第1楽章 ── 序奏:客を迎える
十月の終わり、日が落ちるのがずいぶん早くなった。駅から歩いて十五分、細い路地を二度折れた先にその店はある。看板には小さく「詩(うた)」とだけ。読み方を知らない人は、たいてい「し」と読んで通り過ぎていく。
夕方の雨がようやく上がり、濡れたアスファルトが街灯を鈍く反射していた。木の扉が、乾いた音を立てて開く。
「いらっしゃい」
マスターはカウンターの内側で、ネルの布を絞る手を止めずに顔を上げた。入ってきたのは若い女性だ。大きめのトートバッグを肩から下げ、髪が少し湿っている。店内を見回す目に、警戒と好奇心が半分ずつ混ざっていた。
「あの……ここ、喫茶店ですよね」
「そのつもりでやってますよ。どうぞ、お好きな席へ」
彼女はカウンターの端の席を選んだ。壁一面のレコード棚と、部屋の隅にひっそりと立つ古いスピーカーをしばらく黙って眺めている。
「すごい数……。これ、全部レコードですか」
「数えたことはないんだがね。数えたらたぶん、怖くなる」
彼女は小さく笑った。それでいくらか肩の力が抜けたようだった。コーヒーを一杯、と注文して、それからバッグを足元に置いた。指先にペンだこがあるわけでもないのに、右手の親指の付け根が少し赤い。マウスを握りすぎた手だとマスターは思うが、口には出さなかった。
「お仕事帰りですか」
「はい。WEBデザインをやってて……今週、ずっと締切で。今日やっと一つ終わったんです」
「それはお疲れさまでした。じゃあ、少し深めに淹れましょう」
湯気の立つポットの口が、ゆっくりと円を描く。粉が膨らみ、部屋に香りが広がっていく。彼女はその所作を、まるで動画でも見るようにじっと目で追っていた。
「……なんか、時間の流れが違いますね、ここ」
「時計は動いてるんだけどね。よく言われますよ」
カップが置かれ、彼女はひと口飲んで目を細めた。少し迷ってから切り出す。
「あの、変なこと訊いてもいいですか。クラシックのこと、全然知らないんですけど」
「変なことのほうが、面白い話になりますよ」
「この前、カフェの有線で……たぶんアレンジされたやつだと思うんですけど、『トルコ行進曲』が流れてて。子どもの頃、ピアノ教室で誰かが弾いてたなくらいの記憶だったんです。元気で明るくて、子ども向けの曲、みたいな」
「うん」
「でも大人になって聴いたら、なんか違ったんですよ。うまく言えないんですけど……妙にエキゾチックというか、明るいのにどこか怖いというか。すごく激しい感情が奥にある気がして。それでハッとして」
マスターは洗い終えたカップを布巾で拭きながら、静かに頷いた。
「それで、疑問が湧いたんです。なんでオーストリア人のモーツァルトが『トルコ』の曲を書いたんだろうって。あと、なんであんなにリズムが耳に残るんだろうって。ネットで調べても、なんかピンとこなくて」
「なるほど」
マスターは布巾を置いた。それからほんの少しだけ、嬉しそうな顔をした。
「──あなた今、とてもいいところに気づきましたよ」
「え」
「誰もが知ってる、あの曲だね。ピアノソナタの第11番、その終楽章。作曲は1780年代、モーツァルトが二十代の終わり頃。……まあ、そういう辞書に載ってることは、正直どうでもいいんです」
彼女は身を乗り出した。
「どうでもいいんですか」
「大事なのはあなたが感じた『怖さ』のほうでね。それは気のせいじゃない。曲の下敷きになっているのは、本物の軍隊の音楽なんですよ。しかもウィーンの人たちにとっては、ついこの前まで自分たちを殺しに来ていた軍隊のね」
店の奥で、古い柱時計がひとつ鳴った。彼女はカップを持ったまま、動きを止めている。
「……聞かせてください」
「長くなりますよ。コーヒー、二杯目を淹れますから」
第2楽章 ── 知られざる物語
マスターは新しい豆をミルに入れた。ゴリゴリという低い音が、しばらく会話の代わりになる。
