンルではなく、ノスタルジーや現代の心の傷を表現するサウンドトラックとして、今日の音楽シーンに息づいていることを示しています。

多くのアーティストが「イパネマの娘」をカバーしています。
中でもフランク・シナトラとアントニオ・カルロス・ジョビンが1967年に共演したバージョンは有名です。

シナトラはオリジナルの雰囲気を尊重しつつ自身のスタイルを融合させ、ジョビンも歌に参加しました。
ジョビンはかつて自分の曲にひどい英語詞がつけられた際に、「こんな歌詞ではフランク・シナトラが歌ってくれないだろう」と怒った逸話があり、そのシナトラとの共演が実現したことには特別な意味があります。

この曲はジャズの即興演奏家にとっても重要なスタンダード曲であり、そのハーモニーやコード進行は「思ったよりもずっと奇妙で奥深い」と評されています。
オスカー・ピーターソンなど、多くの著名なジャズミュージシャンがこの曲を演奏し、そのソロは複雑なコード進行を解釈する上で重要な示唆を与えています。

「イパネマの娘」はその誕生から半世紀以上が経過した現在でも、リオデジャネイロの象徴であり、ブラジルの最も有名な文化大使の一つです。
過去の軋轢や文化的誤解があったものの、多くのアーティストがこの名曲に敬意を払いながら、それぞれの時代や視点で再解釈を試みています。これからも多様な形で歌い継がれていくことでしょう。

ボサノヴァの奥深さが現代のポップカルチャーに与え続ける影響は、まさに「再創造」の連続と言えます。この一曲を通じて音楽の歴史、文化の交流、そして人間の感情の普遍性を感じ取ることができるはずです。

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