【世界が注目】日本独自の「ジャズ喫茶」文化とは?海外で広がるリスニングバーのルーツを深掘り

ジャズ

ストリーミングサービスで気軽に音楽を楽しめる現代ですが、日本には昔からアナログレコードの音源にこだわり、真剣に音楽と向き合う場所があります。それが「ジャズ喫茶」です。
この日本独自の文化が近年、海を越えて世界中で「リスニングバー」として広がり、注目を集めていることをご存じでしょうか。
ここではジャズ喫茶の歴史からその魅力、そして海外での新しい展開までを、分かりやすくご紹介いたします。

ジャズ喫茶の誕生と発展の歴史

日本のジャズ喫茶の歴史は、今から約100年前にまでさかのぼります。
日本にジャズが初めて伝わったのは1900年頃と言われ、横浜や神戸などの港町に海外から来た船員や外国人がジャズのレコードをかけてダンスを楽しむ飲食店が生まれました。大正モダンの流れの中で、昭和初期には喫茶店でもジャズが流れるようになったのです。

日本で最初の喫茶店は、1888年(明治21年)に東京・上野に開店した「可否茶館かひちゃかん」とされています。
店主の鄭永慶ていえいけいはニューヨークへの留学経験もあるインテリで、西洋のカフェやコーヒーハウスをモデルとした知的サロンを理想としていました。当時のコーヒー一杯は、そば二杯分に相当する高価なもので、可否茶館は西洋文化に触れるハイカラな場所でした。
1900年頃から東京で流行した「ミルクホール」は、温めたミルクなどを提供し、学生の情報拠点としても機能していました。
これらの初期の喫茶店は西洋化の風を受けて生まれ、後の喫茶店文化に通じる要素をすでに持っていたと言えます。

日本で最初のジャズ喫茶とされているのは、1929年(昭和4年)に東京の本郷赤門前に開店した「ブラックバード」です。
当時は「ジャズ喫茶」という呼称はなく、「喫茶」や「カフェー」と呼ばれていました。高価なレコードやオーディオ機器が一般家庭では手に入らなかったため、ジャズ喫茶はコーヒー一杯の値段で質の良い音が鑑賞できる貴重な場所でした。
この頃、日本で最初のジャズブームが始まり、「東京行進曲」のような流行歌にも「ジャズ」という言葉が含まれることで、ジャズの話題性が高まりました。

第二次世界大戦中、日本政府がアメリカ文化を排除したためジャズは全面禁止となり、ジャズ喫茶も廃業に追い込まれました。
戦後まもなく、東京や大阪などの大都市を中心にジャズ喫茶は復興し、再び活気を取り戻します。特に1950年代から1960年代にかけては、街中にジャズ喫茶が増え、モダン・ジャズが最先端のカルチャーとして日本の若者たちの心をとらえ、日本中にジャズブームが巻き起こりました。
当時のジャズ喫茶は輸入盤が高価だったため、コーヒー1杯で何千枚ものレコードが聴ける場所として、ジャズファンやミュージシャンの溜まり場となっていました。プロのジャズミュージシャンの中には開店から閉店まで、コーヒー1杯で粘った人もいたほどです。

この時代、新宿の「DIG」や「DUG」のようなジャズ喫茶は多くの文化人や学生が集まり、新しいムーブメントやサブカルチャーが生まれる場所でもありました。
学生運動が盛んだった頃には、若者たちが社会問題や政治について議論する重要な拠点となり、ポスター掲示やチラシ配布による情報共有も行われました。ジャズ喫茶は単なる音楽鑑賞の場だけでなく、彼らにとっての「サロン」や「情報発信基地」としての役割も果たしていたのです。

「私語厳禁」に象徴される独自の文化

日本のジャズ喫茶は、海外のジャズバーが生演奏を主とするのに対し、レコードやCDの音源を大音量で流し、客がそれを鑑賞することを主な目的とする点で、世界に類のない日本独自の喫茶店スタイルとされています。

この音楽鑑賞体験を支えるのが、高品質なオーディオ機器への並々ならぬこだわりです。1960年代以降、多くのジャズ喫茶がJBLやアルテックといった海外製の高級スピーカーを導入し、まるで目の前で演奏しているかのような臨場感のある音を提供してきました。これは当時の一般家庭では到底再現できなかった、まさに「生演奏に近い」体験を可能にするものでした。