「まず、時代のことからいきましょうか。1683年、ウィーンはオスマン帝国の軍勢に包囲されました。二か月間、街ごと。落城寸前まで追い込まれて、間一髪で助かった」
「1683年って……モーツァルトより、ずっと前ですよね」
「百年前です。でもね、百年前の戦争って、そんなに昔じゃないんですよ。あなたにとって百年前の話は、全部ひと事ですか」
彼女は少し考えて、首を振った。
「その包囲戦のとき、オスマン軍が連れてきていたのが軍楽隊でね。トルコ語で『メフテル』という。大太鼓、シンバル、それに鈴の付いた棒みたいな楽器。これが陣の外でひたすら鳴る。夜通し鳴ることもあった」
「威嚇のためですか」
「そう。音を武器として使うという発想がすでにあったわけです。人類最古の音響兵器のひとつと言っていい。籠城していたウィーンの市民は、その音を毎晩聞かされていた」
ミルの音が止まった。マスターは粉の香りを一度だけ確かめる。
「で、面白いのはここからでね。ウィーンは勝った。オスマン軍は撤退した。──普通なら、憎い敵の音楽なんて二度と聞きたくないでしょう」
「そうですよね」
「ところが逆だった。18世紀のウィーンでは『トルコ趣味』が大流行するんです。トルコ風の衣装、トルコ風の内装、トルコ・コーヒー。そして、トルコ風の音楽」
「……なんでですか。怖かったんじゃ」
「怖くなくなったからでしょうね」
マスターは湯を落としながら、静かに続けた。
「脅威が去って、敵が『遠くの異国』になった瞬間、それは消費できる刺激に変わる。恐怖がエキゾチックな娯楽に翻訳されるわけです。……人間のあまり褒められない癖のひとつだね」
「あ」彼女は小さく声を漏らした。「それ、なんかわかる気がします。今もありますよね、そういうの」
「あるでしょうね。だからあなたが感じた『明るいのにどこか怖い』というのは、その両方の層が音の中に残っているからだと思いますよ。行進のリズム、打楽器的な低音、シンバルを思わせる装飾。あれは全部、メフテルの記憶なんです」
二杯目のカップが置かれた。今度は少しだけ浅く淹れてある。
「そこで、当時のピアノの話をしないといけない」
「ピアノ?」
「これはあまり語られないんだが。当時のウィーンのピアノには、『トルコ・ストップ』という仕掛けが付いているものがあった。ペダルや膝レバーを操作すると、鈴が鳴ったり、太鼓のようなものが響板を叩いたりする」
彼女は目を丸くした。
「え、ピアノから太鼓の音が出るんですか」
「出るんですよ。今で言えば、ドラムマシンを内蔵したシンセサイザーみたいなものでね」
「めちゃくちゃ現代的じゃないですか」
「でしょう。あなたが普段聴いてるビートの音楽と、そう遠くない発想です。──ただし断っておくと、モーツァルト自身がこの曲でその機能を使うよう指示した楽譜は残っていません。当時の楽器の一部にそういう装置があった、というのは事実。それを『トルコ行進曲』で鳴らしていたかどうかは、真偽の定かでない話です」
「マスター、そこ、ちゃんと分けるんですね」
「分けたほうが、面白い話が長持ちするんですよ」
彼女は笑って、コーヒーを飲んだ。
「もうひとつ。この曲、『トルコ行進曲』という題名はモーツァルトが付けたものではないという説が強い」
「え、違うんですか」
「自筆の楽譜に書かれているのは、イタリア語で『トルコ風に』という程度の指示だとされている。『トルコ行進曲』という呼び名は、後の時代に出版社や世間が付けた愛称に近い。しかもね、これは行進曲としてはそもそも変なんです」
「変?」
「行進曲というのは普通、人が二本の足で歩けるリズムで書く。ところがこの曲は、拍の作りがどうにも軽くて跳ねる。兵隊が行進するというより、行進を眺めている人の高揚感に近い」
「……見物人の音楽」
「そう。当のトルコから見れば、これは全然トルコの音楽じゃない。ウィーンの人が想像した『トルコっぽさ』です。異国の記憶と想像と、少しの誤解でできている」
