聴こえてくるのは、未来の音ではない。どこか古い行進曲のようなリズムと、遠い惑星から届いたような電子音、そこに人間の声が重なる。サン・ラの音楽は、過去と未来を分けない。古代エジプトも、シカゴの街角も、宇宙船の内部も、同じ演奏のなかに平気で並べてしまう。
ジャズのレコード棚をひとつ隣にずらすと、そこに「地球を出ていくための音楽」が現れる。今回は1970年代を軸に、サン・ラ(Sun Ra)と彼のアーケストラ(Arkestra)を聴いていきたい。
文:黒田真紀(架空の元音楽雑誌編集者)
第1章 サン・ラはどこから来たのか
サン・ラを紹介する文章は、たいてい「自分を土星出身だと言っていた変わり者」から始まる。それは事実の一部だが、そこで止まると音楽が聴こえてこない。ここで考えたいのは「本当はどこの人だったのか」ではなく、なぜ彼は自分の出自を作り替える必要があったのかである。
ハーマン・プール・ブラントという名前
戸籍上の名は、ハーマン・プール・ブラント(Herman Poole Blount)。1914年5月22日、アラバマ州バーミングハムに生まれた。人種隔離が法として機能していた時代の、南部の工業都市である。少年時代からピアノに親しみ、地元のバンドで腕を上げ、いわゆる叩き上げの職業音楽家として出発した。
1946年ごろにシカゴへ移り、南部から流入した黒人音楽家たちの巨大な労働市場の一員になる。ここでスウィング時代の大立者フレッチャー・ヘンダーソンの楽団でピアノを弾いた時期があったことは、後年の彼を理解する鍵になる。彼は最初から前衛だったのではない。ダンスホールで踊れる伴奏を弾いていた人が、のちに宇宙へ行ったのだ。
名前を変える、という行為
1952年、彼は法的な手続きを踏んで名前を変えた。新しい名は「ル・ソニー・ラ(Le Sony’r Ra)」。ラは古代エジプトの太陽神の名である。この改名の裁判所文書は、伝記作家ジョン・シュウェッドの調査によって確認されている。
ここが重要だ。彼は酔った勢いで「土星から来た」と口にしたのではなく、手続きを踏んで、公式に別人になった。奴隷制の時代、アメリカの黒人は主人の姓を与えられた。出生名とは選んだものではなく、押しつけられた歴史の記録である。その名を捨てることは、与えられた履歴から降りることだった。
彼は生涯、出生地や本名について語ることを嫌い、「私には誕生日がない」といった言い方を好んだ。伝記的事実を隠す趣味ではない。過去の一点に自分を固定させないための、一貫した態度だったと考えると筋が通る。
土星への旅、という自己神話
1930年代、アラバマの大学に在籍していた頃、彼は「光に包まれて土星へ運ばれ、地球の人類に語りかけよと告げられた」体験を語っている。この話は生涯、ほとんど揺らがなかった。
この種の逸話を私たちはつい、「妄想」か「営業用の作り話」の二択で処理したくなる。だが彼の場合、それは世界を別の角度から見るための装置として機能していた。
地球の歴史は、自分に何も約束してくれない。ならば地球の外に立って地球を眺めるほかない。そういう身の置き方である。第二次大戦中、彼が良心的兵役拒否者として徴兵を拒み、拘束された経験があったこともこの距離感と無関係ではないだろう。
古代エジプトと宇宙科学が同居する理由
サン・ラの世界観では、ピラミッドと宇宙船が矛盾しない。古代エジプトは彼にとって「アフリカにあった高度な文明」、つまり白人中心の近代史が黒人から取り上げてしまった過去だった。
一方、宇宙科学はその時代に誰よりも新しい未来のイメージだった。奪われた過去と、まだ誰も所有していない未来。この二つを両手に持てば、目の前の現実(南部の人種隔離、北部の貧困)だけが世界のすべてではなくなる。
シカゴ時代の彼は、仲間とともに聖書や語源辞典を独自に読み替えたパンフレットを作り、公園で配ってもいた(これらは後年『The Wisdom of Sun Ra』にまとめられている)。音楽家であると同時に、街頭の思想家だったのである。
アーケストラの原型
1950年代半ば、彼はビジネス・パートナーのアルトン・エイブラハム(Alton Abraham)とともに自主レーベル、エル・サターン(El Saturn Records)を立ち上げ、バンドを組織していく。「オーケストラ(Orchestra)」ではなく「アーケストラ(Arkestra)」。ノアの箱船(Ark)と「ラ」の名が埋め込まれた綴りだ。
この時期の入門盤として、私はいまでも『Jazz in Silhouette』(1959年)を薦める。宇宙的なタイトルの曲が並ぶのに、鳴っているのは驚くほど格好のいいビッグバンド・ジャズだ。管のアンサンブルはきちんと書かれ、ソロは端正で、リズムはよく跳ねる。『Super-Sonic Jazz』(1956年録音)も同様に、耳当たりはむしろ古典的である。
つまり彼は、既存のジャズができなかったから宇宙へ行ったのではない。普通にできる人が、あえて別の場所を選んだ。ここを押さえておくと、第2章の音がまるで違って聴こえてくる。
