ギターを抱えて背中を丸め、帽子のツバの下から客席をのぞき込むように笑う。あの姿を見るだけで、なぜか胸のあたりが少しあたたかくなる。仲井戸麗市、みんなが呼ぶところの「CHABO(チャボ)」です。
僕が中学生だった頃、深夜のラジオから流れてきたRCサクセションの「雨あがりの夜空に」。あのイントロのギターを聴いた瞬間、世界の色が変わった — なんて書くとクサいけれど、本当にそうだったんだから仕方がない。そのギターを弾いていたのが、忌野清志郎の隣でニヤリと笑っているあの小柄な男だったわけです。
この記事ではいまなお現役でステージに立ち続けるギタリスト/シンガーソングライター・仲井戸麗市の歩みを、全4章でじっくり追いかけていきます。
古井戸時代からRCサクセション黄金期、麗蘭、the day、そして近年のソロ作まで。ライブでの佇まい、ギターの音色、そして歌詞の手ざわり。「なんとなく知ってる」という方にも、「全部持ってるよ」というマニアの方にも、何か一つでも持ち帰ってもらえたら嬉しいです。
第1章:「古井戸」から「RC」へ ― 二人の天才が出会うまで
まずは出発点から。チャボという人がどこから来て、どうやって清志郎と出会ったのか。ここを押さえておくと、RCサクセションというバンドの奥行きが何倍にも感じられるようになります。
1950年、東京に生まれた「麗市」という名前
仲井戸麗市は1950年、東京生まれ。団塊の世代のちょうど直後、戦後の焼け跡が少しずつ街に変わっていく時代に子ども時代を過ごした世代です。ラジオから洋楽が流れ、ビートルズが来日し、テレビでエレキ・ブームが起きる。そんな空気を10代まるごと吸い込んだ人だと思ってください。
ちなみに「麗市」という名前について、ファンの間では「ドノヴァン(Donovan Philips Leitch)の”レイチ”から来ているのでは」という説がまことしやかに語られることがあります。ただ、ドノヴァンが世に出たのは1960年代半ば。1950年生まれのチャボが生まれた時点でその名前を借りるのは、時系列的に無理があります。
本人の音楽的ルーツにドノヴァンら英国フォークの影響が濃いのは事実ですが、名前の由来まで結びつけるのはいささかロマンが勝ちすぎた俗説と考えるのが自然でしょう。こういう「いい話」ほど、いったん立ち止まって確かめたいところです。
「チャボ」という愛称はどこから来たのか
「チャボ」というニックネームの由来にも、実はいくつかの説があります。小柄な体つきや、あのクシャッとした髪型が鶏の「矮鶏(チャボ)」を思わせたから、というのがよく語られる話。古井戸時代からすでにそう呼ばれていたと言われています。
面白いのは、この愛称がその後の彼のパブリック・イメージをほとんど決定づけてしまったことです。「仲井戸麗市」と書くとどこか文学青年めいた硬さがあるのに、「チャボ」と呼んだ途端、路地裏でギターを抱えている人懐っこい兄貴の顔になる。本人もその二面性を面白がっているフシがあって、後年のソロ名義では「仲井戸”CHABO”麗市」と、両方を並べて表記することも多くなります。名前そのものが彼の音楽の”よそゆき”と”普段着”を表しているようで、僕はここが妙に好きなんです。
フォーク・デュオ「古井戸」の時代 ―「さなえちゃん」の頃
チャボのキャリアの出発点はロックバンドではなく、フォーク・デュオでした。加奈崎芳太郎とのユニット「古井戸」。
1970年代初頭にデビューし、その代表曲として広く知られているのが「さなえちゃん」です。1973年頃にヒットし、当時をリアルタイムで知らない世代でも、どこかで耳にしたことがあるはず。とぼけた味わいの、なんとも人懐っこい曲です。
