アイルランドが生んだ情熱のギタリスト ロリー・ギャラガー その生涯
ロリー・ギャラガーは、アイルランドが世界に誇る伝説的なギタリストです。彼の生涯は音楽への情熱と誠実さに貫かれていました。多くのミュージシャンが彼から影響を受けたと公言しており、その評価は死後も高まり続けています。
ブルースに魅せられた少年時代
ロリー・ギャラガーは1948年、アイルランドのドニゴール県バリーシャノンで生まれ、後にコーク県で育ちました。幼い頃からラジオを通じて音楽に触れ、特にロイ・ロジャースのようなカウボーイ歌手や、ロン・ドネガンといったスキッフルアーティストに影響を受けました。ドネガンがウディ・ガスリーやレッドベリーといったアメリカのブルースやフォークをカバーしていることを知ると、彼はオリジナルの音楽を掘り下げ始めました。
こうしてマディ・ウォーターズをはじめとするブルースの巨匠たちに出会い、その魅力に深く引き込まれていきます。自宅にブルースレコードはなかったため、自分で探し求め、貪欲に吸収していきました。
9歳の時に最初のギターを与えられ、独学で演奏技術を磨き、地元のコンテストで優勝するまでになりました。10代半ばにはショーバンドに参加し、プロミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせます。ショーバンドでの経験は、彼に多くのことを学ばせましたが、やがて自身の求める音楽との違いを感じるようになり、より自由に演奏できる場を求め始めました。
テイストからソロへ ステージでの飛躍
ロリー・ギャラガーは、ブルースロック・トリオであるテイストのフロントマンとして、国際的な評価を得ました。ワイト島フェスティバルでの圧倒的なパフォーマンスは伝説となっています。
しかし、バンドはマネジメントの不和や音楽性の違いから1970年に解散しました。この解散は彼にとって「トラウマになるような」「非常にひどい時期」であり、その後ライブでテイスト時代の楽曲を演奏することは二度とありませんでした。テイスト解散をテーマにした楽曲もいくつか書いており、「I Fall Apart」、「For the Last Time」、「Bought and Sold」などがそれに当たるとされています。
彼はテイスト解散についてインタビューで語るのを非常に不快に感じていたと言います。さらに、テイストの活動でメンバーの誰も音楽による報酬を得ておらず、ロリーは1992年まで続いた法的な問題に収入の80%近くを費やしました。これらの経験は、彼のメンタルヘルスに長く影響を与えたとされています。
テイストの元マネージャー、エディ・ケネディから印税を取り戻すための訴訟を兄のドーナル(マネージャー)は主張しましたが、ケネディは裁判になる前に譲歩し、テイストの印税を譲渡することに同意したものの、資金がないと主張したため、ロリーはテイストのアルバム売上からの収益を一切受け取ることができませんでした。
多様な音楽性と探求心
ロリー・ギャラガーはブルースマンとして広く認識されていますが、彼の音楽性はブルースだけにとどまりませんでした。
幼い頃からアイリッシュ・フォーク音楽を聴いて育ち、彼のユニークなスタイルにはアイリッシュ・トラッドの影響が見られます。
ソロ初期のアルバムにはカントリーの影響を受けた楽曲(「If I Had A Reason」、「It’s You」)も含まれています。
ジャズにも深い関心を持ち、ジョン・コルトレーンやエリック・ドルフィーを敬愛しており、自身もサックスを演奏しました。彼の楽曲には、ジャズのフレーズやボトルネックを使ったラグタイム奏法も聴き取ることができます。
アルバム『Fresh Evidence』では、ダルシマー、エレクトリック・シタール、マンドーラといった様々な楽器にも挑戦しています。ザディコ音楽に魅せられ、クリフトン・シェニエに捧げた「King of Zydeco」という楽曲も制作しました。
彼は根っからの純粋主義者でありながらも、ブルースの枠を超えてロック、フォーク、ジャズといった様々な要素を自由に織り交ぜることを好んだのです。