第2章 音楽を宇宙船にする
サン・ラの音楽を「フリー・ジャズ」「ビッグバンド」「電子音楽」のどれか一つに分類しようとすると、必ず余りが出る。彼のレコードでは、複数の時代の音が同時に鳴っている。過去を捨てて未来へ行くのではなく、古いジャズの記憶を積み込んだまま離陸する。宇宙船というより、箱船の発想である。
『My Brother the Wind』――シンセサイザーを最初に触った人たち
1969年ごろ、サン・ラはムーグのシンセサイザーを手にする。ジャズの現場としては、これはきわめて早い。その成果が『My Brother the Wind』(1970年)と『My Brother the Wind, Volume II』(1971年)だ。
ここで鳴っている電子音は、後年のシンセ・ミュージックのように整っていない。音程も音色も定まらず、うねり、裏返り、ときどき悲鳴のようになる。上手いか下手かで言えば、まだ誰も上手くなりようがなかった時期の音である。
しかしその「制御しきれていない感じ」が、そのまま未知の空間の手触りになっている。Volume IIになるとバンドが加わり、電子音の周りで管楽器や打楽器が動きだす。機械と生身の人間が、同じ部屋でにらみ合っているような緊張がある。
『Space Is the Place』――最初に聴くべき一枚
1972年に録音され、1973年にブルー・サム(Blue Thumb)から発表された『Space Is the Place』は、70年代の入口として最も分かりやすい。とくに20分を超えるタイトル曲は、サン・ラ入門の決定版だと思う。
聴きどころは反復である。単純なリズムの上で、ジューン・タイソン(June Tyson)らの声が「Space is the place」と繰り返す。歌詞はほとんど標語だ。だからこそ聴いているうちに意味が薄まり、呪文のようになっていく。そこへ管楽器が次々に割り込み、電子音が上空を横切り、やがて全体が崩れていく。崩れきったところで、また同じ声が戻ってくる。
ここには教会の礼拝の反復と、ダンス音楽の身体性と、フリー・ジャズの混沌が同時にある。私が初めてこの曲を輸入盤で聴いたとき、難解さより先に「なんだか楽しそうだ」と思った。その第一印象は、たぶん間違っていない。
『Discipline 27-II』― 集団が崩れない理由
同じ時期の録音から生まれた『Discipline 27-II』(1973年、サターン)は、もう少し歯ごたえがある。フリーに聴こえる部分でも入りと出が決まっており、誰かが必ず全体の枠を保っている。
「ディシプリン(規律)」という言葉は、彼の重要語だった。アーケストラのメンバーは共同生活を送り、リハーサルは長く、遅刻や不摂生は嫌われた。自由な音楽をやるために、生活は厳しく律する。混沌に聴こえるものが、実は訓練の産物である。このねじれを体感できるのがこのアルバムだ。ジョン・ギルモア(テナー)やマーシャル・アレン(アルト)といった20年、30年にわたって彼と鳴らし続けた奏者たちの存在も、ここで効いている。
三段階で聴くと、迷子にならない
初めての方には、次の順番を薦めたい。
- まず『Space Is the Place』のタイトル曲で、反復するリズムと合唱に身を任せる。意味を受け取ろうとしなくてよい。
- 次に同アルバムや『Discipline 27-II』で、分厚いビッグバンドの響きと、それが崩れていく瞬間を聴き分ける。
- 最後に『My Brother the Wind』で、電子音・声・打楽器が混ざる部分だけを取り出して聴く。
この三つを通ると、サン・ラの音楽が「過去を否定した未来音楽」ではないことがはっきりする。スウィングもブルースも、フリー・ジャズも電子音も、全部積み込んだまま飛ぶのだ。
第3章 黒人の未来を発明する
ここが記事の中心である。サン・ラの宇宙趣味を単なるSF的な演出として片づけてしまうと、いちばん大事なものが抜け落ちる。
宇宙は「逃避先」ではなく「足場」だった
1960年代から70年代のアメリカ黒人にとって、「未来」は自明のものではなかった。公民権運動が法を変えても、暮らしはすぐには変わらない。都市の黒人街は荒れ、指導者は暗殺された。目の前の社会に自分の未来図がないとき、人はどうするか。
サン・ラの答えは、まだ誰も所有していない場所に未来を置くことだった。宇宙である。彼が繰り返した「Space is the place」という一文はSFの決め台詞というより、居場所についての宣言だと私は思う。同じ発想は「We travel the spaceways(我らは宇宙路を旅する)」という歌にも表れている。あの陽気な歌は、地球に自分の席がない者のための歌だ。
この時期を代表する一枚として『Atlantis』(1969年)を挙げておく。電気鍵盤の刺すような音と、沈んだ大陸の名。失われた文明と未来の音響が同じレコードに同居する感覚は、ここで完成しつつある。