ここで押さえておきたいのは、当時のフォークが「アコースティック・ギターの弾き語り=おとなしい音楽」では全然なかった、ということ。四畳半フォーク、関西フォーク、プロテスト・ソング、そしてブルースやカントリーの直輸入まで、雑多なものが同じ「フォーク」という袋に詰め込まれていた時代です。
古井戸の音楽にも、ブルースの匂いとユーモア、そして少し陰のある叙情が同居していました。のちのチャボのギターに流れる「歌に寄り添う伴奏の巧さ」は、間違いなくこのデュオ時代に鍛えられたものです。
そして重要なのが、当時のRCサクセションもまた「フォークのバンド」として世に出ていたという事実。1970年にデビューしたRCはアコースティック編成のトリオで、「ぼくの好きな先生」(1972年)のヒットを持つフォーク畑のグループでした。
つまり古井戸とRCは、同じ場所で戦っていた同世代なんです。ライブハウスやコンサートで顔を合わせ、対バンし酒を飲む。二人の出会いは、そういう地続きの現場から生まれています。
1976年『シングル・マン』という伏線 ―「スローバラード」
チャボが加入する前のRCについて、どうしても触れておきたい一枚があります。1976年のアルバム『シングル・マン』。発売当時はまったく売れず、レコード会社からも見放されかけた作品でした。しかし収録された「スローバラード」の美しさは尋常ではありません。市営グラウンドの駐車場、カーラジオ、眠っている彼女の寝言 — たったそれだけの情景で、日本語のロック・バラードの一つの頂点を作ってしまった。
この名盤が不当に埋もれていることに対して、後年ファンや関係者による再発運動が起こり、RCは”再発見”されていきます。チャボがバンドに加わったのは、まさにその流れの真っ只中でした。
1979年、二つの道が交わる
1979年、古井戸は解散。そして同じ年、仲井戸麗市はRCサクセションに正式加入します。RCはこの時期、アコースティック中心の編成からエレクトリックなロックバンドへと大きく姿を変えていました。メイクをして派手な衣装をまとい、ステージを跳ね回る。あの「化粧をしたRC」の誕生です。
ここでのポイントは、チャボの加入が単なる「メンバー補充」ではなかったこと。清志郎という圧倒的なヴォーカリストの隣に同じ景色を見てきた同世代ギタリストが立ったことで、RCは初めて”バンド”として完成しました。清志郎が前へ前へと突っ込んでいく分、チャボが後ろで綱を引く。二人の重心の違いが、そのままRCサウンドの張力になったわけです。
フォークの現場で鍛えた「歌を聴かせる耳」を持ったギタリストが、ロックバンドの中に入る。RCサクセションのあの独特のグルーヴは、この一点から生まれたと言っても言い過ぎではないと思います。
第2章:RCサクセションの「もう一人の顔」
さて、ここからが本番。1979年から1990年前後まで、RCサクセションの黄金期におけるチャボの仕事を、曲に沿って見ていきましょう。
「雨あがりの夜空に」― 二本のギターが火を噴いた
1980年のシングル「雨あがりの夜空に」。日本のロックを代表する一曲であり、いまもライブハウスでカバーされ続ける不滅のナンバーです。
この曲の凄さは、実は歌の外側にもあります。イントロから鳴り続けるギターの絡み。片方が刻めば片方が伸ばし、片方が上に行けば片方が下で支える。ツイン・ギターと言うと二人でハモってユニゾンで弾く様式を思い浮かべる人が多いと思いますが、RCのそれは違います。
役割を固定しない、会話としてのツイン・ギター。ローリング・ストーンズのキース・リチャーズとロン・ウッドがよく「ウィーヴィング(織物)」と評されますが、RCのギターもまさにあの感覚です。
「こんな夜に お前に乗れないなんて」
歌詞の意味を巡っては昔からいろんな解釈がありますが、そんな議論をぜんぶ吹き飛ばす爽快感がこの演奏にはあります。雨上がりの湿った空気とエンジンのかからない苛立ちと、それでも笑ってしまう可笑しさ。全部がギターの音に入っている。
