【奇人変人?】オットー・クレンペラーの「トラウマ的遺産」病と葛藤が紡ぎ出した唯一無二の音楽性

クラシック音楽

クラシック音楽の世界には、数多くの偉大な指揮者が存在します。
その中でもひときわ異彩を放ち、「奇人変人」とまで評されたマエストロがいました。それが、オットー・クレンペラー(1885-1973)です。
彼の音楽は時に「冷徹」や「武骨」と形容されることもありましたが、その背後には想像を絶するほどの病や葛藤に満ちた人生がありました。
この記事ではクレンペラーの波乱の生涯と、それがどのように彼の唯一無二の音楽性を形成し、後世に多大な「トラウマ的遺産」を残したのかをご紹介します。

波乱に満ちた人生と「不死鳥」のような復活劇

クレンペラーの人生は、まさに苦難の連続でした。彼は若い頃から躁鬱病(双極性障害)に苦しみ続けます。精神的な病だけでなく、身体的な災難にも見舞われました。後頭部からステージ下に転落して頭部を強打し、背骨を骨折する大怪我を負ったこともあります。さらに寝タバコが原因で大やけどを負い、一命は取り留めたものの、一年近く治療に専念する必要がありました。アメリカ時代には脳腫瘍も患っています。

しかし驚くべきことに、クレンペラーはそのたび「不死鳥」のような復活を遂げています。満身創痍になりながらも、彼は指揮台に戻り演奏活動を再開したのです。こうした経験が彼の音楽に、計り知れない深みと重厚さをもたらしたのかもしれません。
身体の自由が利かない晩年になっても、彼の指揮は単なる身体の動きを超え、「人格の精神的な威厳」によって最高の演奏を引き出したのです。

スキャンダルと奇行の真実

身体的特徴と健康問題

クレンペラーは身長がほぼ2メートルもある大男でした。この大柄な体格は、時に指揮台での動作の印象に影響を与えます。
生涯にわたる双極性障害(躁鬱病)を抱えていました。この病状はプラハのドイツ劇場時代(1907年頃)に現れ始め、彼の作曲活動も「躁鬱病の錯綜」の産物と評されることがあります。
脳腫瘍、タバコの火による大やけど、転倒による重傷(脊椎骨折や複雑骨折)など、命や指揮者生命に関わる様々な災難に見舞われましたが、その都度不死鳥のように復活を遂げています。晩年は脳溢血の影響で体の一部が麻痺し、難聴に苦しみ、身体的な不自由を抱えていました。

奇抜な行動と発言

クレンペラーはその独特な人間性から、数多くの逸話やスキャンダルを残しています。

彼は「自他共に認める女好き」でした。アメリカ時代に病気が悪化した際「色情狂を思わせる症状」を示し、「クレンペラー逃亡す、性犯罪に走る恐れあり!」という見出しでニューヨーク・タイムズの一面記事になったこともあります。
娘ロッテが彼のホテルの部屋を訪ねると、父のベッドに若い女性が寝ています。「紹介しよう、私の娘ロッテだ。ところで君の名前をもう一度教えてくれないか?」と、その女性に尋ねたそうです。
モーツァルトのオペラ『魔笛』を上演した際には、女性歌手たちといちゃつこうとします。劇場支配人が、「このオペラハウスは売春宿ではございません」と注意すべきところ、「この売春宿はオペラハウスではございません」と言い間違えると、それを聞いたクレンペラーは納得して立ち去ったという話も残っています。

現場でも、彼の奇行は有名でした。
作曲家パウル・ヒンデミットがお堅いテーマで講演中、質疑応答で手を挙げたかと思えば「トイレはどこ?」とおちょくります。
ブダペストではリハーサル中に激怒し、「タクシーを呼べ!」と叫びました。彼の性格を知っている劇場支配人はタクシー運転手に、「彼を乗せて劇場の周囲をグルッと一回りしたあとに戻ってくるよう」指示します。
実際にタクシーが戻ってくると、クレンペラーは何事もなかったかのようにリハーサルを再開したそうです。

知人が自宅を訪れた際、全裸で楽譜に向かい、客人を気にせず研究し続けたという逸話もあります。このエピソードは、彼の音楽への「マニアックな」没頭ぶりを示すものとされています。
リハーサル中に女性奏者に対し、突然「結婚しているの?」と尋ね、相手がうなずくと「残念」と答えたエピソードも残っています。彼の「有名な恋の性癖」が、晩年になっても衰えていなかったことの顕れでしょうか。

「ユダヤ人らしいジョーク」を連発することで知られていました。
晩年、難聴や身体の不自由が顕著になってからのリハーサルでは、飛行機の爆音をコントラバスの重低音と聴き間違えます。その場にいないトランペット奏者の音量が大きすぎると注意し、過ちを訂正されると、「なら、奴が出てきたときにそう言っとけ!」と言い返します。
しばしば練習中に居眠りをしてしまい、オーケストラが演奏を終えてコンサートマスターに起こされると、「どうだ、うまくいったか?」と尋ねたこともあったそうです。
こうした状況にあって団員たちは、コンサートマスターの身振りに集中し、演奏会を無事に終えることだけに精力を注いだそうです。

