今から半世紀ほど前、日本の音楽シーンに彗星のごとく現れ、わずか5年の活動で国民的アイドルとなった「キャンディーズ」 。1978年4月4日、人気絶頂期に後楽園球場で行われた解散コンサートから50年近くが経過しても 、彼女たちの歌は世代を超えて愛され続けています。なぜキャンディーズはこれほどまで人々の心に深く刻まれ、「永遠」と称される存在になったのでしょうか。
スクールメイツから生まれた三つの才能
キャンディーズの物語は、当時の大手芸能事務所渡辺プロダクションが運営する「スクールメイツ」から始まります 。数十人いたスクールメイツの中から選ばれたのは伊藤蘭(ラン)、藤村美樹(ミキ)、田中好子(スー)の三人です 。当初、彼女たちはアイドル歌手のバックで踊る一員に過ぎませんでした 。
転機が訪れたのは1972年4月です。NHKの新番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールとして、三人は揃って抜擢されました 。番組プロデューサーが、「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」という意味を込めて名付けたのが「キャンディーズ」でした 。愛称のラン、スー、ミキもこの時に決まります 。この時点ではまだ、歌手デビューの予定はありませんでした 。
『歌謡グランドショー』に出演してしばらく経った頃、東京音楽学院を訪れた音楽プロデューサーの松崎澄夫氏の目に留まり、「かわいい子がいる」と注目されます 。松崎氏がレコードデビューの有無を確認したところ「まだです」という返答だったため、松崎氏はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定したのです 。
メンバーそれぞれの愛称は、親しみやすく呼びやすいようにカタカナ表記の「ラン」「スー」「ミキ」となりました 。デビュー曲ではスー(田中好子)がメイン・ヴォーカルを担当します。最初の立ち位置は向かって左がラン、センターがスー、右側がミキ。メンバーカラーは、ランが赤、ミキが黄、スーが青でした 。
国民的アイドルへのブレークと輝かしい楽曲たち
1973年、「あなたに夢中」で歌手デビューを果たしたキャンディーズ 。この曲ではスーちゃんがセンターを務め、ソロパートを担当します。しかし、デビューから数曲は大きな話題にはなりませんでした 。
流れが変わったのは、ランちゃんをセンターにした1975年の「年下の男の子」からです 。この曲がオリコンで初のベストテン入りを果たし、キャンディーズは一気にブレークしました 。中高生の「お姉さん的な愛くるしさを感じる」という反応に着目し、「年下の男」をターゲットにした戦略が見事当たったのです 。続く1976年の「春一番」は、オリコン3位を記録します 。これ以降、キャンディーズは出す曲全てがヒットするという快進撃を続けました 。
キャンディーズの楽曲は、穂口雄右氏や森田公一氏など、当時のトップクリエイターたちによって生み出されました 。「年下の男の子」「春一番」をはじめ、「ハートのエースが出てこない」「アン・ドゥ・トロワ」「わな」「微笑がえし」など、今も歌い継がれる名曲ばかりです 。
楽曲制作には、当時の最高のスタジオミュージシャンたちが参加していました 。ドラマーの村上“ポンタ”秀一 氏も、キャンディーズのレコーディングに参加したことがあると著書で述べています 。当時の歌謡曲の現場は「才能あるミュージシャンだけが入ることを許された特別な場所だった」と村上氏は回想しています 。ミュージシャンは譜面通りに演奏するだけでなく、曲を解釈し、アレンジャーの要求以上の演奏をするのが当たり前という姿勢で臨んだそうです 。キャンディーズの音楽は、このような革新的な雰囲気の中で生み出されていました 。
「年下の男の子」のレコーディングには、印象的なエピソードが残っています 。深夜にヴォーカルレコーディングが完了し、三人が帰宅した後、徹夜でミックスダウン作業が行われていました 。午前3時過ぎ、ランのヴォーカルにどうしても気に入らない箇所があることに、スタッフは思い至ります 。当時はアナログ録音の時代で、現代のようにコンピュータで音程を修正することはできませんでした 。エンジニアの吉野金次氏が「ランに来てもらいましょう」と言い、ランは再びスタジオに呼ばれます 。ランは当時を振り返り、「譜面をいただいた時、♭やら♯やら沢山ついていて、悲鳴をあげました。初めてソロをとった曲なのに、思うように歌えず逃げだしたくなってもう泣きそう」だったと語っています 。一度帰宅した後、「あんな歌じゃダメだ!!」と電話がかかってきて、夜中にさみしく再びスタジオに向かったそうです 。その甲斐もあってか、「年下の男の子」は幸せを運んでくれた思い出深い曲になったそうです 。
キャンディーズは日本の歌謡界において、いくつかの革新的な試みを行っています 。それまで「3人組は当たらない」と言われていたジンクスを覆しました 。曲によってセンターポジションを入れ替えるというスタイルを最初に行ったのも、キャンディーズだと言われています 。