「トランジスタ・ラジオ」に流れるあの空気
同じく1980年の「トランジスタ・ラジオ」。授業をサボって屋上でラジオを聴く、ただそれだけの歌。なのに、なぜあんなに切ないのか。
ここでのチャボのギター、驚くほど「弾かない」んです。隙間だらけ。コードをジャランと鳴らして、あとは風が通り抜けるのに任せている。この絶妙な”間”があるから、清志郎の声が屋上の空にすうっと抜けていく。上手いギタリストほど音を減らせるという言い方をよくしますが、チャボはその見本のような人です。
若い頃の僕はギター・キッズだったので、速く弾けるギタリストばかり憧れていました。チャボの凄さがわかったのは、正直だいぶ後になってから。コピーしようとすると音符は簡単なのに、”間”がまったく再現できないんですよ。あれは技術じゃなくて、彼が生きてきた時間そのものなんだと思います。
清志郎の”暴走”を支えた冷静な炎
ステージ上の忌野清志郎は、火の玉でした。転がる、叫ぶ、客席に飛び込む、予定を無視して曲を伸ばす。あの人の即興性についていけるバンドは、そうそうありません。
チャボの役割はその炎に薪をくべつつ、決して家を全焼させないことでした。清志郎がテンポを揺らせば、涼しい顔でそこに合わせる。歌が長引けば、その分だけリフを回し続ける。そしてここぞという瞬間にだけ前に出て、鋭い一撃を放つ。冷静なのに、熱い。体温の低い炎とでも言うべきギターです。
ライブ盤『RHAPSODY』(1980年)を聴くと、それがよくわかります。会場の熱狂の中で、バンドが一度も崩れない。あの安定感の中心に、チャボのギターとリズム隊のがっちりした地面があるわけです。
ブルース、ラテン、サイケ ― RCの引き出しの多さ
RCサクセションは「日本語のロックンロール・バンド」と括られがちですが、実際の音はもっと雑食です。ソウル/R&Bを土台にしながら、ブルース、ラテンのリズム、サイケデリックな長尺の即興まで飲み込んでいる。とりわけライブでは、スタジオ盤とはまるで別の生き物になる曲がいくつもありました。
チャボのソロがラテン的な高揚を見せる瞬間を捉えて、「サンタナみたいだ」と評するファンも少なくありません。実際に本人がサンタナを直接の手本にしたと語っているわけではありませんが、ワンコードで粘りながらフレーズを積み上げていくあの感じは、確かに通じるものがあります。
ブルースを土台にした人がラテンのリズムに乗ると、ああいう独特の熱を帯びるんですね。
「多摩蘭坂」― 東京の坂道に月が落ちる
アルバム『BLUE』(1981年)に収録された「多摩蘭坂」は、RCの中でも別格の静けさを持つ曲です。国立の坂道に実在する地名を歌にして、「月に手を伸ばす」という誰でも知っている行為だけで、あんな詩情を作ってしまう。
ここでのギターは、ほとんど間接照明です。輪郭をぼかし、部屋の温度を決めるだけ。派手なプレイは一つもないのに、この曲からギターを抜いたらたぶん半分も残らない。ロックバンドのギタリストが、こういう仕事を厭わずにできるかどうか。チャボがRCにとって不可欠だった理由が、ここに集約されていると思います。
ステージの上の「あうんの呼吸」
そして忘れられないのが二人の掛け合い。清志郎が「チャボー!」と叫び、チャボが応える。マイクを分け合って歌う。目も合わせずに同じタイミングで止まる。仕込みでは絶対に作れません。
面白いのは二人が決して、「似た者同士」ではなかったこと。清志郎が天才的な直感の人だとすれば、チャボは言葉と構成を積み上げる人。タイプが違うからこそ、お互いの領域を侵さずに補い合えた。相棒とは同じ人間になることではない。RCのステージは、いつもそれを教えてくれました。
