今だからこそ響く。中森明菜「難破船」失恋の痛みを歌う、時を超えた名曲の魅力

邦楽

加藤登紀子との運命的な出会いと魂を揺さぶる歌唱表現

中森明菜さんの「難破船」は、今なお多くの人の心に深く刻まれている名曲です。この曲は1987年9月30日に、中森明菜さんの19枚目のシングルとしてリリースされました。オリコンでは週間1位を獲得し、1987年度の年間チャートでは6位にランクインする大ヒットとなりました。作詞・作曲を手がけた加藤登紀子さんとの特別な繋がり、そして中森明菜さんの類稀なる表現力が生み出した、深い感動と物語に満ちた一曲なのです。

名曲「難破船」誕生の背景

「難破船」は元々、シンガーソングライターである加藤登紀子さんが自身の楽曲として発表したものです。この曲は加藤さん自身が20歳の頃に経験した失恋をもとに書かれたといいます。1984年にリリースされた加藤登紀子さんのアルバム「最後のダンスパーティー」に収録されました。

加藤さんがこの曲を作詞作曲した当時、すでに40代を迎えていました。20歳の頃の瑞々しい失恋の歌を40代になった自身が歌うことに、「だいぶとうが立った女が歌ってる感じ」「そこはかとなく寒い」「恋愛の歌を歌っても熱くない」と感じていたそうです。この作品にふさわしいのは、もっと若い世代のアーティストだと思っていました。

加藤登紀子から中森明菜へ 楽曲が託された運命的な瞬間

そんな加藤登紀子さんの思いと、当時飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍していた中森明菜さんの存在が運命的に結びつきます。加藤さんは偶然、テレビで中森明菜さんを目にした時、強いインスピレーションを感じたといいます。明菜さんのアンニュイな雰囲気や佇まいに感銘を受け、「この歌のキャストは私じゃなくて彼女だ」と直感的に思ったのです。

当時22歳だった明菜さんが共演者からの誕生日の祝福に対し、「22歳なんて大嫌いです」とクールに返答した姿を加藤さんがブラウン管越しに見て、「もう最高」「そういうことを言っている明菜さんに親近感を感じて、いいなと思った」そうです。加藤さんは明菜さんの、ダークな魅力に惹きつけられたのです。

加藤登紀子さんはこの強い思いを胸に、「難破船」を歌うのにふさわしいのはまだ会ったこともない明菜さんだと確信し、この曲が入ったカセットテープを直接手渡すことを決意します。

その後、音楽番組で一緒になった明菜さんが壁の一番隅の真っ暗なところでスタンバイしているのを見かけた際、カセットを手渡し「もしあなたが気に入って歌うんだったら、私の持ち歌からしばらく外しますから」「明菜の歌として、この歌を世に出してほしい」と伝えたそうです。

しばらく経ったある日、明菜さんから加藤さんの地方公演のコンサート会場に花が届きます。これはいかにも明菜さんらしい、スマートで洒落た「OK」の返答でした。こうして加藤登紀子さんの大切な楽曲「難破船」は、中森明菜さんに託されることとなりました。このタイミングでなければ成立しなかった、運命的な出会いとも言われています。

中森明菜ならではの「難破船」 独自のアレンジと心揺さぶる歌唱

中森明菜さんが歌うことになった「難破船」は、編曲家である若草恵さんの手によってよりドラマチックな楽曲へと生まれ変わりました。ストリングスを前面に押し出したアレンジは、曲の壮大さと悲壮感を際立たせています。

ボーカル面でもオリジナル版とは異なる、明菜さん独自の表現が光ります。低音を力強く響かせる加藤登紀子さんに対し、明菜さんは「消え入りそうな声」で恋人を失った絶望感を表現しました。ささやくような歌唱を極限まで突き詰めた解釈によるカバーは、加藤版と全く異なる印象を与えます。

サカナクションの山口一郎さんは、明菜さんの歌声がオーケストラに対して少し小さく感じられる点や、加藤登紀子さんの歌い方に引っ張られていない点を「すごくいい」と評価し、明菜さんが歌う「難破船」から「冬の難破船」という印象を受けたそうです。

