第1章:カウンターに二枚、並べてみる ― テッド・カーソンという「隙間」の音
雨の日は客が来ない。だから盤を拭く。
今日、拭いていたのはこの二枚だ。片方は1961年、もう片方は1964年。同じ男がトランペットを吹いている。名前はテッド・カーソン。……ああ、いま「誰?」って顔をしたね。それでいい。むしろ、そんな顔をした人にこそ聴いてもらいたい二枚なんだ。
ジャズのトランペットと聞けば、たいていの人はマイルス・デイヴィスを思い浮かべる。もう少し掘っている人ならクリフォード・ブラウン、リー・モーガン、フレディ・ハバード。60年代なら、そこにドン・チェリーが加わるかもしれない。
カーソンという名前は、その全部の存在の「あいだ」に落ちている。落ちているというより、意図的にそこに立っていた、と言うべきかもしれないが。
一枚目は1961年、二枚目は1964年 ― たった三年の断層
まず、事実だけを並べておこう。数字は嘘をつかないし、この二枚の場合、数字そのものがドラマになっている。
『Plenty of Horn』 録音:1961年4月11日
トランペット:テッド・カーソン
テナー・サックス:ビル・バロン
フルート:エリック・ドルフィー
ピアノ:ケニー・ドリュー
ベース:ジミー・ギャリソン
ドラム:ピート・ラロカ、ダニー・リッチモンド、ロイ・ヘインズ(曲により交替)
『Tears for Dolphy』 録音:1964年8月1日
トランペット、ポケット・トランペット:テッド・カーソン
テナー・サックス、クラリネット:ビル・バロン
ベース:ハーブ・ブシュラー(Herb Bushler)
ドラム:ディック・バーク(Dick Berk)
パーカッション:クレジット不明
この二枚のあいだには、三年と数ヶ月しかない。ジャズという音楽が最も速く走っていた時代だから、三年は決して短くない。だがそれ以上に重いのは、その三年のあいだに起きたたったひとつの出来事だ。
1961年の盤で、二曲だけフルートを吹いている男がいる。エリック・ドルフィー。
そして1964年6月29日、ドルフィーはベルリンで死んだ。三十六歳だった。
その約一ヶ月後、カーソンはスタジオに入り、一曲の名前を「Tears for Dolphy」とした。アルバムのタイトルも、そのままそれになった。
つまりこの二枚は、同じ男が「一緒に吹いていた頃」と「もういない頃」に録った記録として、偶然にも一組になってしまっている。私が棚でこの二枚を隣り合わせにしているのは、商売の都合じゃない。そうしないと落ち着かないからだ。
もっとも、ここで急いで付け加えておきたいことがある。『Tears for Dolphy』を「追悼盤」という一語で片づけると、この音楽の八割を聴き逃す。 涙という言葉から想像される湿り気は、実のところこの盤にはほとんどない。あるのは、乾いた覚悟のようなものだ。その話は追い追いしよう。
「マイルスでもモーガンでもない」トランペットが今、効く理由
カーソンの音を、どう説明したものか。
ハード・バップの人だと言えば、半分は当たっている。フィラデルフィア出身、ビル・バロンという同郷の兄貴分と長く組み、ブルースの匂いは体に染みついている。ケニー・ドリューやロイ・ヘインズと同じ部屋にいて違和感がないのだから、当然そうだ。
だが、フリー・ジャズの人だと言っても、これまた半分は当たってしまう。1959年から60年にかけて、彼はチャールズ・ミンガスの下にいた。しかも、隣で吹いていたのはドルフィーだ。あの時代のミンガス・バンドは、譜面と暴動が同居しているような場所だった。そこで毎晩鍛えられた人間の音が、行儀よく収まるわけがない。
結果として、カーソンの音にはこういう特徴が出る。
- 音が太く、そして少し「割れる」。きれいに磨き上げるより、鳴らしきることを優先する吹き方だ
- 高音域への駆け上がりが唐突。ハーモニーの階段を一段ずつ上がらず、二段飛ばしで屋根に出る
- フレーズの終わりを、わざと放り出す。余韻で聴かせるタイプではない。言い切って黙る
- それでいて、バラードでは驚くほど歌う。この落差が、彼の最大の武器だと私は思っている
きれいな音のトランペットが聴きたいなら、他をあたったほうがいい。先に言っておこう。だがね、「上手いけれど、何も起きない演奏」に飽きてしまった耳というものが、ある時期から誰にでも訪れる。私も四十を過ぎたあたりでそうなった。そういう耳に、カーソンはよく効く。
彼は自分がスターになれないことを、どこかで知っていた節がある。知っていて、それでも毎回全力で吹く。その少しの不器用さが音に出ている。カウンター越しに二十年、いろんな客を見てきたが、この音を気に入る人はたいてい何かしら、自分の仕事に折り合いをつけて生きている人だった。
なぜこの二枚をセットで薦めるのか
正直に言えば、単体でも成立する盤ではある。だが、二枚を続けて針に乗せるとまったく別のものが見えてくる。理由は三つ。
ひとつ目は、編成の違いが物語になっていること。
1961年の『Plenty of Horn』は豪華だ。ケニー・ドリューのピアノが和音を敷き、ジミー・ギャリソンのベースが太い柱を立て、ドラムに至っては一枚のアルバムに三人も名前が並んでいる。ピート・ラロカ、ダニー・リッチモンド、ロイ・ヘインズ。当時のニューヨークの人財の豊かさ、そのものだ。
対して1964年の『Tears for Dolphy』には、ピアノがいない。トランペット、テナー(とクラリネット)、ベース、ドラム。それだけ。和音を鳴らす楽器を抜いた、いわゆるピアノレス・カルテットだ。
これは単なる編成の好みではない。空白をそのまま空白として置く覚悟の話だ。ピアノが消えた分、二本の管はどこにも寄りかかれない。三年で、この男の音楽はそういう場所まで来ていた。
ふたつ目は、同じパートナーが両方にいること。
