マーラー 交響曲第10番 未完成の謎と魅力 おすすめ名盤ガイド【初心者向け】

クラシック音楽

グスタフ・マーラーは、交響曲という形式を通して自身の内面や世界観を表現し続けた偉大な作曲家です。彼の作品は規模が大きく、深い精神性を持ち、多くの聴衆に感銘を与えてきました。その最後の交響曲となった第10番は、彼の死によって未完に終わりましたが、後世の人々の努力によってその全貌を知ることができるようになりました。

この交響曲第10番は、マーラーの人生最晩年に書かれた作品であり、そこには彼の個人的な苦悩や感情、そして音楽の可能性への探求が色濃く反映されていると感じられます。今回は、この魅力あふれる、そして謎めいた交響曲第10番の世界にご案内します。

マーラーが最後に挑んだ交響曲

マーラーは1910年の夏に交響曲第10番の作曲に着手しました。前年に交響曲第9番を完成させ、創作への意欲を再び燃やしていた時期です。しかし、彼は翌1911年の2月に病に倒れ、5月には亡くなってしまいます。そのため、交響曲第10番は完成に至りませんでした。

遺された楽譜は第1楽章がほぼ完成に近い状態でしたが、他の楽章はスケッチや、楽器指定が部分的に書き込まれた略式総譜(Particell = いくつかの五線譜にパートの配分を概説した楽曲の下書き)の段階でした。マーラーは5楽章構成の大きな交響曲としてこの作品を構想していたようですが、その全てをオーケストレーションする時間は残されていませんでした。

未完の背景にある人間模様

交響曲第10番が未完に終わった背景には、マーラーの健康状態の悪化だけでなく、彼の私生活における大きな危機も影響していると考えられています。特に作曲を進めていた1910年には、妻アルマと建築家ヴァルター・グロピウスとの関係が明らかになり、マーラーは大きな精神的衝撃を受けました。

この夫婦の危機は、交響曲第10番の音楽にも反映されていると言われています。マーラーが残したスケッチには、楽章のタイトルや音楽に関する指示だけでなく、妻アルマへの個人的なメッセージや、苦悩に満ちた言葉が多く書き込まれています。例えば、第4楽章には「悪魔が私と踊る、狂気が私にとりつく」と書かれ、第5楽章のコーダには「君のために生き 君のために死ぬ アルムシ!」(アルムシはアルマの愛称)と記されています。

マーラーの死後、遺稿は妻アルマの管理下に置かれました。アルマは当初、夫の草稿に他人の手を加えることに消極的だったようで、楽譜は長い間公開されませんでした。そのため、作品の完成度についても関係者の間で様々な憶測が飛び交いました。しかし、アルマが最終的にファクシミリ版の出版に同意し、補筆完成の試みを許可したことで、この交響曲の運命は大きく変わることになります。

マーラーが交響曲第9番を完成させた後に亡くなったことから、「第九の呪い」というジンクスが囁かれることがあります。マーラー自身もこれを意識し、交響曲第8番の次に作曲した『大地の歌』には交響曲の番号を付けなかったという逸話が知られています。彼が第9番を完成させた後、第10番が未完に終わったことは、このジンクスと関連付けて語られることもあります。

作品に触れる5つの楽章

マーラーが構想した交響曲第10番は、5つの楽章からなる対称的な構成を持っています。中央に置かれた短い第3楽章を挟むように、第2楽章と第4楽章にスケルツォ的な音楽が配置され、両端には長大な緩徐楽章が置かれる予定でした。

第1楽章は「アダージョ」です。これはマーラー自身がほぼ完成させた楽章であり、単独で演奏される機会も多いです。この楽章は、調性が曖昧で虚無感や諦念を帯びた主題で始まり、無調に近い響きや激しい不協和音が登場します。特にクライマックス近くで現れる強烈な不協和音は「カタストロフ」と呼ばれ、聴く者に大きな衝撃を与えます。この部分でトランペットが長く保持するA音は、アルマ(Alma)の頭文字を象徴しているという解釈も存在します。