衣装、行進、詩 ―「バンド」ではないもの
アーケストラのステージは、音楽だけで完結しない。金銀に光る衣装、宇宙服のようなヘルメット、エジプト風の頭飾り。演奏中に隊列を組んで客席へ歩み出す行進、詩の朗読、ダンス。手描きや手刷りのレコード・ジャケット。
これらは思いつきの飾りではなく、ひとつの世界観の部品である。音、視覚、言葉、身振りをまとめて提示する形式は、コンサートよりも儀式や祝祭に近い。実際、アーケストラは共同生活をし、収入を分け合い、長期にわたって同じメンバーで動いた。バンドというより、音楽をやる共同体だったと言ったほうが実態に近い。
1971年にカリフォルニア大学バークレー校で「宇宙における黒人(The Black Man in the Cosmos)」と題した講座を持ったこと、同じ頃にエジプトを訪れギザで演奏したことも、この活動の延長線上にある。彼にとって演奏と思想と旅は地続きだった。
「アフロフューチャリズム」は後から来た言葉
いま、サン・ラは「アフロフューチャリズムの先駆者」として紹介されることが多い。ただし注意が必要だ。この言葉が批評用語として定着したのは1990年代、批評家マーク・デリーの論考「Black to the Future」(1993年)以降であり、サン・ラ自身がこの語を使って活動していたわけではない。
だから「サン・ラはアフロフューチャリズムの父だった」と言い切るのは、少し順序が逆である。正確には黒人の歴史とテクノロジーと未来を結びつける実践が先にあり、後の世代がそれを名づけたのだ。言葉を先に覚えると、音を聴く前に分類が済んでしまう。それは彼の音楽にとって、あまり幸福なことではないと思う。
神話と現実を対立させない
ここまで書いてきて、私は「土星出身」という自己紹介を嘘とも本当とも判定していない。それでいいのだと思う。彼にとって神話は現実を否認する道具ではなく、現実をもう一度別の言葉で語り直すための道具だった。バーミングハムで生まれた事実と、土星から来たという語りは、同じ人物の同じ表現の裏表である。
第4章 主流の外側で、未来を先取りした
最後に、商売としての話をしたい。サン・ラはなぜ主流になれなかったのか。そしてなぜ今も影響力を持ち続けているのか。
自主レーベルという回路
1950年代後半に始まったサターン・レコードは、いまでいうインディーズの、しかも極端な形だった。少部数のプレス、手作りに近いジャケット、ライブ会場や通信販売での直接の手渡し。大手の流通に乗らない代わりに、誰の許可も要らない。売れるかどうかを他人に決めさせない体制である。
彼は1,000曲以上を作曲し、200枚を超えるレコードを自主制作した音楽家として語られる。数字は資料によって幅があるが、常識的な音楽家の生産量ではないことは確かだ。もっともそのおかげで、研究者は苦労している。同じ音源が別のタイトルで出る、同じタイトルで曲順が違う、ジャケットが一枚ごとに違う。ロバート・キャンベルらによる詳細なディスコグラフィーが編まれるまで、全体像は誰にも見えていなかった。マニアがサン・ラで消耗するのは、たいていこの版の問題である。
ヨーロッパという別の市場
1970年、アーケストラは初のヨーロッパ・ツアーに出る。この時期の記録として、ドナウエシンゲンとベルリンの音楽祭での演奏を収めた『It’s After the End of the World』(1971年、MPS)がある。タイトルは「世界の終わりの後(邦題:世界の終焉)」。冗談のようだが、内容は容赦なく激しい。
アメリカ本国のジャズ市場が縮小していた70年代、ヨーロッパのフェスティバルや大学は、実験的な音楽家に演奏の場と報酬を提供した。サン・ラは、アメリカの主流の外側で、国際的な聴衆を獲得していったのである。同時期、大手のインパルス!が彼のサターン作品を再発する動きもあった。周縁と中心を行き来しながら、彼はどちらにも吸収されなかった。
映画『Space Is the Place』とファンクの季節
1972年にオークランドで撮影され、1974年に公開された映画『Space Is the Place』(監督ジョン・コニー)は、彼の思想がそのまま映像になった珍品である。サン・ラが宇宙船で地球に降り立ち、黒人の若者たちを宇宙へ移住させようとする。ナイトクラブ、賭博、悪役との対決。低予算のB級SFの体裁で、人種と未来の話をやってしまう度胸には、いま観ても笑いと感嘆が同時に来る(上映形態によって長さの異なる版が存在する点は覚えておくとよい)。
70年代後半には、音のほうにも変化が現れる。『Lanquidity』(1978年、フィリー・ジャズ)は、その代表だ。ここではファンクやディスコに接近した滑らかなグルーヴの上で、電子音とホーンがゆらりと漂う。ジャズ喫茶で難しい顔をして聴く音楽ではなく、深夜に流しておくと気持ちよくなってしまう類の音である。自主制作ではなく外部レーベルの作品で、複数のミックスが存在することが知られており、いわゆる「聴きやすいサン・ラ」の入口として近年ますます人気が高い。