ビル・バロン。この人がいる。1961年にも1964年にもいる。カーソンとバロンの関係を知らずにこの二枚を聴くのは、少しもったいない。彼は単なる相方ではなく、作曲家として『Tears for Dolphy』の三曲(”East 6th Street”、”7/4 Funny Time”、そしてCD追加分の二曲)を書いている。ペンを持つサックス奏者だ。この二人がどう変化したかを追えるのが、セット聴きの醍醐味になる。
三つ目は単純に、一枚だけだと誤解されるからだ。
『Plenty of Horn』だけ聴けば、「ああ、良質なハード・バップね」で終わってしまう。実際”Caravan” から始まり、ミュージカル・ナンバーの “Bali Ha’i” や、ジュール・スタインのスタンダード “The Things We Did Last Summer” まで入っている、間口の広い一枚だ。
逆に『Tears for Dolphy』から入ると、「難しいやつだな」と身構えてしまうかもしれない。7拍子の曲があり、ワルツがあり、ポケット・トランペットが鳴る。
だが二枚並べると、間口の広い男がなぜ自分から窓を狭くしていったのか、筋が通る。そこにこの三年間の時代と、ひとつの死が刻まれている。
今日の一枚目に置くなら
ジャズを聴き始めて間もない人 → 『Plenty of Horn』の1曲目 “Caravan” から。2分59秒、あっという間に終わる。それでいい
60年代モダンジャズを一通り通った人 → 『Tears for Dolphy』の4曲目、表題曲から。8分32秒、腰を据えて
第2章:フィラデルフィアからミンガス、そしてヨーロッパへ ― 男が背負ったもの
盤の話をする前に、人の話をさせてくれ。
この商売を長くやっていると、ときどき「音より先に人生が聞こえてくる」盤に出くわす。カーソンの二枚は、まさにそれだ。彼が何を見て、誰の隣で吹き、誰を失ったか。それを知ってから針を落とすと、同じ音がまるで違う密度で鳴りはじめる。
1959〜1960年、ミンガス・ワークショップという学校
テッド・カーソンは1935年6月3日、フィラデルフィア生まれ。
この街の名前を軽く扱ってはいけない。50年代のフィラデルフィアはニューヨークへ人材を供給し続ける、巨大な養成所だった。ジョン・コルトレーン、リー・モーガン、ベニー・ゴルソン、マッコイ・タイナー、ジミー・ヒース ― 挙げていけばキリがない。カーソンが学んだグラノフ音楽学校は、コルトレーンも通った場所として知られている。
そして、もう一人。この街の出身にビル・バロンがいる。1927年生まれ、カーソンより八つ上。ピアニストのケニー・バロンの実兄だ。この兄貴分との縁が、生涯にわたってカーソンの音楽の背骨になっていく。
本人の回想によれば、
ニューヨーク行きを後押ししたのはマイルス・デイヴィスだったという。フィラデルフィアで出会ったマイルスに「ニューヨークへ来い」と言われた、と。カーソンが上京したのは1956年頃とされる。ただしこの種の証言は本人の語りに依るところが大きく、細部については留保が必要だろう。
上京してからのカーソンは、いきなり主役の座に着いたわけではない。マル・ウォルドロンの周辺で吹き、そして1959年、セシル・テイラーのアルバム『Love for Sale』に参加する。
ここが面白い。この盤のフロントは、カーソンとビル・バロンだ。フィラデルフィアの二人が当時最も過激だったピアニストの脇で吹いている。
セシル・テイラーの音楽は、すでに調性の枠を叩き壊しにかかっていた。まだ二十代前半のカーソンがその現場で、「安全な着地点のない演奏」を経験している。この一点だけで、彼が単なるハード・バップ職人ではないことがわかる。
そして翌年、彼は嵐の中心に呼ばれる。
チャールズ・ミンガス。
ミンガス・ジャズ・ワークショップ ― 名前に「ワークショップ(工房)」と付いているのは伊達じゃない。譜面を配らず、口頭でパートを教え、演奏中に怒鳴り、気に入らなければ客の前でメンバーを叱責する。そういう場所だ。実際、雇われた側からすれば地獄であり、同時に他のどこでも手に入らない教育の場でもあった。
1960年のミンガス・バンドは、ジャズ史でも屈指の編成だった。
- チャールズ・ミンガス(ベース)
- エリック・ドルフィー(アルト・サックス、バス・クラリネット、フルート)
- テッド・カーソン(トランペット)
- ダニー・リッチモンド(ドラム)
このピアノレス・カルテットが残した記録が、同年10月20日録音の『Charles Mingus Presents Charles Mingus』(Candid)だ。”Folk Forms No. 1″、”What Love”、そしてコロンビアが歌詞入りを許さなかった “Original Faubus Fables”。四人だけで、あれだけの情報量を吹き飛ばしている。
ここで一つ、覚えておいてほしい事実がある。 1964年の『Tears for Dolphy』がなぜピアノのいないカルテットなのか。その原型は、ここにある。カーソンは二十五歳のとき、「和音を鳴らす楽器がいなくても音楽は成り立つ」ことを、世界最高の現場で体に叩き込まれているのだ。
そしてもう一つ。この年の7月13日、南フランス・ジュアン・レ・パンで行われたアンティーブ・ジャズ・フェスティバルへの出演。のちに『Mingus at Antibes』として世に出た、あの熱狂の一夜である。
『Plenty of Horn』の8曲目には、“Antibes” というカーソンのオリジナルが入っている。
断定はできない。作曲者本人がどこかで由来を明言したという確かな記録を、私は持っていない。だがこの曲名を見て、あの南仏の夜を思い浮かべない人間がいるだろうか。タイトルというのは、ときに最も短い日記である。
エリック・ドルフィーと過ごした季節
ミンガスの隣で吹いていたもう一人。エリック・ドルフィー。
1928年6月20日、ロサンゼルス生まれ。 カーソンより七つ上。1960年にはすでに『Outward Bound』『Out There』を発表し、ジャズの語彙を書き換えつつあった人だ。