ジャズ喫茶のもう一つの象徴が、「マスター」と呼ばれる店主の存在です。ジャズの達人としての敬意を込めて「マスター」と呼ばれる彼らは、単にレコードをかけるだけでなく、ジャズの深い知識と独自の選盤術を持っています。
客はレコードが替わるたびにそれを吟味し、自分の聴きたいレコードをリクエストすることもできます。マスターはジャズの専門家として、客に貴重な情報や知識を提供していたのです。
ジャズ喫茶の店主の役割は、まるでDJや編集者のようです。レコードのA面だけでなくB面から良い曲を選んだり、客の表情を見ながら曲順を工夫したりするなど、いかに”美味しく”聴こえる出し方をするかが技なのです。

この頃のジャズ喫茶に、「会話を控え、音楽に耳を傾ける」という独特の文化が根付いていきました。当時、高価な輸入レコードをコーヒー一杯で聴けた若者たちは、音楽を真剣に鑑賞するために店を訪れていました。そのため、私語が原因で客同士の喧嘩が起こることもあり、店側が「会話禁止」というルールを設けるようになったのです。これはコンサートホールや映画館、図書館で求められるマナーと同じものだと考えられました。新宿の「DIG」が、このルールを全国に広めたと言われています。
ジャズ喫茶は単に音楽を聴く場所なのではなく、ミュージシャンが演奏法を学び、若きジャズ初心者が鑑賞力を養う「学校」のような役割を果たしていました。

「ジャズ喫茶=怖い」というイメージを持つ人もいますが、必ずしも実態を正確に表しているわけではありません。
ジャズ喫茶のマスターは外部との接触を避け、常連客以外にはあまり話さない「内向型」の人が多く、それが威張っているように見られがちだった側面もあります。実際には客に対し店員としての分をわきまえていることがほとんどで、客のジャズ観や音楽観に踏み込んでくることは稀です。
私語禁止のルールも、マスターが一方的に押しつけたものではなく、客同士の喧嘩を防ぐための自衛策でした。
かつてのジャズ喫茶はアルコール類を提供しない「禁欲的」な場所だったという誤解もありますが、多くの店ではビールなどのアルコールも提供しており、客がコーヒーを飲んでいたのは単に安かったという経済的理由が大きかったようです。
実際にはウェイトレスがいて、異性との出会いの場となったり、若者が大人の雰囲気を背伸びして味わう場所であったりと、社交的な一面も持ち合わせていました。

ジャズ喫茶の変遷と現代的変化

1970年代以降、家庭用オーディオの普及やカセットテープのダビング、CDの発明により自宅で手軽に音楽が聴けるようになると、ジャズ喫茶は徐々に数を減らしていきました。
レコードが買えないからジャズ喫茶に通うという人々の姿勢も、薄れていきます。
1977年頃にはカラオケが登場し、夜の娯楽が多様化したことも、喫茶店全体の衰退に影響を与えました。

しかしジャズ喫茶は、時代の流れとともに変化を遂げていきます。
フュージョンやロックの流行に対抗するため内装を明るくしたり、漫画を店内に置いたり、アルコール類をメニューに加えるなど、大衆化の動きを見せる店も多くなりました。
一方で大量生産のCDに不満を感じる客層からは、アナログレコードと質の高いオーディオを備えた本格的なジャズ喫茶が、「本物のジャズ」のシンボルとして見直されるようにもなります。
いまジャズ喫茶に通う理由はレコードが買えないからではなく、膨大なコレクションの中から素晴らしい音楽と出会う喜びが見出せるからかもしれません。

近年、喫茶店やカフェ業界全体では、1980年代から1990年代半ばにかけてセルフカフェ(ドトールなど)が、1990年代後半から2010年頃にかけてはシアトル系カフェ(スターバックスなど)が流行しました。
店舗数が半減する一方でコーヒーの輸入量は増加するなど、「コーヒーを飲む場所」が多様化し、「カフェ」が「しゃべり場の象徴」にまで進化しています。
ジャズ喫茶も私語禁止の店が減り、会話が可能な店が増えるなど、現代的な変化を見せています。
現代のジャズ喫茶はリラックスしたり、友人と会話したり、一人で過ごしたりするための「日常の場」として、またアナログレコードを保存する「博物館」としての価値も持つようになりました。
Wi-Fiや電源を完備するなど、現代のライフスタイルに合わせたサービスを提供する店も増えています。

