桑名正博:名曲「セクシャルバイオレットNo.1」と波乱の人生、知られざる軌跡を辿る

邦楽

桑名正博 歌と波乱の人生

桑名正博さんは日本の音楽シーンにおいて、その歌声と波乱に満ちた人生で多くの人々の心を魅了した唯一無二の存在です。
彼の生涯はロックミュージシャンとしての輝かしい成功と実業家としての挑戦、そして深い人間愛に溢れた社会活動に彩られていました。
彼の死は多くの人に悲しみをもたらしましたが、その音楽と精神は今もなお、多くの人々の中で生き続けています。

波乱に満ちた生い立ちとその音楽のルーツ

桑名正博さんは1953年8月7日、大阪で生まれました。
生家は江戸時代から続く廻船問屋「桑文(後に桑名興業と改称)」。7代目跡取り息子で、家族4人(両親と妹)で700坪もの広大な邸宅に住み、女中も2人いるという非常に裕福な環境で育ちます。

その恵まれた境遇とは裏腹に、破天荒で自由奔放な性格でした。甲南中学校では引きこもりで留年を経験し、後に退学して公立中学校に転校。高校も、入学式に一度出席しただけで中退するというエピソードが残っています。
この反骨精神が、彼の音楽の原点になったのかもしれません。
1970年、16歳の時に大阪万博でアルバイトをしたことをきっかけにサンフランシスコへ移住し、海外で音楽への情熱を深めていきました。

1971年に帰国すると、彼はロックバンド「ファニー・カンパニー」を結成し、1972年に「スウィートホーム大阪」でデビューしました。
当時は「東のキャロル、西のファニカン」と称されるほどの人気を博しましたが、メンバーはプロ意識よりも「思い出を作って20歳で辞めよう」という意識が強く、1974年に解散してしまいます。

その後、桑名さんは1975年からソロ活動を開始します。
彼の初期のソロ作品には、ルーツであるアメリカンロックの渋く泥臭い要素が色濃く出ていました。

「哀愁トゥナイト」「セクシャルバイオレットNo.1」での大ヒット

1977年、桑名さんの音楽キャリアに大きな転機が訪れます。作曲家の筒美京平さんと作詞家の松本隆さんというヒットメーカーと出会い、同年6月に筒美・松本コンビによるシングル「哀愁トゥナイト」をリリースしました。
この曲は20万枚を超えるヒットを記録し、桑名さんの名を広めるきっかけとなります。

成功の裏で、彼は大麻取締法違反容疑で逮捕されるという大きな試練に直面しました。この逮捕は世間を騒がせましたが、彼にとって「罪は罪、才能は才能」と割り切ってくれたプロデューサーや関係者の支えが、大きな転機となります。父親からも「日本一の歌手になるなら」という条件で、音楽活動の継続が許されました。

この困難な時期、留置所で生まれたのが名曲「月のあかり」です。彼は独房の中でこの曲を完成させ、その歌詞とメロディには心の葛藤や希望が込められていました。

そして1979年7月21日、桑名さんはカネボウ化粧品のキャンペーンソングとして「セクシャルバイオレットNo.1」をリリースします。
この曲は松本隆さんが、「キャッチコピーが先にある歌詞は書きたくない」と悩みながら書き上げた、渾身の一曲でした。
「セクシャルバイオレットNo.1」はオリコンチャートで3週連続1位を獲得し、累計売上60万枚を超える自身最大のヒット曲となります。桑名さんは押しも押されもせぬ売れっ子ロックシンガーとしての地位を確立し、テレビの音楽番組にも積極的に出演するようになりました。

家族との絆と波乱のプライベート

桑名さんのプライベートは、音楽活動と同様に波乱に満ちていました。

1980年には歌手のアン・ルイスさんと結婚し、翌年には長男の美勇士さんが誕生しました。しかし1984年には離婚することになります。
アン・ルイスさんは桑名さんの訃報を聞いた際、10秒ほど沈黙した後に「ウソでしょ…」と深い悲しみを表したそうです。

離婚後、桑名さんは再婚し、1988年には次男の桑名錬さんが誕生しました。
彼は破天荒な言動とは裏腹に、家族を非常に大切にする人でした。
妹で、同じくミュージシャンの桑名晴子さんとは若い頃から非常に仲が良く、互いのライブに参加し、デュエットすることも多くありました。
桑名さんは晴子さんのデビューを全力でサポートし、「お前が輝くのを一番近くで見ていたい」と語っていたそうです。