歌唱力が格段に向上し、楽曲を表現するのに十分な技術が身についていた22歳という時期に、明菜さんはこの曲と出会いました。もっと早ければ歌いこなすのが難しく、逆に遅ければこの時期にしか表現できない繊細さや痛みを歌に宿すことはできなかったかもしれません。

彼女はこの曲を歌う上で、独特の表現方法を用いました。例えば歌い出しの「たかが恋なんて」からAメロにかけては、泣きそうになりながらもどこか笑っているような複雑な感情を表現しています。サビの部分では失恋の辛さを抱えつつも、まるで開放感を感じさせるような歌い方をしたりもします。

歌う際には歌詞をしっかり分析した上で、あえて歌詞とは異なる感情を抱きながら歌うこともあったそうです。感情移入しすぎると泣いてしまい、声が出なくなってしまうことがあるため、計算されたテクニックといえます。

明菜さんの歌唱には、細やかなテクニックが多用されています。例えば「泣きたいだけ泣いーたら」「見えーてくるかも」「寂しすぎーて」などの部分では、しゃくり(低い音から目標の音に滑らかに上げる)やビブラート(音程を揺らす)が使われています。これらの技術が曲に深みや感情の揺れ動きを与えています。

この頃の明菜さんの歌唱は比較的シンプルで、年を重ねるにつれてしゃくりが増えていったという分析もあります。こうした細部にわたる歌唱の工夫が、「難破船」の表現豊かな世界観を作り上げているのです。

歌詞に込められた切ない世界 失恋という名の「難破船」

「難破船」の歌詞は、失恋の痛みを「難破船」という言葉に託して描かれています。歌詞は強がりから始まります。「たかが恋なんて 忘れればいい」。泣きたいだけ泣けば、目の前に違う愛が見えてくるかもしれないと。そんな強がりを言うのは、あなたを忘れるためだと。「さびしすぎて こわれそうなの 私は愛の難破船」。

ここで主人公自身の心はコントロールを失い、海の真ん中でどこへ向かうべきかわからなくなった船に例えられます。傷つき、心が沈んでしまいそうな辛さ、寂しさから抜け出せない様子が表現されます。広大な海で迷子になり、頼るところのない不安定な漂流者の心情に重なります。

「折れた翼 広げたまま あなたの上に 落ちて行きたい」。しかしそれはもう叶わない願いです。「海の底へ 沈んだなら 泣きたいだけ 抱いてほしい」という切ない願いが込められます。

歌詞は「ほかの誰かを 愛したのなら 追いかけては 行けない」と、別れを選んだ理由に触れます。みじめな恋を続けるより、別れの苦しさを選んだのだと歌います。しかし「そんなひとことで ふりむきもせず 別れたあの朝には この淋しさ 知りもしない 私は愛の難破船」と続き、別れた相手は自分のこの深い孤独や寂しさを知らないだろうという思いが溢れます。

「おろかだよと 笑われても あなたを追いかけ 抱きしめたい」という部分から、理性でいけないと分かっていながら感情を抑えきれず、相手を求めてしまう気持ちが伝わってきます。

続く印象的なフレーズ「つむじ風に 身をまかせて あなたを海に 沈めたい」。つむじ風は穏やかに晴れている時、偶然に発生する風です。この風に身を任せることで、たとえ「おろかだ」と笑われようと相手に出逢ってしまう偶然を正当化しようとします。つむじ風が身近に起きるなどゼロに等しい可能性ですが、主人公は逢うはずのないこの街を一人歩きながら、相手に再会する奇跡を願うのです。

「あなたに逢えない この街を こん夜ひとり歩いた 誰もかれも知らんぷりで 無口なまま 通りすぎる たかが恋人を なくしただけで 何もかもが消えたわ ひとりぼっち 誰もいない 私は愛の難破船」。街を歩く人々は、自分の深い悲しみや孤独を知らずに通り過ぎていきます。恋人を失い自分の世界から全てが消えてしまったような感覚、誰一人いないという孤独が強調されます。

この歌詞から、主人公が恋人に依存していたさまが読み取れます。依存してしまった彼女にとって失恋は、想像を絶するほどの傷となるのでしょう。別れたことを頭で理解していても、心がついていかず相手を求めてしまう。船の舵が利かなくなってしまった難破船のように、心のコントロールを失った状態が鮮やかに描かれています。明菜さんはこうした不安定で切ない失恋の心情を、圧倒的な歌唱力で見事に表現し、多くの人々を魅了したのです。

