ゴダール『勝手にしやがれ』とは?ヌーヴェルヴァーグの金字塔が映画史を変えた理由を徹底解説!

映画

古典映画ってなんだか敷居が高いし、今の時代に観ても面白いものなのか。そんな近寄りにくさを感じませんか?
学生だった頃、初めて『勝手にしやがれ』を観た友人が、「何だこのかっこよさは!」
雷に打たれたような衝撃を受けたと言います。
それまでの映画に対する固定観念が、ガラガラと音を立て崩れ落ちる気分だったと、目を輝かせて語っていました。

創造的衝撃 映画文法破壊の誕生

ジャン=リュック・ゴダール監督の長編デビュー作である『勝手にしやがれ』は、1960年の公開以来、フランス映画界に「ヌーヴェルヴァーグ(新しい波)」という概念を打ち立てた記念碑的作品として知られています。
なぜそれほどまでに革命的だったのか。本作の核心は、従来の映画の「ルールブック」を大胆に破ったことにあります。

撮影は1959年8月17日から9月19日にかけて、パリとマルセイユ近郊で行われました。
スタジオにセットを組むのが主流だった時代に、ゴダールはパリの街中で手持ちカメラによるゲリラ撮影を敢行しました。
撮影時の気温や湿度までをもフィルムに閉じ込めることで、まるで作りたての料理を真空パックし温め直したかのような、「できたて」のパリの空気感が映画全体を覆い尽くしています。

特筆すべきは「ジャンプカット」の多用です。
これは本来時間を連続的に見せるためのカットをあえて飛躍させ、ぶつ切りにする編集技法です。
初めてこの技法を目の当たりにした当時の観客は、さぞかし面食らったことでしょう。

私自身、初めて観た時はあまりにも従来の映画と違うテンポ感に、「これは本当に映画なのか?」戸惑ったものです。ストーリーの整合性やリアリティを追求する観客にとっては、むしろ退屈に感じてしまう可能性も否定できません。
しかしこの「わざと」の粗さが、かえってドキュメンタリーのような生々しい臨場感を生み出し、観る者の常識を揺さぶったのです。
映画評論家の梅本洋一氏は、「ヌーヴェルヴァーグのフィルムは目の前の風景をそのまま保存すること、それが目的だ」と述べています。

型破りな登場人物たち

『勝手にしやがれ』の登場人物たちもまた、当時の観客にとって型破りでした。
主人公のミシェル・ポワカール(ジャン=ポール・ベルモンドは、マルセイユで警官を射殺し、パリへと逃亡する自動車泥棒です。
彼は奔放で自堕落、ハンフリー・ボガートに憧れ、常に咥え煙草の「伊達男」として描かれます。
一方、彼が執拗に迫るアメリカ人留学生パトリシア・フランキーニ(ジーン・セバーグは、一見可愛らしいものの計算高く、最終的にはミシェルを警察に密告するという「ファム・ファタール(運命の女)」としての側面を持ち合わせます。
彼女のベリーショートの髪型(セシルカット)は、世界的に大流行しました。

物語は、ミシェルの自己中心的な行動とパトリシアのクールな反応が織りなす、どこかかみ合わない会話で進んでいきます。
彼らの関係は常に不安定で、観る者に緊張感を与えます。ミシェルはパトリシアを「愛している」と語る一方で、彼女とのセックスばかり考えているように見えますが、そこに現代の若者が抱える焦燥や反抗心が体現されています。

映画の終盤、警官に撃たれ路地に倒れ込んだミシェルが「最低だ」(dégueulasse)と呟き、目を閉じて息絶えるシーンはあまりにも衝撃的です。
その言葉の意味を尋ねるパトリシアに、「あなたは本当に最低の女だと申していました」と刑事が伝えるラストは、観る者に強い余韻を残します。
初めてこのシーンを観ると、「なぜ、ここまで感情移入できないのか」不思議に思いますが、この徹底したクールさが彼らの刹那的な生き様を、より鮮烈に際立たせていることに気づかされます。