この二人が同じフロントに並んでいた期間は、実はそう長くない。ドルフィーは1960年いっぱいでミンガスのもとを離れ、自分の道を進んでいく。
だからこそ、『Plenty of Horn』の意味は重い。
1961年4月11日。ミンガスのバンドが解散状態になったあと、カーソンが自分の名義でスタジオを押さえたその日に、ドルフィーは来てくれた。しかも、参加はたった二曲。3曲目 “The Things We Did Last Summer” と、7曲目 “Bali Ha’i”。
そして、吹いているのはフルートだけなのだ。
考えてみてほしい。当時のドルフィーといえば、アルト・サックスの跳躍とバス・クラリネットの咆哮で知られていた。呼べばいくらでも派手なことができた人だ。それを二曲、フルート一本。
ここに私は、二人の関係の質を見る。カーソンはドルフィーに「客演スター」を望まなかった。 自分のアルバムのいちばん静かな二曲の、いちばん柔らかい音色を頼んだ。バンド仲間にしかできない依頼の仕方だ。
そしてドルフィーは、それを引き受けた。
ドルフィーがカーソン名義の作品に残した音は、この二曲だけである。逆に、カーソンがドルフィーのリーダー作に参加した記録は確認できない。つまり二人が同じスタジオで残した記録はミンガスの一連の録音と、この『Plenty of Horn』の二曲に限られる。
こう書くといよいよ、この盤が特別なものに見えてくるだろう。私もそう思っている。
1964年6月29日、ベルリン ― 訃報のあとに録られた音
その三年後。
1964年4月、ドルフィーはミンガスのセクステットの一員としてヨーロッパを回っている。ツアーが終わったあと、彼はアメリカに帰らなかった。ヨーロッパに残り、活動の拠点を移そうとしていた。
6月2日、オランダ・ヒルフェルスムでの録音 ―― のちに『Last Date』として発表される演奏の最後に、彼の肉声が入っている。ジャズ史でおそらく最も有名な、たった二行の言葉だ。
“When you hear music, after it’s over, it’s gone in the air. You can never capture it again.”
(音が鳴り止んだとき、それは虚空へと吸い込まれ、二度と手繰り寄せることはできない)
そのおよそ四週間後、6月29日、ベルリン。
エリック・ドルフィー、死去。三十六歳。
死因は未診断の糖尿病による昏睡だったと伝えられている。彼が搬送されたとき、病院側は黒人ジャズ・ミュージシャンという理由から薬物の過剰摂取を疑い、適切な処置が遅れたという証言が残されている(ヴラディーミル・シモスコらによる評伝ほか)。酒も薬もやらない、ストイックさで知られた人だった。
……この話をするとたいていの客は黙る。私も、何度話しても慣れない。
そして。
1964年8月1日。
ドルフィーの死から、三十三日後。テッド・カーソンは、ヨーロッパでスタジオに入った。
メンバーは四人。ビル・バロン(テナー・サックス、クラリネット)、ハーブ・ブシュラー(ベース)、ディック・バーク(ドラム)。ピアノはいない。プロデュースはアラン・ベイツ ― のちにブラック・ライオンやキャンディッドを手がけることになる、イギリス人プロデューサーだ。
【録音地についての注記】 このセッションの録音場所については、資料によって記載が分かれる。パリとする資料が複数存在する一方、断定を避けている文献もある。ここでは確実な範囲として「1964年8月1日、カーソンのヨーロッパ滞在中に録音された」とだけ記しておく。
この日に録られた音源からは、後に『Tears for Dolphy』と『Flip Top』という二枚のアルバムが編まれることになる。一日の仕事としては、相当な量だ。
その中の一曲に、彼はこう名前をつけた。
“Tears for Dolphy”。8分32秒。
ここで、第1章で言いかけたことを引き取っておく。
この曲は、泣いていない。
いや、正確に言おう。泣き終わったあとの音がする。三十三日というのは、そういう時間なのかもしれない。葬儀は終わり、周囲は日常に戻り、しかし自分の中ではまだ何も片づいていない ― そういう時間ということだ。慟哭には遅すぎ、忘却には早すぎる。
カーソンはその宙ぶらりんの時間に、ピアノを抜いた四人でスタジオに入った。和音という「安心できる背景」を自分から外して。
なぜそうしたのか。本人が説明した記録を、私は知らない。だが、ミンガスのカルテットで隣に立っていたドルフィーが、ピアノのいない空間でこそ最も自由に飛翔したことを、カーソンは誰より知っていたはずだ。
追悼の方法は人それぞれだ。花を手向ける者もいれば、遺影を飾る者もいる。
この男はあいつと一緒に立っていた場所と同じ形の空間を作って、そこで吹いた。
私はそう理解している。
第3章:針を落とす ― 二枚のサウンドを解剖する
さて、ここからは音の話だ。
盤を袋から出す。1961年のほうはA面に針を落とすと、いきなり打楽器が鳴る。1964年のほうは静かに始まって、じわじわ喉元に来る。まったく違う体験だ。順番にいこう。
『Plenty of Horn』:一日で三人のドラマーを呼んだ男
このアルバムの personnel を初めて見たとき、私は誤植だと思った。
ドラム ピート・ラロカ(2, 4, 8, 9) ダニー・リッチモンド(3, 7) ロイ・ヘインズ(1, 5, 6)
九曲入りのアルバムに、ドラマーが三人。しかも全員が一流だ。
【注記】 資料上、本作の録音日は1961年4月11日と記載される。ただし三名のドラマーが分担している点から、複数のセッションに分かれていた可能性も考えられる。ここは断定を避けておく。
いずれにせよ重要なのは、「誰をどの曲に当てたか」だ。ここにこの盤の設計図が透けて見える。
ロイ・ヘインズ組 ― 1曲目 “Caravan”、5曲目 “Ahma (See Ya)”、6曲目 “Flatted Fifth”