伝説となったパフォーマンス 紅白と夜ヒットで見せた魂の歌唱

中森明菜さんの「難破船」の歌唱の中でも、特に語り草となっているのは1987年末のNHK紅白歌合戦と、1988年1月の夜のヒットスタジオでのパフォーマンスです。

 

1987年の紅白歌合戦で「難破船」を歌った明菜さんは、まだ22歳でした。ステージの中央で悲しみに満ちた表情で歌うその姿には、鬼気迫るものがあります。目を閉じ、唇がわずかに震える様子、そして静かに顔を上げて天を仰ぐ佇まいから放たれる孤独と情念は、これが果たしてパフォーマンスなのか、それとも明菜さん自身の本質なのか、その境界が分からなくなるほどです。

歌の世界に完全に没入し、演じていることを超越して明菜さん自身が「難破船」という歌に取り込まれてしまう、そんな危うさすら感じさせる「命を削る表現」でした。その姿にナタリー・ポートマンが演じた、魅力的な演技を追い求めるうちに自我すら揺らいでしまうバレリーナの姿を描いた映画『ブラック・スワン』を思い出したという人もいます。

さらに特別な歌唱として記憶されているのが、1988年1月6日に放送された夜のヒットスタジオでの「難破船」です。この回は曲の生みの親である加藤登紀子さんと、当時明菜さんが交際していた近藤真彦さんもゲストとして出演していました。二人が見守る中で明菜さんは、着物姿でこの歌を披露します。

常にカメラアングルとは違うところに視線を置き、語りかけるような歌唱スタイルは、「難破船」における明菜さんの基本でした。この日は特別なシチュエーションだったこともあり、より一層感情の起伏が大きかったようです。

間奏部分でマイクを持つ手が震えているのも印象的です。歌い終わるあたりで明菜さんは、一滴の涙を流しました。この涙が何を意味していたのか、当時から様々な憶測を呼びました。後年このシーンを見返して、「人間・中森明菜」としてこの歌を歌っていると感じた人がいます。明菜さんが人気歌手としての鎧を脱ぎ去り、一人の女性として当時の心情を歌を通じて吐露している、一種の「人間ドキュメント」だったのではないかと思われたのです。

自分の出番まで業務的な態度をとるアイドルが多い中、明菜さんは常に自然体でした。司会者が交代する際に人目をはばからず泣いてしまったり、歌詞を間違えたことを悔しがって楽屋に閉じこもってしまったりといったエピソードからも、彼女がいかに人間味のある人柄であったかが分かります。それゆえに夜ヒットで見せた「難破船」での涙も、人間臭さのある彼女だからこそ生まれた名シーンだったと言えるでしょう。歌を単に演じるだけでなく、自己の境遇や感情と照らし合わせながら歌の世界観を表現する。そこに中森明菜さんの歌手としての、唯一無二の個性があるのです。

なぜ「難破船」は語り継がれるのか

中森明菜さんはデビュー当初からアイドルという枠に収まらず、様々なジャンルの楽曲に挑戦し、歌の幅を広げてきました。1984年に井上陽水さんが書き下ろした難曲「飾りじゃないのよ涙は」を見事に歌いこなしたことで従来のアイドル像を打ち破り、新たなステージへと踏み出したのです。そして「ミ・アモーレ」「DESIRE -情熱-」で女性アーティスト初のレコード大賞2連覇を達成するなど、トップアーティストとしての地位を不動のものとしました。

「難破船」はそんな彼女の、「飽くなき新領域への挑戦」として発表された楽曲です。単に歌が上手いだけでは表現しきれない「悲壮感」「壮大なスケール」を持ったこの歌の世界観を、中森明菜さんはあえて感情を深く移入することで表現していきました。