歌唱力だけではない バラエティでの輝き
キャンディーズが国民的アイドルとなった要因は、歌やルックスだけではありません 。三人のバラエティ能力の高さも、彼女たちの大きな魅力でした 。当時40%台の視聴率を誇っていた『8時だョ!全員集合』(TBS系)のアシスタントとして、ザ・ドリフターズとコントを共演し、笑いのセンスを磨きました 。
また、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』(テレビ朝日系)では「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」というコントで、伊東四朗氏や小松政夫氏といったベテランコメディアンと互角に渡り合いました 。コントではヅラや変装も厭わず積極的に挑戦し、茶の間の話題をさらいました 。伊東四朗氏は後に、彼女たちがコントの踊りの振り付けを自分で考えていたと語っています 。コントのオチはミキ、スー、ランの順で、特にランちゃんの「私、のーしたらいいの!」というセリフは流行語にもなりました 。歌番組では優等生的なアイドルとして、バラエティ番組では体当たりでコントに徹するコメディエンヌとして、幅広いキャラクターを見せることができたのです 。

コンサートではファン(お客様)に対し、一期一会の気持ちで礼を尽くすよう教育され、本人たちもその気持ちで臨んでいました 。客席に向かって「皆さん、ノってくださーい!」「楽しんでいますかー?」と、フレンドリーでありながら砕けすぎない丁寧な言葉遣いを心がけていたそうです 。後楽園球場でのファイナルカーニバル後半で、緊張が解けて少々くだけた口調になったシーンが、唯一の例外として挙げられています 。
衝撃の解散宣言と伝説のファイナル・カーニバル
人気絶頂の渦中にあった1977年夏、キャンディーズは突如、解散を発表します 。日比谷野外音楽堂で行われたコンサートのエンディング、三人が寄り添い号泣しながら「私たち、9月で解散します!」とファンに訴えました 。この時、ランちゃんが泣きながら発した「普通の女の子に戻りたい」という言葉は、アイドル史に残る名ゼリフとなりました 。
この解散宣言は、事前に事務所の了承を得ていない、当時21歳と22歳だったトップアイドルの独断によるものでした 。ファンのみならず、日本中に大きな衝撃が走りました 。翌日には緊急の記者会見が開かれ、同日の『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)生放送でも「陳謝」を口にしましたが 、三人の意志は固く、事務所が説得しても解散は回避できませんでした 。こうして、半年後の解散が決まったのです 。
解散までの間、彼女たちはファンに感謝の気持ちを込めて活動を続けます 。シングル「わな」では、ランとスーの要望もあり、ミキちゃんが初めてソロパートを担当しました 。
そして事実上のラストシングルとなった「微笑がえし」は、念願のオリコン1位を獲得します 。これは人気が下降してからの解散ではなかったことの証となりました 。
そして、1978年4月4日、キャンディーズの伝説となった解散コンサート『ファイナル・カーニバル』が、当時としては異例の後楽園球場で開催されました 。球場は多くのファンで埋め尽くされ 、投げられた大量の紙テープがネットに残されるほどでした。この模様は収録され、3日後の4月7日にはTBSテレビ系列で全国に録画放送されました 。その平均視聴率は32.3%(関東地区)という、単独アーティストによる音楽番組としては歴代1位の記録を樹立しています。
コンサートの最後に歌われた「つばさ」という曲には、ファンとの強い絆を示すエピソードがあります 。この曲は解散を知ったファン団体「キャンディーズ連盟」の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌として、ランが作詞したものでした 。歌う前にランが「やはりこの歌を歌いたい」と言ったのはそのためです 。曲中のセリフパートの最後で三人が叫んだ「本当に、私たちは、幸せでした!!」という口上は、今も多くのファンの心に残っています 。当時のファンは悲しい気持ちでいっぱいでしたが、時を経て「なんて潔い終わりかたなのだろう…」と思うようになったそうです 。最高の状態でスパッと終われたからこそ、多くの人々の心に残るのでしょう 。
解散後のそれぞれの道と変わらない絆
キャンディーズは解散後、一度も再結成を行いませんでした 。しかし、三人の絆が途切れることはありません。プライベートでは何度も集まっていたそうです 。
ラン(伊藤蘭)は1980年に芸能界に復帰し、主に女優として活動しました。1989年には俳優の水谷豊氏と結婚し、一児の母となります 。実娘の趣里さんも女優として活躍しています。2019年にはキャンディーズ解散以来41年ぶりにソロ歌手としてデビューし、アルバムリリースやソロコンサートを行うなど音楽活動も再開しました 。2023年には『第74回NHK紅白歌合戦』にキャンディーズ時代以来46年ぶりに出場し、「年下の男の子」「ハートのエースが出てこない」「春一番」といったキャンディーズ時代の3曲を披露して話題となりました 。この紅白の会場には、キャンディーズのファンクラブ「全国キャンディーズ連盟」(全キャン連)のメンバー150人超が集まり、コールや紙テープ投げでランちゃんを応援しました。