一曲目の “Caravan”。エリントン楽団のトロンボーン奏者ホアン・ティゾールが1936年に書いた、あのエキゾチックな定番だ。A部分がドミナント・ペダルの上で延々と揺れ続け、Bで急に明るい世界が開ける ― あの構造。
カーソンはこれを2分59秒で片づける。
ここが最初の驚きだ。”Caravan” といえば、たいていのジャズメンはあの怪しいヴァンプで遊び倒す。ソロを回して七、八分になるのが普通だ。それを三分弱。アドリブの見せ場をほとんど作らず、テーマの提示とアンサンブルの妙味だけで終わらせている。
これは「腕の見せ場を捨てた」のではない。アルバムの掴みとして最も短く、最も濃い一発を置いたという編集判断だ。ロイ・ヘインズという、当時すでにジャズ界随一の「歯切れ」を持つドラマーを一曲目に配したのも、そのためだろう。ヘインズのスネアは粘らない。前へ前へと弾む。
そして6曲目、“Flatted Fifth”。
タイトルがそのまま音楽用語だ。減五度 ―― トライトーン。ドとファ♯の関係。中世の教会音楽では「音楽の中の悪魔(diabolus in musica)」と呼ばれて忌避され、そして1940年代のビバップ革命ではまさにこの音程こそが、新時代の合言葉になった。
つまりこの曲名は、「俺はビバップの子である」という宣言でもある。3分37秒という短さも含めて、実に潔い。
5曲目 “Ahma (See Ya)” ― 副題の「またな」が効いている。ヘインズの弾力で軽やかに走る一曲だ。
ピート・ラロカ組 ― 2曲目 “Nosruc”、4曲目 “Dem’s Blues”、8曲目 “Antibes”、9曲目 “Mr. Teddy”
ここが実質的な「本編」だ。四曲、いちばん長い尺の曲が並ぶ。
まず2曲目。“Nosruc”。
……読者諸君、これを逆から読んでみてほしい。
N-O-S-R-U-C → C-U-R-S-O-N。
カーソンである。
自分の名前を逆さに綴ってタイトルにする ― この手の遊びはジャズには昔からある(”Eronel” が Lenore の逆さ読みだ、という話は有名だね)。だがこの曲の場合、6分23秒というアルバム中最長級の尺が与えられていることに注目したい。この盤で、「自分自身」というタイトルを冠された曲がいちばん長い。 1961年、二十五歳のカーソンにとって、これは名刺代わりの一曲だったはずだ。
ドラムはピート・ラロカ。ソニー・ロリンズの『A Night at the Village Vanguard』(1957年)であの緊迫した三人組の一角を担った男だ。彼のシンバルはヘインズよりも重心が低くうねる。長尺の曲を任されたのは偶然ではあるまい。
4曲目 “Dem’s Blues”。3分45秒。タイトル通りのブルースだが、この短さがいい。ハード・バップのアルバムで「ブルースを一曲、短く挟む」というのは、いわば料理でいう箸休めの漬物だ。しかし漬物の質でその店の格がわかる。ここでのケニー・ドリューのバッキングは、聴き逃すには惜しい。
8曲目 “Antibes”。5分07秒。前章で触れた通り、この曲名がどこから来たのかは想像するしかない。だがアルバムのクライマックスに位置づけられているという事実は動かない。
そして9曲目、“Mr. Teddy”。5分15秒。「テディさん」。これもまた自分のことだろう。
つまりこのアルバムは、“Nosruc”(カーソンの逆さ読み)で始まり、”Mr. Teddy”(愛称)で終わるという、自己言及の輪で閉じられている。デビューして間もないリーダーが、自分の名前を刻みつけようとしている ― そう読めば、この曲順は少し愛おしい。
リズム・セクションのこと ― ドリューとギャリソン
ここで、二人の脇役に触れておきたい。
ケニー・ドリュー(ピアノ)。バド・パウエル直系の、粒立ちの良いバップ・ピアニスト。ジョン・コルトレーンの『Blue Train』(1957年)でも弾いている人だ。そして重要なのは ― 彼はこの1961年、アメリカを離れてヨーロッパへ渡る。 パリ、そしてコペンハーゲンへ。
ジミー・ギャリソン(ベース)。この人も、1961年という年が転機だった。この年、彼はオーネット・コールマンのグループでも演奏し、そして同じ1961年の末にはジョン・コルトレーン・カルテットの座に着く。以後コルトレーンが死ぬまで、あの重い持続低音を支え続けることになる男だ。
つまり『Plenty of Horn』のリズム・セクションは、それぞれが「次の場所」へ旅立つ直前の姿で記録されている。1961年4月という日付には、そういう手触りがある。
エリック・ドルフィーのフルートが吹く二曲
さあ、この盤の核心だ。
ドルフィーが参加した二曲、3曲目 “The Things We Did Last Summer” と 7曲目 “Bali Ha’i”。この二曲にだけ、ドラムはダニー・リッチモンドが座っている。
もう一度、personnel を見てほしい。
3曲目・7曲目のメンバー テッド・カーソン(トランペット) エリック・ドルフィー(フルート) ダニー・リッチモンド(ドラム) ケニー・ドリュー(ピアノ)/ジミー・ギャリソン(ベース)
カーソン、ドルフィー、リッチモンド。
前章で書いた1960年のミンガス・カルテットの顔ぶれから、ミンガス本人を引いた三人がそのままここに揃っている。
これを偶然と呼ぶには、あまりに出来すぎている。カーソンはあの三人が同じ部屋にいる状態を、意図的に再現した。 そしてそこにピアノとベースを足し、あえて「いちばん静かな二曲」を演奏させたのだ。
“The Things We Did Last Summer”(4分29秒)
サミー・カーンとジュール・スタインが1946年に書いたバラード。「去年の夏、僕らがやったこと」―― 過ぎ去った季節を回想する、甘くほろ苦い歌だ。
歌詞の内容を知っていると、この選曲は胸に迫る。前年の夏、彼らは南フランスにいた。アンティーブの熱狂の中にいた。そして翌年の春、もう同じバンドは存在しない。
“The Things We Did Last Summer”。
……こじつけかもしれない。だが、こじつけたくなる曲名じゃないか。
