【クラリネットの巨匠】バディ・デフランコ:スウィングからビバップへ!時代を切り拓いたジャズの第一人者

ジャズ

バディ・デフランコは、ジャズの歴史において非常に特別な位置を占めるクラリネット奏者です。
スウィング・ジャズが花形だった時代から、その後のモダン・ジャズ、特にビバップの複雑な世界へとクラリネットを見事に適応させた、まさに「クラリネットの巨匠」と呼ぶにふさわしい人物でしょう。
彼がジャズに残した功績は計り知れず、その卓越したテクニックと音楽性は、多くの後進に影響を与え続けています。

クラリネットとの出会いと才能の開花

バディ・デフランコは1923年2月17日にニュージャージー州カムデンで生まれ、サウス・フィラデルフィアで育ちました。5歳でマンドリンを始め、9歳でクラリネットを手にします。幼少期から自宅には常に音楽が溢れていたそうです。
14歳の時にはトミー・ドーシー主催の全国スウィング・コンテストで優勝し、ドラマーのジーン・クルーパと共にラジオ番組「サタデー・ナイト・スウィング・クラブ」に出演するなど、早くからその才能を開花させました。この時の舞台での「ワンハンド演奏」といったショービジネス的な演出も、彼の勝利に貢献したと語っています。

プロとしてのキャリアは1939年にジョニー・“スキャット”・デイヴィスのビッグバンドで始まり、その後もジーン・クルーパ(1941年)、チャーリー・バーネット(1942〜43年)のバンドで演奏し、1944年にはトミー・ドーシー・オーケストラ目玉のソリストとして活躍しました。
彼がキャリアをスタートさせた頃は、ベニー・グッドマンアーティ・ショウといったクラリネット奏者がリードするスウィング・ミュージックやビッグバンドが衰退しつつあった時期と重なります。しかし、デフランコはクラリネット一本で活動を続け、ジャズの新たな時代へとその道を切り拓いていくことになります。

ビバップクラリネットのパイオニアとしての挑戦

第二次世界大戦後、チャーリー・パーカーディジー・ガレスピーによってモダン・ジャズの革命が進行する中、デフランコは彼らの音楽の即興的な自由さに強く惹きつけられました。
彼は「クラリネットでパーカーのように演奏する」ことを決意し、ビバップの新たなイディオムで成功を収めた最初のジャズクラリネット奏者となりました。
クラリネットはサックスやトランペットが主流となったモダン・ジャズにおいて不利とされる楽器でしたが、デフランコはそれを克服し、「卓越したテクニック」と「音楽性」で高い評価を得ました。

デフランコは、クラリネットの演奏の難しさについて詳しく語っています。
クラリネットはフレンチホルン、オーボエ、ファゴットなどと同じくらい難しい楽器だと言われています。その理由は低音域、中音域、高音域という3〜4つの異なるレジスターを扱う必要があり、それぞれで異なる運指システムが求められるためです。
サックスやフルートのようなオクターブ楽器とは異なり、クラリネットのバックキーは12音上がるレジスターキーであり、これが運指を複雑にしています。
さらに6つのオープンホールを正確にカバーしなければ、不正確な音が出たり音が出なかったりします。彼はこれを「綱渡りのよう」だと表現し、ジャズで自由な表現をする上で「危うい状況」にあると述べています。

ビバップを演奏することは、その技術的な難しさをさらに倍加させる「二重に危険な」挑戦でした。
ビバップのアーティキュレーションは非常に複雑で、デフランコ自身も「説明できない」と語るほどです。脳、タンギング、フレージング、呼吸、そして運指の全てが一体となって機能しなければなりません。
それでも彼は「ビバップをおぼえこむ」ための努力を惜しまず、クラリネットでそれを可能にしました。彼の演奏は時に「冷たい」と評されることもありましたが、その音楽魂は彼を「史上最もホットなクラリネット奏者」たらしめているのです。

アート・テイタムとの伝説的共演

デフランコのキャリアにおいて特筆すべきは、史上最高のピアニストの一人であるアート・テイタムとの共演です。プロデューサーのノーマン・グランツは、テイタムの天才性を最大限に引き出すため、彼に対等に渡り合える数少ない管楽器奏者としてデフランコを選びました。
1956年2月に行われたレコーディングセッションは、デフランコが体調不良でありながらも、この貴重な機会を逃すまいと参加したものです。ところが彼の演奏に体調不良の兆候は一切見られず、その年の11月にテイタムが亡くなる前の最後のレコーディングの一つとなりました。

このセッションは多くがワンテイクで録音され、全てが即興で行われたアレンジなしの演奏でした。
デフランコはテイタムとの演奏に圧を感じたと述べていますが、その威圧感や緊張感を自身の表現の自由に昇華させたのです。
彼らの共演は「ディープ・ナイト」「ディス・キャント・ビー・ラヴ」「メモリーズ・オブ・ユー」「ア・フォギー・デイ」「ラヴァー・マン」「メイキン・フーピー」といった名曲で、「きらめくような」素晴らしい演奏を残しました。

