「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた」映画『あん』が伝える命の輝き

映画

映画あん 生きることの意味を問いかける感動の物語

映画「あん」はどら焼き屋を舞台に、心を閉ざした男性と、過去に重い病を経験した高齢の女性との出会いを描いた作品です。この映画は生きることの深い意味や、社会に根強く残る偏見、そして働くことの尊さなど、様々なテーマを静かに問いかけてきます。

原作はドリアン助川さんの同名小説で、監督は国際的にも評価の高い河瀬直美さんが務めました。主演の樹木希林さんの円熟した演技をはじめ、俳優陣の表現力が光るこの作品は、観る人の心にじんわりと染み入り、温かい感動と深い余韻を残します。

作品の概要と制作の背景

映画「あん」は2015年に公開された、日本、フランス、ドイツ合作の映画です。原作はドリアン助川さんが2013年に出版した小説「あん」です。
ドリアン助川さんはラジオ番組で若者たちの人生相談に乗っていたとき、「社会の役に立たないと生きている意味がない」という意見に違和感を覚えます。その際にハンセン病患者の方々の境遇が脳裏に浮かんだことが、この小説を執筆するきっかけになったと語っています。

諸外国でハンセン病の隔離が解かれた後も、日本では1996年まで「らい予防法」による隔離が続いた歴史があります。
社会で有用な人間になることは素晴らしいことでも、私たちは本当にそれだけのために生きているのかをドリアンさんは問い直します。どんな環境や運命に置かれた人にも、肯定的な意味があるのではないかと考え、ハンセン病をモチーフにした小説を執筆しました。

小説の主人公である徳江のモデルは、療養所で出会った女性です。病気で夢を断たれたものの、あらゆるものに言葉があると信じ、風の音や小豆あずきなど、声なきものの「言葉」に耳を傾けることで自身の視点を構築し、世界観が変わったという方でした。
ドリアン助川さんは小説「あん」に、「生きることの意味を書いた」と述べています。

この原作小説を映画化したのは、河瀬直美監督です。
ドリアン助川さんは河瀬監督の前作「朱花はねづの月」に出演しており、彼女の才能に注目していました。
聞こえないものや見えないものを描いた「あん」を映画化できるのは河瀬監督しかいないと考え、手紙を添えて小説を送ります。河瀬監督から「号泣しました。私でいいんですか」と返事が届き、映画化が実現しました。

河瀬監督にとって、原作のある作品を映画化するのは初めての挑戦でした。この作品を「私たち自身の命をでてあげるような作品にしたいと思った」と語っています。

映画は2015年5月30日に公開され、第68回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門のオープニング作品に選ばれるなど、国内外で高い評価を受けました。

物語を彩る登場人物たち

物語の中心となるのは、どら焼き屋「どら春」の雇われ店長、千太郎(永瀬正敏と、そこに現れる老女、徳江(樹木希林)、そして店の常連客である中学生のワカナ(内田伽羅です。

徳江は、長い間あん作りに携わってきた名人です。求人募集の張り紙を見て「どら春」にやってきて、千太郎に働きたいと懇願します。彼女の作った粒あんは絶品で、店のどら焼きの評判を瞬く間に高めます。徳江は桜の木や空など、あらゆるものに語りかける感受性豊かな人物として描かれています。

千太郎は辛い過去を背負い、単調な日々を送っています。以前に罪を犯し、借金を肩代わりしてもらった代償として「どら春」の雇われ店長をしています。彼は甘党ではなく酒が好きで、どら焼き屋はやりたいお店ではありませんでした。徳江との出会いをきっかけに、彼の仕事への意識や心境が変化していきます。

ワカナは千太郎の店の常連客で、中学生です。母親と二人暮らしで、質素な生活を送っています。千太郎や徳江と交流を深め、物語において重要な役割を果たします。

その他、どら春のオーナー(浅田美代子や、徳江の長年の友人である佳子(市原悦子など、個性豊かな登場人物が物語に深みを与えています。

生きることの意味と社会への問いかけ

この映画の大きなテーマの一つは、ハンセン病患者への差別と偏見です。徳江が元ハンセン病患者であるという噂が広まったことで、店の客足は途絶えてしまいます。
病気が治った後も療養所に隔離され、差別や悲しみを経験してきた徳江の姿を通して、映画は観客に「生きる意味」や「人間としての尊厳」について問いかけます。

「働くこと」の意味も、重要なテーマとして描かれています。
千太郎が借金のため不本意ながら働いているのに対し、徳江は社会に出て楽しそうにあん作りをします。徳江にとって社会で自分の能力を活かして働くことは、自己有用感を味わい、自分の人生を完結させるための最後のピースでした。

ドリアン助川さんは、人は「何者かになるための手段」として働くことを捉えがちだが、働くこと自体が幸福の因子であり、世界に自分が実存することを感じ、自己を完結させることができると述べています。

徳江の「私たちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。だとすれば何かになれなくても、私たちには生きる意味があるのよ」という言葉は、この映画が伝える最も力強いメッセージです。

河瀬監督は、ハンセン病患者=悲しい、つらい人たちという社会が作ったイメージでは描きたくなかったと述べています。
知らないふり、見ないふりをすることが一番の罪かもしれない。無関心ではなく関わっていくこと、相互の関わり合いから生まれる関係性を描くことで、生きることを肯定し、世界の美しさを伝えることを目指しました。

