アン・ルイス「グッド・バイ・マイ・ラブ」 作曲家・平尾昌晃と作詞家・なかにし礼の心髄

邦楽

古いカセットテープやラジオから流れてくるメロディに、ふと心を奪われた経験はありませんか。名曲「グッド・バイ・マイ・ラブ」を聴くと、まるで時間旅行をしているかのような不思議な感覚に包まれます。その音色は懐かしさにとどまらず、私たちの心の奥底に眠る感情を優しく揺り動かしてくれるのです。

楽曲誕生の奇跡

アン・ルイスさんの「グッド・バイ・マイ・ラブ」は、1974年4月5日にビクターレコードからリリースされた5枚目のシングルです。作詞家なかにし礼さんと作曲家平尾昌晃さんの二大巨匠によって生み出されました。

なかにし礼さんは、1956年6月5日に神戸で生まれたアン・ルイスさんと横浜の外人墓地で出会い、「だって可愛いもの」とそのスター性を一目で見抜いたそうです。
当時14歳だったアンさんは、なかにしさんの事務所「なかにし礼商会」に所属しました。事務所の解散に伴い、渡辺プロダクション傘下の「サンズ」へ移籍します。
当初の案はアン・ルイスさんを、ゴールデン・ハーフのメンバーに加えるというものでした。なかにしさんが「彼女は自分が育てたい」と、会社側を諦めさせたそうです。

彼との出会いが、その後のアン・ルイスさんの歌手としての道を決定づけたと言えるでしょう。

平尾昌晃さんは、1937年12月24日生まれの歌手兼作曲家です。1958年に「リトル・ダーリン」でソロデビューし、ミッキー・カーチス山下敬二郎とともに「ロカビリー三人男」として人気を博しました。
その後、「星は何でも知っている」や「ミヨチャン」といったヒット曲を自ら歌い、作曲家としても布施明さんの「霧の摩周湖」小柳ルミ子さんの「瀬戸の花嫁」五木ひろしさんの「よこはま・たそがれ」など、数多くの名曲を手掛けました。その幅広い音楽性が、「グッド・バイ・マイ・ラブ」のメロディにも深く息づいています。

心に残るヒットの軌跡

「グッド・バイ・マイ・ラブ」は歌手のネームバリューもなく、発売前からヒットを期待されていた作品ではありません。「どこかで聴いた事があるけど、いい曲だなぁ」という形で広まり、さまざまな層に支持され、長期間にわたって売れ続けました。
オリコンの記録によると最高順位は10位以下でしたが、1974年7月から9月にかけて20位前後をキープし続けたことが示されています。
この楽曲はまさに、庶民の「愛着」という感情が時間をかけて育んだ作品と言えるでしょう。

歌謡曲のヒットには、レコード会社が作り出すものか、大衆が選択するものかという「流行の責任論」があります。これはどちらか一方の単独責任ではなく、その時どき社会状況下での、両者の相互作用によって生まれます。
「グッド・バイ・マイ・ラブ」に限れば、ラジオ番組や有線放送のリクエスト数など、当時の人々が「いい曲だなぁ」と感じ、長く愛し続けたことが人気を支えたことの全てでしょう。

作詞家 なかにし礼の文学世界

なかにし礼さんは約4,000曲もの作詞を手掛けた偉大な作詞家であり、小説家としても名を成しました。彼の作品は1960年代から1980年代にかけ歌謡界の二大巨頭として活躍し、日本レコード大賞を3回、日本作詩大賞を2回受賞しています。

彼は歌謡曲の詩を「日本文学の一ジャンルである」と強く意識し、「世代を超えて聴き手の心を動かす普遍性」を持つ歌を作ることに心血を注ぎました。
例えば北原ミレイさんのヒット曲「石狩挽歌」は、なかにし礼さんのお兄さんがニシン漁で失敗した幼年期の体験が込められています。
この曲は、現地の方言をあえて説明せずに用いるという「覚悟」で書かれたもので、「オンボロロ」というニュアンスさえ分かれば良いという想いが込められています。
文学性を追求しつつもヒットさせるという二つの願いを果たした作品であり、彼の信念が強く表れた名曲です。