内面の葛藤と健康問題の真実
献身的なライブパフォーマーとして知られる一方で、ロリーは非常に内向的でプライベートな人物でした。
ステージ上ではエネルギーを爆発させますが、ステージを降りると独りホテルで読書や映画、音楽鑑賞をして過ごすことが多かったようです。
結婚せず、長期的に関係を続けた女性や子供もいませんでした。音楽への絶対的な献身に対する、代償だったかもしれません。
彼の最期に関して、「アルコール依存症による肝臓病で亡くなった」という誤解が広く流布していますが、事実ではありません。彼の死因は肝臓移植後の合併症、具体的には黄色ブドウ球菌感染症(MRSA)でした。
肝臓移植が必要となった背景に、長年のツアーによる身体への負担に加え、飛行機恐怖症や甲状腺疾患、乾癬、喘息といった健康問題に対する処方薬の服用があったとされています。
これらの薬とアルコールが組み合わさることで肝臓に問題が生じたという指摘もありますが、親しい人々によれば彼はヘビードリンカーではなく、パフォーマンスのために飲むこともなく、シラフの期間も長かったとのことです。
晩年に体重が増加したことや、投薬の副作用で酔ったように見えた一度のステージ(1992年のTown and Country Club)を捉えてアルコール依存症だと決めつけるのは、彼の功績を歪める「司法の誤り」だと強く主張されています。
ロリーは不安、うつ病、強迫性障害(OCD)にも苦しんでおり、これらの精神的な問題は彼の内面に深い傷を与えていました。特に学校での虐待経験が、中年期に再燃した可能性も示唆されています。
当時、このような問題へのサポート体制は存在しませんでした。
ステージこそが彼にとって唯一、内面の葛藤を忘れ、真の自分を垣間見せられる場所だったのかもしれません。
1994年7月には自殺願望を抱き、窓枠に足を踏み出そうとしたところを友人の電話で止められたという衝撃的なエピソードも明かされています。
1990年代のインタビューでは音楽ビジネスに「使い果たされた」と感じ、熱意を失い「辞めて釣りをしたり、絵を描いたりした方がマシだ」と語るなど、その苦悩が滲み出ています。
ベルファストへの献身
北アイルランド紛争(The Troubles)の最中、多くのアーティストがベルファストでの公演を避ける中、ロリー・ギャラガーは一貫してベルファストでのライブを続けました。かつてベルファストに住み、その地で演奏を学んだことから特別な思い入れがあり、「ベルファストで演奏しない理由が分からない」と語っていました。
紛争下においても、彼のコンサートはプロテスタントとカトリック双方のコミュニティから観客を集め、政治や宗教に縛られない、音楽と共通の記憶に基づいた「アイルランドらしさ」を育む場となりました。
彼は自らを「ミュージシャンであり、政治家ではない」とし、紛争について政治的な発言をすることは避けましたが、彼の献身的な行動そのものが困難な時代のベルファストに希望と癒やしをもたらし、彼を音楽的なヒーローだけでなく、文化的なヒーローへと押し上げました。2025年にはベルファストのアルスター・ホール外に銅像が建立されるなど、彼の貢献は今も称えられています。
頑固さと「人々のギタリスト」
ロリー・ギャラガーは自身の音楽性やスタイルに関して、非常に頑固です。
商業的な成功のために音楽性を変えることを拒否し、シングルをリリースすることさえ避ける傾向がありました。これはアイルランド人気質とも言われますが、彼の「一本気」な性格の表れであり、それがファンを惹きつける魅力の一つでもあります。
彼は派手な衣装やイメージ作りを好まず、着慣れたチェックシャツとジーンズでステージに立つことを選びました。ショーバンド時代に着せられたユニフォームが嫌いだったことや、イメージのために着飾ることを本人が不快に感じていたためです。
彼のこのような飾らない姿勢が「人々のギタリスト」と呼ばれる所以となり、多くの労働者階級の聴衆から支持されました。彼の頑固さは、時にレコード業界や音楽トレンドから彼を孤立させることにも繋がります。特にパンク登場後は「古株」と見なされることに、心を痛めていたと言います。しかし彼は最後まで、自身の信じる音楽を追求し続けました。
