実体験に基づいた脱獄映画『パピヨン』不屈の精神と自由への渇望

映画

壮絶な物語

数ある映画の中でも、観る者の心に深く刻まれる名作はそう多くありません。今回ご紹介する「パピヨン」は、まさにそんな一本です。実体験に基づいた壮絶な脱獄の物語は、公開から長い年月を経ても色褪せることなく、多くの観客に感動と勇気を与え続けています。

この映画は単なる脱獄アクションではありません。絶望的な状況下でも決して希望を失わず、自由を求め続ける一人の男の生き様が描かれています。

映画「パピヨン」とは

映画「パピヨン」は1973年に公開されたアメリカとフランスの合作映画です。フランクリン・J・シャフナーが監督を務め、主演は当時の二大スター、スティーブ・マックイーンダスティン・ホフマンが務めました。彼らの豪華な共演は公開当時、大きな話題となりました。

本作は、フランス人のアンリ・シャリエールが自身の体験を綴った同名の自伝小説を原作としています。小説は世界中で1000万部を超えるベストセラーとなりました。映画もこのベストセラー小説を基に制作されており、そのリアリティとドラマチックな展開が多くの人々を引きつけました。

物語の舞台は、1930年代のフランス。主人公のパピヨンは、胸に蝶の刺青をしていることからその名で呼ばれています。彼は金庫破りとして生計を立てていましたが、身に覚えのない殺人の罪を着せられ、終身刑を宣告されてしまいます。これは単なる刑罰ではなく、生きて故郷へ帰ることのできない、事実上の追放を意味していました。

フランスから南米の仏領ギアナにある悪名高き監獄へと送られるパピヨン。そこはまさに生きながらにして腐っていく「生き腐れの道」でした。映画はこの絶望的な場所から脱出し自由を掴み取ろうとするパピヨンの、13年にわたる壮絶な闘いを描いていきます。

自由を奪われた男たちの壮絶な監獄生活

フランス本国から遠く離れた仏領ギアナの監獄は、想像を絶するほど過酷な場所でした。灼熱の太陽が照りつける中、パピヨンをはじめとする大勢の囚人たちは船で移送され、監獄へと送られます。港までの行進の様子や、見物する街の人々、そしてニュースカメラが回る光景は、彼らが人間としてでなく、社会から排除された存在として扱われている現実を突きつけます。

囚人たちが送られたのは、サン・ローランの監獄でした。ここでは脱走を企てた者に容赦ない罰が待っています。独房送りの期間が追加されるだけでなく、最悪の場合は断頭台での処刑もありました。実際に首が切り落とされる凄惨なシーンも描かれており、この場所の厳しさを物語っています。

さらに囚人たちは、ジャングルの奥にある強制労働キャンプに送られることもありました。ワニが棲む沼地での材木の切り出しなど、危険で過酷な労働を強いられます。粗悪な食事と不衛生な環境により、囚人たちは次々と倒れていきます。監督を務めたフランクリン・J・シャフナーは第二次世界大戦の従軍経験があるためか、映画に容赦のない描写が多く含まれており、観る者にとって目を覆いたくなるような「痛い」シーンも少なくありません。

囚人たちの扱いは虫けら以下であり、更生させることではなく人間を壊すことが目的の監獄であるかのような描写です。最初の1年で、囚人の半分が死ぬと言われていました。8万人以上が収容された中で故郷へ帰れたのはわずか数百人だったという情報もあり、この監獄がどれほど非人道的な場所であったかが分かります。壁に刻まれた囚人たちの文字や絵は、彼らがそこで過ごした日々の過酷さを無言で物語っているようです。

ドガとの出会い 絆と裏切り

過酷な監獄生活の中で、パピヨンは生涯の相棒となる男と出会います。それがダスティン・ホフマン演じるルイ・ドガです。ドガはフランス中を混乱させた国防債券偽造の天才でした。金縁の眼鏡をかけた頼りなさげな風貌は、頑丈な体つきのパピヨンとは対照的です。