ここでのドルフィーはフルート。彼のフルートは、アルトやバス・クラリネットのような暴れ方をしない。だが息の混じり方、フレーズ末尾のわずかな上ずりに、彼特有の「歌いすぎる」癖がしっかり出る。クラシックの奏者が聴けば「音程が」と言うかもしれない。だが、あの微妙なピッチの揺れこそが、彼が人間の声を模倣しようとした痕跡なのだ。
“Bali Ha’i”(4分00秒)
ロジャース&ハマースタインのミュージカル『南太平洋』(1949年)の一曲。南の島の名前を呼ぶ、神秘的なメロディだ。
フルートという楽器に、これほど合う曲もない。
原曲からしてエキゾチシズムの塊であり、五音音階的な旋律の輪郭を持つ。ドルフィーのフルートがここで果たしている役割は、単なる「客演ソロ」ではない。アルバム全体の音色設計における、清涼剤だ。
考えてみてほしい。この盤には九曲あり、そのうち七曲でビル・バロンのテナー・サックスがフロントに並ぶ。トランペットとテナーという、モダン・ジャズで最も標準的で、最も「厚い」組み合わせだ。
そこに二曲だけ、トランペットとフルートという驚くほど軽い組み合わせが挿入される。しかも3曲目と7曲目 ―― アナログ盤で言えばA面とB面に、ちょうど一曲ずつ。
アルバム設計としての結論
ドルフィーの二曲は「豪華ゲストの見せ場」ではない。A面・B面それぞれの中盤に置かれた、音色の窓である。厚い管楽器の壁が続く中に、突然二回だけ風が通る。この設計を思いついた時点で、1961年のカーソンは既に「アルバムを作れる」音楽家だった。
『Tears for Dolphy』:ポケット・トランペットと変拍子、そして表題曲の8分32秒
三年後。針を落とす。
まず、音数が減っている。
理由ははっきりしている。ピアノがいないからだ。ハーブ・ブシュラーのベースと、ディック・バークのドラムだけがリズムを支え、その上でカーソンのトランペットとビル・バロンのテナー(あるいはクラリネット)が二本の線を引く。
和音を鳴らす楽器がいないというのは、聴く側にとっても試練だ。「いまどのコードにいるのか」を教えてくれる者がいない。 奏者は自分たちの内的な聴覚だけを頼りに進み、聴き手はその線の交差から和声を想像するしかない。
だがこれには、途方もない報酬がある。音が広い。
ピアノが鳴らす中音域が丸ごと空いているから、トランペットの倍音もベースの胴鳴りも、遮るものなく耳に届く。1961年盤の「豊かさ」に対して、1964年盤には「見晴らし」がある。
ポケット・トランペットという選択
クレジットに “trumpet, pocket trumpet” と併記されているのが、この盤の隠れた聴きどころだ。
ポケット・トランペットとは、管の巻きを詰めて全長を短くした小型のトランペットのこと。管の実長は通常のトランペットとほぼ同じで、音域も変わらない。 だが巻きがきつくベルが小さい分、音は前に飛ばず、こもったような、少し引っ込んだ響きになる。
この楽器を有名にしたのは、言うまでもなくオーネット・コールマン・カルテットのドン・チェリーだ。1960年前後、チェリーのあの独特の「くぐもった叫び」は、新しい音楽の象徴になっていた。
カーソンがこれを持ち出したということは、その語彙圏に自分もいるという表明でもある。ただし彼は完全に持ち替えたわけではなく、通常のトランペットと併用している。ここが彼らしい。片足はハード・バップに置いたまま、もう片足を新しい土に伸ばす。 この二枚を通して見えるカーソンの立ち位置が、楽器の選択にそのまま出ている。
ビル・バロンの三曲 ― 作曲家としての顔
前章で触れたビル・バロンが、ここでは作曲家として存在感を発揮する。
- 2曲目 “East 6th Street”(5分38秒) ―― マンハッタンの東6丁目。イースト・ヴィレッジの、あの界隈。地名をタイトルにするジャズ曲は数あれど、これは明らかに「暮らしていた場所」の名前だ
- 3曲目 “7/4 Funny Time”(5分28秒) ―― タイトルそのまま、7拍子
この “7/4 Funny Time” が重要だ。
1964年という年を考えてほしい。デイヴ・ブルーベックの『Time Out』(1959年)が変拍子ジャズの扉を開いてから、まだ五年。7拍子は当時のジャズにおいて、まだ実験段階の言語だった。
しかもタイトルが “Funny Time”(おかしな拍子)である。深刻ぶっていない。 ここにビル・バロンという人の性格が出ている。彼は理論に明るく、後年は大学で教鞭を執ることになる人だが、その知性をユーモアの形で差し出す。
この盤ではバロンはクラリネットも吹く。1964年のモダン・ジャズにおいて、クラリネットはほぼ絶滅した楽器だった。スウィング時代の遺物とみなされ、若い奏者は誰も持たなかった。
……ただ、一人を除いて。
バス・クラリネットを現代ジャズの武器に変えた男が、その二ヶ月前に死んでいる。
バロンのクラリネットとドルフィーのバス・クラリネットは、楽器としては別物だ。だが「誰も吹かなくなった単簧の木管」をこの盤であえて鳴らすという選択に、私は何かを感じずにいられない。
表題曲 “Tears for Dolphy”(8分32秒)
アルバム4曲目。LPで言えば、B面の頭にあたる位置だ。
8分32秒。この盤で最も長い。
私がこの曲について言えることは、多くない。ただ、第2章で書いたことをもう一度だけ繰り返させてほしい。
この曲は、泣いていない。
葬送行進曲のようなテンポでもなければ、聖歌のような和声でもない。カーソンのトランペットはいつも通りの太さで、いつも通り少し割れながら鳴る。そして、いつも通りフレーズの終わりを放り出す。
だが、その「いつも通り」が、8分32秒続く。
追悼というのは、案外そういうものだ。 特別なことをするのではない。いつも通りのことを、いつも通りできなくなった相手のために、それでもいつも通りやる。
私はこの曲を、何十回聴いたかわからない。そのたび思うのは、この長さは「言い足りなさ」の長さということだ。言いたいことが決まっていれば、三分で済む。決まっていないから、八分半かかる。