第2楽章はスケルツォです。激しい変拍子を伴う主部と、レントラー風の優雅なトリオが対比されます。荒々しい舞曲と懐古的な雰囲気が交錯する楽章です。

第3楽章は「プルガトリオ(煉獄)」と題された短い楽章です。5楽章構成の中心に位置し、ダンテの『神曲』に由来すると考えられています。歌曲的な要素が強く、内面的な苦悩や浄化の過程を描いていると解釈されることがあります。マーラーの歌曲集『少年の魔法の角笛』からの引用も含まれています。「死!変容!」「憐れみ給え!!おお神よ!!なぜあなたは私を見捨てられたのですか?」といった書き込みが残されています。

第4楽章もスケルツォです。この交響曲にはスケルツォ楽章が2つあるのが特徴的です。劇的で悲愴的な雰囲気を持つ主部と、ヴァイオリンやヴィオラ独奏を伴うノスタルジックなトリオが現れます。楽章の最後には打楽器が多く登場し、特にミュートした軍楽大太鼓の一撃が次の楽章に続きます。この大太鼓の音は、マーラーがアルマと共に目撃した消防士の葬儀の記憶に基づいていると言われています。ここには「悪魔が私と踊る、狂気が私にとりつく」などの激しい言葉が書き込まれています。楽章の最後にはバスドラムの連打と、「これが何を意味するかは、君だけが知っている」というアルマに向けたと思われる書き込みがあります。

第5楽章は「フィナーレ」です。第4楽章から休みなく続きます。バスドラムと低音楽器による重苦しい序奏で始まり、フルートによる清らかな旋律が登場します。この楽章ではそれまでの楽章のモチーフが次々に引用され、回想されます。第1楽章の不協和音も再び現れます。最後は感動的な高まりを見せますが、やがて穏やかになり、マーラーがスケッチに書き残したアルマへの言葉「君のために生き!君のために死す!アルムシ!(アルマの愛称)」と共に静かに曲を閉じます。この言葉はマーラーの最後のメッセージとして、様々な解釈を生んでいます。

補筆完成版という選択肢

交響曲第10番はマーラー自身が完成させることができませんでした。しかし、遺されたスケッチからは作品全体の構想をかなり読み取ることができます。そこで後世の研究者や作曲家たちがマーラーの意図を推測し、未完の部分にオーケストレーションや補筆を施して全5楽章を通して演奏できる版を作成する試みが行われました。

これらの補筆完成版の中で最も広く演奏され、受け入れられているのがイギリスの音楽学者デリック・クックによる版です。クックはマーラーの自筆譜を詳細に研究し、マーラーが残した音符を最大限に尊重しながら、演奏に必要な最低限の補筆を目指しました。彼の版は何度か改訂されていますが、多くの指揮者によって演奏・録音されています。

もちろん、未完の作品に他人が手を加えることについては様々な意見があります。国際マーラー協会のように、作曲者自身の手が加わっていない楽譜を正統としない立場から第1楽章のみを「全集版」として出版しているケースもあります。

クック版以外にも、クリントン・カーペンター版レモ・マゼッティ版ルドルフ・バルシャイ版など、複数の補筆完成版が存在し、それぞれに特徴があります。例えば、バルシャイ版は打楽器を多用するなど、より重厚な響きを目指していると言われます。

クックの挑戦

デリック・クックはマーラーの交響曲第10番の補筆に大きな貢献をした人物です。彼は音楽学者、音楽評論家として活躍し、特に19世紀の音楽に関心を持っていました。

クックがマーラーの第10番の遺稿と出会ったのは、BBCの番組制作がきっかけでした。1960年のマーラー生誕100周年を記念する番組で、クックは未完の第10番を演奏できないかと考えたのです。彼はゴルトシュミットなどの協力を得て、残された楽譜を基に補筆を進め、全5楽章の演奏可能なバージョンを一応完成させました。これがクック版の第1稿となり、1960年12月19日にラジオ放送で初演されました。