マスターはカウンターに肘をついた。
「もっとも、その『誤解』が二百年以上世界中で鳴り続けているわけでね。──ここまで話したところで、そろそろ音にしましょうか」
「はい。聴きたいです」
「ただし、あなたが学校で聴いたようなやつじゃありませんよ」
第3楽章 ── マスターの一枚(意外な名演奏)
マスターはカウンターを出て、レコード棚の前に立った。背表紙を指でなぞり、途中で二度手を止めて、結局いちばん奥から一枚を抜き出す。ジャケットは色が褪せ、角が丸くなっていた。
「これにしましょう。リリー・クラウス
「……知らない名前です」
「知らなくていいんです。ハンガリー生まれのピアニストでね。モーツァルト弾きとしては、知る人ぞ知る名前です。彼女はモーツァルトのソナタを生涯に何度か録音しているんだが──今日かけるのは1950年代のパリ録音、いわゆる旧盤のほう」
「旧盤ってことは、新しいのもあるんですね。そっちのほうがいいんじゃ」
「音は新しいほうがいい。文句なしにね。でも、私は旧盤を選ぶ」
ターンテーブルが回りはじめる。マスターは指先だけで慎重に針を降ろした。プツ、と小さな音がして、それから微かなノイズの層が部屋に立ちのぼる。
音が出た瞬間、彼女の眉が動いた。
「……速い」
「でしょう」
「速いっていうか、なんか……追い立てられてないのに、前に行く感じ」
「うまいこと言うね」マスターは満足そうに頷いた。「彼女の演奏はペダルをほとんど踏まない。だから音が濁らないで、粒がひとつずつ立つ。左手の打ち込みが、そのまま太鼓の音に聞こえてくるんですよ」
「あ、ほんとだ。ここ、めちゃくちゃドラムっぽい」
「そこです。ロマンティックに歌わせない。優雅な貴族の音楽ではなく、行列と打楽器の音楽として鳴っている。第2楽章で話した『メフテル』の記憶が、いちばん生々しく残っている演奏だと私は思っている」
彼女は目を閉じて聴いていた。ノイズがかえって、音を古い時間の側に押しやっている。
マスターの一枚
- リリー・クラウス(ピアノ)/モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番 イ長調 K.331
- 1950年代・パリ録音(旧盤)
- 聴きどころ:ペダルを抑えた乾いた打鍵、左手の打楽器的な低音、装飾音のリズム的な鋭さ
曲が終わり、針が上がった。彼女は少し放心したように息をついた。
「……子どもの曲じゃないですね、これ」
「子どもの曲だったことは一度もないんですよ。──さて、もう一枚。まったく反対側から行きましょう」
マスターは今度は迷わなかった。取り出したのは、ひときわ有名な顔が写ったジャケットだった。
「グレン・グールド。名前くらいは?」
「あ、それは聞いたことあります。椅子が低い人ですよね」
「よく知ってるね。──この人、モーツァルトが嫌いだと公言していた」
「嫌い? 弾いてるのにですか」
「弾いてる。全曲録音まで残している。そのうえで『モーツァルトは早く死にすぎたのではなく、遅く死にすぎた』というようなことまで言った。これはあまり語られないんだが、彼のモーツァルト録音は、愛情の演奏ではなく、批評としての演奏なんです」
「批評……」
「聴いてごらんなさい」
針が落ちる。──出てきた音に、彼女は思わず「えっ」と声を上げた。
「遅っ……遅くないですか、これ」
「遅い」
「なんでこんな、一音ずつ……解体してるみたいな」
「まさに解体です。誰もが『元気で楽しい曲』として消費しているものを、わざと分解して見せている。速さで押し切れば聴き手は喜ぶ。彼はそれを絶対にやらない。しかもよく聴くと、テンポは遅いのにリズムの骨格は異様に正確でしょう」
「……正直、気持ち悪いです。でも、耳を離れない感じ」