残りの三曲
- 1曲目 “Kassim”(7分41秒) ―― アルバムの導入。7分超をいきなり置く度胸。1961年盤が2分59秒で始まったことを思い出してほしい。この三年で彼は、「短く掴む」ことをやめた
- 5曲目 “Quicksand”(6分39秒) ―― 流砂。足元が定まらないという含意
- 6曲目 “Reava’s Waltz”(7分10秒) ―― カーソンが生涯にわたって繰り返し演奏することになる代表的オリジナル。「リーヴァ」は夫人の名にちなむとされる(この点、諸説の余地はある)。3拍子
そして、この曲順である。
1 Kassim(7:41) 2 East 6th Street(5:38) 3 7/4 Funny Time(5:28) 4 Tears for Dolphy(8:32) 5 Quicksand(6:39) 6 Reava’s Waltz(7:10)
最も重い曲を4番目に置き、最後をワルツで終える。
流砂に足を取られたあと、三拍子で終わる。しかもそれが、おそらく最も個人的な名前を冠された曲で。
この曲順を組んだ人間は、ちゃんと立ち直ろうとしている。 私はそう聴いた。
さて、二枚の音は一通り解剖した。
だが、まだ話していないことがある。この盤たちの「顔」の話 ―― ジャケットのことだ。そしてCDに追加された三曲と、その出自である『Flip Top』という、もう一枚のアルバムのこと。さらにはこの二枚のあとテッド・カーソンがどこへ行き、何を残したのか。
第4章:アナザー・アングル ― ジャケット、番外の三曲、そしてその後
盤を袋に戻す前に、もう少しだけ付き合ってくれ。
音の話は前章で終わった。だがレコードというものは、音だけでできてはいない。紙とインクとレーベルの都合と、そのあとに続く人生でできている。ここからは、そういう話をする。
Old Townというレーベルの奇妙な位置と、盤の「顔」
『Plenty of Horn』が出たレーベルは、Old Town Recordsという。
……ジャズを掘っている人ほど、この名前に首をかしげるはずだ。ブルーノート、プレスティッジ、リヴァーサイド、インパルス!。60年代前半のジャズを支えたレーベル群のどこにも、Old Townは入っていない。
それもそのはずで、この会社はジャズの会社ではない。
Old Townは1950年代半ば、ハイ・ワイスという人物がニューヨークで立ち上げた独立系レーベルだ。主戦場はドゥーワップとR&B。ハーレムの街角から生まれるコーラス・グループと、黒人向けラジオ局と、ジュークボックス ―― そういう世界で商売をしていた会社である。
アーサー・プライソック(Arthur Prysock)のような歌手も抱えていたから、ジャズにまったく無縁だったわけではないが、モダン・ジャズのアルバムを継続的に制作するような体制ではなかった。
そこへ、二十五歳のテッド・カーソンが、ケニー・ドリューとジミー・ギャリソンとロイ・ヘインズを連れて現れる。
この座組みの奇妙さを、私はずっと面白がっている。
考えてみてほしい。同じ1961年、ブルーノートではフレディ・ハバードが『Ready for Freddie』を録り、リヴァーサイドではウェス・モンゴメリーが看板を張っていた。ジャズの制作インフラは、それなりに整っていたはずなのだ。
にもかかわらず、ミンガス・バンドの元メンバーで、セシル・テイラーの盤にも参加した若手トランペッターの初期の重要作が、ドゥーワップの会社から出た。
ここから読み取れることは、いくつかある。
ひとつ ―― 大手ジャズ・レーベルは、当時のカーソンに「売れる商品」を見出さなかった。ミンガスの下にいた男という肩書きは、名刺にはなっても契約書にはならない
ふたつ ―― 逆に言えばジャズの流通に不慣れなレーベルだったからこそ、「一日でドラマーを三人使う」ような編成の自由が通った可能性がある
みっつ ―― そして最も重要なこと。この盤は流通が弱かった。 だから長く入手困難であり、「知る人ぞ知る」枠に押し込められた
みっつ目が、この二枚の運命を決めたと私は思っている。音楽の価値と盤の流通量は、まったく別のものだ。 この商売を二十年やっていれば、嫌というほどわかる。
ジャケットについて、正直な話
さて、盤の「顔」の話をすると言った手前、白状しておかねばならないことがある。
私はこの二枚のジャケットについて、デザイナーの名前を確認できていない。
ブルーノートならリード・マイルスとフランシス・ウルフ、インパルス!ならあの黒とオレンジの背 ― そうした「顔の作り手」が記録に残っているレーベルばかりではないのだ。むしろ記録が残らないほうが普通だった。だから想像で語ることはしない。
そのかわり、「顔がないこと」の意味について話しておきたい。
私の店に、たまにこういう客が来る。ジャケットで買う人だ。悪いことではない。私自身、そうやって出会った音楽が山ほどある。だが同時に、ジャケットで選ばれる盤ばかりが生き残ってきたという事実も、はっきりある。
デザインの力が強いレーベルの盤は、中古市場で回る。回るから、また誰かの耳に届く。届くから、評価が更新される。
カーソンの二枚は、その回路の外にいた。
だからこそ ― と、私はカウンターの内側から言いたいのだが ― こういう盤は誰かが口で説明しないと死ぬ。 ジャケットが語ってくれない盤は、人間が語るしかない。私がこの長い文章を書いている理由は、突き詰めればそれだけだ。
『Tears for Dolphy』とアラン・ベイツ、そして三十年後の再会
一方の1964年盤には、はっきりした「顔」の作り手がいる。アラン・ベイツだ。

前章で名前だけ出したが、この英国人プロデューサーの存在は、この盤にとって決定的に重要である。彼はこのセッションをプロデュースし、ライナーノーツまで自分で書いている。
