追悼 和泉雅子さん:銀幕のスターから極地の冒険家へ、その輝かしい軌跡と「二人の銀座」

映画

女優、歌手、そして冒険家として多岐にわたる活躍を見せた和泉雅子さん(77歳)が、2025年7月9日に原発不明がんのため、東京都内の自宅で逝去されました。生前葬を済ませていたため、告別式やお別れ会は行われません。
日活三人娘の一人として銀幕を飾り、その後は日本人女性として初の北極点到達という偉業を成し遂げた彼女の波乱に満ちた人生と、「二人の銀座」という大ヒット曲を映画化した作品について、改めてその魅力を振り返ります。

第一章:若き日の輝きと「日活三人娘」

和泉雅子さんは1947年7月31日、東京都中央区銀座の寿司割烹店を営む家庭に生まれました。和泉家は江戸時代から続く幕府御用達の家具商の家系で、戦国武将の竹中半兵衛の末裔にあたるとも言われています。

彼女は10歳で劇団若草の子役として活動を開始し、1961年には14歳で日活に入社します。日活では吉永小百合、松原智恵子と共に「日活三人娘」と呼ばれ、絶大な人気を誇りました。雑誌『近代映画』の「オールスター投票・女優部門」で1966年と1967年に、吉永小百合に次いで2年連続で第2位にランクインするなど、その人気は計り知れませんでした。

1963年に公開された映画『非行少女』で15歳の不良少女を熱演し、演技力が認められます。この作品はエランドール新人賞を受賞し、ソビエト連邦時代のモスクワ映画祭では金賞を獲得しました。審査員を務めたフランスの俳優ジャン・ギャバンは「この子はすごい」と彼女の演技を絶賛しています。

多忙な日々を送り、時には4本もの映画を掛け持ちして撮影所に通っていたそうですが、彼女自身はそれを「楽しかった」と語っています。日活の和気あいあいとした雰囲気の中で、女優業を満喫していました。1971年に日活が成人映画路線に転換したことを機に、活動の場をテレビや舞台に移します。

第二章:「二人の銀座」誕生秘話とベンチャーズ歌謡

和泉雅子さんのキャリアの中でも特筆すべきは、歌手としての活動です。彼女は1966年9月15日に山内賢さんとのデュエット曲「二人の銀座」をリリースし、大ヒットを記録しました

この曲の原曲は、エレキギターバンドザ・ベンチャーズが作曲した「GINZA LIGHTS」です。ベンチャーズが来日した際、銀座の夜景から着想を得て生まれたと言われています。

元々この曲は、同じ東芝レコードに所属していた越路吹雪さんに提供される予定でした。しかし越路さんは曲を聴いて「私の曲じゃないわ。雅子ちゃんにあげて」と判断し、和泉さんに譲ったのです。越路さんは和泉雅子さんの歌唱力(自身は音痴だと自認)を補うため、「楽器のように歌える男性とのデュエット」を提案し、山内賢さんとのデュエットが実現しました

作詞は永六輔氏が担当し、「GINZA LIGHTS」という英語題名に「二人の銀座」という日本語のタイトルをつけました。編曲は川口真氏が手がけ、和泉雅子さんの歌声(自称音痴)をカバーする役割を果たしたとされています。
レコーディングでは、冒頭の一小節「待ちあわせて」を1週間毎日4時間練習する「お経作戦」が編み出されました。
ハモリを理解していなかった和泉さんが、山内賢さんとの初めての音合わせでパニックになり泣き出したことや、足がつったり風邪を引いてしまったりしたため、4回目のレコーディングでようやく完成したという苦労話もあります。

それでもこの曲は累計100万枚以上の大ヒットとなり、1970年には「ベンチャーズ歌謡」として第12回日本レコード大賞の企画賞を受賞しました。当初、外国人が作曲した楽曲は賞の対象外でしたが、後に特別賞として評価されました。

「二人の銀座」の大ヒットを受けて、和泉雅子と山内賢のコンビは「星空の二人」「東京ナイト」といったベンチャーズ作品のデュエット曲を続けて発表し、これらも映画化されています。
ベンチャーズ歌謡は奥村チヨの「北国の青い空」、渚ゆう子の「京都の恋」や「京都慕情」、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」など、多くの日本人歌手によって歌われ次々とヒットを記録し、「ベンチャーズ歌謡に外れなし」という法則が語られるほどでした

第三章:映画「二人の銀座」の世界

ヒット曲「二人の銀座」を受けて、1967年2月25日に日活から同名の映画が公開されます。監督は鍛冶昇、脚本は才賀明、原案は雪室俊一が担当しています。

映画のあらすじは、銀座の洋裁店で働く瀬川マコ(和泉雅子)が姉・玲子(小林哲子)が大切にしていた楽譜を、日比谷公園の電話ボックスに置き忘れることから始まります。
その楽譜を拾ったのは、東南大学の学生バンド「ヤング・アンド・フレッシュ」のリーダー、村木健一(山内賢)でした。健一がジャズ喫茶でこの楽譜を演奏すると大評判となり、「二人の銀座」として大ヒットします。