「その反応が正しいと思いますよ。好きになる必要はない。ただ、この曲がいかに『聴き流されてきたか』を、この演奏は逆から証明している」
対照の一枚
- グレン・グールド(ピアノ)/同曲・1960〜70年代のモーツァルト・ソナタ全集より
- 聴きどころ:極端に遅いテンポ、装飾を削ぎ落とした線的な処理。あえて「楽しませない」姿勢
音が止んだ。店の中に、また雨のあとの静けさが戻ってくる。
「同じ曲なのに、別の曲みたいでした」
「別の曲ですよ、あれは。楽譜は設計図でしかない。同じ図面から、まるで違う建物が建つ。──あなたの仕事も、そういうところがあるんじゃないですか」
彼女は驚いた顔をして、それからゆっくり頷いた。
「……あります。同じ要件でも、作る人で全然違うものになる」
「でしょうね」
マスターは、二枚のレコードをそれぞれの袋に戻した。
第4楽章 ── 余韻:客を送り出す
彼女は冷めかけたコーヒーの最後のひと口を飲んで、カップを静かに置いた。
「なんか……ずっと知ってる曲だと思ってたんですけど」
「うん」
「全然知らなかったんだな、って。ピアノ教室で誰かが弾いてた、あの音しか私は知らなかった」
マスターはカップを下げながら、少しだけ笑った。
「知ってるつもりの曲というのは、いちばん厄介でね。あんまり有名になりすぎると、人はもう耳を使わなくなる。BGMになるというのは、そういうことでしょう」
「わかります。私、仕事中はずっとローファイ・ヒップホップ流してるんですけど、あれ、聴いてないですもん。作業のための壁紙みたいな感じで」
「それも音楽の立派な使い方ですよ。責めたりしない」
「でも今日、久しぶりに『聴いた』気がします」
店の隅で、レコードプレーヤーの電源ランプが小さく光っている。マスターは布巾を畳んで、カウンターの端に置いた。
「ひとつだけ、余計なことを言ってもいいですか」
「はい」
「さっきの二枚ね。どちらが正解ということはないんです。クラウスの旧盤が好きだという人もいれば、あんなに乾いた音は許せんという人もいる。グールドに至っては、いまだに賛否が真っ二つでね」
「マスターは、どっちが好きなんですか」
マスターは少し考えるふりをして、それから答えた。
「その日によりますよ。……疲れてる日は、クラウスだね」
「今日みたいな日ですか」
「そう。今日みたいな日」
彼女は声を出して笑った。入ってきたときの、あの警戒した表情はもうどこにもなかった。
バッグを肩にかけながら、彼女はふと振り返ってレコード棚をもう一度眺める。
「あの、また来てもいいですか。今度は、締切が終わったすぐの日じゃなくて」
「いつでも。どうせ、この店はいつも空いてますから」
「それ、自慢ですか」
「事実です」
会計を済ませ、彼女は扉に手をかけた。木の扉は、外へ開くときにも同じ乾いた音を立てる。
「──マスター」
「はい」
「さっきの、百年前の話。怖かったものが、いつのまにか流行になるっていう」
「ええ」
「あれ、ずっと考えてます。帰りながらも考えると思う」
「それがいちばん、いい持ち帰り方だね」
扉が閉まった。路地の湿った空気がほんの少しだけ店の中に入り込んで、コーヒーの匂いと混ざって消えた。
マスターはしばらくカウンターに立ったまま、外の足音が遠ざかるのを聞いていた。それから棚に歩み寄り、さっき戻したばかりのレコードをもう一度引き出した。
袋から出し、盤面の埃を布で払う。ターンテーブルが静かに回りはじめる。
針が降りる。プツ、という音。
百年前の包囲と、二百数十年前のウィーンと、七十年前のパリのスタジオが、誰もいなくなった小さな店の中でまた鳴りはじめた。
柱時計が九度、ときを打つ。
マスターは灯りをひとつだけ落として、自分のためのコーヒーを淹れはじめた。


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