「それ、もらうよ」の一言で奪われるもの 映画『散歩する侵略者』が描く“概念の侵蝕”と人間性の本質

映画

2017年に公開された黒沢清監督の映画『散歩する侵略者』は、私たちの日々の生活に潜む「当たり前」の概念がいかに脆く、そして大切であるかを問いかける衝撃的な作品です。宇宙人が地球に潜入し、人間の持つ「概念」を奪っていくという奇抜な設定は、観る者に思索を促し、人間性の本質について考えさせます。

私たちの身近にある「愛」や「家族」「仕事」といった普段意識することのない概念が奪われたとき、私たちはどうなるのか。そしてその喪失がもたらす変化を通して、何が見えてくるのでしょうか。この記事では『散歩する侵略者』が描く「概念の侵蝕」というテーマに深く迫り、その中で問いかけられる人間らしさや愛の力を掘り下げていきます。

「それ、もらうよ」という言葉の怖さ

映画の核となるのは、宇宙人が人間の概念を奪う際の象徴的なセリフ「それ、もらうよ」です。この一言とともに、彼らはその人が強くこだわっている「概念」を無邪気に奪い去ります。奪われる概念は「自由」「仕事」「家族」といった具体的なものから、より抽象的な「愛」に至るまで様々です。

概念が奪われると、その人の人格は大きく変わってしまいます。まるで身体そのものを殺されるよりも、心を殺されたような怖さを感じさせるのです。奪われた人間はその概念を永遠に失い、高い確率で廃人になってしまうとされています。しかし皮肉なことに、これまで概念に縛られて生きにくさを感じていた人にとっては、その概念が取り払われることで「自由になる」という側面も描かれています。

例えば引きこもりの青年である丸尾(満島真之介は、「所有」の概念を奪われたことで人前で演説できるほどに「解放」されます。これは私たちがいかに多くの概念に囚われ、それが生きづらさに繋がっているかを逆説的に示しているとも言えるでしょう。
映画は「あなたにとって仕事とは何でしょう」「あなたにとって愛とは何でしょう」といった人間の根幹に関わる哲学的な問いを、私たちに投げかけてきます。その問いの答えこそが、私たち自身の「自分らしさ」なのかもしれません。

異色のSF作品が描く世界

『散歩する侵略者』は、劇作家・前川知大さんが主宰する劇団イキウメの舞台作品を、黒沢清監督が映画化したものです。黒沢監督は、以前からSF作品を手がけてみたいという「欲望」があったと語っています。
日本映画はハリウッドのように莫大な予算をかけられません。大人向けの落ち着いた実写SFはほとんど存在しない中で、この原作と出会い、その面白さから映画化を進めていったそうです。

従来のSF侵略映画が、共産主義の蔓延や赤狩りの恐怖、あるいは大企業のフランチャイズ化といった社会情勢のメタファーとして機能してきたのに対し、『散歩する侵略者』は「分かりやすさを拒絶」している異色な作風です。
宇宙人たちは「脳という神経ネットワークの上を走るプログラムのようなもの」であり、物質としての実体を持たず、人間の体を乗っ取ることで初めて世界に干渉します。
彼らには人格がなく、宿主である人間の思考回路や記憶をそのまま使うため、乗っ取られても「人格が上書きされた」わけではありません。

映画的演出と演劇的な会話劇が融合しているのも、本作の大きな特徴です。冒頭のホラー的なタッチや派手なアクションシーンも盛り込まれ、観客はジャンルを超えた娯楽性を体感できます。
黒沢監督も「SFなのでオッケー」と、機関銃を撃ったり爆破したり、思う存分「欲望」を表現できたと語っています。一方で舞台版の中心が会話劇であったため、映画版でも抽象的な概念をセリフだけで理解させる工夫がされています。

夫婦の再生と「愛」の概念

物語の中心に据えられているのは、鳴海(長澤まさみ真治(松田龍平の夫婦です。
真治が宇宙人に乗っ取られ別人のようになって帰ってきたことに戸惑いながらも、鳴海は彼を愛し続け、夫婦関係の再生のために奔走します。
鳴海は真治に「ガイドになってくれ」と頼まれ、彼から家族や愛情といった概念を教えることになります。

この夫婦の描写は、「愛」とは何かを深く問いかけてきます。真治は鳴海から「愛」の概念を抜き取ろうとしますが、それが困難であると知ります。なぜなら「愛」は言葉で簡単に定義できるものではなく、非常に複雑な概念だからです。
教会の牧師(東出昌大が「愛はあなたのなかにあります」と語るように、愛は内側に存在するものであり、その「カタチ」は人それぞれ異なると示唆されています。