ドガは大金を持って監獄に入ったため、他の囚人や看守から目をつけられていました。自分の身とお金を守るため、ドガはパピヨンを雇います。パピヨンは脱走に必要な資金を工面するために、二つ返事でこの申し出を引き受けます。最初は互いの利害関係から協力し始めた二人は、共に様々な困難を乗り越えていく中で、固い友情で結ばれていきます。

しかし、二人の関係は順風満帆じゅんぷうまんぱんではありません。ドガは看守を買収しようとして失敗し、かえって状況を悪化させることもありました。その失敗が原因で、パピヨンと共に強制労働キャンプに送られることになります。脱獄計画の途中で仲介役に騙される裏切りにも遭います。

ドガはパピヨンとは異なり、状況への適応能力に長けている面があります。汚い監獄の中でも金を使って優遇されようとしたり、どんな場所にも自分の居場所を見つけ出そうとします。ある意味狡猾な部分も持ち合わせていますが、根は悪い人間ではなく、パピヨンとの友情を大切にします。独房に入れられたパピヨンを助けようと差し入れをしたり、パピヨンを撃とうとした看守を思わず殴ってしまったりと、危険を冒してでもパピヨンを助けようとする姿が描かれます。

独房の闇と不屈の精神

パピヨンの脱獄への試みは、幾度となく失敗に終わります。その度に彼は過酷な罰、特には「人食い牢」と呼ばれるサン・ジョセフ島の独房に送られます。最初の脱走失敗で2年間、二度目の失敗では5年もの独房生活が課せられました。

独房は狭く不衛生で、吸血コウモリやムカデが棲みつく暗黒の墓場でした。天井は鉄格子で、陽の光は一切届きません。食事はほんのわずかなパンとスープのみ。このような極限状態の中で、囚人たちは次々と衰弱死していきました。

パピヨンは生き延びるために、想像を絶する方法で飢えをしのぎます。ドガからの差し入れのヤシの実だけでなく、独房に現れるゴキブリやムカデを食べて生きながらえるのです。この描写は観る者に衝撃を与えます。

独房の看守は、差し入れをした人物の名前を白状すれば食事や光を元に戻すとパピヨンに取引を持ちかけます。仲間の名前を売るか、それとも不屈の精神を貫くかという究極の選択です。パピヨンは飢えと孤独の中で衰弱し、奥歯が抜け落ちるほどボロボロになりますが、最後までドガの名前を言うことはありませんでした。看守長はパピヨンを見て「こいつ、もう、死んでるな」とあざけりますが、パピヨンは決して屈しませんでした。

この独房での経験はパピヨンの肉体を限界まで追い詰め、同時に彼の精神をさらに強固なものにしました。どんな状況でも諦めない彼の不屈の精神は、この凄惨な独房生活の中で育まれたのです。

脚本に込められたダルトン・トランボの魂

映画「パピヨン」の脚本(共同脚本)を手がけたのは、ダルトン・トランボです。彼の名前を知っている映画ファンなら、この作品に込められたもう一つの深いメッセージに気づくでしょう。トランボはアメリカの映画界で、「赤狩り」の犠牲となった人物の一人です。

1947年、トランボは過去にアメリカ共産党に所属していたことを理由に、マッカーシー上院議員による聴聞会ちょうもんかいに呼び出されました。彼は他の9人の映画関係者と共に社会主義運動に関係していた人々の名前を言うよう命令されますが、最後まで沈黙を貫きました。このためトランボたちは「ハリウッド・テン」と呼ばれ、法廷侮辱罪で禁固刑を受け、刑期を終えた後もアメリカ映画界から追放されます。

アメリカに居場所を失ったトランボは、偽名を使って脚本を書き続けました。彼の名誉が回復され、実名で仕事ができるようになるまでに13年もの歳月がかかりました。これはパピヨンが監獄で過ごした年数と同じです。トランボ自身の経験が、無実の罪を着せられ過酷な環境で自由を奪われたパピヨンの物語に強く投影されていることは明らかです。