批評家たちの熱狂

ゴダールをはじめとするヌーヴェルヴァーグの主要な映画作家たちは、皆「カイエ・デュ・シネマ」という雑誌で映画批評を発表していた批評家出身です。
彼らは世界初のフィルムセンターであるシネマテーク=フランセーズで毎日毎晩映画を見続け、映画の歴史を身をもって学びました。
この経験が「新たな作品とは、その歴史を更新することである」という倫理観を生み出し、彼らが映画を撮る際の確信となりました。
巨匠たちの作品を模倣するのではなく、手本としつつもそこに新しい要素を加えなければ存在価値はないと、彼らは考えたのです。

『勝手にしやがれ』はこの批評家としての鋭い視点と、既存の枠にとらわれない自由な発想が結実した作品と言えるでしょう。
その革新性は高く評価され、第10回ベルリン国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞したほか、ジャン・ヴィゴ賞長編部門、フランス映画批評家協会賞ジョルジュ・メリエス賞も受賞しています。

映画評論家たちが「やっぱゴダールだよねぇ」と熱狂する様子を、かつての私は「難解な映画をありがたがるスノッブだ」と勝手に敵視していました。
しかし時が経ち、「たとえ難解でも独善的でも意味不明でも、一定層のスノッブを刺激して集客し、彼らを良い気持ちにさせているのだとすれば、それはそれで立派な『娯楽映画』であり、金儲けの正しい『エクスプロイテーション』ではないのか?」と考えるに至ります。
ゴダール映画が「エンタメ」として成功している視点に気づいたとき、私の中の「ゴダール・コンプレックス」は雪解けを迎え、彼の作品が持つ豊穣なエンターテインメント性を素直に受け入れられるようになったのです。

革新が産んだ影響

『勝手にしやがれ』がもたらした革新はフランス国内に留まらず、世界の映画史に計り知れない影響を与えました。
ジャンプカットや手持ちカメラによる街頭撮影といったゴダールの手法は、後のアメリカン・ニューシネマ日本のヌーヴェルヴァーグなど、世界各地の新しい映画運動に大きなインスピレーションを与えています。

日本においては1960年代に松竹が、大島渚吉田喜重といった若手監督の作品を「松竹ヌーヴェルバーグ」として売り出しました。大島渚監督の『青春残酷物語』(1960年公開)がその口火を切ったとされています。

ゴダール自身も来日時に、大島渚の『青春残酷物語』をヌーヴェルヴァーグの先駆けとして評価しました。
「日本には何人かのよい映画作家が存在する」としながら、「日本映画は存在しなかった」とも述べ、何を表現したいのかという明確な意志が感じられないことを指摘しています。

この作品の邦題『勝手にしやがれ』もまた、興味深い逸話を持っています。
原題の「À bout de souffle」は「息切れ」や「息も絶え絶え」といった意味ですが、これを日本に買い付けた新外映の秦早穂子が、川内康範の小説『勝手にしやがれ』にちなんで命名したと言われています。
この邦題は1977年に沢田研二のヒット曲のタイトルとなり、同年にはセックス・ピストルズのアルバム『Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols』の邦題にも採用されるなど、映画の枠を超えてカルチャー全体に影響を与えました。
このタイトルが持つ「破天荒さ」が、映画の持つ自由な精神と共鳴したのかもしれません。

不朽の魅力

公開から半世紀以上が経った現在でも、『勝手にしやがれ』は多くの映画ファンを魅了し続けています。その「新しさ」は相対的なものではなく、本質的なものです。
大人は判ってくれない』でドワネル少年が凍った噴水の氷を割って顔を洗う冷たさや、『勝手にしやがれ』でミシェルが闊歩する夏のシャンゼリゼのまばゆい光は、永遠の新鮮さとして私たちの目に記憶されると、映画評論家の梅本洋一氏は語っています。

この映画は従来の「起承転結」で物語を語るスタイルから逸脱し、あえて「夾雑物きょうざつぶつ」を入れ込むことで、観客に独特のリズムと空気感を体験させます。
物語のリアリティよりも、映像、音楽、俳優たちの佇まいが渾然一体となって生み出す「ポエジー」(詩情)こそが、この映画の真骨頂なのです。
映画監督の武正晴氏はこの映画を、「お前ら何やってんだ」という街ゆく人の表情すら、映画のクールさを強めるドキュメンタリーのような臨場感を生んでいると評します。