1990年のアルバム『Baby a Go Go』を最後にバンドは活動を停止し、翌1991年に無期限活動停止が発表されます。日本のロックが一つの季節を終えた瞬間でした。
第3章:ソロ、麗蘭、そして「the day」へ ― 多岐にわたる表現活動
RCが止まったとき、チャボは40代に入ったばかりでした。ここから先の30年以上こそ、この人の本当の凄みだと僕は思っています。
1985年『THE 仲井戸麗市 BOOK』― 一人称で語り始めた男
RC全盛期のさなかである1985年、チャボは初のソロアルバム『THE 仲井戸麗市 BOOK』を発表します。タイトルに「BOOK(本)」と付けたところがいかにもこの人らしい。音楽アルバムを、読み物として差し出したわけです。
バンドの中では清志郎の歌を支える側だったチャボが、ここでは自分の声で自分の言葉を歌う。RCのステージで見せる陽気さとは違う、内省的で少し不器用で、やたらと正直な男の顔がそこにありました。この一枚があったからこそ、後年の本格的なソロ活動がスムーズに始まったのだと思います。
麗蘭 ― 土屋公平と組んだ「もう一つのバンド」
1991年、チャボはザ・ストリート・スライダーズのギタリスト土屋公平とユニット「麗蘭(れいらん)」を結成します。名前は二人の名前から取ったもの。同年、アルバム『麗蘭』を発表しました。
これがまた最高なんです。世代も出自も違う二人のギタリストが、ブルースとロックンロールを土台にひたすら気持ちよく絡み合う。RCのツイン・ギターが「役割の違う二人の会話」だったとすれば、麗蘭は「同じ言語を喋る二人のジャム」。どちらがリードでどちらがバッキングか、聴いていて途中でわからなくなる瞬間が何度もあります。
驚くべきは、この関係が30年以上続いていること。解散も再結成もなく、思い出したように集まってはツアーに出る。音楽的な友情の、理想形のような続き方です。
京都・磔磔、年末の儀式
麗蘭を語るうえで外せないのが、京都のライブハウス「磔磔(たくたく)」での年末ライブ。1990年代から続く恒例行事で、これを見ないと年が越せないという人が全国にいます。

磔磔は酒蔵を改装した木造の空間で、天井が低く、床が鳴り、客の熱気がそのまま音に混ざる。あの箱でチャボのギターを聴くと、アンプから出た音が壁を伝って身体に届くのがわかります。
年の瀬の京都、湯気の立つ路地を抜けて木の扉を開ける。あの高揚感は、音源では絶対に味わえない。ライブハウスという場所をこんなに大事にし続けているベテランも珍しいと思います。
the day ― 息子ほど歳の離れた連中と
2012年、チャボは中村達也(ドラム)、KenKen(ベース)といった年下の実力派たちとバンド「the day」を始動させます。
これ、冷静に考えるとかなり異常なことです。60代に入ったギタリストが自分より20歳以上若い、しかも一癖も二癖もある猛者たちとまっさらなバンドを組む。しかも「先生とバックバンド」ではなく、対等に殴り合うようなアンサンブルで。
若い連中の轟音に押されるどころか、チャボのギターは逆に鋭くなっていく。この人が「懐メロの人」に絶対ならない理由が、ここにあります。
『CHABO』から『Experience』へ
2015年、デビュー45周年を記念してアルバム『CHABO』を発表。自分のあだ名をそのままタイトルにした一枚で、これまでの歩みを総括しつつ、今の自分をきちんと刻みつけた作品でした。
さらに2024年には、約9年ぶりとなるソロアルバム『Experience』を発表。70代を迎えてなお新作を出し、ツアーを回る。しかも過去の焼き直しではなく、いまの声、いまの手つきで録る。「経験」というタイトルの重みが、そのまま音になっているような作品です。
詩と音楽の融合 ― ポエトリーリーディングという表現