加藤登紀子さんは明菜さんの「難破船」の歌唱を見て、「彼女は何故かいつも、スタジオの一隅にひっそりと立っていて、その佇まいも、彼女の歌も好きでした」と語っています。「この作品を歌っている間の明菜さんは、難破船の主人公を完全に演じていたけれど、また新しい楽曲に取り組む時はがらりとその作品の雰囲気に変わっていくところが驚きで、また素晴らしいのです」と、彼女の表現力の幅広さに感嘆しています。一つの歌が歌う人によって違う旅をしてくれるのは素晴らしいことだと加藤さんは考えます。「難破船」における加藤さんと明菜さんの歌唱の違いは、その好例といえるでしょう。

サカナクションの山口一郎さんは中森明菜さんを、「自分の言葉で歌っている、本当に一流」と評しています。「歌うということに対して人生を受け入れていないと、ここまでの歌い方はできないと思います」と、彼女の歌唱に人生観を感じ取っています。

80年代の中森明菜さんは、どんな難しい楽曲も完璧に自身の中に取り込んで表現し、その歌の主人公を演じ切っていました。山口さんは明菜さんの歌を聴くことで「すごく人柄がわかった」とも語り、「彼女のような歌手は、今の時代生まれにくいんじゃないかな…とすごく感じます」「ここまで“歌手になりたい!”と思う人がいないんじゃないかな」と、その存在の希少性に触れています。

「難破船」で中森明菜さんが見せたのは歌を単に演じるだけでなく、自己の境遇や感情と照らし合わせながら表現する姿勢、歌手としての類稀たぐいまれなる個性です。

久々に紅白歌合戦に出場した明菜さんが「飾りじゃないのよ涙は」を歌った時、涙腺が緩んだという人もいました。それは歌の中に込められた「人間味」や「強い想い」が半端なものでなかったからかもしれません。バッシングを乗り越えた「自信」、ベテランとしての「貫禄」と「円熟味」、そして大人の女性としての「妖艶さ」。これらが組み合わさった明菜さんの歌やステージングは、一筋縄でいかない魅力があります。

中森明菜という歌手のすごさ

中森明菜さんの「難破船」は加藤登紀子さんとの運命的な出会いによって生まれ、中森明菜さんの圧倒的な歌唱力と表現力によって昇華された名曲です。失恋の痛みや孤独を「難破船」に例えた切ない歌詞、ドラマチックなアレンジ、そして明菜さん独自の消え入りそうな、しかし魂を揺さぶる歌唱が、この曲を唯一無二のものにしています。紅白や夜のヒットスタジオで見せた、歌の世界に深く没入し感情を露わにした伝説的なパフォーマンスは、多くの人々の心に鮮烈な印象を残しました。

中森明菜さんは「難破船」を歌うことで単なるアイドルではなく、楽曲の世界観を深く理解し、自身の経験や感情と重ね合わせて表現できる稀代のアーティストであることを証明しました。彼女の歌唱は聴く人の心に寄り添い、失恋や孤独といった普遍的なテーマに共感する力を与えてくれます。「難破船」は中森明菜という歌手のすごさ、人間的な魅力、そして歌が持つ力の深さを、今なお私たちに伝え続けているのです。

いさぶろう
いさぶろう

中森明菜さん売り出しの頃、私は二十歳でした。その前年にはアイドルを真面目に論評するミニコミ誌「よい子の歌謡曲」が発刊され、真鍋ちえみスターボーなどが、サブカルチャー的視点から論じられるようになります。一時期、私も愛読しました。

当時はテレビも見なかったし(巡り巡って今もみないけれど)、芸能界は斜めから覗く程度に過ぎませんでした。

金屏風事件」というのも名称だけは聞いていましたが、どういう建付けか知ったのはつい最近です。明菜さんをリアルタイムでは追っていなかったため、なぜこれほど根強い人気があるのか知らずにきました。

関心はさほどなくても、当時のヒット曲は至る所から聴こえてきます。「難破船」を繰り返し耳にするうち、カタカナ英語が一つもない事に新鮮さを感じるようになりました。

軽薄さが「軽さ」と逆に評価され、「ネクラ」や「暗い」が蔑みの言葉だった時代です。アイドルがここまで感情移入し日本語のみで歌い上げるなど、例外的な事象でした。

明菜さんも来月に還暦を迎えます。歌どころか、姿もほとんど見せないのにここまで大きな存在感を示せるのは、やはり稀有な歌姫なのでしょう。

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