1970年代を中心に、その美しいハーモニーとカレンの透明感あふれる歌声は世界中の音楽ファンを魅了し、数々のヒット曲を世に送り出します。その輝かしい成功の裏には、兄妹それぞれの苦悩と葛藤、そして悲劇的な結末が隠されていました。
カーペンターズの軌跡 世界を魅了した兄妹デュオ
カーペンターズは1969年にA&Mレコードと契約し、メジャーデビューを果たしました。当初はなかなかヒットに恵まれなかったものの、1970年に発表したバート・バカラックとハル・デヴィッドのカバー曲「遥かなる影(Close to You)」が、全米チャートで1位を獲得。一躍スターダムへと駆け上がります。
その後も「愛のプレリュード(We’ve Only Just Begun)」「スーパースター(Superstar)」「トップ・オブ・ザ・ワールド(Top of the World)」「イエスタデイ・ワンス・モア(Yesterday Once More)」など、数々のヒット曲を連発。その人気はアメリカ国内にとどまらず、日本をはじめとする世界各国で爆発的な人気を博しました。
カーペンターズの音楽は美しいメロディーとハーモニー、カレンの透明感あふれる歌声が特徴です。そのサウンドは洗練されたアレンジと演奏技術によって支えられており、ポップスでありながらも、どこかクラシカルな雰囲気を漂わせています。
しかし1983年、カレンは拒食症による心不全のため、32歳の若さでこの世を去ります。彼女の死は世界中のファンに大きな衝撃を与え、カーペンターズの活動は事実上、終焉を迎えることとなりました。
二人の生い立ち 音楽一家に育まれた才能
リチャード・リン・カーペンターは1946年、カレン・アン・カーペンターは1950年、コネチカット州ニューヘイブンで生まれました。父ハロルドは印刷業、母アグネスは主婦でしたが、二人とも音楽好きで、家には常に音楽が流れていました。
リチャードは幼い頃から音楽の才能を発揮し、ピアノを始め、作曲や編曲にも興味を持つようになります。一方、カレンは幼い頃はスポーツが好きで、特にソフトボールに熱中していました。中学校に入学するとドラムに興味を持つようになり、独学でドラムの練習を始めました。
1963年、カーペンター一家はカリフォルニア州ダウニーに引っ越します。リチャードはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校に入学し、音楽を専攻。カレンもダウニー高校に入学します。
大学でリチャードは、後にカーペンターズの楽曲の多くを作詞することになるジョン・ベティスと出会い、意気投合。ジャズトリオを結成し、ライブ活動を行うようになります。
カレンも高校卒業後、兄の勧めでドラムを本格的に学ぶようになります。その才能はすぐに開花し、地元のコンテストで優勝するなど注目を集めるようになりました。
リチャード 音楽への情熱と完璧主義
リチャードはカーペンターズの音楽的中心人物です。幼い頃から音楽の才能を発揮し、クラシック音楽からジャズ、ポップスまで、幅広いジャンルの音楽に精通していました。
彼はカーペンターズの楽曲のほとんどを作曲・編曲しています。その音楽性は美しいメロディーとハーモニー、洗練されたアレンジに特徴があります。彼は完璧主義者であり、レコーディングやライブでは常に最高のパフォーマンスを追求していました。
その完璧主義が、後に彼自身やカレンを苦しめることにもなります。彼はカレンの歌唱力やルックスに対して常に厳しい要求を突きつけ、彼女に大きなプレッシャーを与えました。
カーペンターズの音楽性をめぐって、レコード会社やプロデューサーと対立することも少なくありません。自分たちの音楽を妥協することなく、理想とするサウンドを常に追求していました。
カレン 天使の歌声と隠された苦悩
カレンはその透明感あふれる歌声と愛らしいルックスで、カーペンターズの顔として世界中の人々を魅了しました。当初はドラマーとして活動していましたが、その歌声が認められボーカルを担当するようになります。
3オクターブのアルトは澄み切った透明感と、どこか切ない響きを帯びていて、聴く人の心を深く揺さぶります。リズムをキープする能力がずば抜けて高く、ライブでもレコーディングと変わらないクオリティのパフォーマンスを披露しました。
その人気とプレッシャーの中、彼女は心身ともに疲弊していくことになります。世間からのルックスへのプレッシャーと、兄リチャードの音楽的なプレッシャーに苦しみ、拒食症を発症しました。
彼女はカーペンターズの成功によってプライベートな時間をほとんど持つことができなくなり、孤独感を深めていきます。常に笑顔を絶やさず、ファンやメディアに対して明るく振る舞っていましたが、その内面は孤独と苦悩に満ちていたのです。
リチャードの依存症 成功の裏に潜む闇