もう一つ、チャボの活動で見逃せないのが言葉への強いこだわりです。ギターを爪弾きながら詩を朗読する、いわゆるポエトリーリーディング的なステージを長く続けてきました。
これはボブ・ディランやビート詩人たちの系譜であると同時に、日本語のフォークが持っていた「語り」の伝統でもあります。メロディに乗せきれない言葉を、あえて裸のまま差し出す。RC時代から「歌詞をどう届けるか」を考え続けてきた人だからこそ、たどり着いた表現なのでしょう。ライブで初めてこれに立ち会うと、客席がしんと静まり返る。あの緊張感がたまりません。
第4章:ルーツ・ミュージックへの深い愛情 ― チャボが奏でる「いま」の音
最終章ではチャボの音楽を支えている根っこの部分と、日本のロック史における位置づけを考えてみます。
ブルースとフォーク、二本の背骨
チャボの音楽を分解していくと、必ず二つの太い柱にぶつかります。一つはブルースとR&B。もう一つはフォークの語りです。
ブルースは彼のギターのフレージング、そのものです。チョーキングの粘り、音の後ろ側にわずかに遅れて着地するタイミング、「同じフレーズを繰り返すことを恐れない」姿勢。
テクニックを見せるためではなく、感情を持続させるために弾く。これは黒人音楽から学んだ態度でしょう。
一方でフォークは、彼の言葉の側にあります。日常の風景、街の名前、季節、他愛のない会話。それを大げさな比喩に頼らずそのまま歌にしてしまう手つき。古井戸時代に磨かれたこの感覚が、RCの中では清志郎の破天荒さと化学反応を起こし、ソロでは深い叙情として結晶しました。
歌詞に宿る「生活の匂い」
チャボの書く歌詞には、必ず生活の匂いがあります。喫茶店、坂道、洗濯物、深夜の電話、友だちの顔。ロックの歌詞というと反抗や恋愛や逃走を思い浮かべますが、この人はそこに「暮らし」を持ち込んだ数少ない書き手です。
その日常のスケッチの最後にふっと一行だけ、遠くを見るような言葉が置かれる。読み返すと胸が痛くなる、あの構造。派手さはないけれど、時間が経つほど効いてくる。40代、50代になってから聴き返すと、10代の頃には素通りしていた行に足を止められる。チャボの詞にはそういう仕掛けがあります。
清志郎のいない世界で ―「デイ・ドリーム・ビリーバー」
2009年5月、忌野清志郎が58歳で亡くなりました。日本中が、あの声を失ったことに呆然とした春でした。
RCが遺したカバー曲の中でも、モンキーズの「デイ・ドリーム・ビリーバー」(1989年)は特別な意味を持つ一曲になりました。清志郎による日本語詞は原曲の恋の歌をまったく別の、亡き人へ向けた祈りのような歌へと変えている。いまや世代を超えて歌い継がれる、日本の国民的スタンダードです。
また、反核や社会への異議申し立てを含んだカバー・アルバム『COVERS』(1988年)を巡る発売中止騒動も、RCというバンドが単なる人気者ではなかったことを示す事件でした。「サマータイム・ブルース」や「ラヴ・ミー・テンダー」を、あの時代にあの歌詞で世に出す。その隣で黙ってギターを鳴らし続けたチャボの覚悟も、忘れてはいけないと思います。
相棒を失ったあとも、チャボはステージに立ち続けています。清志郎の曲を歌うこともあれば、あえて触れない日もある。その距離の取り方に、僕はいつも大人の誠実さを感じます。
チャボが愛する音楽たち ― 影響を受けたアーティスト
インタビューやライブでのカバー選曲から見えてくるチャボのルーツは、実に幅広いものです。ボブ・ディラン、ザ・バンド、ローリング・ストーンズといったロックの本流。ドノヴァンら英国フォーク。そしてマディ・ウォーターズをはじめとするシカゴ・ブルースやカントリー・ブルースの巨人たち。
