喫茶「詩」の一曲 ── ショパン『別れの曲』、その名は誰が付けたのか

クラシック音楽

第1楽章 ── 序奏:客を迎える

三月の雨は、まだ冬の匂いを引きずっている。

駅から歩いて十二分、看板もろくに読めなくなった路地の奥に、喫茶「詩」の灯りがぽつりと浮かんでいた。木の扉を押すと、真鍮のベルが濡れた音を立てる。店の奥では古いスピーカーが、かすかに息をしている風だった。

「いらっしゃい。今日は冷えるね」

カウンターの内側で、マスターはネルの布を絞っていた。六十代半ば、白髪を短く刈り込んだ、痩せた人である。

客はコートの肩を払いながら、少し迷ってからカウンターの端に腰を下ろした。四十を少し出たくらいの会社員だろう。鞄の持ち手が握るところだけ色が変わっている。

「……あの、こういうお店、初めてで。何を頼めばいいのかも分からないんですが」

「うちは深煎りが一番うまい。それでいいでしょう」

マスターは湯を細く落としはじめた。粉がゆっくりと膨らんで、店の空気が一気に甘くなる。客は黙ってそれを見ていた。何かを言いに来た人の沈黙だな、とマスターは思った。こういう客は、待っていればしゃべる。

「実は、探している曲があるんです」

「ほう」

「先週の夕方でした。仕事がひどくて、もう何も考えたくない状態で駅前まで歩いていて。そうしたらカフェの店先から、ピアノが聞こえてきたんです。そしたら……立ち止まってしまって」

「動けなくなったんだね」

「そうです。きれいなんですよ、ものすごく。でも、きれいなだけじゃなくて、なんだか申し訳ないような気持ちになって。昔別れた人とか、もう戻らない時期のこととか、ぜんぜん関係ないことを一気に思い出して、たぶん往来で妙な顔をしていたと思います」

マスターは小さく笑って、カップを温めた。

「それで、名前は調べたのかね」

「スマホで。ショパンの『別れの曲』と出ました」

「ああ」マスターは頷いた。「誰でも一度は聴いている曲だね。ショパンが二十二の年に書いた練習曲、作品十の三番。ピアノの勉強のために作られた曲のひとつ、ということになっている」

「練習曲……あれが練習曲なんですか」

「不思議でしょう。まあ、そのあたりの話は後にしよう」

コーヒーが出された。客はひと口飲んで、目を細めた。

「ネットで調べても断片ばかりで。恋人との別れの曲だとか、故郷を捨てた悲しみだとか、いろいろ書いてあるんですがどれも本当なのかどうか」

マスターは布巾を畳み、少し間を置いた。

「ひとつ、先に言っておいたほうがいいことがある。あの曲に『別れの曲』という名前を付けたのは、ショパンじゃないんですよ」

「……え」

「そもそも、世界中で『別れの曲』と呼ばれているわけでもない。あれはほとんど日本だけの呼び名でね」

客はカップを持ったまま動きを止めた。雨音が一段強くなり、窓ガラスに斜めの線が走る。

「これはあまり語られないんだが」とマスターは言って、棚の奥からレコードの束を引き出しはじめた。「その名前が付いた経緯というのが、なかなか間の抜けた面白い話でね。せっかく雨だ。少し長くなってもいいかね」

客は鞄を足元に置き直し、はい、と言った。

第2楽章 ── 知られざる物語

マスターは束から一枚を抜き、ジャケットを客の前に置く。まだ針は落とさない。

「まず名前の話からだ。この曲、原題はただの『練習曲 作品10 第3番 ホ長調』。ショパンは自分の曲に詩的な題名を付けるのをひどく嫌った人でね。『雨だれ』も『革命』も『英雄』も、全部あとから他人が付けたものなんですよ」

「じゃあ『別れの曲』も……」

「そう。しかも由来がふるっている。一九三四年のドイツ映画『別れの曲』──ショパンの若い頃を描いた伝記映画だ。原題は『Abschiedswalzer』、直訳すれば〈別れのワルツ〉だ。この映画が日本で公開されたとき、劇中で印象的に使われたこの練習曲がそのまま邦題で呼ばれるようになった」

「映画のタイトルが、曲名になった」

「早い話がそういうことだね。だから海外の人に『ファーウェル・エチュード』と言っても、たいてい通じない。あちらでは『トリステス』──フランス語で〈悲しみ〉と呼ぶことはあるが、これもやはり後付けの通称でね」

客はジャケットの文字をなぞるように見ていた。

「……なんだか拍子抜けするようで、でも少し安心もします」

「なぜ」

「別れの曲だと思って聴いて、勝手に自分の別れを思い出して立ち止まったのが、恥ずかしいような気がしていたので。名前が後付けなら、あれは自分が勝手に感じたわけで」

マスターはわずかに口の端を上げた。

「そこが肝心なところなんですよ。名前が後から付いたということは、あの旋律を聴いた人間がみんな似たような場所に連れていかれたということでもある。ドイツの映画屋も日本の配給会社も、あなたも同じところに立ち止まった。名前より、そっちのほうが証拠として強いでしょう」