なかにし礼さんの詞は個人的な経験を深く掘り下げ、普遍的な感情へと昇華させることに成功しています。
多くの人々が自身の思い出や感情を重ね合わせることができたのは、この揺るぎない才能があったからこそでしょう。彼の作品群は、「言葉の力」を信じ続けた結晶なのです。

平尾昌晃の旋律と多彩な才能

平尾昌晃さんは作曲家としてだけでなく、歌手、作詞家、音楽プロデューサー、そしてテレビ番組の司会など、多岐にわたる活躍を見せました。彼は1950年代後半にロカビリー歌手として名を馳せた後、他のアーティストへの楽曲提供を中心に活動の軸を移しました。

彼の作曲した楽曲は、幅広いジャンルに及びます。
畑中葉子さんとのデュエット曲「カナダからの手紙」(1978年)、伊東ゆかりさんの「恋のしずく」(1968年)、五木ひろしさんの「よこはま・たそがれ」(1971年)、小柳ルミ子さんの「わたしの城下町」(1971年)、梓みちよさんの「二人でお酒を」(1974年)など、数多くのミリオンセラーを記録しました。
これらは全て、彼がロカビリーの時代が終わることをいち早く予感し、日本の音楽シーンの変遷に合わせてレパートリーを広げる努力を続けた結果と言えます。

平尾昌晃さんは初の作詞作曲歌唱曲である「ミヨチャン」について、中学二年生の時に初恋で振られた相手がモデルになっており、「今に見ていろ、僕だって」という激励の気持ちを込めたメッセージソングだと述べています。
このような純粋な動機から生まれた曲がやがて大ヒットとなり、作曲家としての自信を深めることにつながったのでしょう。
平尾昌晃さんの楽曲は聴く人の心に寄り添い、希望を与え、時にそっと涙を拭うような温かさで満ち溢れています。

アン・ルイス「グッド・バイ・マイ・ラブ」リリース後のキャリア

中期(ポップス系アーティストとの協業)

アン・ルイスさんは「グッド・バイ・マイ・ラブ」以降、ヒットに恵まれませんでした。ファッションにこだわり、彼女自身のステージ衣装のデザインを手がけるようになります。渡辺プロダクションの後輩であるキャンディーズの「やさしい悪魔」や、仲の良い山口百恵の衣装デザインといった裏方の仕事をしたりもしていました。

70年代後半、松任谷由実(ユーミン)山下達郎竹内まりやなど、豪華なポップス系アーティストたちが次々と、アン・ルイスさんに楽曲を提供し始めます。
彼女は元々「ロック少女」であったため、バラードばかり歌う歌手になることに不安を感じていたと語っています。
転機となったのは1977年8月5日発売のシングル「甘い予感」です。この曲は雑誌のインタビューで荒井由実(ユーミン)が、「アン・ルイスと欧陽菲菲に曲を書きたい」と発言したのを彼女のスタッフが目にして、彼女に楽曲を依頼して実現しました。
アン・ルイスは「甘い予感」のレコーディング風景を見学に行き、ユーミンがブースに入ってオケを録る姿を見て、「これが音楽の作り方なんだ」と感激したそうです。この経験を機に、彼女は歌に自分の意見を取り入れるようになります。デビュー6年で初めて、アーティストとしての意識に目覚めた瞬間でした。

ハードなロック歌謡時代

中期を経て「六本木心中」以降は、「ぶっ飛んだ遊び人イメージ」で「女性の自立心」を強く訴えるハードなロック歌謡の時代へと移行しました。
今やアン・ルイスと言えば、「六本木心中」のようなハードロック系のイメージが強いはずです。

「グッド・バイ・マイ・ラブ」の意義

「グッド・バイ・マイ・ラブ」は初期のアン・ルイスを象徴する作品であり、平尾昌晃の流麗なバラードになかにし礼の美しい言葉が並ぶ切ない歌詞を、甘いボーカルで切々と歌い上げたことでヒットにつながりました。オリコン最高位は14位でしたが、最終的に23.8万枚のセールスを記録しています。

