スイングの真髄に触れる ジャンゴ・ラインハルトの名曲『Minor Swing』

ジャズ

ジャンゴ・ラインハルトは、1910年にベルギーで生まれたロマのギタリストです。ジプシースイングというジャンルを確立した伝説的な人物であり、ギターの歴史に大きな影響を与えました。左手の薬指と小指が火事で使えなくなるというハンデを乗り越え、独自の演奏スタイルを築き上げます。

生まれてから不遇の事故まで

ジャンゴ・ラインハルトは、旅芸人の一家に生まれました。幼い頃から音楽に囲まれて育ち、バンジョーやギターを手に取って演奏を始めます。12歳でプロの音楽家として活動を始め、パリのキャバレーなどで演奏していました。

二度とギターを弾くことはできないだろう

1928年11月の夜、ジャンゴは18歳でした。当時、彼はパリで妻と暮らしており、生計を立てるために様々な場所で演奏をしていました。帰宅したジャンゴは、キャラバンの中で妻がセルロイド製の人工花に火を灯しているのを見つけました。この人工花は、聖母マリア像を飾るために使われていたものです。

ジャンゴはすぐに火を消そうとしましたが、誤ってキャラバンに引火させてしまいます。キャラバンは瞬く間に炎に包まれ、ジャンゴは脱出を試みました。しかし、彼は既に重度の火傷を負っています。特に左半身は酷く、足と腕は麻痺状態になり、左手の薬指と小指はほぼ完全に機能を失ってしまいました。18ヶ月もの入院生活を強いられることになります。

薬指と小指が完全に麻痺し、第一関節が曲がったまま固定してしまいます。指の感覚と握力が大幅に低下していました。医師からは、二度とギターを弾くことはできないだろうと宣告されました。しかし、ジャンゴは諦めませんでした。懸命なリハビリを行い、残された指で演奏できる独自のフィンガリングスタイルを開発しました。

この火傷は、ジャンゴの人生を大きく変えました。もしこの事故がなければ、全く異なる音楽人生を送っていたかもしれません。逆境を乗り越え独自のスタイルを確立したことで、彼は伝説のギタリストとして歴史に名を残すことになったのです。

ハンデを乗り越えた驚異の復活

ジャンゴは絶望に打ちひしがれましたが、ギターへの情熱が冷めることはありません。懸命なリハビリを行い、独自のフィンガリングスタイルを開発しました。動かない指を固定し、残りの指で弦を押さえるという方法を編み出したのです。この驚異的な努力によって、ジャンゴは再びギターを弾けるようになりました。

ジャンゴ・ラインハルトの奏法は彼独自のスタイルであり、いくつかの特徴があります。その最大の特徴は、左手の薬指と小指が使えないにもかかわらず、驚くほど流暢で速いメロディーラインを奏でることができた事です。

独自のフィンガリング

人差し指と中指をメインに

薬指と小指が使えないため、主に人差し指と中指を使って弦を押さえます。これは一般的なギター奏法とは大きく異なり、非常に限られた指で演奏していることになります。

スライドとハンマリングオン/プリングオフの多用

指が少ない分、音を出すためのテクニックとして、弦の上を滑らせるスライドや、左手の指で弦を叩いたり引っ張ったりするハンマリングオン・プリングオフを多用します。これにより、少ない指でもスムーズなメロディーラインを作り出すことができます。

コードフォームの簡略化

通常のギターコードは複数の指を使って押さえますが、ジャンゴは限られた指で押さえられるようにコードフォームを簡略化したり、独自のフォームを開発しました。

ギターのセッティング

弦高を高くすることで、弦を押さえる際に指にかかる負担を軽減していました。これは、指の自由が制限されているジャンゴにとって重要な要素でした。

比較的しっかりとしたピックグリップ

比較的しっかりとしたピックグリップ(ピックを強く握ること)で、より力強いピッキングと正確な弦へのアタックを実現していました。これは速いパッセージや複雑なリズムを演奏する上で役立ちました。

結果として彼の奏法は他のギタリストとは全く異なるものとなり、ジプシースイングという独自の音楽を生み出す原動力となりました。

グラッペリとの出会い ジプシースイングの誕生

ジャンゴが復帰後に出会ったのが、ヴァイオリニストのステファン・グラッペリです。二人は意気投合し、1934年に「ホット・クラブ・オブ・フランス」というバンドを結成します。このバンドは、ジャンゴのギターとグラッペリのヴァイオリンを中心とした、軽快でスウィング感あふれる音楽を演奏しました。これが「ジプシースイング」という新しいジャズのスタイルの誕生です。

ステファン・グラッペリ

ステファン・グラッペリは、1908年1月26日イタリア生まれのジャズ・ヴァイオリニストです。彼はジャンゴ・ラインハルトと共にジプシースイングというジャンルを確立し、ジャズの歴史に大きな足跡を残しました。

初期の音楽活動とジャンゴとの出会い

グラッペリは幼少期からヴァイオリンを始め、クラシック音楽を学んでいました。しかし、次第にジャズに惹かれ、ジャズ・ヴァイオリニストとしての道を歩み始めます。1930年代初頭、パリのホテルで演奏していた時にジャンゴ・ラインハルトと運命的な出会いを果たします。二人の音楽性は驚くほどに一致し、意気投合。これがジプシースイング誕生の瞬間でした。

ホット・クラブ・オブ・フランスと黄金時代

1934年、ジャンゴとグラッペリは「ホット・クラブ・オブ・フランス」を結成。このバンドはギターとヴァイオリンをフロントに据えた独特の編成で、軽快でスウィング感あふれる音楽を演奏しました。彼らはヨーロッパ中でツアーを行い、大成功を収めます。「Minor Swing」「Nuages」「Daphne」など、数々の名曲を世に送り出し、ジプシースイングの黄金時代を築き上げました。

