ジャズの巨人たちに愛された曲
聴き慣れたメロディでも、その背景や歴史を知ることで新しい魅力の発見につながる曲があります。「ディア・オールド・ストックホルム(Dear Old Stockholm)」も、そんな一曲と言えるでしょう。ジャズファンにとってはスタンダードナンバーとしておなじみですが、その起源はスウェーデンの古き民謡にあります。
この曲はジャズの巨人たちが愛し、それぞれ独自の解釈を施してきました。スタン・ゲッツ、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンといった名だたるミュージシャンたちがこのメロディに息吹を吹き込み、ジャズの世界に広めたのです。今回は、この「ディア・オールド・ストックホルム」が持つ多層的な魅力に迫ります。ジャズ初心者の方から、この曲を聴き慣れた方まで、きっと新しい発見があるはずです。
スウェーデンの風を運ぶメロディ そのルーツは古き民謡に
「ディア・オールド・ストックホルム」は、もともと「Ack Värmeland, du sköna」(おお、麗しきヴェールムランド)または「Värmlandsvisan」(ヴェールムランドの歌)と呼ばれるスウェーデンの伝統的な民謡です。この歌はスウェーデンのヴェールムランド地方という、ノルウェーとの国境に近い森と湖に囲まれた美しい地域を称えるものです。
原曲の歌詞は、作詞家アンダース・フリクセル(Anders Fryxell、1795-1881)が1822年のミュージカル「Vermlandsflickan」で発表し、後にフレードリック・アウグスト・ダーグレン(Fredrik August Dahlgren、1816-1895)が1846年の作品「Värmlänningarna」で拡まりました。歌詞にはヴェールムランドへの深い愛情と故郷への回帰の思い、そしてその土地に生きる人々の心温まる様子が描かれています。
この民謡は、1952年のスウェーデン映画「Eldfågeln」の中で若きニコライ・ゲッダによって歌われたり、イスラエルのフォークデュオ、エスター&アビ・オファリムが1968年のLPでスウェーデン語で録音したりするなど、スウェーデンでは長く親しまれてきました。
興味深いことに、この民謡のメロディの起源については諸説あります。オランダの歌との類似性や、スペイン、さらにはスメタナの交響詩「モルダウ」の冒頭フレーズとの類似も指摘されているのです。また、1600年代後半にオランダやワロン地方からスウェーデンにもたらされ、特に鍛冶屋の間で広まったという説もあります。
スウェーデン国内でも、「Risingevisan」と「Värmlandsvisan」という異なるバリエーションが存在し、それぞれに特徴があります。「Risingevisan」は休符が多めでエネルギーに満ちた印象、「Värmlandsvisan」はより滑らかで憂鬱な響きを持っていると言われています。
ジャズの世界へ スタン・ゲッツによる発見と改名
この美しいスウェーデン民謡がジャズの世界に紹介されたのは、1951年にアメリカのサックス奏者スタン・ゲッツがスウェーデンを訪れた時のことでした。ゲッツは現地のミュージシャン、ピアニストのベングト・ハルベリ、ベーシストのグンナー・ジョンソン、ドラマーのジャック・ノーレンらと共にこの曲を録音します。ゲッツはスウェーデンの冷たい冬の厳しさに耐え忍ぶ北欧の民から生まれたこのメランコリックなメロディに、強く惹かれたと言われています。
ゲッツのバージョンはスウェーデンのレーベルからリリースされ、その後アメリカのRoostレーベルがリリースする際に、曲名を「Dear Old Stockholm」と改めました。このタイトル変更は、曲の起源に関する情報をアメリカ盤から失わせてしまう結果にもつながりました。しかし、ゲッツのこの録音によって、「Ack Värmeland, du sköna」は「ディア・オールド・ストックホルム」として英語圏、そしてジャズの世界に広く知られるきっかけとなったのです。ゲッツのメロディの扱い方は「The Sound」と呼ばれる彼のトレードマークとなり、高く評価されました。ゲッツのバージョンは「Värmlandsvisan」の要素をより強く反映していると言われています。