この曲の魅力の一つは、アンさんがハーフであることを活かした詞にあります。
タイトルが英語であることに加え、間奏に英語のセリフが用いられていることで、歌い手の個性を引き立てています。
日本語では口にしづらい生々しい感情を、外国語である英語で表現することで、少し距離を置きながらも本心を込めて伝えられる、「魔法」のような効果があったと評価されています。
アンさんの声は「湿度が低い」と評され、日本の歌謡曲が持つウェットさとは異なり、カラッとしつつも冷たくない、悲しみに寄り添うような抑制された歌唱に凄みがあります。
「グッド・バイ・マイ・ラブ」は、アン・ルイスを「アイドル」から「アーティスト」へと変えた曲であり、彼女がその後ロックに傾倒していく土台を作ったとも言えます。この別れの歌が、新しい始まりを告げる歌になったのです。

アン・ルイスさんはデビュー当初の清楚なバラードシンガーから、ポップス系の豪華アーティストとの協業を経て、最終的には女性の自立心を強く訴えるハードなロック歌謡へとキャリアを変化させていきました。

時代を超えて愛される理由

「グッド・バイ・マイ・ラブ」の歌詞は、別れを告げながらも「さよならじゃないの」と、これが最後の別れでないと願う心情を描写しています。
「忘れないわ あなたの優しい仕草 手のぬくもり 忘れないわ くちづけの時 そうよ あなたのあなたの名前」というフレーズを通じて、過去の愛を美しく、そして切なく思い出として残しつつ、未来への希望を秘めた感情を表現しています。

この楽曲は発表された1974年以降、多くのアーティストによってカバーされ、時代を超えて愛され続けています。パトリシアさん(1974年、フランス語詞)小泉今日子さん(1990年)酒井法子さん(2015年)田村芽実さん(2020年)麻丘めぐみさん(2020年)上白石萌音さん(2021年)など、その歌い手は多岐にわたります。

福田沙紀さんも2006年にこの曲をカバーし、自身が主演したドラマ「不信のとき~ウーマン・ウォーズ~」の挿入歌として、劇中で歌唱する場面もありました。
このような数多くのカバーは、「グッド・バイ・マイ・ラブ」が単に昭和のヒット曲ではなく、世代やジャンルを超えた日本のスタンダードとして確立している証拠と言えるでしょう。

日本の歌謡曲は1970年代以降、テレビの普及に伴い視覚的なイメージが、歌詞のメッセージ性よりも重要になる傾向が見られました。この曲は、歌詞の持つ愛しく切ない想いが多くの人々に届いたからこそ、これほど長く愛され続けているのでしょう。
まるで心の琴線に触れるかのように、珠玉のメロディと言葉が私たちに寄り添い続けています。

楽曲が織りなす「癒やし」の魔法

「グッド・バイ・マイ・ラブ」は喪失感を乗り越え、再び立ち上がる力を与えてくれる「癒やし」の魔法を秘めているようです。
弘兼憲史さん菅原洋一さんの「今日でお別れ」の歌詞「曲がったネクタイ直させてね」が心に沁みると語ったように、歌謡曲には私たちの日常に寄り添い、時に心の支えとなるような深いメッセージが込められているのです。

なかにし礼さんと平尾昌晃さんという二人の天才が紡ぎ出した「グッド・バイ・マイ・ラブ」。 その旋律は聴くたびに新たな発見と感動を与え、人生のあらゆる局面で私たちに寄り添い続けてくれるでしょう。

この音楽の奇跡は、これからも私たちにそっと語りかけてくれるはずです。あなた自身の耳で、この素晴らしい楽曲が織りなす「癒やし」と「感動」を体験してみてください。過去を振り返り、未来へと向かう、そんな心の旅を、「グッド・バイ・マイ・ラブ」と共に歩んでいきましょう。

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