第二次世界大戦と活動の継続

第二次世界大戦中、イタリア人のグラッペリは、ナチス占領下のフランスからイギリスへと脱出します。一方、ジャンゴはフランスに残りました。こうして二人は離れ離れになってしまいますが、グラッペリはイギリスでジャズ・ミュージシャンとしての活動を続けました。

戦後の活動と晩年

戦後、ジャンゴとグラッペリは再会し、再び共演を果たします。しかし、ジャンゴは1953年に43歳の若さで亡くなってしまいます。ジャンゴの死後もグラッペリは精力的に活動を続け、様々なジャンルのミュージシャンと共演しました。クラシック音楽の素養も活かし、ジャズとクラシックを融合させた独自のスタイルを確立。晩年まで世界中で演奏活動を行い、1997年5月27日、89歳でその生涯を閉じました。

グラッペリの音楽的特徴

グラッペリのヴァイオリン演奏は非常に独特で、一度聴いたら忘れられない魅力があります。
軽やかで流麗なメロディーライン・・・まるで歌っているかのような滑らかなフレーズは、彼の最大の特徴です。
スウィング感・・・ジャズ特有のリズムの揺れであるスウィングを、ヴァイオリンで表現することに長けていました。
即興演奏の妙技・・・高度なテクニックと豊かな音楽性で、自由自在に即興演奏を繰り広げました。

ステファン・グラッペリは、ジャンゴ・ラインハルトと共にジプシースイングというジャンルを確立し、ジャズ・ヴァイオリンの可能性を広げた偉大な音楽家として、今もなお多くの人々に愛され続けています。

ジプシースイングの真髄に触れる! 『Minor Swing』

ギターを弾く人なら一度は耳にしたことがあるであろう『Minor Swing』。ジャンゴ・ラインハルトの代表曲です。軽快なリズムと華麗なギタープレイは、聴く人をたちまち虜にします。

Minor Swing とは?

『Minor Swing』は、1937年にジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリによって作曲されました。ジャンゴがギター、グラッペリがヴァイオリンを担当し、ホット・クラブ・オブ・フランスで演奏されました。ジプシースイングというジャンルの代表曲となり、世界中で愛されています。

軽快なリズムとスウィング感

『Minor Swing』の特徴は、何と言ってもその軽快なリズムとスウィング感です。アップテンポな曲調で、聴いていて自然と体が動き出します。スウィングとは、ジャズ特有のリズムの揺れのことです。このスウィング感が、『Minor Swing』の魅力をさらに引き立てています。

楽曲の構成

基本的にAm(イ短調)で演奏される「Minor Swing」は、2小節のイントロから始まります。その後、ABABの形式で展開し、各パートでソロが挿入されます。リズミカルなバッキングと共に、即興演奏の醍醐味を味わうことができます。楽曲構成はAメロとBメロを繰り返すというシンプルなものですが、そのシンプルさの中にこそ奥深さがあります。ジャンゴとグラッペリの即興演奏が曲に彩りを添え、何度聴いても飽きることがありません。

ジャンゴの超絶ギターテクニック

『Minor Swing』の聴きどころは、ジャンゴの超絶ギターテクニックです。彼は、左手の薬指と小指が不自由でしたが、それをものともしない素晴らしい演奏を披露しています。流れるようなメロディーライン、正確無比なピッキング、そして独特のビブラートは、まさに圧巻です。

ルイ・マル監督の映画『ルシアンの青春』

ルイ・マル監督の映画『ルシアンの青春』(1974年)で使用されています。 この映画の時代設定は第二次世界大戦中のフランスであり、ナチス占領下の不安な情勢の中で青春を過ごす少年ルシアンの姿を描いています。

『Minor Swing』の軽快でスウィング感あふれるメロディーは、暗い時代背景とは対照的に感じられます。この選曲は抑圧された時代の中でも人々の心に希望や喜び、そして生きる活力があったことを暗示しているのかもしれません。ジャンゴ自身、ナチス占領下で演奏活動を続けていたという事実が、この選曲に深みを与えています。

戦後と晩年

戦後、ジャンゴは活動を再開し、アメリカにも渡りました。デューク・エリントンと共演も果たし、世界的な名声を手にします。しかし長年の不摂生が祟り、1953年、43歳の若さでこの世を去りました。

ジャンゴ・ラインハルトの音楽は、時代を超えて愛され続けています。彼のギタープレイは、まるで魔法のようです。指のハンデを感じさせない華麗でエネルギッシュな演奏は、聴く人の心を掴んで離しません。ジャンゴが残した曲は、今も多くのギタリストたちに影響を与え続けています。彼の音楽に触れれば、きっとあなたもその魅力に引き込まれるでしょう。

いさぶろう
いさぶろう

10代の終わり、ジャズの「お勉強」を始めた頃に「ジャンゴロジー」のアルバムと出会いました。通っていたジャズ喫茶で彼の演奏は何度も触れていましたし、セピア色のジャケットもカッコよく、迷わず購入します。

1曲目、耳に馴染んだ1947年のパリ録音と異なる、1949年ローマで録られた「マイナー・スイング」が流れ出し、即座に恋に落ちました。これが異性の恋ならば、3年も過ぎれば醒めようというもの。ジャンゴのギターは爾来40数年が過ぎようと、聴けばすぐに心の沸点まで達します。

買った日本盤LPのライナーノートに左3本指での奏法とあり、6本あっても無理じゃね?の超絶テクニックに酔いしれたもんです。グラッペリのヴァイオリンがまた、堪らんわけです。

私のパソコンの壁紙は、煙草をくわえたジャンゴが不動です。私にとって「マイナー・スイング」は、いつまでも特別な音楽なのです。

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