俳優たちの熱演とリアリティへの追求

この映画の大きな魅力は、主演の樹木希林さんをはじめとする俳優たちの演技の素晴らしさです。河瀬監督は役者さんを「演技として刻むのではなく、(役を)生きてくれた」と称賛しています。

樹木希林さんは、徳江という人物を圧倒的な存在感と自然体で演じました。ドリアン助川さんは小説執筆時に、樹木希林さんをビジュアルのモデルにしていたと言います。樹木さんは撮影前、徳江のモデルとなった元患者さんに会いにいくなど、役作りに深く没入しました。河瀬監督は樹木さんのことを「怪物」と表現し、その演技力に最大の賛辞を送っています。

永瀬正敏さんは、心に闇を抱えた千太郎を繊細に演じています。彼は撮影前にどら焼き作りの練習を重ね、役として金銭感覚を掴むため何日もの間、千太郎の金銭感覚で過ごしたといいます。樹木さんとの共演は「毎日、幸せでした」と語っています。

内田伽羅さんは樹木希林さんの実孫であり、新人ながらも存在感のある演技を見せています。河瀬監督は彼女の「口数は少ないけれど目が語る」ところに、ワカナらしさを感じたそうです。

監督はリアリティを追求するため、独特の演出をしました。カメラが回っているか分からないように撮影したり、俳優の動きに合わせて撮ったりします。
俳優には撮影中も、「役でいる」ことを求めました。
撮影前、主要キャストに実際の役と同じような環境で過ごしてもらうなど、深い没入を促します。
どら焼き屋の「どら春」も美術部が作ったセットですが、撮影前に永瀬さんに実際に入ってもらい、お客さんがセットと気づかず買いに来ることもあったそうです。

音響と映像が織りなす世界

映画「あん」は、音へのこだわりも特徴的です。
小豆の音、四季の移り変わりの中で聞こえる音、木々が風に揺れる音、生活音など、日常の音が細部までデザインされています。

音響デザインはフランス人が担当しており、言葉が分からないからこそ音で認識し、細部まで繊細に作り上げたことで、かつて私たちが経験したかのようなリアリティを生み出しています。
音によって湿度やにおいまで感じるようだったという感想も、観た人からは寄せられています。

映像面では、桜に始まり桜で終わる構成が印象的です。それは人生が続いていく象徴のようです。
美しい桜並木をはじめ、四季折々の自然の情景が丁寧に映し出され、物語の情感を高めています。

徳江が桜に話しかけるシーンや、木から湯気が出ているのを見て「まるで木が息をしているようだ」と言うシーンは、命の尊さや自然との繋がりを感じさせる印象的な場面です。
この木から湯気が出るシーンは、前日に雨が降って冷え込んだ翌朝、朝日を浴びた木から蒸気が上がっていたのを永瀬さんが見つけ、樹木さんが「あたしを撮って」と自ら提案して生まれた、奇跡のような場面なのです。

「あん」が残したもの

映画「あん」は公開後大きな反響を呼び、多くの人に感動を与えました。樹木希林さんの演技やセリフ、物語のテーマ、美しい映像や音楽に対する高い評価が寄せられています。

ハンセン病問題に関心を持つきっかけとなったという声も多く、国立ハンセン病資料館で開催された上映会では、映画を観ることで理解が深まったという感想が聞かれました。映画が偏見や差別について考える機会を与えたことは、間違いありません。

原作小説は「生きることの意味」という普遍的な問いを投げかけ、多くの読者に感動を与えました。
映画は原作のエッセンスを抽出しつつ、河瀬監督ならではの映像表現で物語を紡ぎ出しています。
時間の都合でカットされたシーンもありますが、原作の伝えたい核となる部分は監督と俳優陣によって完全に理解し表現されていると、原作者のドリアン助川さんは感じています。

樹木希林さんが2018年に亡くなった際には、本作が彼女の最後の主演映画であることから、追悼上映も行われました。
映画「あん」は樹木希林さんの代表作の一つとして、多くの人の心に響く作品として、これからも観継がれていくでしょう。

この映画が伝えるメッセージは、私たちが日々の生活の中で見失いがちな、当たり前の中にある小さな幸せや自分自身の命を愛でることの大切さです。どんな境遇にあっても生きていること自体に意味があるという、力強い肯定です。

どら焼きの「あん」のように、表からは見えず胸の中に抱え、傷つきながらも生きている自分自身。この映画はそんな私たちに静かに寄り添い、心に温かい光を灯してくれるでしょう。

心で感じ取ることの大切さ

映画「あん」はどら焼きという日常的なものをモチーフにしながら、ハンセン病という重いテーマと、人間が生きる上での普遍的な問いを巧みに織り交ぜた作品です。樹木希林さんをはじめとする俳優たちの圧倒的な演技と、河瀬直美監督の繊細かつ力強い演出、そして細部までこだわった音響や映像が、観る者を物語の世界に深く引き込みます。

この映画を通して私たちは、目に見えるものだけでなく、耳を澄ませ、心で感じ取ることの大切さを改めて知るのです。それは自然の声であったり、他者の声であったり、あるいは自分自身の心の声であったりします。たとえ社会から隔絶され困難な状況に置かれても、命そのものには価値があり、生きていること自体に意味があるのだという希望を、受け取ることができます。

「あん」は自分自身の生き方について、静かに考えるきっかけとなる映画です。ぜひ一度、この感動を体験してみてください。

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