長男の美勇士さんも父の影響を受けて、ミュージシャンの道に進みます。
桑名さんは美勇士さんの音楽活動を尊重し、「美勇士には美勇士の道がある。俺は背中を押すだけ」と語っていました。桑名さんの死後も「歌で受け継いでいく」と父親の魂を継承することを誓い、音楽活動を続けています。

桑名さんの結婚生活は彼自身の浮気癖により、複雑な側面がありました。2番目の妻である栄子さんは彼の女性問題に心を痛めながらも、「病気」だと諦め許し続けたそうです。
このような他人には計り知れない関係が、ご夫婦だけの厚い信頼を築いていたのかもしれません。

社会貢献活動と隠された素顔

桑名正博さんは破天荒な言動や不祥事で世間を騒がせることもありましたが、その一方で、行動的な社会活動家としても多くの足跡を残しています。
約20年間にわたり障害のある子どもたちへの支援事業、海外の戦地の子どもたちへの支援活動、そして捨て犬の里親探しなど、地道な社会貢献活動を続けていました。

本人は売名行為と中傷されることを嫌い、これらの活動を積極的にアピールすることはありませんでした。
しかし、生前の彼のその姿勢や活動には西城秀樹さん、B’zの松本孝弘さん、河村隆一さんなど多くの歌手仲間や芸能人が賛同し、チャリティー活動に協力していました。

豊能障害者労働センターが主催した「桑名正博コンサート・風の華」は、1990年から93年まで連続4回、そして1997年の記念イベントを含め合計5回開催されています。
コンサートは豊能障害者労働センターにとって「奇跡」としか言いようがないほどの支援となり、その収益は彼らの日常の赤字を埋める「命綱」でした。

桑名さんは阪神淡路大震災の復興支援活動にも積極的に参加し、ライブでの収益を寄付するだけでなく、現地に足を運んで音楽を通じて励ましの声を届けていました。
あるボランティアイベントでは緊張する子どもたちに「俺だって緊張するんだよ。でも楽しくやろう!」と優しく声をかけ、場を和ませたというエピソードも残っています。

桑名正博さんの有名曲3選

「セクシャルバイオレットNo.1」

この曲は、桑名正博さんの最も代表的なヒット曲です。1979年7月21日に4枚目のシングルとしてリリースされ、カネボウ化粧品のキャンペーンソングに採用されました。
作詞は松本隆さん、作曲は筒美京平さんが手掛け、オリコンチャートで3週連続1位を獲得する大ヒットとなります。

プロデューサーの寺本幸司さんは、この曲で桑名さんを「日本一にする」という父親との約束が果たせそうだと感じたそうです。
桑名さん自身は、歌詞の「うすい生麻きあさに着替えた女は、くびれたラインが悲しい」という部分に戸惑いを見せましたが、カネボウ化粧品の工場で商品開発者の熱意を聞き、納得して歌い上げました。

この曲は、B’z(2021年)、ハッチー・ブラックモア(1997年)、つんく♂(2007年)、五木ひろし(2013年)、中森明菜(2016年)など、多くのアーティストによってカバーされています。特にB’zの松本孝弘さんは、B’z結成前に桑名さんのバックバンドでこの曲を演奏した経験があり、カバーのオファーが「きっと縁」だとコメントしています。

「月のあかり」

桑名正博さんのアルバム『テキーラ・ムーン』に収録されている名曲です。作詞は下田逸郎さん、作曲は桑名正博さん自身が手掛けました。

この曲は、桑名さんが大麻取締法違反容疑で逮捕され、留置所に収監されていた期間に生まれました。
プロデューサーの寺本幸司さんが面会に訪れた際、桑名さんは独房の中で小声で「いい曲ができました」と歌い始めたのが、この曲だったそうです。

大阪ではカラオケの定番曲として非常に高い知名度を誇り、ある年齢以上の男性ならほとんどの人が歌えると言われています。
桑名さんは阪神・淡路大震災の復興支援活動で現地に足を運び、子供たちと一緒にこの曲を演奏したエピソードも残っています。
B’zの松本孝弘さんも2014年に、インストゥルメンタルでカバーしています。