世界に広がる「リスニングバー」のルーツとしてのジャズ喫茶

近年、この日本独自のジャズ喫茶文化が海外、特に欧米諸国で「リスニングバー」として新たなムーブメントを起こし、注目を集めています。イギリスではアナログレコードの売り上げがCDを上回るなど、「アナログ回帰」のトレンドがリスニングバー人気の背景にあります。

リスニングバーは、日本のジャズ喫茶に強く影響を受けています。高品質なオーディオ機器を備え、最適な音響空間で音楽を堪能しながら、お酒を飲むことができるのが特徴です。
一般的なバーやパブのような喧騒と異なり、音楽そのものを楽しむことに重点を置いています。
中にはダンスフロアを設けたり、レストランとしての営業をメインにしたりと、多様な進化を遂げている店もありますが、ルーツは日本のジャズ喫茶にあるとされています。

リスニングバーが人気を集める理由としては、アナログレコードの人気復活という「アナログ回帰」のトレンドに加え、ストリーミングサービスで手軽に音楽を聴けるようになった反動で、「こだわり」を重視する層が増えていることが挙げられます。
コロナ禍以降、インフレで生活が厳しい中でも外出して音楽を楽しみたいという欲求がある一方で、ナイトクラブが高額であるため、より手軽に楽しめるリスニングバーが経済的な選択肢として受け入れられています。
スマートフォンでイヤホンを使い、個人的に音楽を聴くのが主流の若い世代にとって、大音量でスピーカーから音楽を聴く体験は新鮮に感じられてもいるようです。

特に海外で評価されているのが、日本のジャズ喫茶で培われた「会話を控え、音楽に耳を傾ける」という真摯な音楽への向き合い方です。これは喧騒から離れて音楽に集中したいというニーズに応えるもので、多くの人々に支持されています。
実際、Amazon Music Studio Tokyoの内装計画でも、日本のジャズ喫茶が「音を楽しむ社交の場」というテーマで採用されているほどです。
音楽という言語や趣味を理解する人々が集まる場所へのニーズは、人間の普遍的な欲求であると認識されています。

日本が誇るジャズ喫茶の名店

ジャズ喫茶文化を象徴する、日本各地の有名なジャズ喫茶をいくつかご紹介します。

新宿「DUG」(東京都)

新宿の「DUG」(ダグ)は1960年代初頭に開店した「DIG」(ディグ)のDNAを引き継ぎ、現在まで続く名店です。寺山修司氏植草甚一氏をはじめ、村上春樹氏和田誠氏内田繁氏といった多くの文化人が足繁く通ったことでも知られています。
村上春樹は自身の小説『ノルウェイの森』にもDUGを登場させ、自らもジャズ喫茶を開店した際に「あくまでも目標は『DUG』。だけど『DUG』を越えちゃいけない」と語ったと言われています。
DUGは高品質なオーディオ機器と豊富なレコードで本物の音を追求し、開店当初から大盛況となりました。
オーナーの中平穂積氏はジャズ写真界のパイオニアとしても知られ、彼が撮影した数々の伝説的な作品が店内に飾られています。
TPOを意識した選曲もDUGの魅力で、客層や時間帯に合わせて音楽を選んでいます。

Jazz Cafe Bar DUG ジャズカフェ&バーダグ (東京 新宿 )

横浜「ちぐさ」(神奈川県)

横浜の野毛で現在も営業を続ける「ちぐさ」は、現存するジャズ喫茶の中で最古の歴史を持つ店として知られています。
開店は1933年(昭和8年)です。戦時下でジャズが敵性音楽として禁止された際も、マスターの吉田衛は6000枚のレコードを屋根裏に隠して没収を免れましたが、横浜大空襲で店舗とともにすべて灰燼かいじんに帰しました。
戦後、常連客が持ち込んだレコードや米軍基地から流れてきたVディスクをもって店を再開しました。戦後の横浜が「最もアメリカに近い場所」であったことも、「ちぐさ」のストーリーを独特なものにします。
戦後の「ちぐさ」はジャズの素人であったミュージシャンたちがジャズの演奏法を身につけるための「学校」のような役割も果たしました。
彼らは占領軍クラブに出演する前に「ちぐさ」に立ち寄ってレコードに耳を傾け、アドリブソロを採譜するなどして必死にジャズを体得していきました。日野皓正秋吉敏子渡辺貞夫もこちらの常連です。
2007年に一度閉店しましたが、元常連客や関係者の尽力により一般社団法人「ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館」が設立され、2012年に営業を再開しました。
現在もアナログの音を聴く店というスタンスに揺るぎはなく、音楽文化を継承するための文化施設としての役割を担っています。