客は黙って頷いた。

「もう一つ、有名な話がある。真偽は定かでないが、ショパン自身が弟子に向かってこの曲の旋律についてこう言ったと伝わっている。『これほど美しい旋律を、私は生涯二度と見つけられないだろう』と」

「本人がそんなことを」

「弟子のグートマンという男が語り残したとされる言葉でね。ただ、ショパン周辺の証言というのは、後年に美しく整えられたものが多い。私は話半分に聞いている。ただ、半分は本当だろうと思うんだ」

「どうしてです」

「この練習曲集を書いていたのは、ショパン二十歳前後。ちょうどワルシャワを離れる直前から、離れた直後にかけての時期でね。彼はウィーンへ向かう旅の途中で、故郷で蜂起が起きてロシア軍に鎮圧されたことを知る。そのまま生涯二度と、祖国の土を踏まなかった」

「……帰らなかったんですか」

「帰れなかったんですよ。パスポートの問題もあった。彼は亡命者として生きて、三十九で死んだ。ここで大事なのは順番でね。『別れの曲』の旋律は、その別れのほんの少し手前に書かれている」

客は顔を上げた。

「手前」

「そう。だから、これは失ったあとの嘆きの歌じゃない。まだ失っていない人間が、なぜか異様に美しいものを書いてしまったという曲なんだ。中間部で急に激しく荒れるところがあるでしょう。あれを『後の悲劇の予感だ』と読む人もいる。もちろん、後の世の人間の勝手な後付けだが」

「……でも、そう聴こえてしまいますね」

「聴こえてしまう。厄介な曲でね」マスターは静かに言った。「これはあまり語られないんだが、この練習曲、譜面としては地味に難しい。右手の小指で歌わせながら、同じ手の内側で伴奏も弾き続ける。片手で二人分の役をやるようなものだ。歌が息をするたびに、伴奏がわずかにずれる。そのずれが、あの妙な胸の詰まり方の正体でもある」

雨はいつのまにか、小降りになっていた。

第3楽章 ── マスターの一枚(意外な名演奏)

マスターはカウンターを出て、レコード棚の下の段にかがみ込んだ。指先で背表紙を数枚たぐり、一枚を引き抜く。

「有名な録音を挙げるなら、いくらでもある。ルービンシュタインでも、アシュケナージでも、ポリーニでも、まず外れはしない。だが今日は、そっちじゃない一枚を掛けたい」

盤を袋から出す所作は、ひどく丁寧だった。指は縁と中心だけに触れ、ラベルを一度、明かりに向けて確かめる。

本日の一枚

  • ショパン:練習曲 作品10 第3番 ホ長調(『別れの曲』)
  • ピアノ:ラウル・コチャルスキ(Raoul Koczalski)
  • 録音:1930年代後半/ベルリン、ポリドール(SP期のスタジオ録音)

「……まったく知らない名前です」

「まあ、そうだろうね。ポーランドの人で、子どもの頃から神童として売れて、そのまま長く弾き続けて戦後すぐに亡くなった。今はほとんど名前を呼ばれることがない」

「なぜ、その人を」

「血筋の話でね」マスターはターンテーブルの上に盤を置いた。「この人の先生はカロル・ミクリという男だ。ミクリはショパン本人に習った弟子でね。後にショパンの楽譜の校訂もしている」

客が顔を上げた。「つまり、ショパンから数えて二代目」

「そういうことになる。もちろん、弟子の弟子だから本物だなんて言うつもりはない。伝言ゲームは必ず崩れるものだしね。ただ、この人の弾き方は、期待とまるで違うんですよ」

針が落ちた。粒の粗い雑音がひとしきり鳴り、そこから旋律が出てくる。

客は少、戸惑ったような顔をした。

「……思っていたのと、違いますね。もっとこう、たっぷり泣かせるのかと」

「泣かないでしょう」マスターは満足そうに頷いた。「速すぎもしない、遅すぎもしない。溜めない。粘らない。歌を無理に引き伸ばさないで、ただ真っ直ぐ運んでいく」

「素朴、というか。上手なのか下手なのか、僕には判断がつかないくらい自然です」

「そこが面白いところでね。コチャルスキは、師のミクリから『ショパンはもっと簡素に弾いた』と聞かされて育った人なんだ。派手な感情表現は、後の時代の演奏家が足したものだ、という立場でね。本にもそう書き残している」