スー(田中好子)も1980年に芸能界に復帰し、主に女優として活躍しました。一時的にソロ歌手として音楽活動も行い、シングル「カボシャール」などをリリースしています 。1991年に結婚しましたが、子供はいませんでした 。スーちゃんは2011年4月21日、乳がんのため55歳で亡くなりました 。最期はランとミキの二人に看取られたと言います。
スーちゃんは女優として多くの作品に出演しましたが、特に難病や障害を抱える娘の母親役が多く 、その心に秘めた優しさが役柄に深みを与えていたとプロデューサーは語っています 。彼女はゴジラやモスラの大ファンで、映画『ゴジラvsビオランテ』や『ゴジラvsモスラ』にも本人が熱望し出演しています。
ミキ(藤村美樹)は1983年にソロ歌手として期間限定で復帰し、カネボウ春のキャンペーンソング「夢・恋・人。」などを発表しました。『ザ・ベストテン』や『ザ・トップテン』などの音楽番組にも出演します。しかし、1983年に実業家と結婚したことを機に芸能界を引退しました。三人の子供の母となり、娘の尾身美詞さんは女優として活動しています 。芸能界引退後は表舞台に出ていませんでしたが、2011年4月に行われたスーちゃんの葬儀に参列し、28年ぶりに公の場に姿を見せました。
三人は解散後も年に数回は集まり、食事や会話を楽しんでいました。ランの夫である水谷豊氏も、三人が水谷家に集まって長時間談笑していると話しています。スーちゃんが乳がんを患い末期を迎えた際、ランとミキは病室に駆けつけ、最期を看取ったそうです。スーちゃんが亡くなったことで、キャンディーズの再結成は完全に断たれてしまいました。スーちゃんが旅立ってからでも間もなく14年(2025年4月時点)が経ち、確実に時は流れています。
時代を超えて愛され続ける理由と後世への影響
なぜキャンディーズは、活動期間わずか5年であったにも関わらず、これほど長く「永遠のキャンディーズ」として愛され続けているのでしょうか 。
一つには、人気絶頂期に「普通の女の子に戻りたい」と自らの意志で解散を選んだことの「潔さ」があります 。最高の状態で幕を下ろしたことが、伝説として語り継がれる一因となったのでしょう 。
楽曲の質の高さも重要な理由です 。「春一番」「微笑がえし」といった代表曲は、今も様々なアーティストにカバーされ歌われています 。後期アナログ時代の高い技術と人間味あふれる音楽制作 、ヴォーカルだけでなくバックバンドやコーラスまで、聴きどころが多い音楽性が時代を超えた魅力を放っています。
ファンとの強い繋がりもキャンディーズを語る上で欠かせません 。日本で初めて全国組織型のファンクラブ「全国キャンディーズ連盟」(全キャン連)を持ったアイドルとして知られています 。コンサートでのコールや紙テープ投げは、ファンとキャンディーズが一体となって作り上げる熱狂の象徴でした 。解散後も全キャン連は活動を続け 、田中好子さんの葬儀ではファンが紙テープを投げて見送り 、伊藤蘭さんの紅白出場時には会場で応援したりと 、変わらぬ愛情を示しています。
キャンディーズは日本のアイドル史、音楽史に大きな影響を与えました 。「3人組は当たらない」という定説を覆し 、センターポジションを曲によって変えるスタイルを確立しました 。秋元康氏は、キャンディーズがいなければおニャン子クラブやAKB48もなかったとコメントしています 。後世のアイドルグループにも、その存在が影響を与えているのです。
キャンディーズが残したもの
わずか5年という短い活動期間でしたが 、その間に数多くのヒット曲、伝説的なパフォーマンス、そして人々の心に深く刻まれる物語を残しました 。人気絶頂での潔い解散、解散後も変わらぬ三人の絆、そして時代を超えて歌い継がれる名曲たち。これら全てが組み合わさることで、キャンディーズは単なる過去のアイドルグループではなく、「永遠のキャンディーズ」として今もなお輝き続けているのです。

突然の解散宣言から「ファイナルカーニバル」を迎えるまでの半年余り、日本中がキャンディーズの共犯者となり、空前のムーブメントを起こします。
内実までうかがい知れませんが、プロダクションやマスメディア、そしてもちろんファンたちは、彼女たちを最高のフィナーレに導こうと三位一体の演出を行なっているようでした。
「アイドル」が本来の意味での「虚像」なら、実体のない観念に対し、実社会がここまで気持ちを一つにして最高の瞬間を作り上げてしまったことは、やはり空前絶後でしょう。
興味なき者にとっては滑稽にしか映らないかもしれませんが、自分の欲望や利益よりも若い女性3人に献身できる純な時代を過ごせたことは、幸運だったかもしれません。
送る側と送られる側の双方に存在したのは、まぎれもない利他の精神でした。
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