しかし、この放送は遺稿の管理者であるアルマ・マーラーの承諾を得ずに行われたため、アルマはこれに激怒し、演奏の再放送や今後の上演・出版を著作権者として一切禁止しました。ここで一度、クック版の可能性は閉ざされてしまいます。

転機が訪れたのは1963年です。クック版の放送録音を聴いたアルマは態度を軟化させ、補筆版の演奏・出版差し止めを撤回する旨の手紙をクックに送りました。さらにアルマの娘アンナが、当時見つかっていなかった遺稿のコピーを提供しました。アルマは翌1964年に亡くなります。

アルマの承認と新たな資料を得て、クックはゴルトシュミットやコリン・マシューズデイヴィッド・マシューズ兄弟の協力を得ながら補筆版の改訂を進めました。こうして、1964年には第2稿が、そして1972年にはクック自身が「最終稿」と呼んだ第3稿が発表され、1976年に出版されました。クック版の特徴は、マーラーが残したスケッチや指示を最大限に尊重し、作曲家の意図から逸脱しないように慎重に補筆されている点にあります。

歴史的な録音 ウィン・モリス盤

クック版の第3稿が完成した1972年、歴史的な世界初録音が行われました。指揮したのはウェールズ出身のウィン・モリスです。オーケストラはニュー・フィルハーモニア管弦楽団でした。

この録音はフィリップス・レーベルからLPのボックスセットとして発売されました。当時、マーラーの第10番は第1楽章のみが演奏されることが多く、全曲版はまだ一般的ではなかったため、モリス盤の登場は画期的な出来事でした。この録音によって、多くの人が初めてマーラーの第10番の全5楽章を聴く機会を得たのです。

モリス盤が登場した頃、クック版は一部の熱狂的なファン以外には十分に評価されず、不当に無視される傾向もあったと言われています。しかし、このモリス盤のような録音が出たことで、クック版の価値が広く認知されていくことになります。現在では、モリス盤はマーラーの第10番全曲版の録音の中でも歴史的な一枚として位置づけられています。

モリス盤の演奏を聴く

ウィン・モリス指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団によるマーラー交響曲第10番(クック版第3稿第1版)の演奏は、非常に印象深いものです。この録音は1972年10月に行われ、全曲の演奏時間は約84分31秒から84分52秒と、比較的ゆっくりとしたテンポ設定が特徴的です。特に第1楽章の演奏時間約28分は、クック版の録音の中でも最長級と言えます。

演奏全体の印象としては、感情的で情熱的なアプローチが挙げられます。聴き手によっては、人間的な響きや悲しみの雰囲気が強いと感じるかもしれません。モリスはオーケストラを表情豊かに歌わせることに長けていたという評もあります。

各楽章を聴いていくと、まず第1楽章は非常にゆったりとしたテンポで、淡々とした美しい調べが続きます。揺れの少ない流れの中に、時折狂気のような強音パートが現れる箇所があります。バーンスタインのような息詰まる世界とは異なると評されています。

第2楽章はメリハリのある演奏で、前楽章とは表情が変わります。スケルツォとしては展開が粗暴に過ぎるという意見もあります。

短い第3楽章はすいすいと流れ、角笛らしさや愛らしい対句が特徴的ですが、そのすぐあと暴れる箇所もあります。

第4楽章はスコアが鮮烈かつ率直に再現され、劇的な部分と平易な部分の対比が激しい演奏となっています。シャープで尖ったダイナミクスが展開されます。

終楽章(第5楽章)の冒頭の太鼓は衝撃的です。その後のフルート独奏は、天に昇るような美しさがあり、聴く者の心を打ちます。混乱が収まり、最後の約10分間は癒やしの音楽が続きます。第1楽章の冒頭が再現され、ゆっくりと静寂に向かうエンディングは感動的です。