商業と芸術のバランス

デフランコは芸術的な探求を追求し続けましたが、商業的な側面とも向き合いました。1966年から1974年までは、「世界的に有名なグレン・ミラー・オーケストラ バディ・デフランコ監督」としてリーダーを務めます。
この期間について彼は、「商業的には正しい判断だったかもしれないが、創造性の面では一時的に脇に置いた時期だった」と語っています。
しかし、この経験はバンドリーダーとしての「良いビジネス」であり、彼はその後のキャリアで再び自身の芸術的自由に立ち返っていきます。彼はタバコの倉庫やボールルーム、劇場など、大きな会場を満員にするバンドリーダーとしてのグレン・ミラーの商業的成功を理解していました。

彼はまた、ロックンロールの台頭により若者の音楽への関心がジャズから離れることを懸念し、高校や大学生向けにジャズクリニックを開催しました。ロックンロールの登場と共に「音楽は低迷し、アメリカの文化は洗練さを失った」とまで述べ、自身の芸術的信念を強く持っていました。
クラリネットがジャズにおいて人気を失った理由として、バンドのダイナミックな強さについていくためにクラリネットには多大なエネルギーが必要なこと、そして若者が「刹那の満足」を求め、苦労を嫌う傾向にあることを挙げています。
彼は「サックスやギターとは違い、クラリネットは一年間はキーキー音を出すのを我慢しなければならない」と、その難しさを指摘しています。

バディ・デフランコの定番、推薦盤、珍しい盤

バディ・デフランコの作品の中から、定番、推薦盤、そして珍しい盤をそれぞれ2枚ずつご紹介します。彼の幅広い活動と、クラリネットという楽器が持つ可能性を最大限に引き出した演奏をぜひお楽しみください。

定番の作品

『ミスター・クラリネット (Mr. Clarinet)』(1953年録音)

このアルバムは「クラリネットのチャーリー・パーカー」と称されるバディ・デフランコの、モダン・ジャズへの適応を象徴する金字塔的な作品です。
ピアニストのケニー・ドリューやドラムのアート・ブレイキーといった当時のモダン・ジャズを牽引する強者たちとの共演を通じて、バピッシュでブルージーなデフランコの見事な演奏が繰り広げられています。
特に「バディーズ・ブルース」や「ニューヨークの秋」は、クラリネットがフロント楽器としてサックスやトランペットに負けない存在感を示す模範的な演奏として高く評価されています。ジャズ・クラリネットを初めて聴く方にも、まずおすすめしたい一枚です。

『クッキング・ザ・ブルース&スウィート・アンド・ラヴリー (Cooking The Blues & Sweet & Lovely)』(1954-1956年録音)

この作品は、元々別々にリリースされた2枚のアルバムを1枚にまとめたもので、バディ・デフランコがスウィング・ジャズの花形楽器だったクラリネットを、ビバップへと移り変わるモダン・ジャズの時代にどう適応させたかを明確に示しています。ソニー・クラーク(ピアノ/オルガン)やタル・ファーロウ(ギター)といった西海岸屈指のリズム・セクションが参加しており、その豪華なメンバーでの演奏も聴きどころです。
デフランコの軽快なテンポに乗って流麗なフレージングが光る、まさに彼の独壇場ともいえる演奏を堪能できます。特にソニー・クラークのオルガン演奏は印象的で、ファンキーさを抑えた上品な音色がデフランコのクラリネットと見事に絡み合い、素晴らしい雰囲気を醸し出しています。

推薦盤

『ジャズ・トーンズ (Jazz Tones)』(1953年、1954年録音)

このアルバムは、1953年4月20日と1954年4月7日にニューヨークで録音されました。バディ・デフランコ(クラリネット)が、ケニー・ドリューとソニー・クラークという2種類の強力なピアノ・トリオを従えて演奏しています。

本作はデフランコの初期の代表作の一つとされており、ハード・バップのバッキングにより、彼のクラリネットが「熱くモダンに燃え上がる」様子を聴くことができます。この作品からは、デフランコの卓越した技術と表現力が初期の段階から、いかに際立っていたかを感じ取ることができます。

メンバーにはバディ・デフランコ(クラリネット)の他、ソニー・クラーク(ピアノ)、ケニー・ドリュー(ピアノ)、ジーン・ライト(ベース)、ミルト・ヒントン(ベース)、ボビー・ホワイト(ドラムス)、アート・ブレイキー(ドラムス)が参加しています。

このアルバムは以前なら入手困難な盤でしたが、名門レーベルに残された秘蔵の名盤として2021年11月24日にユニバーサルミュージックから生産限定盤として再発売されました。これにより手頃な価格で、彼の初期の重要な作品を楽しむことができるようになっています。

『スウィート・アンド・ラヴリー (Sweet and Lovely)』(1954年、1955年録音)

このアルバムは、バディ・デフランコがクラリネットという楽器でジャズを追求し続けたキャリアの中でも、50年代の隠れた名盤とされています。

本作ではピアニストのソニー・クラークとギタリストのタル・ファーロウという、当時西海岸屈指の強力なリズム・セクションを擁したベストなレコーディング・メンバーとの演奏が聴けます。彼らの演奏は、デフランコの卓越した技術と音楽性を引き立てています。