最終的に真治は、鳴海から「愛」の概念を抜き取ります。しかしこの行為が宇宙人の地球侵略を断念させる、決定的な要因となるのです。
まるで「愛が地球を救う」かのようなラストですが、愛を知らなかった宇宙人が愛の概念を手に入れたことで、彼自身が人間らしく変化していったのです。

概念の喪失と人間らしさの問いかけ

映画は概念を奪われた人々の姿を通して、私たち人間にとっての「概念」の重要性を浮き彫りにします。
例えば「仕事」の概念を奪われた鳴海の上司(光石研は、まるで幼稚園児のような奇異な行動をとります。同時に「奪われたほうは、これまで固執し、縛りつけられてきた概念から解き放たれ、かえって救われる」という捉え方も可能であり、概念の喪失が必ずしも悲劇ではない、という皮肉な視点も提示しています。

この「概念の侵蝕」は、現代社会への隠れたメッセージかもしれません。
私たちは言葉によってコミュニケーションをとりますが、表面的な言葉だけを理解し、その背後にある本質的な概念を失っているのかもしれない、そういう問いかけが込められているのです。
もしそうだとすれば、言葉や概念に必要以上に縛られる一方で、大切なものを失っていても気づかない可能性があるという、深い示唆が与えられます。

この映画の宇宙人たちは、哲学的な対話を通じて人間の概念を理解しようとします。
ソクラテスの「問答法」にも通じるような、人間にとって最も大切なものは何かを問い続ける姿は、「散歩する侵略者」というタイトルとも重なります。
彼らは人間の言語を必死に習得しようとします。哲学は言語によって生まれるものであり、言語が人間を他の生物と区別する決定的な要素なのです。

豪華俳優陣が紡ぐ物語の深み

長澤まさみ(加瀬鳴海 役)

長澤まさみさんは数日間行方不明だった夫・真治がまるで別人になって帰ってきたことに戸惑いながらも、その状況に立ち向かう妻、加瀬鳴海を演じています。彼女は夫に起こった「異変」に気づき、翻弄されながらも状況に立ち向かうという難役に挑みました。

彼女の演技は「光って」いて、夫に対して抱く現実の怒りを非常にリアルに表現していると高く評価されています。怒りが愛情の裏返しであるという黒沢監督の言葉に後押しされ、怒りから愛へと感情が変化していく様を見事に演じ分けました。

鳴海の夫への愛を、「精神の病や認知症で人が変わっても、愛は持続する」というテーマに通じるものとして捉える見方もあります。彼女の演技は深い愛を表現しているのです。「日常的な怒り」を演じる中で、意外な普遍性を露わにしました。
長澤まさみさんはこの作品への出演を通して「人間とは」の問いを深め、表現者としてさらに歩みを進められたと語っています。
この役で第9回TAMA映画賞最優秀女優賞第72回毎日映画コンクール女優主演賞第27回東京スポーツ映画大賞主演女優賞を受賞しました。

松田龍平(加瀬真治 役)

松田龍平さんは、身体を宇宙人に乗っ取られた夫・真治を演じています。この宇宙人は地球を征服するために人間を理解する必要があり、そのために人間から「概念」を奪っていきます。

彼の演技は「唯一無二の独特な存在感と演技力」で、これまでにない「侵略者」という設定を見事に演じています。観客から「宇宙人っぷりが最高」と評され、概念を奪いながら徐々に人間らしくなっていく真治の「目つきの変化」は脱帽ものです。
彼の、「無表情」でありながら「無垢」を感じさせる演技は特に素晴らしく、「真面目でいてとぼけた不思議な味わい」があり、まさに「そのまま宇宙人」のようです。「飄々とした放浪宇宙人」の役柄が「似合いすぎる」と評されました。

彼は人間と同じ「概念」を持たないため、最初は話が通じず、人間の形をしていても中身はまるで宇宙人です。それが概念を収集するにつれて人間らしくなっていき、最終的には自分が宇宙人なのか人間なのか分からなくなるところまでを、見事に演じ切りました。

長谷川博己(桜井 役)

長谷川博己さんは町で起きた一家惨殺事件を追う中で、偶然「侵略者」である天野(高杉真宙)と出会い、彼らと行動を共にするジャーナリスト・桜井を演じます。彼は宇宙人の「ガイド」となりますが、その倫理観から彼らの行動に抵抗を示したりします。

彼の演技は、「自分の役をすごく楽しんでフルスウィングしている」のが伝わってくると評価され、実力派俳優として「どんな役でも魅力的なキャラクターに仕上げてくる」と称賛されています。
終盤の「バッキバキのアクション」は圧巻で、彼の「宇宙人しぐさ」は本作最大の見どころの一つです。
まるで宇宙人が乗り移ったかのような人間離れした関節の動きは、「舞台役者って凄えな〜!」と絶賛されています。