モリス盤はLP期、聴く者にオーマンディ盤よりも強い印象を与えました。録音に関しても当時のEMI盤などと比較して良好と評価されますが、全奏では音割れが発生しており、年代を感じさせます。

ウィン・モリス指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団によるマーラー交響曲第10番の録音は、デリック・クック補筆版の全5楽章を初めてレコードとして世に送り出した歴史的な名盤です。当時は未完成作品の補筆版に対する様々な意見や抵抗がありましたが、このモリス盤の登場はマーラーの最後の交響曲が全曲として演奏され、聴かれる道を切り拓いたという点で非常に大きな価値を持っています。

クック版をはじめとする様々な補筆版や、指揮者による個性的な解釈の多様性は、マーラーの第10番が未完成だからこそ生まれたユニークな状況と言えます。それぞれの補筆版や演奏には異なる特徴があり、聴き比べることで新たな発見や感動があるかもしれません。

マーラーの人生の苦悩や感情が色濃く反映されていると言われる第10番を全曲版で聴くことは、作曲家の内面に深く触れる体験となるでしょう。その扉を開いた歴史的な録音の一つとして、ウィン・モリス盤は今なお多くの音楽ファンに聴き継がれています。

この交響曲を聴くことで、マーラーの創造力の果て、そして人間的な側面を感じ取っていただけたら幸いです。

広がるマーラーの世界

マーラーの交響曲第10番には、主に2つの聴き方があります。一つは、マーラーがほぼ完成させた第1楽章「アダージョ」のみを聴く方法です。これだけでも一つの独立した美しい作品として十分に感動的です。

もう一つ、全曲版を聴くことでマーラーが最後にどのような壮大な作品を構想していたのか、その全体像に触れることができます。第1楽章だけでは得られない、全5楽章を通した音楽の旅を体験できるのです。それぞれの補筆版によって響きや解釈が異なるため、様々な版を聴き比べてみるのも興味深いでしょう。

交響曲第10番はマーラーの音楽的な探求の到達点を示すとともに、彼の人間的な苦悩や感情が生々しく刻み込まれた作品です。未完であるからこそ聴く者に様々な想像を掻き立て、マーラーという人間の複雑な内面に深く迫ることを促します。ぜひ、この未完成の傑作に触れて、あなた自身のマーラー体験を深めてください。

いさぶろう
いさぶろう

タイトルに「初心者向け」とあるのは、あくまで個人の感想です😅

10代でモリス盤を手に入れ、最終楽章を毎日繰り返し聴いてはのたうち回っていた経験によります。

最後に添えたインバル氏のコメントにあるように、マーラーは交響曲第9番ですでに死を受け入れ、この世に別れを告げました。

続く「第10番」第1楽章は死後の世界、彼岸からの音楽ということになります。

第3楽章「煉獄れんごく」は、小罪を犯した死者の霊魂が天国に迎え入れられる前に、火によって浄化される通過地点です。

煉獄を経て浄化されたはずの魂ですが、第5楽章においては歓喜と慟哭、平安と恐怖がない混ぜの響きとなり、塊となって聴き手に襲いかかります。

胸を掻きむしらずにおれないこんな強烈な毒を持った音楽体験は、分別ある大人ではなく、青年期にこそ体験しておくべきと思うのです。

終楽章。特に19:30以降に、人間として最後の感情の発露を経て無に帰していくこの別れの音楽は、西洋音楽を聴く醍醐味と言っていいでしょう。

10番全曲はインバル氏の演奏含め、いろいろ聴きました。しかし死後のマーラーと一体化したかのような演奏は、モリス盤以外まだ出会えていません。第1楽章単体を別とすれば、私にはこの演奏だけあればいいとさえ思っています。

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