独房で仲間の名前を白状することを強要されるシーンは、「赤狩り」の手法と重なります。パピヨンが最後まで黙秘を貫く姿は、トランボ自身が仲間を売らなかったこと、不屈の精神で闘い続けたことの表れと言えるでしょう。トランボは映画の冒頭、フランスの司令官役としてカメオ出演もしており、炎天下で囚人たちに「フランスは諸君を見捨てた」と言い放つ強烈なキャラクターを演じています。これはハリウッドに見捨てられたトランボ自身の、皮肉めいたメッセージのようにも受け取れます。

ゴールドスミスが奏でる哀愁と希望のメロディ

映画「パピヨン」の音楽は、ジェリー・ゴールドスミスが担当しました。ゴールドスミスは「猿の惑星」や「カプリコン1」といったSF作品から、「チャイナタウン」のようなハードボイルド作品まで、幅広いジャンルで活躍した作曲家です。本作の音楽も彼の傑作の一つとして知られており、アカデミー作曲賞にもノミネートされました。

メインテーマ「パピヨンのテーマ」は、欧風的で哀愁を帯びた美しいメロディです。男臭さのかけらもないシャンソンのようなその旋律は、過酷な脱獄劇とは異なる印象を与えるかもしれません。しかしこの音楽は、映画のテーマ「自由」と深く結びついています。

メインテーマがワルツ形式であることには、いくつかの解釈があります。一つはワルツが「自由の象徴」であるという考え方です。囚人が渇望する自由、そして蝶(パピヨン)が自由に空を舞う姿が、ワルツのメロディに託されているというものです。ワルツの反復的なリズムが、脱獄を繰り返すパピヨンの揺るがぬ意志、あるいは彼の人生の「反復」を描き出しているという解釈も可能です。

監督のフランクリン・J・シャフナーは当初、モンマルトル風の音楽を提案したそうですが、ゴールドスミスはそれを拒否しました。そしてテーマ曲の作曲に行き詰まっていたある日、ピアノを弾いていて偶然間違った音符を弾いてしまったところ、それが探し求めていた「正しい音」であり、そこから一気にテーマ曲が完成したという逸話も残っています。

ゴールドスミスの音楽は、映画の中で必要最小限に抑えられています。監督と作曲家が協議し、劇伴の使用を必要最低限にすることを決めたからです。これにより監獄の環境音や靴音、銃声、そして静寂といった「音」が効果的に使われ、観客はより作品世界に没入することができます。そしてここぞという場面で流れる哀愁漂うテーマ曲は、パピヨンの孤独な闘いと自由への強い願いを際立たせ、観る者の感動を呼び起こします。

執念の脱出とたどり着いた「自由」

幾度もの失敗と過酷な独房生活を経て、パピヨンは悪魔島と呼ばれる絶海の孤島に移送されます。この島は周囲が断崖絶壁で荒波が打ち寄せ、サメが徘徊しているため脱出は不可能とされていました。そのため島には手錠も足枷もなく、囚人たちは自給自足で生活しています。ここでパピヨンは、かつてフランス中を騒然とさせたドレフュス大尉が収容されていたことに思いを馳せます。ドレフュス大尉も無実の罪で、ここに送られたのです。

悪魔島でパピヨンは、年老いたドガと再会します。長年の過酷な監獄生活により、二人の肉体はすっかり衰え、実際の年齢よりもはるかに老けて見えます。ドガは故郷へ帰る夢を諦め、この島での穏やかな日々に満足しているようでした。おぼつかない足取りで共に歩き話す二人の姿は、長年連れ添った老夫婦のようでもあり、どこか物悲しさを感じさせます。

しかし、パピヨンは違いました。たとえどんな状況でも、彼は自由への希望を捨てていませんでした。来る日も来る日も断崖から海を眺め続けたパピヨンは、ある法則に気づきます。入り江に打ち寄せる波は7回に1回、大波となって外海へ流れていくのです。彼はこの7番目の波に乗れば脱出できるかもしれないと考え、ココナッツの実を詰めた藁袋で筏を作ります。

