ローリング・ストーンズ 真の創始者
ロック史に名を刻むザ・ローリング・ストーンズ。
その名を聞けば、多くの人がミック・ジャガーとキース・リチャーズを思い浮かべるでしょう。しかし、この伝説的なバンドをゼロから作り上げ、その初期の音楽性を形作った真の創始者がいます。それが、ブライアン・ジョーンズです。
彼は27歳という若さでこの世を去り、今ではその功績が「忘れられたリーダー」として語られることも少なくありませんが、彼の類稀なる音楽的才能と多才な楽器演奏がストーンズのサウンドに与えた影響は計り知れません。
ブライアン・ジョーンズの短くも鮮烈な軌跡をたどり、彼がいかにしてストーンズの音楽を豊かにしたかを探ります。
ストーンズ誕生の立役者とその類稀なる音楽的才能
ブライアン・ジョーンズは1942年2月28日、チェルトナムで生まれました。
裕福な中流階級の家庭に育ち、幼少期からピアノやクラリネットを習うなど、音楽的に恵まれた環境で育ちました。彼の知能指数は135と高く、将来を有望視される優等生だったそうです。
彼が最も興味を持っていたのは、シカゴ・ブルースに代表されるR&Bでした。
1962年、ロンドンで求人広告を出したブライアンのもとに、後にバンドメイトとなるイアン・スチュワートが連絡を取り、彼はアレクシス・コーナーズ・ブルース・インコーポレイテッドにギタリストとして参加します。
同年4月、彼の演奏するエルモア・ジェームスの「ダスト・マイ・ブルーム」のスライドギターにミック・ジャガーとキース・リチャーズが感銘を受け、3人は意気投合します。ブライアンは「世界中でこの手の音楽をやっている唯一の仲間」だと確信し、バンド結成へと動き出しました。
彼はバンド名を、敬愛するマディ・ウォーターズの曲「Rollin’ Stone」にちなんで「ローリング・ストーンズ」と提案し、採用されます。ブライアンはバンドのメンバー集めに奔走し、ビル・ワイマンやチャーリー・ワッツが加入しました。
キースの証言によると、ジョーンズは会場のオーナーと電話で話している時に「ローリング・ストーンズ」(後に「g」が付く)という名前を思いついたと言います。「電話の向こうの声が明らかに『君たちの名前は?』と聞いてきた。(まだバンド名を決めていなかったので)パニックになった!その時たまたまマディ・ウォーターズのベスト・アルバムが、床に転がっていてね。そのA面5曲目に『ローリング・ストーン・ブルース』が収録されていたんだ」
初期のストーンズはイギリスの白人聴衆に、「本物の」R&Bを聴かせることを目的としていました。ブライアンはストーンズを「R&Bバンド」と常に名乗りました。
彼のブルースへの純粋な情熱はバンドの音楽的な核を形成し、サウンドの幅を広げることに大きく貢献します。英国で初めてスライドギターを演奏した一人とも言われており、ミック・ジャガーも彼のスライドギターの技術を高く評価していました。
初期の頃はミックではなく、ブライアンが主にハーモニカを担当し、時にはギターを持たずにハーモニカだけを演奏することもありました。
多彩な楽器が拓いたストーンズの新たなサウンド
ブライアン・ジョーンズの真骨頂は、その驚異的なマルチプレイヤーとしての才能にありました。
彼は楽器に触れるとすぐに習得できたと言われ、ギターやハーモニカの他にも、20種類以上の楽器を演奏しました。それらの楽器を効果的に楽曲に取り入れ、ストーンズのサウンドに実験的で個性的な彩りを与えていきます。
特に彼の才能が光ったのは、『アフターマス』から『サタニック・マジェスティーズ』までのサイケデリック期です。
例えば、大ヒット曲「黒くぬれ!」では印象的なシタールのリフを演奏し、シタールをフィーチャーしたロック曲として初めて英米チャートで1位を獲得しました。
彼はジョージ・ハリスンからシタールを借り、わずか1日でマスターしたと言われます。「Street Fighting Man」や「Gomper」でも、シタールやタンブーラを披露しています。
「Under My Thumb」ではマリンバを、「Ruby Tuesday」ではリコーダーを演奏し、これらは曲を象徴する重要なフレーズとなりました。
特に「Ruby Tuesday」のリコーダー演奏は、その哀愁漂うメロディーがブライアンの当時の感情を映し出しているかのようです。
「Lady Jane」ではダルシマーを、「Let’s Spend the Night Together」ではオルガンを、「She’s A Rainbow」や「Gomper」ではメロトロンを、そして「Lady Jane」ではハープシコードも演奏しています。クラリネット、サックス、オーボエ、フルートなど、様々な管楽器もこなしました。
彼の多楽器演奏は、単なる好奇心のレベルに留まるものではなく、ストーンズの音楽に多様な要素をもたらしました。
アルバム『Their Satanic Majesties Request』に収録されている「Gomper」では、ブライアンがオルガン、タンブーラ、インド風パーカッション、シタール、フルート、メロトロンなど、すべての楽器を一人で演奏している とされています。彼の多才な才能と音楽への深い探求心を示す好例と言えるでしょう。
音楽性の追求とバンド内の変化
初期のストーンズでは、ブライアンがバンドの運営や個性、あるべき姿に取り憑かれているとミック・ジャガーが表現するほど、彼が主導権を握っていました。彼はマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムがストーンズを「不良じみたイメージ」に変え、ポップな路線を推し進めようとしたことに反発していたようです。