人々の心に響くパフォーマンスとプレイスタイル
ロリー・ギャラガーの真骨頂は、何と言ってもライブパフォーマンスにあります。彼はステージ上で全身全霊を込めて演奏し、その圧倒的な情熱とエネルギーは観客を熱狂させました。シャイで内気な普段の姿とは打って対照的に、ギターを手にすると別人のようにダイナミックなショーマンへと変貌するのでした。
ギタープレイは非常にテクニカルでありながら、常にブルースの魂に根ざします。トレードマークである長年使い込まれたフェンダー・ストラトキャスターからは、生々しく、原始的なエネルギーに満ちたサウンドが放たれました。エフェクターを多用せず、ギター本体のボリュームやトーン、そしてピッキングの強弱や角度で音色を自在に変化させるスタイルは、彼の卓越した技術と音楽への深い理解を示すものでした。スライドギターの技術も非常に高く評価されており、リゾネーターギターやマンドリンといった様々な楽器も巧みに演奏しました。
彼のライブアルバム、特に「Live in Europe」や「Irish Tour ’74」は、史上最高のライブアルバムとして今なお語り継がれています。ジョニー・マーが彼のライブでの激しさを「怖かった」と語るほど、そのパフォーマンスは強烈でした。
ギターと機材への深いこだわり
ロリー・ギャラガーといえば、傷だらけの1961年製フェンダー・ストラトキャスターが代名詞です。
1963年にコークの楽器店で中古で購入し、生涯にわたって弾き続けました。このギターは激しい演奏と汗の酸性度から塗装が剥がれ落ち、独特の風格を纏まとうようになりました。
彼はこのギターを「体の一部」のように大切にし、レコーディングでもライブでも、(他に多くのギターを所有していましたが)このストラトキャスターが中心でした。
アンプやエフェクターにもこだわりを持っていました。特に初期には、フェンダー・ストラトキャスターをボックスAC30アンプとダラス・レンジマスター・トレブルブースターに繋ぐシンプルなセットアップを愛用しました。
この組み合わせから生まれるクリーン(歪んでいない音)からクランチ(クリーンとディストーション(強く歪んだ音)の中間に位置する、軽く歪んだサウンド)、そして激しいオーバードライブまで、手元のニュアンスで自在に操るサウンドは、彼の代名詞となりました。
クイーンのブライアン・メイはロリーに機材のセッティングについて尋ね、彼からAC30とトレブルブースターの組み合わせを教わったエピソードを語っています。これはメイのサウンドに、大きな影響を与えました。
後にはフェンダーアンプやマーシャルコンボ、様々なエフェクターも試しましたが、彼の根底にあるのはギターとアンプ、そして自身のテクニックで最高のサウンドを引き出すという思想でした。彼の機材への深い理解と試行錯誤は、多くのギタリストにとって探求の対象となっています。
推薦盤3枚
『ライヴ・イン・ヨーロッパ』 (Live in Europe) (1972)
これはロリー・ギャラガーにとって初のライブアルバムです。1972年のヨーロッパツアーでのパフォーマンスを収録しており、彼の人気を決定づけ、「黄金期」に入るきっかけとなった「出世ライブ盤」と評されています。
ライブならではのソウルフルでエネルギッシュな演奏が楽しめ、特にギター演奏と歌いっぷりが高く評価されています。
ストラトキャスターはもちろんのこと、アコースティックギター、リゾネーターギター、マンドリンでの演奏も含まれており、彼の多才さが光ります。
このアルバムがリリースされた1972年には、英国の音楽雑誌『メロディ・メーカー』のギタリスト部門で1位に選出されています。ブルースロックに興味を持った人に「まず聴いてほしい1枚」としてしばしば挙げられます。