1954年9月1日、1955年8月12日、26日にロサンゼルスで録音されました。
デフランコのクラリネットは「端正かつ典雅」で、「滑らかで大らか」、そして「テクニックが抜群で音の抜けが良い」と評されています。クラリネットでこれほど陰影とスピード感のあるフレーズを吹ききるジャズメンは、いないかもしれません。
特に注目すべきは、5曲目の「ザ・ニアネス・オブ・ユー」で聴けるソニー・クラークのオルガン・プレイです。後のファンキー・ジャズで聴かれるようなこってこてにファンキーなオルガンではなく、ファンクネスを抑えた「趣味の良いオルガンの音色」がデフランコのクラリネットと絡み合い、非常に良い雰囲気を醸し出しています。

収録曲の「ゼイ・セイ・イッツ・ワンダフル」は、イントロからデフランコのソロで始まり、軽快なテンポでスウィングする中で、流麗なフレージングが光る名演として特筆されます。テーマ提示後もデフランコが見事なソロを展開し、ソニー・クラーク、タル・ファーロウへとソロが回っていきます。
アルバムはデフランコとクラークの共作である「ゲッティング・ア・バランス」を冒頭に、そしてクラーク作のオリジナル曲を最後に配置し、その間にはスタンダード・ナンバーの快演が多数収録されています。

珍しい盤

『クロス・カントリー・スイート (Cross Country Suite)』(Nelson Riddleと共演)

このアルバムは、彼のクラリネットのユニークな側面を示す作品です。

著名なアレンジャー兼作曲家であるネルソン・リドルとの異色のコラボレーション作品として、1958年または1959年に録音されました。バディ・デフランコは1923年生まれなので、これは彼のキャリアの中期にあたります。
この作品は「純粋なジャズではないが、素晴らしい音楽」です。ネルソン・リドルは映画音楽の作曲に通じる印象的で視覚的な音楽を追求していて、ビッグバンドとストリングスの両方を使用している点が、ジャズとしては珍しい編成の作品となっています 。
もともとDotレーベルからリリースされ、Universalが権利を取得した後、長らく入手困難な「聖杯」のような存在でした。バディ・デフランコ自身も「何年も前に廃盤になったと思っていた」と語るほどです。その希少性から「珍盤」として知られていますが、近年再発されました。
デフランコはこの録音を「爽快で疲れ果てるような体験だった」と振り返っており、レコーディング自体は「驚くほど簡単だった」ものの、その制作には「時間とエネルギーと思考を要し、肉体的にも負担がかかった」と述べています。彼の通常のビバップやハード・バップのスタイルとは異なる演奏を聴くことができ、クラリネットという楽器が持つ幅広い表現の可能性を示しています。

ネルソン・リドルはフランク・シナトラの「カムバック」アルバムや、ナット・キング・コール、エラ・フィッツジェラルドなどのアレンジで知られる巨匠であり、彼との共演はデフランコのキャリアにおいても特筆すべきもので、クラリネットの可能性を広げた一枚として推薦できます。

『COMPLETE 1959 SEPTETTE SESSIONS “BRAVURA”(2CD)』(1959年録音)

この2枚組CDは、これまで「Generalissimo」、「Live Date!」、「Bravura」といったLPでリリースされてきた1959年(一部1958年)の録音を集大成したコンピレーション・アルバムです。スコット・ラファロ(ベース)、ハリー・“スウィーツ”・エディソン(トランペット)、ジミー・ロウルズ(ピアノ)、バーニー・ケッセル(ギター)、ハービー・マン(フルート)、ヴィクター・フェルドマン(ヴィブラフォン)など、ジャズ界を代表する豪華なサイドメンたちが参加しています。セプテットという比較的大編成での録音は、彼のモダン・ジャズにおける多彩な表現をまとめて聴けるという点で、コレクターにとってもユニークで価値のある作品と言えるでしょう。

偉大なる遺産と現代への影響

バディ・デフランコはその生涯を通じて、クラリネットの可能性を広げ続けました。彼は「クラリネットのチャーリー・パーカー」と呼ばれ、ダウンビート誌の読者人気投票では1945年から1955年まで連続1位を獲得するほどの絶大な人気を誇りました。カウント・ベイシーレスター・ヤングナット・キング・コールホレス・シルヴァーといった同業者からも史上最高のクラリネット奏者として選ばれています。

彼は91歳で亡くなる2014年まで現役で活躍し、2006年にはNEAジャズ・マスターズ・フェローシップを受賞しています。
デフランコは自身の芸術的遺産について、「自分なりに、この楽器で何か違ったことをした人間として記憶されたい」と語っていました。
その言葉通り、彼はジャズクラリネットの歴史に新たな章を刻んだ真の巨匠であり、その音楽はこれからも多くの人々に感動を与え続けるでしょう。
モンタナ大学ミズーラ校では毎年4月にバディ・デフランコ・ジャズ・フェスティバルが開催され、彼の功績が称えられています。

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