巨匠たちの手で生まれ変わる マイルス・デイヴィスの影響
スタン・ゲッツによってジャズの世界に紹介された「ディア・オールド・ストックホルム」はその後、数多くのジャズアーティストによって演奏されるようになります。中でもマイルス・デイヴィスによるバージョンは、この曲をジャズのスタンダードとして確立する上で非常に大きな影響力を持っています。
マイルス・デイヴィスは、1952年にブルーノート、1956年にコロムビア(アルバム「‘Round About Midnight」)でこの曲を録音しています。
マイルスのバージョンは原曲の28小節の構成に、彼独特の4小節の「スタティック・コード・モーション」と呼ばれるヴァンプ(反復される短いフレーズ)を加え、32小節の一般的なジャズの曲の形式に合わせている点が特徴です。この変更は、アレンジャーのギル・エヴァンスの示唆によるものかもしれません。このヴァンプはDペダル、つまりベースがDの音を保ちながらコードが変化したり、Cペダル、つまりベースがCの音を保ちながらコードが変化したりするような、静的ながらも洗練された響きをもたらしました。
マイルスのこの32小節バージョンはアメリカで広く普及し、最も「規範化」された形式となりました。興味深いことに原曲が広く知られているスウェーデンでは、このヴァンプが加えられたバージョンは必ずしも好まれず、原曲に近いシンプルでピュアな形式を好む声もあります。ジャズ批評家のボブ・ブルーメンソールは、マイルスの変更は曲に洗練さをもたらしたが、スタン・ゲッツが惹かれたシンプルさと純粋さを損なっている可能性を指摘しています。
マイルス・デイヴィスの1952年のブルーノート録音では、J. J. ジョンソン(トロンボーン)、ジャッキー・マクリーン(アルト・サクソフォン)、ギル・コギンズ(ピアノ)、オスカー・ペティフォード(ベース)、ケニー・クラーク(ドラムス)といった名手たちが参加しています。当時のマイルスはまだ27歳でしたが、その演奏は体調の不安を感じさせない確信に満ちたものでした。この録音は、マイルスの初期の名盤「Miles Davis Volume 1」に収録されており、マイルス自身もこの曲を気に入っていたと言われています。若きジャッキー・マクリーンのアルト・ソロや、J.J.ジョンソンの憂いを帯びたトロンボーンソロもこの名演を彩っています。
ジョン・コルトレーンの探求と深遠なサウンド
マイルス・デイヴィスと共に1956年の名盤「’Round About Midnight」でも「ディア・オールド・ストックホルム」を演奏しているジョン・コルトレーンも、この曲の重要な解釈者の一人です。コルトレーンは自身のリーダーアルバムでもこの曲を取り上げており、特に1963年と1965年の録音を収録したアルバムは、そのものずばり「Dear Old Stockholm」というタイトルが付けられています。
このアルバムには、マッコイ・タイナー(ピアノ)、ジミー・ギャリソン(ベース)といったコルトレーン・カルテットの面々が参加していますが、ドラムはエルヴィン・ジョーンズの代わりにロイ・ヘインズが務めています。ヘインズはジョーンズのトレードマークであるパワフルなドラミングとは異なり、よりタイトで洗練された演奏を提供しています。
この時期のコルトレーンは、音楽的に非常に実験的な段階にありました。アルバム「Dear Old Stockholm」に収録されている楽曲の中には、「One Down, One Up」や「After The Crescent」のような、同時期に録音された「Sun Ship」のサウンドを彷彿とさせる激しい演奏もあります。しかし、一方でこのアルバムは「After The Rain」や「Dear Lord」のような美しいバラードも収録しており、コルトレーンの持つメロディや叙情性を深く感じさせます。
アルバムのタイトル曲でもある「ディア・オールド・ストックホルム」やエンディングを飾る「Dear Lord」は、彼のキャリアの後半に見られる探求的なサウンドと、初期のメロディックな側面が見事に融合した演奏として評価されています。