面白いのは、彼がそれらを「教養」として並べないこと。「好きなアーティストと、いつも一緒」という言い方がぴったりで、レコード棚の友人たちと今日も一緒に暮らしている、という感覚なんです。近年ではアップサイクル・ブランドとのコラボレーションなど、音楽以外の場面でもその美意識——古いものを大切にしながら、いまの形で使い続ける姿勢——が表れています。
日本ロックの「生き字引」としての役割
1970年のデビューから半世紀以上。フォーク・ブーム、ロック黎明期、ニューミュージック、80年代のバンドブーム、CDバブル、そして配信の時代まで、日本の音楽シーンの変遷をすべて現場で見てきた人はもうそんなに多くありません。
しかもチャボは、歴史を語るだけの存在にはなっていない。いまも新作を録り、若いバンドマンと本気でぶつかり、小さなライブハウスに立つ。歴史であると同時に現役。この両立こそが、彼が「生き字引」と呼ばれる本当の理由でしょう。
この記事で紹介した楽曲・作品まとめ
- 古井戸「さなえちゃん」(1973年頃)
- RCサクセション「スローバラード」(アルバム『シングル・マン』1976年)
- RCサクセション「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」(1980年)
- RCサクセション『RHAPSODY』(ライブ盤/1980年)
- RCサクセション「多摩蘭坂」(アルバム『BLUE』1981年)
- RCサクセション『COVERS』(1988年)/「デイ・ドリーム・ビリーバー」(1989年)
- 仲井戸麗市『THE 仲井戸麗市 BOOK』(1985年)
- 麗蘭『麗蘭』(1991年)
- 仲井戸麗市『CHABO』(2015年)/『Experience』(2024年)
おわりに ― チャボが教えてくれること
チャボの音楽を長く聴いていると、「続けること」そのものが一つの表現なのだと気づかされます。バンドが終わっても、相棒がいなくなっても、時代の流行が何周しても、この人はギターを持って同じ場所に立っている。
もしこの記事を読んで少しでも興味を持たれたなら、まずは『RHAPSODY』を大音量で。次に「多摩蘭坂」を夜中にひとりで。そして機会があれば、ぜひライブハウスへ。あの帽子の下の笑顔を生で見た日のことは、たぶん一生忘れません。
今夜も日本のどこかで、チャボのギターが鳴っています。
出典・参考資料
- 仲井戸麗市 オフィシャルサイト(プロフィール/ディスコグラフィー/ライブ情報)
- 麗蘭 オフィシャル情報ページ(作品情報・ツアー情報)
- 忌野清志郎 オフィシャルサイト(プロフィール/作品情報)
- RCサクセション各作品のオリジナル盤および再発盤のライナーノーツ、クレジット表記(『シングル・マン』『RHAPSODY』『PLEASE』『BLUE』『COVERS』ほか)
- 古井戸 各作品のクレジット表記
- 『ギター・マガジン』(リットーミュージック)掲載の仲井戸麗市インタビューおよび機材・奏法特集記事
- 『レコード・コレクターズ』(ミュージック・マガジン社)RCサクセション/日本のロック特集
- 京都・磔磔 公式サイト(年末公演の開催情報)
- 各レコード会社によるアルバムリリース時のプレスリリース、オンライン・ディスコグラフィー
※注記
本記事は、公式サイト・作品クレジット・音楽専門誌の記述を突き合わせて執筆しています。ニックネームの由来、名前の由来、加入時期の細かな経緯など、資料によって記述が異なる事項については断定を避け、「諸説ある」旨を明記しました。楽曲の解釈・演奏に関する評価は筆者個人の見解です。事実誤認にお気づきの際は、コメント欄よりご指摘いただけると助かります。


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