彼は後年、Black Lionというレーベルを興し、ヨーロッパで録られた膨大なジャズ音源を管理・再発していくことになる。1993年に出た『Tears for Dolphy』のCDがBlack Lionから出ているのはそのためだ。録音した本人が、三十年後に自分の手で再発する。 ジャズ・レコードの歴史において、これはかなり幸福な部類の話だ。

さらに面白いのは、ベイツがのちにCandid(キャンディド)というレーベルにも関わっていくことである。
Candid ―― 思い出してほしい。1960年、ナット・ヘントフの監修のもと『Charles Mingus Presents Charles Mingus』を世に出したレーベルだ。カーソンとドルフィーとダニー・リッチモンドがミンガスの後ろで暴れていた、あの盤の。
カーソンの音楽人生を挟む二つのレーベルの名前が、最終的に一人の英国人のもとで繋がる。 こういう符合を見つけると、私はレコードという物体が持つ因果を、少し信じたくなる。
CDに追加された三曲 ―『Flip Top』からの音源
1993年のBlack Lion CDには、オリジナルLPの六曲に加えて、三曲が追加されている。
7. “Searching for the Blues”(テッド・カーソン作)― 7分47秒 8. “Desolation”(ビル・バロン作)― 8分45秒 9. “Light Blue”(ビル・バロン作)― 3分43秒
この三曲は、同じ1964年8月1日のセッションで録られながら、オリジナルLPには入らず、のちに『Flip Top』という別名義のアルバムで世に出た音源である。
まず、単純な計算をしてみよう。
- オリジナル六曲の合計 ―― 約41分
- 追加三曲の合計 ―― 約20分
- 総計 約61分
一日で、一時間分の音楽を録っている。
これは相当な仕事量だ。しかも、ただ数を稼いだのではない。8分45秒の “Desolation” のような大曲まで含まれている。この四人組はヨーロッパのスタジオに入って、朝から晩まで吹き続けたのだろう。
ここで前章の話に繋がる。ドルフィーの死から三十三日後、和音楽器のいない編成で、一日にして一時間分。これは追悼というより、「没入」に近い。 悲しいときに手を動かし続ける人間の姿を、私はこの数字の向こうに見てしまう。
三曲それぞれについて
“Searching for the Blues”(ブルースを探して)。カーソンのペンによる7分47秒。
タイトルを、もう一度読んでほしい。「ブルースを探して」。
ブルースはジャズマンにとって、最も身近な形式だ。探すまでもない。毎晩演奏している。それを「探している」と名付けるということは ― 深読みが過ぎるかもしれないが ― 手元にあったはずのものが、見つからなくなったということではないのか。
“Desolation”(荒廃/荒涼)。ビル・バロンによる、このセッション最長の8分45秒。
表題曲 “Tears for Dolphy” が8分32秒だったから、それより13秒長い。 つまりこの日、最も長く演奏されたのはカーソンによる追悼曲ではなく、バロンが書いたこの曲だった。
タイトルは「荒れ果てた場所」を意味する。バロンもまた、ドルフィーと同時代を生きたニューヨークのサックス奏者である。彼が何を思ってこの題をつけたのか、記録は残っていない。だが「涙」の隣に「荒涼」が置かれていたという事実は、記録として残った。
“Light Blue”。3分43秒。
ここでマニアの方に一言だけ注意を。セロニアス・モンクに同名の曲があるが、混同しないでほしい。こちらの作曲者はビル・バロンであり、別の曲である。 中古盤屋のカウンターでも、この手の同名異曲の勘違いはよく起きる。
3分43秒という、このセッションで唯一の「小品」だ。一時間の長丁場のなかで、この短さはかえって異物である。息継ぎのように置かれたこの一曲を、私はけっこう好きだ。
そして、”Unidentified – percussion”
もうひとつ、このセッションには小さな謎がある。
クレジットに、こう記されているのだ。
Unidentified – percussion(パーカッション:不明)
四人組のはずのバンドに、名前のない五人目がいる。
誰なのか。当日たまたまスタジオにいた誰かなのか、あるいはカーソン自身か、バロンか、それとも記録の混乱なのか。私は知らない。そして、知らないと書くのが誠実だと思う。
ジャズのディスコグラフィには、こういう空白がいくらでもある。契約の都合で名前を出せなかった者、単に書き留められなかった者、記憶が食い違ったまま定着してしまった者。60年代のジャズは思っているほど、きちんと記録されていない。
ただ、こうも思う。ドルフィーのために録られた盤に、名前のない奏者が一人混じっている。 記録から零れ落ちた誰か。それはそれで、この盤にふさわしい欠落かもしれないと。
その後のカーソン、そして棚に残されたもの
さて、最後に。この二枚のあとの話をしよう。
ヨーロッパという避難所
『Tears for Dolphy』を録った1964年以降、テッド・カーソンはヨーロッパでの活動に重心を移していく。
これは彼一人の判断ではなく、時代の流れだった。第3章で触れたケニー・ドリューがコペンハーゲンに根を下ろしたように、当時、少なからぬ黒人ジャズ・ミュージシャンが大西洋を渡った。理由ははっきりしている。アメリカ本国での人種差別と、ジャズ市場の縮小。 ヨーロッパには彼らを芸術家として遇する聴衆と、仕事があった。
カーソンの場合、とりわけ深い縁を結んだのが北欧、なかでもフィンランドである。彼はポリ・ジャズ・フェスティバルをはじめとする現地の音楽シーンと長く関係を持ち、地元では相当に敬愛された存在だった。アメリカでは「ミンガスのバンドにいた人」でも、フィンランドでは「テッド・カーソン」だった ― そういうことが、この世界にはある。
70年代以降も彼は録音を続けた。ヨーロッパの各レーベルに、アメリカのインディペンデント・レーベルに、コンスタントに盤を残している。大ヒットはない。だが、途切れもしなかった。