マコは健一に曲の返却を求めますが、健一の音楽への情熱に触れ、引き下がります。実はこの曲は玲子の元恋人で、かつて盗作疑惑で音楽界を追われた戸田周一郎(新田昌玄)が作曲したものでした。
ヒットに心苦しくなった健一は、マコと共に戸田を探し出し、無断使用を詫びます。戸田は「音楽は最初に誰が作ったかではなく、弾きたい人が弾き、歌いたい人が歌う、みんなの歌だ」と語り、若い音楽家たちに「音楽のこころ」を伝えます。

物語はマコと健一の淡い恋を軸に、過去と現在が交錯しながら展開し、銀座の街を舞台に繰り広げられる青春と大人のラブストーリーが描かれています。
最終的に健一はジャズ・フェスティバルで全てを告白し、観衆の支持を得ます。映画はマコと健一が「二人の銀座」を合唱しながら、夕暮れの銀座を歩くシーンで締めくくられます。

ヒット曲を歌った山内賢和泉雅子が主演を務めました。彼らは日活を代表する青春コンビとして人気を博します。
劇中には日活の若手俳優たち(山内賢、和田浩治、杉山元、木下雅弘)で結成されたバンド「ヤング・アンド・フレッシュ」が登場し、演奏を披露しました。当時の人気グループサウンズであるジャッキー吉川とブルー・コメッツヴィレッジ・シンガーズ、歌手の尾藤イサオなども出演し、彼らのヒット曲も劇中で流れます。

映画では「二人の銀座」が劇中歌として使用され、和泉雅子のソロ曲「踊りたいわ」も挿入歌として使われています。
その他、尾藤イサオの「ちぎれた涙」「恋の苦しみ」、ジャッキー吉川とブルーコメッツの「ブルー・シャトウ」「甘いお話」「青い瞳」、ヴィレッジ・シンガーズの「君を求めて」、桂京子の「お待たせしました」などが挿入歌として使われており、当時の音楽シーンを垣間見ることができます。

「二人の銀座」はヒット曲の映画化にとどまらず、しっかりとした主題とストーリーが練られた作品として評価されています。当時の高度経済成長期の日本の若者文化、ファッション、恋愛模様が魅力的に描かれており、観客に「ウキウキした気分」をもたらすと評されました。
銀座の各地(日比谷公園、銀座通り、西銀座センター街、地下鉄丸ノ内線銀座駅周辺の地下道、ソニービル、晴海通り不二家ビル、銀座並木通りなど)でロケが行われ、当時の賑わいを伝えています。

第四章:冒険家・和泉雅子の新たな挑戦

女優として絶大な人気を誇った和泉雅子さんですが、彼女はその後、冒険家として新たな人生を歩み始めます

転機となったのは、1983年にテレビ番組のレポーターとして南極を訪れたことでした。南極の壮大な自然に魅了され、極地への憧れを抱くようになったのです。当初は南極への誘いを断ったものの、「ペンギンに会えるなら」と承諾した逸話もあります。

そして1984年、「地球の“てっぺん”に立ちたい」と北極点への挑戦を決意。1985年1月28日に日本を出発し、スノーモービルで北極点を目指しましたが、北緯88度40分で断念せざるを得ませんでした。この挑戦で1億円以上の借金を抱えることになりますが、彼女は「それ以上行ったら死ぬからね」「生きる方を取る」と、生還を選んだことを語っています。

しかし、彼女の挑戦は終わりませんでした。4年後の1989年5月10日、二度目の挑戦で見事に北極点到達に成功します。これは日本人女性として初めての北極点到達であり、海氷上から女性として北極点に到達した世界で2人目の偉業でした。彼女は4年後に借金を完済し、その不屈の精神は多くの人々に感動を与えました。

冒険活動の影響で顔にシミが増えるなど容姿の変化は話題になりましたが、彼女は「昔はきれいだったとよく言われる」と明るく語っています。彼女の人生は「挑戦の連続」であり、自分の好奇心で選び抜いた姿勢が、多くの人々の心を打ちました。

第五章:その後の活動と遺された言葉

和泉雅子さんは冒険家としての活動後も、多岐にわたる活躍を続けました。講演活動を通じて自身の経験を共有し、特に「頑張ることの偉大さ、目標を持つこと、生命の大切さ、変わりゆく地球環境」などをテーマに語り続けました。

1998年には、北海道士別市に「マークン山荘」と名付けたログハウスを建設します。この山荘は、冬に家の中にこもりがちな子供たちを外に連れ出し、温かい食事を提供する「寒いのへっちゃら隊」というボランティア活動の拠点となっていました。子供たちからは「まこばあば」と親しまれ、地域貢献にも精力的に取り組みます。東京の銀座にある自宅と北海道の別荘を往復する生活を送っていました。

和泉雅子さんは生涯独身でした。これには若い頃の恋愛禁止令や、付き人として母親が常に同行していたこと、そして何より、極地探検への情熱が大きかったことが理由として挙げられます。
彼女は「失敗なんて、自分が失敗と思うから失敗なのよ」「それはただの失望なのよ」と語り、常に前向きな姿勢を貫きました。「生きている限り、何回でも挑戦できる」という信念を持っていたのです。

彼女の座右の銘は「人生は楽しく 一年は愉快に 一日は豪快に」。亡くなる直前までジグソーパズルに夢中になるなど、好奇心旺盛な一面を見せていました。

和泉雅子さんの人生はまさに「冒険と挑戦の連続」であり、多くの人々に感動とインスピレーションを与え続けました。故人のご冥福をお祈りします。

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