ジャズピアニスト、ビル・エヴァンスが1977年に発表したアルバム『You Must Believe in Spring』。本作は彼の晩年の傑作として、そしてジャズ史に残る名盤として、今もなお多くの人々を魅了し続けています。
孤独と向き合い、内省を深めたエヴァンス
1970年代後半、エヴァンスは私生活で大きな悲しみを経験します。長年連れ添った妻エレインとの別離、自ら命を閉じた実兄ハリー。これらの出来事はエヴァンスの心に深い影を落とし、彼の音楽にも大きな影響を与えました。
『You Must Believe in Spring』はそんなエヴァンスが孤独と向き合い、内省を深めた時期に制作されたアルバムです。そこには悲しみ、喪失感、そしてそれでも前に進もうとする強い意志が、繊細かつ美しいピアノの旋律として表現されています。
ミシェル・ルグランとの出会い
本作のタイトル曲である「You Must Believe in Spring」は、フランスの映画音楽家・ミシェル・ルグランが作曲したものです。エヴァンスはルグランの楽曲の美しさに感銘を受け、この曲をアルバムのタイトルに選びました。
ルグランの楽曲はエヴァンスのピアノと見事に調和し、アルバム全体を包み込むように温かく、そしてどこか物悲しい雰囲気をかもしだしています。
静寂の中に響く、エヴァンスのピアノ
『You Must Believe in Spring』には全体を通して、静かで内省的な雰囲気が漂っています。エヴァンスのピアノはまるで独り言のように、静かに、しかし確実に聴き手の心に語りかけてきます。
特に「We Will Meet Again (For Harry)」は、亡き兄ハリーに捧げられた曲であり、エヴァンスの深い悲しみがひしひしと伝わってきます。その悲しみの中にもどこか希望のようなものが感じられるのは、エヴァンスの音楽が持つ力と言えるでしょう。
エヴァンスの体調と音楽への影響
1970年代後半、エヴァンスは長年の麻薬使用により、体調を大きく崩していました。肝炎、胃潰瘍、そして歯の痛み。これらの病気は彼の演奏にも影響を与え、以前のような力強い演奏は影を潜めていきました。
そんな中でもエヴァンスは、音楽への情熱を失うことがありませんでした。彼は体調の悪化と闘いながらも精力的に演奏活動を続け、数々の名盤を生み出していきます。
『You Must Believe in Spring』は、そんな彼の晩年に制作されたアルバムの一つです。そこには体調の悪化による苦しみ、それでも音楽を奏で続けることへの喜びが、複雑に絡み合った感情として表現されているのです。
全盛期から晩年へのメンバーの変遷
ビル・エヴァンスの音楽を語る上で欠かせないのが、彼と共に演奏したミュージシャンたちです。彼が率いたトリオのメンバーの変遷は、エヴァンスの音楽の変化と深く関わっています。
エヴァンスの全盛期を支えたのは、ベースのスコット・ラファロとドラムのポール・モチアンでした。1959年に結成されたこのトリオは、ジャズの歴史に残る名盤『Portrait in Jazz』や『Explorations』を生み出し、ジャズピアノトリオの新しい形を提示しました。
その絶頂期だった1961年、ラファロが交通事故で亡くなり、エヴァンスは大きな喪失感を味わいます。その後、エヴァンスは様々なベーシストやドラマーと共演し、新たなトリオを模索します。
1966年からはベーシストのエディ・ゴメスとドラマーのマーティ・モレル(Marty Morell)がエヴァンスのトリオを支え、1970年代に入るとエヴァンスの体調の悪化と共に、演奏スタイルも変化していきます。
そして、晩年のエヴァンスを支えたのが、ベーシストのマーク・ジョンソンとドラマーのジョー・ラバーベラでした。エヴァンスにとって最後のトリオとなり、亡くなるまで、彼らは共に演奏活動を続けました。
エヴァンスの音楽が持つ普遍性
『You Must Believe in Spring』は発表から40年以上経った今でも、多くの人々を魅了し続けています。それはエヴァンスの音楽が持つ、普遍性によるものでしょう。
人間の心の奥底にある感情を、言葉ではなく音で表現するエヴァンスの音楽は、時代や国境を超えて聴き手の心に響きます。
孤独を感じた時に聴きたいアルバム
『You Must Believe in Spring』は、孤独を感じた時に聴きたいアルバムです。エヴァンスのピアノは聴き手の心に寄り添い、そっと癒してくれることでしょう。
静かに目を閉じエヴァンスのピアノに耳を傾けていると、心が洗われ、明日への希望が湧いてくるかもしれません。
「Waltz for Debby」から「B Minor Waltz」へ
エヴァンス絶頂期の傑作「Waltz for Debby」は、姪のデビーのために書かれました。シンプルで愛らしいメロディーは、子供の無邪気さや姪への温かい愛情を感じさせます。明るく流れるようなハーモニーとリズムは聴く者の心を穏やかに、幸福な気持ちで満たしてくれます。彼の人生における最強のトリオが一体となり、溢れる喜びを表現しています。
一方、このアルバム冒頭の「B Minor Waltz」は、恋人エレインの死後に作曲されています。同じワルツでも憂いを帯びた短調のメロディーは、深い悲しみと後悔の念を伝えます。低い音域で奏でられる陰影の深いハーモニーは、聴く者の心に取り返しのつかない過去を想起させるのです。ベースとドラムは彼のピアノに寄り添い、その悲しみを共有しているようです。
エヴァンスは同じ形式を用いて、壮年期と晩年に対照的な正と負の感情を描き切りました。私たちは言葉もなく、残された記録にただ聴き入るのみです。
エヴァンスの晩年と音楽への情熱
エヴァンスは、1980年9月15日、ニューヨークの病院で亡くなります。51歳という若さでした。彼の死は多くの音楽ファンに衝撃を与えましたが、残された音楽は今も絶えることなく、愛され続けています。
晩年のエヴァンスは体調の悪化と闘いながらも、音楽への情熱を失いませんでした。彼は亡くなる直前まで演奏活動を続け、最期まで音楽と共に生きました。
エヴァンスの音楽は、彼の人生そのものです。そこには喜び、悲しみ、そして希望、絶望といった、人間の様々な感情が込められています。だからこそ彼の音楽は聴く人の心を揺さぶり、感動を与えるのでしょう。
エヴァンスの音楽を聴き続けるということ
エヴァンスの音楽には、聴くたびに新しい発見があります。彼の音楽は奥深く、とても複雑であり、聴き手の心の状態によって様々な表情を見せてくれます。
だからこそ私たちは、エヴァンスの音楽を聴き続けるのでしょう。彼の音楽は私たちの心に寄り添い人生を豊かにしてくれる、かけがえのない宝物なのです。

田舎暮らしの私の移動手段は、常に車です。往来の途絶えた夜の帰り道など、独り聴きたくなるのが『You Must Believe in Spring』です。車中に流れる晩年のビル・エヴァンスとの「対話」は、深く心に沁みていきます。
一人では抱えきれないほどの「悲しみ」と反比例するように、聴く者の心は浄化されていくのです。それはエヴァンスに限らず、ジャズという音楽がもつ魅力と不可思議さです。
コメント
楽しみが戻りました🎵
ありがたいお言葉、とても励みになります。今後ともよろしくお願いいたします。