コルトレーンのソロは、メロディの限界を押し広げつつも、曲のポイントを見失わない規律と情熱の両方を示しています。彼のこのアルバムは、多くのジャズリスナーから「圧倒的な傑作」「絶対信頼のImpulse盤」などと称賛されており、彼の作品の中でもバランスの取れた、深遠で美しい演奏が詰まった一枚とされています。コルトレーンのバージョンは「Risingevisan」の要素をより強く反映していると言われています。
北欧ジャズとの特別な関係 スウェーデンのアイデンティティ
「ディア・オールド・ストックホルム」は、単にアメリカのジャズミュージシャンが演奏したスウェーデンの曲というだけではなく、スウェーデンにおけるジャズの発展や、スウェーデン独自のジャズ・アイデンティティの形成という文脈でも重要な意味を持っています。
1950年代、スタン・ゲッツがスウェーデンを訪れて録音を行ったことは、スウェーデン国内で「スウェーデン的なジャズ」が一般的に受け入れられるきっかけの一つとなりました。スウェーデンのミュージシャンたちが自国のフォークソングをジャズとして演奏することは、アメリカのジャズを単に模倣するのではなく、スウェーデンの音楽史に根ざした「オーセンティックなジャズ」であると見なされたのです。これは、ジャズという外来の音楽形式と自国の伝統音楽を融合させることで、独自の音楽文化を創造した成功例と言えるでしょう。
この流れの中で、ピアニストのヤン・ヨハンソン(Jan Johansson)は特に重要な人物です。彼は1960年にスタン・ゲッツのカルテットのメンバーとしてツアーや録音を行った経験があり、早くからスウェーデンのフォークメロディとジャズを結びつける試みを行いました。彼の1964年のアルバム「Jazz på svenska(スウェーデンのジャズ)」は、古いスウェーデン民謡をジャズアレンジしたもので、スカンジナビアのラジオで広く放送され大ヒットとなりました。特に「Visa från Utanmyra」や「Emigrantvisa」といった収録曲は、多様化が進む社会の中で「北欧の伝統」の象徴として受け入れられるほどになりました。
ヨハンソンの音楽は、後にヤン・ガルバレクやエスビョルン・スヴェンソンといった現代を代表する北欧のジャズミュージシャンにも影響を与えたと言われています。フォークミュージックをジャズに取り入れるという彼の試みは、1929年にクリスティアン・ハウガーがノルウェー民謡をジャズアレンジした「Norwegian Jazz Fantasy」を録音するなど、ヨハンソン以前から存在したスカンジナビアにおける伝統の延長線上にあるものでした。
「ディア・オールド・ストックホルム」の成功は、ジャズのグローバリゼーションとローカリゼーションの事例としてしばしば論じられますが、アメリカ中心の視点だけでは見えてこない側面に、ヨーロッパ内での楽曲の伝播があります。
例えばオランダのミュージシャンがドイツでこの曲を演奏したり、ドイツのジャズ雑誌がスウェーデンジャズを評価したりする動きは、非アメリカ的な枠組みでの音楽交流の重要性を示しています。
楽曲の構造を紐解く シンプルながらも独特な魅力
「ディア・オールド・ストックホルム」のメロディは、一度聴いたら忘れられない、シンプルながらも独特の魅力を持っています。その音楽的な構造を少し見てみましょう。
ジャズとして演奏される場合、この曲は一般的にAABA形式と呼ばれる構造を持っています。これは、Aメロディが2回繰り返され、次に異なるBメロディ(ブリッジ)が来て、最後に再びAメロディに戻るという、ジャズのスタンダードでよく見られるポピュラーソングの形式です。
しかし、「ディア・オールド・ストックホルム」の原曲は28小節という、32小節が標準的なAABA形式としては少し変わった長さを持っています。Aセクションが8小節、Bセクションが4小節、そしてAセクションが繰り返され、最後にもう一度Aセクション(またはA’セクション)が続くという構成が多いようです。マイルス・デイヴィスが加えた4小節のヴァンプは、この曲を合計32小節にするためのものだったと言えます。