「本人がそんなに素朴に弾いていたなら、あの大げさなイメージは……」

「後の世が作ったものかもしれない。もちろん、これも一つの証言にすぎない。真偽は定かでないが、少なくとも『別れの曲』を、別れの曲として弾いていない演奏がここにある。それが私には効くんですよ」

中間部が荒れて、また静かな歌に戻り、曲が終わった。針を上げる音が、やけに大きく響いた。

「妙な感じです。飾りがないのに、さっきよりこたえました」

「そういうものでね」

マスターは棚の上のCDプレーヤーの蓋を開け、薄いケースから銀色の盤を取り出した。中央の爪をそっと押して外し、トレイに置く。低い音を立てて、トレイが吸い込まれた。

聴き比べに、もう一枚(CD)

  • ピアノ:ルイ・ロルティ(Louis Lortie)
  • 録音:1986年/シャンドス(練習曲 作品10・作品25 全曲)
  • 聴きどころ:誇張を削ぎ落とした端正な歌い口。中間部でも音を濁らせない、清潔な「引き算」の演奏

「カナダの人でね。派手な話題にはならないが、この練習曲全集は評判がよかった。半世紀離れているのに、向いている方向がコチャルスキと似ているんですよ。溜めない、粘らない。ただ、音の粒がきれいに揃っている」

音が出た。さきほどのSPの粗い空気とは違う、透きとおった静けさが店に落ちた。客はカップを持つのを忘れて聴いていた。

「……同じ曲なのに、静けさの質が違いますね」

「片方は雑音の向こうから聞こえる静けさ、こっちは何もない場所に置かれた静けさだ。揺らして泣かせる道もあるし、動かずに泣かせる道もある。今日は後者を二つ並べただけで、どちらが正しいという話じゃないんですよ」

マスターは新しい豆を挽きはじめた。店の中に、また甘い香りが戻ってきた。

第4楽章 ── 余韻:客を送り出す

二杯目は、一杯目より浅い煎りだった。客はそれを飲んで、少し驚いた顔をした。

「さっきと味が違いますね」

「同じ豆じゃないからね。あれだけ聴いたあとに、同じ味は出さないことにしているんですよ」

客は笑った。入ってきたときよりも肩の位置が下がっている。

「今日、来てよかったです。……正直に言うと、来る前は、ちょっと恥ずかしかったんです」

「なぜ」

「四十を過ぎた会社員が、街角でピアノを聴いて泣きそうになって、わざわざ喫茶店まで由来を聞きに来るなんて。誰にも言えないなと思って」

マスターはカウンターを拭きながら、少し考えた。

「うちに来る客は、だいたいそれだよ。誰にも言えない用事で来る。曲の名前を知りたいというのはたいてい、自分の気持ちの名前を知りたいということでね」

客はしばらく黙っていた。それから言った。

「名前が後付けだと聞いたときに、妙にほっとしたんです。ショパンが誰かとの別れを思って書いたわけじゃない、映画の題名がそのまま残っただけだと。……なのに、聴くとやっぱり別れの話に聞こえるんだから、これは僕の側にあるものなんだなと」

「そういうことだね」マスターは頷いた。「しかも今日の二枚は、どちらも別れの曲として弾いていなかった。弾き手が何も足していないのに、聴き手のほうが勝手に持ち出してくる。それがあの旋律の恐ろしさでね」

「空いているんですね。入る場所が」

「ショパンは説明を付けなかった。不親切じゃなくて、空けておいてくれたんだと私は思っている。空いているから百年後の映画館にも入る。あなたの帰り道にも入る」

「マスターはそこに、何を入れて聴いているんですか」

手が止まった。マスターは少し笑って、布巾を置いた。

「昔、本番前の楽屋で、この曲をさらっている人を廊下から聞いていたことがあってね。……そのくらいだ。あまり面白い話じゃない」

それ以上は言わなかった。客もそれ以上は訊かなかった。

雨は上がっていた。窓の外の路地に、濡れたアスファルトの照り返しだけが残っている。客は伝票を手に立ち上がり、コートに袖を通した。

「コチャルスキ、探してみます。名前、忘れないうちにメモしました」

「見つからなかったら、また来ればいい。ここにある」

扉のところで、客は一度振り返った。

「……また、来ます」

真鍮のベルが鳴り、足音が路地を遠ざかっていった。

店に残ったマスターは、しばらく何もせずに立っていた。それからプレーヤーの蓋を開けてCDを抜き、ケースの爪に静かに戻す。次に、カウンターの上に出したままだったSP期の復刻盤を袋に滑り込ませ、棚の下の段の元の位置に差した。指の腹で背表紙を軽く押さえ、隣の一枚と高さを揃える。

スピーカーはもう、何も鳴らしていない。挽いたばかりの豆の香りだけが、まだ天井の低いところに溜まっている。

マスターはポットの湯をひと口分だけ捨て、次の客のために、湯を沸かし直した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました