渋谷陽一:日本の音楽文化を創り上げた「破壊者」にして「開拓者」
ロッキング・オン・グループ代表取締役会長、音楽評論家、編集者、ラジオDJ、そして音楽フェスティバルのプロデューサー。
多岐にわたる顔を持ち、日本の音楽シーンに計り知れない足跡を残した渋谷陽一氏が、2025年7月14日、74歳で逝去されました。
2023年11月の脳出血からリハビリを続けていらっしゃいましたが、今年に入り誤嚥性肺炎を併発されたとのことです。
彼は日本に「音楽カルチャー」という概念を根付かせ、「ロックは文化である」という価値観を広めました。
さらに、日本のフェス文化をゼロから立ち上げ、メジャー/インディーズの垣根を打ち壊し、音楽雑誌のあり方そのものを変革した人物です。
彼の人生は「好きなことを極めれば、人生はここまで面白くなる」ことを証明しています。
『ロッキング・オン』創刊の背景と初期の挑戦:既存への痛烈なNO
裕福な家庭に育った渋谷陽一氏ですが、そのキャリアは反骨精神から始まりました。
明治学院大学経済学部をわずか半年で中退後、18歳で音楽評論家としての道を歩み始めます。高校在学中からロック誌に寄稿し、デビュー。当時主流だった「迎合的な」ロック批評に異を唱え、1970年にはミニコミ誌『レボリューション』で、当時の評論界の重鎮、中村とうよう氏を批判。
「既存のロックに対する批評やロック観をぶち壊し、ロックに先行しうる論理を構築する」と宣言し、「破壊者」としての片鱗を見せつけました。
当時、海外ロックアーティストをアイドル視する『ミュージック・ライフ』のような「ミーハー体質」の洋楽ジャーナリズムへの不満が爆発し、1972年、彼は仲間たちと共に読者投稿型のミニコミ誌『ロッキング・オン』を創刊します。当初は印刷費18万円、3,000部の刷り部数で、スタッフによる手売りという厳しい船出でした。
創刊号がほとんど売れ残るという逆境の中、なんと「架空のインタビュー」という奇策まで繰り出します。「このアーティストならこう答えるだろう」という虚構の会話を通じて、独自の批評の形を模索したのです。これなど、彼らの批評に対する執念と、既成概念にとらわれない大胆さを示すエピソードと言えるでしょう。
『ロッキング・オン』は1973年には商業誌として全国配本が始まり、1977年には月刊誌へと成長します。
80年代には実際のインタビュー記事やグラビアが増え、商業誌らしい体裁に変化していきますが、書き手の「思い入れ」が色濃く残る点で、同人誌的な側面を失いませんでした。
批評家としてのスタンスと「ポップ理論」の提唱:売れるものは「正義」
渋谷氏は外来思想としてのロックを、日本の風土と日常生活に根付かせようと、ある種の「思想運動」を展開します。時代における先進性を持つバンドを高く評価する一方で、音楽性を固定化させたバンドを「様式化」という言葉で厳しく批判しました。
例えば、ブラック・サバスは評価するが、ジューダス・プリーストは批判するという具合です。レッド・ツェッペリン、ビートルズ、プリンスに対しては、熱狂的なファンとしての姿勢を崩しませんでした。
特に物議を醸したのは、1981年1月号の『ロッキング・オン』に掲載された「ヘヴィー・メタル・ブームはゴミじゃ!!」と題された原稿です。彼はメタルを、「様式化」され「音の持つ機能を自らで限定してしまった」と厳しく批判し、以降『ロッキング・オン』からメタルは遠ざけられることになります。
しかし皮肉にもこの時期、欧米でメタルのニューウェイヴが勃興し、後のメタル・ブームへと繋がる黎明期でした。
この市場は1984年創刊のヘヴィ・メタル専門誌『バーン!』がカバーすることになり、結果的に『ロッキング・オン』と『バーン!』は棲み分ける形となります。このことが、後のグランジ・ムーヴメントへの日本の反応を遅らせた可能性も指摘されています。
渋谷氏の批評家としての大きな転機は、1984年頃に提唱した「ポップミュージックは売れなければならない」という通称「ポップ理論」にあります。「売れるものはみな正しい」と主張し、これまでの批評家としてのスタンスを大きく転換させました。
彼は「問題は自分が何を書きたいかではなく、人が何を求めているか」だと断言し、「どう読まれるか」を一番に意識するようになったのです。
この理論は、「売れる」「売れない」という客観的な尺度でアーティストを評価し、「好みは人それぞれ」といった曖昧なエクスキューズを許さない、画期的なものでした。渋谷氏はポップミュージックが「旧来の芸術表現が持っていた特権性を構造的に解体する表現形式」であると主張し、「売れなくてもよい、大衆の理解は得られずとも、芸術性を追求する」という従来の芸術家の姿勢を、「表現者のエゴに過ぎない」と批判します。
この「売れるものは正しい」という思想は、彼自身のメディア活動にも深く根ざしていました。自らを「商売人」と表現し、「そこにマーケットが存在するかどうかが大切」だと公言します。
これにより、彼の興味の対象は「優れた表現者」から「売れているアーティスト」へとシフトし、自社の雑誌で矢沢永吉、GLAY、X JAPANといった日本のロックアーティストを積極的に取り上げるようになったのです。
彼は原稿執筆よりも広告営業の方が楽しいと感じるようになり、自身を「根っからの編集者であり、出版社の経営者」と位置づけていました。
ラジオ番組「サウンドストリート」:リスナーの「音楽の先生」
渋谷陽一氏は、音楽評論家、編集者だけでなく、ラジオDJとしても絶大な影響力を持っていました。
NHK-FM「サウンドストリート」は当時の若者にとって貴重な音楽情報源であり、多くのリスナーの音楽観を形成する上で決定的な役割を果たします。
情報が限られていた時代において、「サウンドストリート」はリスナーに新しい洋楽との出会いを積極的に提供しました。
渋谷氏の評論家としての権威は大きく、良くも悪くも彼の番組で紹介される音楽は、そのまま「良い音楽」として受け入れられる傾向です。まさに「音楽選びの先生」のような存在でした。
例えば、カルチャー・クラブの「カーマは気まぐれ」をこの番組で初めて聴き「外国の音楽はスゴイぞ!」と感銘を受けたリスナーや、国内では入手困難だったエルヴィス・コステロなどの輸入盤を、渋谷氏の勧めにより遠くまで買いに行ったという証言も残っています。
彼の意見が、リスナーが聴くべき音楽を決定するほどの権威を持っていた時代があったのです。
「サウンドストリート」は音楽を紹介するだけでなく、その音楽に対する深い批評的視点や、渋谷氏自身の強い思い入れが込められた解説を通じて、リスナーに音楽を「文学的に読む」という新たな鑑賞方法を提示します。リスナーはミーハー的な憧れを超え、より思弁的・批評的な視点で音楽を捉えることを学んでいきました。
一方で、「じゃがたら」のライブ音源を放送した時、江戸アケミのメッセージや楽曲がカットされたことを巡り、後に中村とうよう氏との激しい「論争」に発展する出来事がありました。
渋谷氏自身は、NHK主導のカットであったものの番組の趣旨がバンドの魅力を紹介することにあったため、決定的な問題ではなかったと認識していたようです。
しかしこのような一部の「選別」や「批判」も、彼の番組の持つ強いメッセージ性と独自性を際立たせる要素となりました。
「サウンドストリート」は2023年まで放送が続き、長きにわたり日本の音楽シーンに影響を与え続けました。インターネットが普及する前の時代において、彼の声と選曲が多くのリスナーの音楽体験を豊かにし、その後の音楽的嗜好を決定づける礎を築いたと言えるでしょう。
フェスティバル・プロデューサーとしての革新:参加者主役の「巨大メディア」
渋谷氏は、雑誌創刊以前から小規模なコンサートを主催しており、ロッキング・オン黎明期には資金集めのためにフィルムコンサートも開催していました。これらの経験が、やがて大規模な音楽フェスティバルを成功させる土台となったのです。
CDなどの音楽ソフト市場が縮小し、音楽コンサート市場が主役に逆転する中で、渋谷氏は「商売人」としての視点からフェスの運営という新たな事業に乗り出します。
彼は「ロック・フェスティバルは一つのメディアであり、雑誌作りによく似たトータルな表現である」と述べています。
2000年には「ROCK IN JAPAN FESTIVAL」をプロデューサーとして初開催し、日本の音楽フェス文化の確立に大きく貢献しました。そして2003年には、全国初の冬の年越し屋内フェスティバルである「COUNTDOWN JAPAN」も初開催しています。
彼のフェス運営における哲学は、「フェスの主役は参加者だ」というものでした。「お客様は神様」というような一方的な関係ではなく、主催者と参加者の間の「信頼関係」によってフェスが成り立つという考え方です。
『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』はダイブや最前列での居座りが禁止されるなど、比較的細かくルールが設けられていますが、参加者はそれらのルールを自主的に守り、フェスの雰囲気を形作っています。
会場に掲げられた「Love, Peace and Free」という標語の「Free」は、強制ではなく自由意志と信頼関係に基づくルールの遵守を意味しています。
1997年の第1回フジロックフェスティバルが台風直撃で「地獄絵図」と化した大失敗に終わった際、多くのオーディエンスが失望する中で、渋谷陽一氏はいち早くその「多大な可能性」を見出していました。
この経験を通じて彼は、顧客の困難へのタフな対応を学びます。
その後の『ROCK IN JAPAN FESTIVAL』では交通手段や駐車場の確保に力を入れ、シャトルバスの増便やJRとの連携など、徹底した「参加者目線」の運営体制を構築しました。
2011年の東日本大震災で、音楽活動自粛の雰囲気が日本中に広がります。
彼は開催地ひたちなか市からの「絶対やって欲しい」という強い希望と、自身の「音楽の力を見せないといけない」という思いから、フェス開催を断行しました。
チケットは瞬く間に売れ、参加者もこの困難な時期にフェスの開催を強く後押ししました。彼はこれを「ロックフェスの持つ時代性、メッセージ性」と捉えています。
渋谷氏は、ロックフェスが若いアーティストにとってファンとの出会いの場となり、自身のリアルな姿を見せられる「巨大なメディア」であると考えていました。実際に、SEKAI NO OWARIやONE OK ROCKといったアーティストが小さいステージから始まり、数年でメインステージで演奏するまでに成長した例を挙げています。
CDの売上が減少する中で、フェスは音楽ファンにとって重要なインフラとなり、その重要性は世界中で高まっていると分析していました。
音楽ジャーナリズムに残した遺産と論争:「産業ロック」への警鐘
渋谷陽一氏のキャリアは日本の音楽ジャーナリズムにおいて、数々の遺産を残しましたが同時に様々な論争の中心にもなりました。
彼は『ミュージック・ライフ』のような「ミーハー体質」の雑誌に不満を抱いていましたが、それ以上に『ニューミュージック・マガジン』(後の『ミュージック・マガジン』)とその編集長である中村とうよう氏を「仮想敵」としていました。
中村氏の「文化人的な語り口」を批判しましたが、この二人の間では、じゃがたら・江戸アケミ氏のラジオ番組での発言を巡る「論争」など、激しいやり取りが繰り広げられます。
これらの議論はほとんどかみ合わないまま終始し、「売り言葉に買い言葉」といった様相を呈しました。
彼は自身のラジオ番組にゲスト出演した浜田省吾氏とも激しい議論になり、「三流評論家が!」と面と向かって罵られた経験もあります。
しかし、渋谷氏はその批判を受け入れ、その後も浜田氏を自身の雑誌で度々特集するなど長きにわたって支援を続けました。プライベートでも数少ない親交のあるミュージシャンの一人として、浜田氏の名前を挙げています。
彼の提唱した「産業ロック」という呼称も、音楽批評における大きな議論の一つでした。
彼は産業ロックの特徴として、長髪や汚れたジーンズといった工夫のないファッション、音楽的なアヴァンギャルドさの欠如(情緒的で類型的なメロディ、大仰なアレンジ、厚い音、歌い上げる唱法)、そしてマネジメントの強固さを挙げています。
ジャーニーのようにマネージャーがボーカリストを選定し、バンドの基本方針を決定することには歯切れの悪さを見せながらも、危機感を抱いていました。
産業ロックがロックの試行錯誤の歴史を御破算にしてしまうような不安を与えると語り、「ロックは終わった」とまで言いたくなったそうです。
しかし皮肉にも、彼自身が盲目的に愛したレッド・ツェッペリンが、後に「産業ロック」に分類されることになったと指摘する声もあります。
結び:時代を超えて息づく精神
渋谷陽一氏は単に音楽評論家と言うにとどまらず、編集者、ラジオDJ、そしてフェスティバルプロデューサーといった多角的な顔を持ち、それぞれの分野で革新的な足跡を残しました。
彼の「ロックは文化である」という信念と、「売れるものは正しい」というビジネス的リアリズムは時に議論を巻き起こしながらも、日本の音楽シーンの変遷を力強く牽引してきました。
彼が作り上げた雑誌やフェスティバル、そしてラジオ番組は、情報が限られていた時代において多くの人々に音楽への扉を開き、その後の音楽的嗜好や文化的な視座を形成する上で計り知れない影響を与えました。
彼の思想や批評、そして情熱は、これからも日本の音楽シーンの片隅に確かに息づいていくことでしょう。
渋谷陽一氏の存在は、まるで羅針盤のようでした。
大海原に乗り出す船乗りのように、多くの若者が彼の示す方向を頼りに、未知の音楽の航海へと旅立ちました。時に荒波に揉まれ、時に逆風を受けることもありましたが、彼の示唆は常に音楽という広大な海を渡るための道標であり続けたのです。
あなたが渋谷陽一氏から最も影響を受けたのは、どの分野の活動でしたか。
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