そしてカーソンは、“Reava’s Waltz” を生涯にわたって演奏し続けた。 1964年に録音したあのワルツを、何十年も、繰り返し。ミュージシャンにとって「持ち曲がある」ということが何を意味するか。それはどこの国のどのステージに立っても、自分の名前で始められる場所があるということだ。
彼が亡くなったのは2012年11月4日。ニュージャージー州モントクレアにて、七十七歳。ミンガスの隣で吹いていた青年は、半世紀を生き延びた。
ビル・バロンが選んだ道
そして、二枚の盤に共に写るもう一人。
ビル・バロンは演奏活動を続けながら、次第に教育の世界へ軸足を移していく。彼はウェズリアン大学で教鞭を執り、音楽科の要職を務めた。7拍子の曲に “Funny Time” と名付けるユーモアを持った男は、最終的に教える人になったのだ。
彼が世を去ったのは1989年9月21日。弟のケニー・バロンは、兄の死後もその名を語り継いでいる。
演奏者としてヨーロッパを流れ続けた男と、教育者として大学に腰を据えた男。 フィラデルフィア出身の二人は、1961年と1964年、二度だけ同じ写真に収まって、それぞれの方角へ歩いていった。
なお、1964年盤の残る二人 ― ベースのハーブ・ブシュラーと、ドラムのディック・バークも、その後それぞれに長いキャリアを重ねている。彼らを「無名のサイドマン」と呼ぶのは、少し失礼だろう。
二枚が残したもの ― カウンターの結論
『Tears for Dolphy』というタイトルは結果として、ジャズにおける追悼作品の一つの原型になった。
エリック・ドルフィーの早すぎる死は、多くの音楽家に何かを書かせた。だが1964年8月1日という日付 ― 訃報からわずか一ヶ月余りで、しかも生前に同じ舞台に立っていた当人が録音したという点で、この盤は特異な位置にある。
そして『Plenty of Horn』はドルフィーがフルートを吹いた、静かな二曲を後世に残した。派手さはない。ディスコグラフィの片隅にある。だがあの二曲がなければ、私たちは「ドルフィーがバンド仲間のために吹いた、控えめな音」を知らないままだった。
私が二枚を並べて置く理由
1961年の盤には、一緒にいた季節が入っている。 1964年の盤には、いなくなったあとの空間が入っている。 どちらか一枚では、片方しかわからない。
雨が上がったようだ。
もしこの文章を最後まで読んでくれた人がいたら、いつか中古盤屋の棚で、この二枚のどちらかに指が止まる日が来るかもしれない。そのとき、値札が安くても驚かないでほしい。
盤の値段と音楽の価値は、まったく別のものだ。
私がこの商売で学んだことのうちいちばん大事なのは、たぶんそれだけである。
出典・参考文献
一次資料(音源・クレジット)
- Ted Curson『Plenty of Horn』(Old Town Records、1961年録音)― LPおよび各種再発盤のトラックリスト/パーソネル表記
- Ted Curson『Tears for Dolphy』(1964年8月1日録音、Alan Bates プロデュース)― Black Lion CD(1993年)ブックレットおよびトラックリスト/パーソネル表記
- Ted Curson『Flip Top』― 1964年8月1日セッションの別編集盤としてのクレジット情報
- Charles Mingus『Charles Mingus Presents Charles Mingus』(Candid、1960年10月20日録音)― パーソネルおよび録音データ
- Charles Mingus『Mingus at Antibes』(1960年7月13日、ジュアン・レ・パンでの実況録音)
- Cecil Taylor『Love for Sale』(United Artists、1959年)― パーソネル表記
- Eric Dolphy『Last Date』(1964年6月2日、オランダ・ヒルフェルスム録音)― 巻末に収録されたドルフィーの発言
事典・ディスコグラフィ
- Barry Kernfeld (ed.), The New Grove Dictionary of Jazz(テッド・カーソン、ビル・バロン、エリック・ドルフィー、ケニー・ドリュー、ジミー・ギャリソン各項)
- Tom Lord, The Jazz Discography(各セッションの録音日・編成の照合)
- Richard Cook & Brian Morton, The Penguin Guide to Jazz Recordings(両作の評価および再発情報)
書籍・評伝
- Vladimir Simosko & Barry Tepperman, Eric Dolphy: A Musical Biography and Discography(ドルフィーの経歴、1964年ベルリンでの死をめぐる経緯)
- Brian Priestley, Mingus: A Critical Biography(1959〜60年のミンガス・ワークショップの活動実態)
- Gene Santoro, Myself When I Am Real: The Life and Music of Charles Mingus(同上、および当時のメンバー間の関係)
レーベル・報道
- Black Lion Records/Candid Records 各公式カタログ情報(アラン・ベイツの制作歴および再発経緯)
- Old Town Records のカタログおよびレーベル沿革に関する各種資料
- The New York Times ほか各紙によるテッド・カーソン追悼記事(2012年11月)
インプット・データ
- 本記事作成にあたり提供された『Plenty of Horn』および『Tears for Dolphy』のトラックリスト・パーソネル・録音日データ一式


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