こうした逸話を羅列すると、ただの「奇行」に見えるかもしれません。
しかしこれらの事象は、彼の音楽に対する並々ならぬ集中力や、社会的な常識にとらわれない強靭な精神性の裏返しであったとも言えるでしょう。

人間関係と指揮者としての性格

クレンペラーは「狷介けんかいにして不羈ふき」、つまりは気難しく、自由奔放な性格でした。この独特の性格にもかかわらず、多くの音楽家から敬意を持って遇されました。
ロサンゼルス・フィルハーモニー時代には、ある女性奏者がクレンペラーのもとで演奏できることについて「神様のもとで演奏出来て、そのうえ給料まで戴けるなんて申し訳ない」と漏らした逸話もあります。

精神状態と音楽解釈への影響

クレンペラーの奇行の多くは、彼が生涯にわたって苦しんだ双極性障害(躁鬱病)の症状と深く関連していると考えられます。この病状が彼の行動や感情の起伏に影響を与え、それが結果的に彼の独特の音楽解釈に反映された可能性があります。

躁鬱病と創作活動

躁状態の時期には活動的になり、作曲活動に集中したり、新しい解釈や舞台演出に果敢に挑戦します。
鬱状態の時期には活動が停滞したり、内省的な傾向が強まったりした可能性があります。
彼の音楽作品が「躁鬱病の錯綜」の産物と評されるのは、その複雑な内面が投影されていることを示唆しています。

非感傷的で構築的な音楽

クレンペラーの芸風はゆっくりとしたテンポを採用し、主旋律に覆われがちな対旋律などを浮き上がらせ、曲の構造を明らかにしていきます。
彼の演奏は「スケールがとてつもなく大きく、非感傷的で無駄な装飾がなく、音が流れていくというより上に積み重なっていくような構築感と立体感」があります。
マーラーの演奏においても、煩雑な演出や主観的な感情表現を拒否した「冷徹で厳しい解釈」が特徴的です。
彼自身が自分の内的感情の揺れ動く激しさを認識していたからこそ、音楽そのものからは「ウェットな感情による味つけが僅少」で、それはある意味で抑制と客観性を求めた結果とも考えられます。
曲が持つ本来の力と構造を重視し、それを増幅したり恣意的に加減したりすることを避けたのです。

晩年の身体的制約と精神的権威

晩年の身体的な不自由(麻痺、難聴など)にもかかわらず、彼の指揮台での存在感は圧倒的でした。
ウィーン・フィルのチェロ奏者ルーペルト・シェトレ(指揮台の神々 : 世紀の大指揮者列伝の著者)は高齢のクレンペラーに対し、楽員が「かつてオーラを発した偉大な人物への尊敬の念から、全力を傾けて演奏する」のだと記しています。
彼の指揮は、ややもすると技術的に洗練されていないように見えますが、シェトレは彼の「並はずれた人格の持ち主に内在する力」や「人格の精神的な威厳」によって、楽員たちに最高の演奏をさせることができたと分析しています。
これは単なる身体的な指示を超えた、指揮者の「オーラの放射」が音楽に影響を与えるという根源的な問いを投げかけるものです。

「マニアックなディシプリン」

クレンペラーは自身の音楽解釈を、「マニアックなディシプリン(規律)」と評します。特に音の正確さにこだわり、それを実現できる歌手や奏者を厳選しました。彼の病的なまでの集中力や完璧主義的傾向が、音楽表現に昇華されたものと解釈できるでしょう。

クレンペラーの生涯と芸術は、自身の内面の葛藤や精神的な特性と密接に結びついていました。その奇行や健康問題は彼の人間的な側面を深く示しており、そうした困難を乗り越えて築き上げた独特の揺るぎない、巨大で深遠な音楽世界を理解する上で、重要な背景となります。

音符に宿る「真実」を追求した唯一無二の音楽性

クレンペラーの音楽は、彼の波乱に満ちた人生と切り離して語ることができません。彼の演奏スタイルは、いくつかの顕著な特徴を持っています。

「遅いテンポ」が語る深遠な世界

クレンペラーの芸風として、しばしば「ゆっくり目のテンポ」が挙げられます。
特に晩年の録音で、その傾向が顕著でした。若い頃は速いテンポで指揮していたようですが、69歳でEMIと契約しフィルハーモニア管弦楽団との録音を始めてから、ゆっくりになったのも不思議ではないかもしれません。
指揮者は歳を重ねるほどテンポが遅くなる傾向があると言われていますが、クレンペラーもその例に漏れません。

しかしこの「遅いテンポ」は、老いや衰えばかりではありません。彼はこのテンポによって、主旋律に隠れて聞き取りにくい対旋律などを浮き上がらせ、曲の構造を明確にしていくという目的を持っていました。
ベートーヴェンの交響曲第9番の第1楽章は「いわおのような堅固な音楽」と評され、第3楽章は(ゆっくり目のテンポではありませんが)木管楽器の美しい音色が「幸福感」を生み出します。