ブライアンは純粋なR&Bバンドとしてのストーンズを理想としていましたが、ミック・ジャガーとキース・リチャーズのソングライティングが台頭するにつれて、バンドの音楽的方向性は変化していきました。
ブライアンは作曲にほとんど関与しなかったとされており、彼の名がクレジットされたストーンズの楽曲は発表されていません。ミックは彼の作曲能力について厳しく評価しており、チャーリー・ワッツもブライアンは「頼りにならなかった」と語っています。しかし、ストーンズの作曲クレジットは必ずしも正確ではないという指摘もあり、ブライアンが書いた曲でもクレジットされなかった可能性が示唆されています。
音楽性の乖離は、ブライアンの孤立を深める一因となりました。彼はバンドが求めるサウンドが、自身がやりたかったブルースから離れてしまったと感じていたようです。
一方でブライアンは、世界中の伝統音楽、特に北アフリカの民族音楽にも強い関心を持っていました。モロッコでジャジューカの音楽を現地録音し、それにスタジオ処理を加えてアルバム『Brian Jones Presents the Pipes Of Pan At Joujouka』として完成させました。
この試みはワールドミュージックをポップミュージックに昇華させた時代を先取りした作品であり、彼の音楽的先見性を物語っています。この音楽をストーンズの楽曲にも導入したいと考えていましたが、その願いは実現しませんでした。
困難な道のりとバンドからの離脱
ブライアン・ジョーンズの人生はその音楽的才能とは裏腹に、薬物問題や私生活の荒廃によって波乱に富んだものでした。
1964年のアメリカツアー以降、彼は薬物依存に陥り、1967年と1968年には大麻所持で逮捕されています。薬物問題は彼の精神的疲弊を強め、レコーディングへの参加も減っていきました。ミック・ジャガーはこの頃のブライアンが、ギターを持つことさえできなかったと語っています。
彼の私生活も複雑です。
16歳のとき14歳の少女を妊娠させたのを皮切りに、少なくとも5人の隠し子がいたとされていますが、責任を取ることは最後までありませんでした。
女優のアニタ・パレンバーグとの交際も有名でしたが、彼女がキース・リチャーズと恋仲になったことは彼にとって大きなショックでした。
バンド内での彼の立場も、徐々に揺らいでいきました。ミックやキースは、彼の薬物問題や協調性の欠如について不満を抱くようになります。
しかし、ブライアンが音楽的に「ダメな人間」になっていたわけではありません。彼は逮捕されてからは薬物をやめ、健康を取り戻そうとしていたという証言もあります。モロッコでのジャジューカの録音プロジェクトのように、新たな音楽的アイデアを追求し続けていました。
最終的にブライアンは、「ストーンズの音楽は俺の好みではなくなった。俺は自分に合った音楽をやっていきたい」と語り、1969年6月8日にバンドを脱退することになります。彼の脱退は単にバンドのお荷物になったからではなく、彼自身がストーンズに愛着を持ちつつも、自身の音楽的未来のために離れることを選んだ結果だったという見方があります。
永遠の「27クラブ」の先頭に、そしてその遺産
ブライアン・ジョーンズは、ローリング・ストーンズを脱退してからわずか約1か月後の1969年7月3日未明、自宅のプールの底で亡くなっているのが発見されました。享年27歳でした。
彼の死は、その後ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、カート・コバーンといったロックミュージシャンが27歳で相次いで不慮の死を遂げる、「27クラブ」の最初のメンバーとなりました。
当時の検視官は、彼の死因をアルコールと薬物摂取による溺死と結論付けました。
しかし、死の直前に一緒にいた建築業者フランク・サラグッドが殺害を告白したとする説があるなど、彼の死の真相については他殺説が根強く存在し、未だに謎に包まれています。
2009年には、警察が新たな証拠に基づいて再調査を検討していることも明らかになりましたが、その後の続報は出ていません。
ブライアン・ジョーンズの死は悲劇でしたが、彼がいかにストーンズの初期のサウンドとイメージ形成に不可欠な存在であったかは、多くの関係者や資料によって語り継がれています。彼はバンドの創設者として、そして多才なミュージシャンとして、ブルースのルーツを深く追求しつつ、シタールやマリンバ、リコーダーといった多種多様な楽器を操り、ストーンズの音楽に他に類を見ない深みと広がりを与えました。
彼の音楽的遺産は今日に至るまで、ローリング・ストーンズの作品の中に生き続けています。
創始者の残した音楽の足跡
ブライアン・ジョーンズはその短い生涯の中で、ザ・ローリング・ストーンズという偉大なバンドの基礎を築き、その初期の音楽性を豊かにする上で極めて重要な役割を果たしました。
彼の多才な楽器演奏は、単なる技術的な貢献に留まらず、バンドのサウンドに深みと独自性を与え、ストーンズが単なるブルースバンドから、多様な音楽的要素を取り入れたロックバンドへと進化する道を切り開いたのです。
彼の死後も、ストーンズは伝説的なバンドとして活動を続け、その音楽は世界中で愛され続けています。
しかしその根底には、ブライアン・ジョーンズが培ったブルースへの情熱と、彼がもたらした革新的なサウンドへの貢献が確かに存在しています。
彼はまさしくローリング・ストーンズの音楽性を形成した「忘れられない」創始者であり、その軌跡はロック史において永遠に輝き続けることでしょう。
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