「哀愁トゥナイト」

1977年6月にリリースされた、桑名正博さんのヒット曲です。作詞は松本隆さん、作曲は筒美京平さんが担当し、多くの人に「桑名正博」というミュージシャンの存在を知らしめました。
歌詞には英語のような語感やリズムがあり、後のサザンオールスターズも好んで使ったブラスパートが加わっていたため、当時「カッコイイ」と評されました。
プロデューサーの小杉理宇造さんは桑名さんが大麻で逮捕され、執行猶予期間中だったにもかかわらず、筒美京平さんと松本隆さんと共にこの曲で再び活動を開始すべきだと勧めたそうです。

桑名正博さんの知られざる名曲2選

「そこからがパラダイス」

桑名正博さんのアルバム『For Paradise』に収録されています。このアルバムは多くのファンから「隠れた名作集」と評されており、その中でも「そこからがパラダイス」は特に「名曲」として挙げられています。
大ヒットしたメジャーな楽曲というよりは、桑名さんが自身の表現したい世界が詰まっており、聴いているとライブを聴いているような心地よさを感じさせます。

「ねがえり」

「そこからがパラダイス」と同じく、アルバム『For Paradise』に収録されている楽曲です。
この曲はリマスタリング版のレビューで「この曲にこそ桑名正博そのものがつまっているような気がする」と評され、「いちばんの名曲」として特に推奨されています。
桑名正博さんの深遠な歌の世界と人間性が凝縮された一曲であり、ファンにとっては必聴の隠れた名曲と言えるでしょう。

突然の別れと受け継がれる音楽

2012年7月15日、桑名さんは大阪市内の自宅で脳幹出血により倒れ、意識不明の重体となりました。
入院当初は余命最大3日と告げられますが、医師も原因不明と語るほどの生命力を発揮し、104日間の闘病を続けます。
2012年10月26日、最後は残念ながら59歳という若さで、心不全のため息を引き取りました。

彼の葬儀・告別式は2012年10月30日に大阪市阿倍野区のやすらぎ天空館で営まれ、内田裕也さんが葬儀委員長を務めました。長年にわたり桑名さんのロック活動を支え、デビューを後押しした人物です。桑名さんを「本当にナイスガイだった」と評し、若すぎる死を悼みました。

故人の希望通り賑やかな音楽葬となり、長男の美勇士さんと妹の桑名晴子さんが桑名さんの代表曲の一つである「月のあかり」を歌唱し、参列者から拍手が送られます。
葬儀後にはファンへの別れを告げるため、大阪のメインストリートである御堂筋でリンカーン霊柩車による「御堂筋桑名パレード」が実施され、多くの市民に見送られました。

桑名正博という稀有な存在

桑名正博さんはその突然の死により、多くの人々に深い悲しみを与えました。
しかし、彼の音楽は今もなお、多くの人々に愛され続けています。
「月のあかり」は大阪ではカラオケの定番曲となるほどの知名度を誇り、世代を超えて歌い継がれています。その創作背景を知れば、より深く心に響くはずです。

彼の歌声は甘くハスキーでセクシーでもあり、ロック、ブルース、ジャズ、カントリー、バラードなどあらゆるジャンルの曲を、桑名さん自身の「味」たっぷりに歌いこなすことができました。

B’zのギタリスト松本孝弘さんは、B’z結成前に桑名さんのバックバンドでギターを弾いています。
桑名さんからの厳しい指導を受けながらも、「この人に出会えなかったら今の僕はなかったでしょう。心から尊敬、感謝しています」と語るほど、深い尊敬を抱いていました。
B’zは後に「セクシャルバイオレットNo.1」をカバーし、松本さんは「改めてまたこのようなチャンスが巡ってきたのはきっと縁ですね。兄貴もきっと喜んでくれていることでしょう」とコメントしています。

川﨑麻世さんも桑名さんを「兄貴」と慕っていました。
桑名さんが彼のために作った「RAINな20才にさよならを」という曲は、東日本大震災のチャリティーライブで、桑名さんのギター演奏で初めて披露できたそうです。
「思い出がいっぱい詰まったこの曲を、兄貴の演奏で歌えてよかった」と振り返っています。

彼の親友であった加賀テツヤさんは、桑名さんの豪快ながらもシャイで心優しい人柄を評し、恵まれない子どもたちへのチャリティー活動に熱心だったことを伝えています。

桑名正博さんはその破天荒なイメージの裏に、深い人間的な温かさ、音楽への尽きせぬ愛情、そして「男と女の微妙な綾と機微」を表現する天賦の才を秘めていました。
彼の生涯はその音楽だけでなく、社会貢献活動や人との深い絆を通じて、多くの人々の心に深く刻まれる遺産となっています。

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