ジャズ喫茶ちぐさ|ジャズ喫茶&音楽バー|横浜市中区野毛町
横浜市中区野毛町にある「ジャズ喫茶ちぐさ」は、戦前昭和8年(1993年)に吉田 衛氏によって創業された長い歴史のあるお店です。昼はジャズ喫茶に、夜は音楽バーへと姿を変え、気ままに音楽を楽しめる空間で多くの人にご来店いただいています。

四谷「いーぐる」(東京都)

四谷の「いーぐる」は1967年創業で、後藤雅洋マスターがジャズ評論家としても活躍する名店です。創業以来JBLのスピーカーを使い続けており、並外れたオーディオへのこだわりを持っています。
後藤マスターは、ジャズ喫茶は「ジャズを真剣に聴く場」であり、「自分の趣味や感覚を押し付ける場所ではない」という哲学を持っています。
彼の選曲術はまさにDJや編集者のようで、聴き手に心地よい音楽の流れを提供することを目指しています。
かつてはリクエストを受け付けていましたが、現在は「すべてのお客さんに対して責任を持って選曲する」という理由から受け付けをやめ、現代の客層の変化にも対応しています。
後藤マスターは「現代ジャズ」にも積極的に目を向け、その魅力を幅広い音楽ファンに伝えようとしています。

ジャズ喫茶 いーぐる

岩手「ベイシー」(岩手県)【現在休業中】

岩手県一関市にあり、1970年開店の「ベイシー」は、「日本一音が良いジャズ喫茶」と呼ばれるほどのオーディオへのこだわりを持つことで知られています。
マスターの菅原正二は、開店以来JBLのオーディオシステムに日々調整を重ね、彼が不在で営業した日は1日たりともありません。彼が生み出す音は、聴く者に演奏者がその場に現れたかのような錯覚を起こさせます。
ジャズファンだけでなく、オーディオファンも国内外から訪れるほどの存在です。2019年には菅原正二の生き様を描いたドキュメンタリー映画『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)』が公開され、その唯一無二の音と「ジャズな生き様」が世界に紹介されました。

映画『ジャズ喫茶ベイシー Swiftyの譚詩(Ballad)』公式サイト
絶賛公開中 岩手県一関市、世界中から客が集うジャズ喫茶「ベイシー」と、マスター・菅原正二の“ジャズな生き様”を炙り出すドキュメンタリー。

群馬「蔵人」(群馬県)

群馬県高崎市にあるジャズ喫茶「蔵人(クラート)」は、高崎市のグルメ情報サイト「絶メシリスト」にも掲載された名店です。2019年2月に閉店しましたが、約5年ぶりに営業を再開しました。前店主の根岸蔵人さんから大竹潔さんに事業が引き継がれ、長年ジャズファンに親しまれてきた店が復活したのです。地方のジャズ喫茶はその街のうるおいとなり、地元に根ざした存在として愛されています。

https://x.com/jazzkissaclart

ジャズ喫茶の変わらない魅力と未来

ジャズ喫茶は単なる飲食の場を超え、音楽鑑賞に集中できる独自の空間を提供します。アナログレコード文化の再評価や現代のライフスタイルに合致する「大人の隠れ家」としての価値が国境を越えて広がり、新たなムーブメントを生み出しています。

日本の喫茶店・カフェの歴史は、都市における人々の「憩いの場」としての機能の変遷でもありました。喫茶店は、時代とともに「サロン的な性格」や「情報拠点」、また「娯楽や流行の場」として変化し、その後は「自己演出の小道具」や「ゆるやかな共同体」の場としても認識されるようになります。

現代においても「カフェ」という言葉が単なる店舗の業態だけでなく、「しゃべり場の象徴」にまで進化したように、ジャズ喫茶も時代とともに変化し、音楽と人々の交流を支える文化空間として、今後もその価値を高めていくことでしょう。特に「ジャズ喫茶は大きくスタイルを変えるべきではない。むしろ、変わらないことに意味がある」と語る関係者もいるように、その不変性がめまぐるしく変化する現代において、逆に新鮮な魅力として受け入れられ続けているのです。

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