パピヨンはドガを脱出に誘いますが、ドガはそれを断ります。脱走を諦め、この島でパピヨンと穏やかに暮らしたいと懇願するドガに対し、パピヨンは何も言わず、ただ力強く抱きしめます。そして、ココナッツの筏を海に投げ落とし、ドガの方を振り返ります。ドガはパピヨンの決意を理解し、何度も深く頷いて見送ります。

パピヨンは両腕を広げ、断崖から海へ身を躍らせます。まさに蝶のように宙を舞う彼の姿。ココナッツの筏にしがみつき、7番目の大波に乗って沖へ向かうパピヨン。見送るドガの目には、熱い涙がとめどなく流れていました。

映画のラスト、海を漂うパピヨンの筏の水面下に、わずかにスキューバダイバーが映り込んでいるという指摘があります。これが意図的な演出なのか、撮影上のアクシデントなのかは定かではありませんが、作品にまつわる興味深いトリビアの一つです。

パピヨンの脱獄は成功し、後にベネズエラ市民権を取得したとされています。原作者のアンリ・シャリエールは自身の体験をもとに小説として出版し、世界中の人々に知られることとなりました。

時代を超えて響くメッセージ

無実の罪で自由を奪われ、人間の尊厳を剥奪されるような過酷な環境に置かれても、パピヨンは決して諦めませんでした。彼の根底にあるのは自由を求め続ける強い意志と、生きることへの執着です。

ドガが言った「誘惑に勝てるかどうかで人の価値が決まる」という言葉のように、パピヨンは様々な誘惑や絶望に打ち勝ちました。孤独や飢え、裏切り、そして肉体的な衰弱といった試練に耐え、希望の光を失いませんでした。その姿は観る者に、「死ぬまで諦めちゃいけない」「行動することに意味がある」メッセージを強く伝えてきます。

この映画は、パピヨンとドガの友情物語でもあります。利害関係から始まった二人の関係は、共に困難を乗り越える中で深い絆へと変わっていきます。それぞれの価値観は異なりますが、互いを認め支え合う姿は感動的です。特に最後の別れのシーンは、多くの観客の涙を誘いました。

2017年には、この「パピヨン」のリメイク版も制作されました。主演はチャーリー・ハナムラミ・マレックです。オリジナル版と比較される宿命を負ってはいますが、これもまた独自の視点でパピヨンとドガの関係性や物語を描いています。

リメイク版のラストで、脱出に成功したパピヨンが編集者に「これはあなたの物語ですか?」と尋ねられ、「すべての男たちの物語だよ」と答えます。この物語が特定の個人の話ではなく、抑圧や不条理と闘う全ての人々に向けられたメッセージであることを示唆しています。

この作品が描く不屈の精神は、現代社会にも通じるものがあります。私たちはパピヨンが直面したような物理的な監獄にいるわけではありませんが、見えない抑圧や不条理、困難に直面することが少なくありません。そんな時、パピヨンの生き様は私たちに勇気と希望を与えてくれます。どんな状況でも自由を求め、人生を無駄に過ごさないことの大切さを教えてくれるのです。

いさぶろう
いさぶろう

本来の「リベラリズム」とは、個人の自由と権利を尊重する思想や立場、政治運動であったはずです。この映画には健全なリベラルの精神が描かれており、観るものは独力で自由を獲得する主人公に感動し、涙します。

こういう役をやらせるとしたら、スティーブ・マックイーン一択が正解です。男も惚れるカッコよさですから。

しかしアメリカにしろどこぞの国にしろ、「民主」と名のつく政党の腐敗ぶりは、目を覆うばかりになりました。いつの間にか「リベラリズム」は、デモクラシーを標榜する政党をおとしめるとき使う表現に、意味が変わっています。

だからと言って、「弱者の味方」のふりをしながら専属のコックまで抱える豪邸に暮らし、情弱な党員の浄財で幹部が贅沢三昧している、なんちゃってリベラル政党も応援できんしなぁ。

今こそ健全なリベラルの精神に立ち返り、保守の精神を兼ね備えた政党の台頭を、強く望みます。

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