カーペンターズの成功の裏で、リチャードは薬物依存症に苦しんでいました。過度のプレッシャーと完璧主義から逃れるため、睡眠薬や鎮痛剤に頼るようになったのです。
彼はカーペンターズの楽曲の作曲・編曲・プロデュース・ライブの準備など、全てを一人でこなしていました。そのプレッシャーは、想像を絶するものです。彼は睡眠時間を削ってまで仕事に没頭しました。
睡眠不足を解消するため強い薬を服用するようになり、次第にその量が増えていきます。腰痛にも悩まされていたので、鎮痛剤も常用していました。
薬物依存症は彼の心身を蝕み、音楽活動にも大きな影響を与えます。集中力が低下し、作曲や編曲の作業が捗らなくなり、ライブでもミスを連発するようになりました。
1979年、リチャードは薬物依存症の治療のため、リハビリ施設に入所します。治療は成功し、彼は薬物依存症から脱却することができました。それでもカーペンターズの活動は、一時休止を余儀なくされたのです。
カレンの拒食症 美貌へのプレッシャーと心の叫び
カレンは常に「痩せていなければならない」「美しくなければならない」というプレッシャーに晒され、極端なダイエットを繰り返します。
リチャードからの音楽的なプレッシャーも、彼女の拒食症を悪化させる要因となりました。兄はカレンの歌唱力に対して、常に厳しい要求を突きつけていたのです。
カレンの体重は次第に減少し、ついには生命の危機に瀕する状態となりました。治療のため入院と退院を繰り返しましたが、症状はなかなか改善されません。
母親は、カレンが愛する人を見つければ拒食症が改善されると考え、トーマス・ジェイムズ・バリスを紹介しました。しかし結婚式の数日前、バリスからパイプカットをしていると告白され、カレンは婚約破棄を考えます。母は世間体を気にして、結婚を強行させました。
夫となったバリスは、カレンから事業資金と称して大金を騙し取り、遊蕩に明け暮れます。実業家というのも偽りで、カレンには最初から金銭目的で近づいたのです。闘病中のカレンを「骨の塊」と侮辱するなど、モラルハラスメントもひどいものでした。
離婚届に署名する予定だった1983年2月4日、カレンは両親の家で倒れているところを発見されました。病院に搬送されましたが、そのまま帰らぬ人となります。拒食症による心不全でした。
イエスタデイ・ワンス・モア 時代を超えて愛される名曲
「イエスタデイ・ワンス・モア」は、カーペンターズを代表する楽曲の一つです。1973年に発表され、世界中で大ヒットを記録しました。
この曲は過ぎ去った日々への郷愁と、もう一度あの頃に戻りたいという切実な願いを歌っています。ラジオから流れる懐かしいメロディーに耳を傾けながら、無邪気だった子供の頃や、初めての恋のときめきを思い出す。そんな普遍的な感情を、この曲は見事に表現しています。
カレンの歌声はその切ない歌詞とメロディーに一層の深みを与えており、聴く人の心を深く揺さぶります。リチャードの美しいアレンジも、この曲の魅力を高める要因となっています。
「イエスタデイ・ワンス・モア」の歌詞は、過去への強い憧憬と過ぎ去った時間への切ない想いに満ちています。ラジオから流れてくる懐かしい歌に耳を傾け、楽しかった日々を思い出す主人公の姿。「Those were the happy times and not so long ago(あれは幸せな時代だったわ、そんなに遠い昔とは思えない)」というフレーズは、まさにカーペンターズの歌そのものと言えるでしょう。
過ぎ去った時間はどれも愛おしく、楽しかった記憶だけが鮮やかに蘇ります。
カーペンターズが残した音楽と遺産
カレンの死後、リチャードはソロ活動を開始し、カーペンターズの楽曲を演奏するコンサートを開催するなど、妹の遺志を継ぎました。ドキュメンタリー番組の制作に協力するなど、カーペンターズの音楽を後世に伝える活動にも力を注いでいます。
カーペンターズはその美しい音楽と悲劇的な物語によって、音楽史に大きな足跡を残しました。彼らの音楽はこれからも多くの人々に感動を与え、勇気づけてくれることでしょう。

小学生の頃、遊びに行った友達の兄が聴いていたのが「イエスタデイ・ワンス・モア」です。映画を通し音楽に目覚めて間もない頃なのに、いちど耳にしただけのカレンの声は耳に残り、記憶にあるジャケットを頼りにEP盤を購入しました。
英語の歌詞なんて分らなかった当時から今に至るまで、この曲から受ける印象はまったく変わりません。ノスタルジーの本質とでも表現すべきものが、この一曲に詰まっている気がするのです。
おまけ(日本人によるカバー)
キャンディーズ – 『危い土曜日〜キャンディーズの世界〜』(1974年)
浪花花憐 – 『涙の工務店』。「あのエエ頃もっかい」として収録(1996年)
西田あい – 『アイランド・ソングス 〜私の好きな 愛の唄〜』(2019年)
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