コード進行を見てみると、全体的にマイナーな響きが強い、Dマイナーを主調とする曲だと考えることができます。しかし、サビにあたるBセクションでは、Fメジャーに転調するような明るい響きが登場します。DマイナーとFメジャーは平行調の関係にあり、この二つのキーの間を行き来することで、曲に独特の色合いが生まれています。
例えば、AセクションではDマイナーのII-V-I進行(Em7(b5)-A7-Dm)や、FメジャーのII-V-I進行(Gm7-C7-F)のようなコードが使われています。ジャズでは、マイナーキーの曲であっても、ドミナントコード(V7)をより解決感の強いハーモニック・マイナー・スケールに基づく形(この場合はA7)にすることが多いです。これは、Am7からDmへの進行よりも、A7からDmへの進行の方が力強い終止感を生み出すためです。
BセクションはFメジャーのキーで、Fmaj7-Gm7-C7-Fmaj7といった進行が見られます。マイルスが加えたヴァンプでは、先述のようにDペダルやCペダルといった特定の音がベースで保たれながらコードが重ねられる独特の響きがあります。
このように「ディア・オールド・ストックホルム」は、シンプルで親しみやすいメロディの中に、マイナーとメジャーを行き来するコード進行や、独特の小節数、そしてジャズミュージシャンによるアレンジによって加えられた要素など、様々な音楽的工夫が凝らされています。
この曲が持つ「北欧のメランコリー」と共感
「ディア・オールド・ストックホルム」を聴くと、多くの人が「メランコリック」「物悲しい」といった印象を受けるのではないでしょうか。「北欧のメランコリー」とも言える響きは、この曲の大きな魅力の一つです。
スタン・ゲッツがこの曲に惹かれた理由として、北欧の長い冬を耐え忍ぶ人々の感情が込められている可能性があります。ヴェールムランド地方の豊かな森と湖の風景、そしてその土地に根ざした人々の生活は、この曲のメロディに独特の感情的な深みを与えているのかもしれません。
興味深いのはこのメランコリックなメロディが、日本の感性にも響く可能性があると指摘されている点です。日本の音楽や芸術には、しばしば静けさや憂鬱といった要素が含まれており、「ディア・オールド・ストックホルム」が持つクールでありながら思慮深い響きは、そうした日本の美的感覚と共鳴するのかもしれません。ジャズを聴き始めたばかりの方や、普段あまりジャズを聴かない方でも、この曲のメロディにどこか懐かしさや親しみやすさを感じるのではないでしょうか。
様々なアーティストがこの曲を演奏していますが、それぞれのバージョンでこの「メランコリー」の表現は異なります。聴き比べることで新たな発見があるはずです。
新しい発見を求めて この名曲を聴き比べてみましょう
スウェーデンの片田舎で生まれた素朴な民謡が、海を渡り、ジャズというまったく異なる音楽形式の中で新たな命を得て、世界中のリスナーに愛される名曲となった。この曲の旅を知ることで、単に美しいメロディを聴くだけでは得られない感動があるのではないでしょうか。
すでにこの曲を知っていた方も、今回触れた原曲の背景や、マイルスが加えたヴァンプの意味、コルトレーンがアルバムに込めた探求心、そしてスウェーデンのジャズシーンとの関連性といった知識を持って改めて聴いてみると、きっと今まで気づかなかった曲の奥深さに触れることができるでしょう。ぜひ、あなたの耳で、この「ディア・オールド・ストックホルム」が持つ多層的な世界を体験してみてください。

原曲とされるスウェーデン民謡にあたると、これがまたいい曲だったりするんです。それにしてもそこから、哀愁の「ディア・オールド・ストックホルム」を仕立ててしまったスタン・ゲッツはすごいですね。
ゲッツを褒めるミュージシャン仲間の証言は、一つもありません。よく言って「変人」。ともかく自己承認欲求の塊みたいな、純度100%のヤな奴だったようです。しかし人類に対しては、多大な貢献をしてくれました。
ここに挙げた以外も、「ディア・オールド・ストックホルム」にはいい演奏がたくさんあります。ぜひ、あなたにとっての一曲を発掘してください。
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