「大建築物」のような構築感

クレンペラーの指揮は「非感傷的で無駄な装飾がなく」、音が流れるというよりも「上に積み重なっていくような構築感と立体感」があると評されます。まるで「音の塊でできた巨大建造物」のようです。
彼は楽譜の「真実」を追求し、感情的な味付けを排した「ドライ」なアプローチを好みました。
彼のマーラー演奏は「煩雑な演出や主観的な感情表現を拒否した冷徹で厳しい解釈」です。
モーツァルトの『フィガロの結婚』では「唖然とするほどテンポが遅く、管弦のアーティキュレーションに異常なこだわり」を見せて、「怖いフィガロ」とまで言われます。

彼はスタジオ録音に求められる「完璧性」を、理解しようとしませんでした。
テープの編集(ツギハギ)を「ペテン」と批判し、演奏ミスを修正する際には小節単位での部分録音ではなく、前後の連続性を重視してその部分をそっくりやり直すことを要求しました。
ステレオ録音を「イカサマ師の発明」とこき下ろしていたにもかかわらず、彼の残した録音は「膨大な数」にのぼります。音楽に対する妥協を許さない、真摯な姿勢の表れと言えるでしょう。

作曲家たちとの対峙と共鳴

クレンペラーのレパートリーは決して広いわけではありませんでしたが、バッハ、ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス、ブルックナー、マーラーといったドイツ系の作曲家を中心に多くの名録音を残しています。

グスタフ・マーラー

クレンペラーは若き日にマーラーにその才能を認められ、推薦状を書いてもらうことで指揮者としてのキャリアをスタートさせました。
クレンペラーはマーラーの指揮を、「これ以上でも、これ以外でもありえない」と絶賛しています。彼の特異なアンサンブルのバランス感覚は、マーラーから受け継ぎ発展させたものだと考えられています。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

クレンペラーのベートーヴェンは「渾身」の演奏で、「いかにも頑固親父」らしいと評されます。
特に交響曲第7番の1955年盤は「神懸かり」と称される名演です。
彼はベートーヴェンの交響曲、例えば第3番、第5番、第7番などを複数回録音しています。
最初の録音に満足しなかったというだけでなく、彼が「この曲は3度に分割してその姿を現さなければ全ての姿が見えないのだ」と示唆しているかのようだと解釈する人もいます。
クレンペラーは「曲想が明るいから明るく演奏する」といった安っぽい演出をせず、あくまで「曲に現れた表情」のみを直截に描き出しました。

ヨハネス・ブラームス

クレンペラーのブラームスを聴くと、「ベートーヴェンの後継者がブラームスであると納得してしまう」ものです。
特に交響曲第4番では、意図的にテンポをずらしたような響きが聞こえ、和声が立体的に響く効果を生み出す一方で奇妙なずれを引き起こします。これは彼の独自の解釈、あるいは演奏上の工夫の現れです。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

他の指揮者が手を付けないような協奏曲も録音しているのに、モーツァルトの協奏曲の録音は極めて少ないという特徴があります。
彼のモーツァルト解釈は「無理矢理押さえつけようとしたり、わざと放っておいたり、そんな指揮者の迷い」が見えるようだと評されることもあります。クレンペラーのモーツァルトを評価する人は「無条件にクレンペラーが好き」なのであって、「モーツァルト」が好きなわけではないという見解です。
それに対し、クレンペラーがモーツァルトに「好きな女の子にちょっかいをかける不器用な男の子のような愛」を抱いていたからと考えることも可能です。
実際、彼の演奏を聴いてモーツァルトを「人類最高峰の文化遺産」として再認識させられるという声もあります。

時を超え、今再び輝くクレンペラーの遺産

クレンペラーの指揮には長らく、「伝説の演奏会」として語り継がれてきたものがあります。
例えばフィルハーモニア管弦楽団とのベートーヴェン交響曲第9番の特別演奏会は、イギリスでは長く語り草になりながらも、その録音の存在はクレンペラーの伝記や専門書にも記されていなかった「封印された名演」でした。

しかし近年、パブリックドメインの音源が次々と出てきたり、テスタメント・レコードなどが積極的にライブ音源や放送音源をリリースしていることで、彼の音楽が再び多くの人々に届けられ、再評価の動きが進んでいます。

彼の人生における数々の「トラウマ的」経験は、彼を単なる技術者ではなく、人間的な深みと精神的な強さを持った稀代の芸術家へと昇華させました。
彼の音楽はその苦難と葛藤が紡ぎ出した「唯一無二の音楽性」として、今もなお聴き手に強烈な印象を与え、深く心を揺さぶります。
彼の遺産は困難を乗り越え、自己の芸術を極めようとした一人の人間の魂の叫びとして、時を超えて私たちに語りかけ続けているのです。

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