現代の映画に慣れている私たちからすると、その斬新さは分かりにくいかもしれません。現代の多くの映画やドラマが知らず知らずのうちに、『勝手にしやがれ』で初めて試みられた表現手法を取り入れているからこそ、そう感じるのでしょう。
まるで印象派の絵画が登場時には批判されたものの、今や芸術の基本として受け入れられているのと似ています。
ゴダールは自分が作りたいように作り、自分の感覚を絶対的に信頼して映画を撮ったため、彼の内面や感覚がダイレクトに映像に反映されています。
この純粋な創造への情熱こそが、『勝手にしやがれ』が時代を超えて輝き続ける理由なのでしょう。

時代を超えて愛される映画の深層

『勝手にしやがれ』はただ新しい技法を導入しただけでなく、その中に時代の空気、若者の虚無感、そして人間関係の複雑さを映し出しました。
登場人物のミシェルは自由を追い求めるあまり、社会の規範から逸脱し、刹那的に生きています。彼の行動は一見すると無鉄砲ですが、当時の政治的混乱や政府に対する若者の不満を背景に生まれたキャラクターでもあります。

パトリシアのミシェルに対する複雑な感情も、この映画の魅力の一つです。
彼女はミシェルに惹かれつつも、彼の破天荒な生き方から距離を置こうと葛藤し、最終的には彼を裏切る選択をします。
この「裏切り」は彼女にとって「自由」の獲得であったと解釈することもできます。
パトリシアを始めとする登場人物たちの心理描写は非常に繊細で、観る者の解釈にゆだねられる余白があります。

映画評論家の竹島ルイ氏はゴダール映画の印象として、「話がよく分からない」「カット割りが変」「会話が難しい」「音楽の使い方がおかしい」「主人公がラストで死ぬ」「でもおしゃれ」という点を挙げています。『勝手にしやがれ』に、そのまま当てはまる特徴です。
この作品は観る人を選ぶかもしれませんが、一度その世界観に触れ、込められた意図や当時の背景を理解すると、その奥深さに引き込まれていくでしょう。

あなたも映画史の目撃者となるために

『勝手にしやがれ』は映画という芸術の可能性を広げ、後の世代に多大な影響を与えた「事件」でした。この不朽の傑作を深く理解し、その魅力を味わうために、今すぐできる3つのステップをご紹介します。

ステップ1

まずは一度、深く考えずに観てみる。従来の映画的な面白さを求めず、自由に漂うような感覚で、ミシェルとパトリシアのやり取りやパリの街の空気感に身を任せてみてください。きっとあなただけの発見があるはずです。

ステップ2

映画が作られた時代の空気を感じる。1950年代末のフランス、若者たちの鬱屈した思いや社会状況について調べてみましょう。映画に込められた「新しい波」の意味が、より深く理解できます。

ステップ3

批評家たちの言葉に耳を傾ける。
当時の彼らの声やゴダール自身が語った言葉に触れることで、この映画がいかに革命的であったか、その革新性がどのように評価されたのかが分かります。

『勝手にしやがれ』を観ることは、単に映画を鑑賞する以上の体験です。それは、映画史の大きな転換点に立ち会い、芸術が持つ「変化」と「創造」のダイナミズムを肌で感じることに他なりません。あなたもこの「新しい波」に乗って、映画の奥深い世界へと飛び込んでみませんか? その感動はきっとあなたの心に、鮮烈な印象を残し続けるでしょう。

作者は脚本家であるべきだ。テクストが重要視されるべきで、例えば『勝手にしやがれ』の“作者”は私じゃない。トリュフォーなんだよ

映画は1秒間に24回の真実であり、すべてのカットは嘘です

私が君たちと一緒だと、君たちは私が気に入るようなことしかしないだろう。それでは何の成果も生まれない。自由になってくれ

映画は学者の芸術ではなく、読み書きのできない人々の芸術です

物事をどこから持ってくるかではなく、どこに持っていくかです

ジャン=リュック・ゴダール

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