「売れなかったから失敗」ではない
サン・ラは1993年、生まれ故郷のバーミングハムで亡くなった。宇宙へ行くと言い続けた人が、最後は生まれた街に戻っている。この事実を私は皮肉としてではなく、閉じた円として受け取っている。
彼の死後もアーケストラは解散せず、ジョン・ギルモア、続いてマーシャル・アレンによって受け継がれた。バンドがリーダーの死を越えて存続する例は、ジャズでもそう多くない。共同体として作られていたからだろう。
そして影響は広がった。P-ファンクのマザーシップ、デトロイトのテクノ、90年代以降の実験的な電子音楽、そして現在のジャズ。
「宇宙」「黒人」「未来」を結ぶ表現の系譜をたどると、たいていどこかでサン・ラに行き当たる。ヒットチャートに残らなかった代わりに、後続の音楽家の作り方そのものの中に残ったのである。
正直に書いておきたいこと
とはいえ、私はサン・ラを無条件に神格化する気はない。録音の質はばらばらで、演奏に集中を欠いた盤もある。200枚以上あるレコードを順に聴くのは、率直に言って修行だ。初めての人が中古盤屋で背表紙を見て適当に選ぶと、まず挫折する確率が高い。
だから入口は絞ったほうがいい。『Space Is the Place』を1枚。もし気に入ったら『Lanquidity』へ。ここで妙な中毒症状が出た方だけ、『My Brother the Wind』や『Discipline 27-II』の扉を開けてほしい。魅力と面倒くささの両方が、この音楽の正体である。
おわりに
サン・ラは主流に入れなかったのではない。主流とは別の回路を、自分で作ってしまった人だった。名前を変え、レーベルを作り、共同体を組織し、宇宙という場所を用意した。そのどれもが、与えられた歴史の外に出るための実務だった。
彼の音楽は、未来から届いたのではない。未来を必要としていた人々のために、その時代のなかで作られた。だから半世紀後の私たちがヘッドフォンで聴いても、まだ新しく聴こえる。地球を脱出するための音楽は、まだ役目を終えていないのだ。
本記事の作成方針について
サン・ラに関する資料は本人の語りと自主制作盤の性質上、年号・録音日・発売年に資料間の食い違いが多く残っています。本記事では、伝記研究とディスコグラフィー研究のうち、複数の資料で一致する記述を優先して採用し、確定しがたい点は「〜ごろ」「〜とされる」と明記しました。「アフロフューチャリズム」という用語の成立年代についても、本人の活動と後世の命名を区別して記述しています。
主な出典・参考資料
- ジョン・シュウェッド『Space Is the Place: The Lives and Times of Sun Ra』(Pantheon Books、1997年)
- ロバート・L・キャンベル、クリストファー・トレント『The Earthly Recordings of Sun Ra』(改訂版、2000年)
- ジョン・コーベット編『The Wisdom of Sun Ra: Sun Ra’s Polemical Broadsheets and Streetcorner Leaflets』(WhiteWalls、2006年)
- グレアム・ロック『Blutopia: Visions of the Future and Revisions of the Past』(Duke University Press、1999年)
- マーク・デリー「Black to the Future」(『Flame Wars: The Discourse of Cyberculture』所収、1993年/1994年)
- イタシャ・L・ウォマック『Afrofuturism: The World of Black Sci-Fi and Fantasy Culture』(Lawrence Hill Books、2013年)
- ヴァレリー・ウィルマー『As Serious as Your Life』(1977年)
- 映画『Space Is the Place』(監督ジョン・コニー、1974年公開)
- ドキュメンタリー映画『A Joyful Noise』(監督ロバート・マグ、1980年)
- 米国公共放送(PBS)関連のサン・ラ紹介記事(作曲1,000曲以上、自主制作200枚超との記述)
- 各アルバムのオリジナル盤および再発盤(Evidence、Strut、Saturn復刻シリーズ等)のライナーノーツ
- サン・ラ・アーケストラおよび権利管理団体による公式情報
※作品名・年号は上記資料に基づく表記です。サターン盤には同一音源の別タイトル・別曲順が存在するため、お手元の盤と収録内容が異なる場合があります。


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