収録されている楽曲には、「Messin’ with the Kid」、「Laundromat」、「In Your Town」、「Bullfrog Blues」などがあります。このアルバムは、彼のライブでのエネルギーや雰囲気を非常によく捉えています。
『タトゥー』 (Tattoo) (1973)
これは1973年にリリースされた彼の4枚目のスタジオアルバムです。ロリー・ギャラガーの代表的なスタジオ作品の一つと見なされており、楽曲の質と演奏の充実度が非常に高い作品だと評価されています。
このアルバムではブルースだけでなく、ロック、フォーク、ジャズといった幅広い音楽性が取り入れられており、彼の多様な才能を感じられる名作です。「Tattoo’d Lady」や「A Million Miles Away」はこのアルバムからの楽曲で、後にライブの定番となりました。
『タトゥー』は彼の「ベストスタジオアルバム」であると言われることもあり、キャリアにおける重要作です。
『コーリング・カード』 (Calling Card) (1976)
1976年に発表された8作目のアルバムで、ディープ・パープルやレインボーでの活動で知られるベーシストのロジャー・グローヴァーがプロデュースを担当しました。『タトゥー』と並んでロリー・ギャラガーの代表的なスタジオ作品として挙げられることが多く、ロジャー・グローヴァーのプロデュースにより、まとまりがあり完成度の高い作品に仕上がっていると評価されています。
ブルース色は『タトゥー』よりもやや薄めですが、非常にパワフルで生々しいサウンドが特徴です。
このアルバムには「Do You Read Me」、「Moonchild」、「Calling Card」、「Edged In Blue」、「Secret Agent」などの楽曲が収録されています。特に「Moonchild」はこのアルバムからの楽曲で、初めてシングルカットされた曲でもあります。
3枚のアルバムは『ライヴ・イン・ヨーロッパ』での初期ライブの圧倒的なエネルギー、『タトゥー』でのスタジオ作品における音楽性の幅広さと完成度、『コーリング・カード』でのロジャー・グローヴァーとの協力によるプロダクションの質の高さなど、ロリー・ギャラガーの多様な魅力を知るための良き入り口となるでしょう。
色褪せない伝説と遺産
ロリー・ギャラガーは1995年に亡くなりましたが、その音楽と精神は今なお多くの人々に影響を与え続けています。
ブライアン・メイ、ジョニー・マー、スラッシュ、ジ・エッジ、ジョー・ボナマッサなど、時代やジャンルを超えた数多くのギタリストが彼を重要な影響元として挙げています。彼らはロリーの卓越した演奏技術だけでなく、商業主義に流されない誠実さ、そしてファンや関係者に対する謙虚で親切な人間性からインスピレーションを受けたと語っています。
ジミ・ヘンドリックスが「世界最高のギタリストは誰か」と問われた際に「ロリー・ギャラガーに聞いてくれ」と答えたという有名な逸話がありますが、これは根拠のない都市伝説であると指摘されています。それでもこの逸話が広く語られること自体が、彼が同時代の最高のギタリストたちと比較されるほどの存在であったことの証と言えるでしょう。
アイルランド各地にはロリーを称える像やプレートが設置されており、彼の故郷バリーシャノンでは毎年トリビュートフェスティバルが開催され、世界中からファンが集まります。彼の音楽はコンピレーションアルバムやライブ映像として再リリースされ、新たな世代のリスナーにも届けられています。
音楽に全てを捧げた真のギタリスト
ロリー・ギャラガーはスターダムや派手さを求めず、ただひたすらに自身の音楽を追求し、ライブパフォーマンスに情熱を注ぎました。
彼の演奏は技術的に優れているだけでなく、感情豊かで、聴く者の心を揺さぶる力を持っています。
商業主義に屈しない姿勢、「人々のギタリスト」としての誠実さ、そしてオフステージでの謙虚な人柄は、多くのミュージシャンやファンにとって真のアーティストの姿として記憶されています。
彼の遺産はその素晴らしい音楽作品と共に、多くの人々の心の中で生き続けているのです。