桜井は当初、宇宙人を名乗る彼らを密着取材しようと軽い気持ちで行動を共にしていましたが、やがて彼らの行動を目の当たりにする中で、「人類滅亡の危機」を訴え、人類を守るために奔走するようになります。
一方で侵略者・天野に「情が湧いているかのように優しく」接するなど、揺れ動く心が描かれます。
彼の演説シーンは「目の前の現実から目を背けることで、今ある当たり前の日常が壊れてしまう」という意図が込められているようです。

高杉真宙(天野 役)

高杉真宙さんは侵略者の一人である謎の若者、天野を演じています。彼は桜井をガイドとして、冷静に人間の概念を収集していきます。

彼の演技は「宇宙人にしか見えない」と評され、その「狂ってる感じの目」が特に良いとされます。
人間と同じ「善悪」の概念を持たない宇宙人を、どこまでも「自然体でカラッと乾いている」ように演じました。
彼は理論的な善悪は理解しているものの、攻撃的な面は行動に移さない知的な宇宙人として描かれています。
若手注目俳優の一人として、この作品を含め当時6本の映画に出演していました。
この役で第9回TAMA映画賞最優秀新進男優賞、第72回毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞を受賞しています。

恒松祐里(立花あきら 役)

恒松祐里さんはもう一人の侵略者、女子高生・立花あきらを演じています。知性はあるものの、深く考えるより先に行動してしまう「非常に攻撃的」な宇宙人です。

彼女の演技も「綺麗な顔立ちからは想像つかないアクションシーンが多く、本当に宇宙人に乗っ取られているかのようだった」と高く評価されています。
「バッキバキのアクションをこなす」姿は「いい味出して」いました。
冒頭のシーンで血まみれになりながら街をさまよう姿は、「強烈な『侵略者』のイメージを放つ」と表現されています。
彼女は他の侵略者とは異なり、概念を奪う行為はほとんど行わず、卓越した身体性で殺戮を繰り返すキャラクターとして描かれています。

その他の注目俳優とその演技

  • 前田敦子(明日美 役): 鳴海の妹で、「家族」という概念を宇宙人に奪われます。概念を奪われた後、姉に対し「他人行儀」に豹変する様子を演じました。
  • 満島真之介(丸尾 役): 「所有」の概念を奪われた引きこもりの青年を演じます。概念を失うことで「解放」され、人前で演説ができるほど「活発な青年」に変貌する演技が印象的です。
  • 光石研(社長 役): 鳴海の上司で、「仕事」の概念を奪われます。概念を奪われた後、まるで子供のように職場で遊びまわる姿をコミカルに演じ、観客を笑わせます。
  • 東出昌大(牧師 役): 教会の牧師として登場し、真治から「愛」の概念を奪われそうになります。彼の「爬虫類的な目」は恐怖を煽ると評されており、そのキャスティングの妙が指摘されています。スピンオフドラマでは、より「邪悪な宇宙人」として描かれる真壁司郎役を演じています。
  • 小泉今日子(医者 役): 映画の終盤に登場し、侵略中止後の状況や、鳴海の特別な症状について説明する医者役を演じました。彼女の出演は「無駄に豪華」と評されています。
  • 笹野高史(品川 役): 厚生労働省に所属し、宇宙人の侵略を阻止しようと行動する人物です。彼の役どころは「ウザい人物造形カタログみたい」と評され、観客に不快感を与える演技が見事です。

これらの俳優陣は、黒沢清監督作品では初共演となるフレッシュな顔合わせでしたが、それぞれの役柄を見事に演じ切り、作品のユニークな世界観と哲学的なテーマを深く表現することに貢献しています。

終わりに

映画『散歩する侵略者』は「概念の侵蝕」というユニークな設定を通して、私たちの日常に潜む「当たり前」の脆さ、そして人間であることの本質を深く問いかける作品です。
宇宙人が概念を奪うという非日常的な出来事が、夫婦の愛や人間らしさという普遍的なテーマに繋がっていく展開は、観る者に忘れられない問いかけを残します。

「身体そのものを殺すより、心を殺されるほうが実は怖いかも」 という言葉が示すように、この映画は物理的な破壊だけでなく、精神的な喪失の怖さを描き出しています。
しかしその喪失の先に、「愛」という概念が地球を救う希望を見出すことで、絶望の中にも光を見せてくれます。

この作品は観る人それぞれに異なる解釈や感想を抱かせ、自身の価値観や「当たり前」について改めて考えるきっかけを与えてくれるでしょう。
ぜひ一度この異色のSF作品を体験し、あなたにとって「愛」や「人間性」とは何か、そして「概念」とは何かについて、思索する機会としてください。

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