追記:ロリー・ギャラガーの伝説的ストラト、国家の努力と家族の願いが実りアイルランド国立博物館へ
アイルランドのギターヒーロー、ロリー・ギャラガーが愛用した伝説的な1961年製フェンダー・ストラトキャスターが、アイルランドの「国の宝」として国家的な注目を集め、最終的にアイルランド国立博物館に収蔵される運びとなりました。
これは高額なオークションでの落札、政府高官の介入、そしてギャラガー家の長年の苦悩が交錯した結果です。
アイルランド副首相による「国の宝」発言と購入検討
この伝説的なストラトキャスターがオークションに出品されることが発表されると、アイルランド国内では大きな反響を呼びました。
アイルランドのミホル・マーティン副首相兼外相は、ギャラガーのギターを「国の宝」と称し、競売にかけられる前に国が購入する方法を検討することを公言しました。
マーティン副首相はこのギターがアイルランドに留まることを強く希望しており、自身がギャラガーの故郷であるコークの出身で、かつてコーク市長としてギャラガーのために市民レセプションを開催した経験があることも、この思いを後押ししました。
家族が語る売却の苦渋な決断
一方で、ロリーの弟で元マネージャーのドナル・ギャラガーは、オークションでの売却を決めた背景に「いくつかの要因」があったことを明かしました。
その筆頭に挙げられたのは、ギターの「安全性の懸念」でした。
最近、ロリーの機材が保管されていた倉庫にガス会社の緊急作業員のような服装をした6人の男たちがボルトカッターやディスクグラインダーを持って侵入しようとする「恐ろしい事件」が発生し、これがギターに新しい安住の地を見つけてあげたいという思いを強くしたといいます。
このギターの保険と保管にかかる費用は相当なもので、30年近くにわたる保管が家族にとって長期的な負担となっていました。
ドナル自身が癌の治療に成功したことも、「自分が亡くなった後はどうなるのだろう?」とギターの将来を深く考えさせるきっかけになりました。
このストラトキャスターは「家族が楽しむようなものではなく」、暖炉の上に飾っておくこともできない代物であり、ツアーで旅に出るたびに安全を心配して「眠れない夜を過ごす」こともあったと述べています。
過去には1998年にも博物館での展示の話があったものの、実現には至っていませんでした。
こうした状況から、ギャラガー家にとってギターを含むコレクションの売却は、現実的な選択だったとされています。
高額落札とアイルランド国立博物館への寄贈
そうした背景の中、この伝説的なストラトキャスターは2024年10月17日にロンドンのボナムズで競売にかけられました。
予想落札価格は70万ポンドから100万ポンド(約1億4500万円~2億円)とされていましたが、結果として889,400ポンド(約1億7400万円)という高額で落札されました。
これはこれまでオークションで落札されたギターの中でも上位に位置し、アイルランド人所有の楽器としては過去最高額を記録しています。
このギターを購入したのはLive Nation Gaiety Ltdで、彼らはアイルランド国立博物館への寄贈を視野に入れていました。
この寄贈計画はアイルランドの観光・文化・芸術・ゲール語・スポーツ・メディア省、博物館、そして購入者の間で事前に協議された上で進められます。
売却後、アイルランドのキャサリン・マーティン大臣は「ギターが恒久的にアイルランドに戻ってくるよう特別な努力がなされた」ことに感謝の意を表し、今回の購入契約により「有名なストラトキャスターは今後、国の所有物として保存され、世界中のロリー・ギャラガーのファンや一般の人々が鑑賞できるようになる」と付け加えました。
ロリー・ギャラガーの伝説的なストラトキャスターは、その音楽的価値だけでなく、アイルランドの文化遺産としての重要性、そして家族が長年抱えてきた管理の課題という複数の側面から、最終的に国の管理下で恒久的に保存されるという最適な形での帰還を果たしました。
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