バルネ・ウィラン(Barney Wilen):『死刑台のエレベーター』から『La Note Bleue』までの30年

ジャズ

第1章:真夜中のカウンターで、いま「バルネ」を注ぐ理由

いらっしゃい。ああ、その席空いてるよ。

……もう一時を回ったな。この時間になると、たいていの客は帰るんだ。残るのはまだ家に帰りたくない顔をした奴だけ。今夜の君も、たぶんそっち側だろ?

なら、無理に喋らなくていい。かわりに一枚かけよう。棚の下の段、少し埃をかぶったあたり。
バルネ・ウィラン。知ってるかい? 知らないならそれでいい。むしろその方が今夜は、いい夜になる。

なぜマイルスの脇役で終わらなかったのか — 30年をまたぐ一本の線

バルネ・ウィランの名前を最初に見つける場所は、たいてい他人のレコードの裏だ。マイルス・デイヴィスが1957年の暮れにパリで録った、あの映画音楽『死刑台のエレベーター(Ascenseur pour l’échafaud)』のクレジット。
そこに小さく載っているテナーサックス奏者、それがバルネだよ。当時20歳。ニース生まれの、まだ何者でもない若造だった。

だからみんな、こう言うんだ。「マイルスに拾われた早熟な子」って。

でもな、俺がこの店で二十年以上針を落としてきて思うのは、あれは入口であって彼の物語じゃないってことなんだ。彼の本当に面白いところは、そこから先の三十年の、あまりに真っ直ぐじゃない歩き方にある。

ざっくり線を引くとこうなる。

  • 1957年:20歳で映画音楽の現場に立ち会い、マイルスの隣で吹く
  • 1959年:自分の名前だけを冠したアルバムで、ハードバップの熱を吹き切る
  • 1960年代後半以降:ジャズの枠を自分から踏み外していく。フリー、ロック、そして音楽以外のこと
  • 1970〜80年代前半:表舞台から姿を消していた時期がある
  • 1987年:帰ってくる。しかも若い頃とはまるで違う音で

な。きれいな右肩上がりじゃないんだ。一度ちゃんと消えて、ちゃんと戻ってきた男の話なんだよ。

俺が今夜これを勧めるのはそこなんだ。上手いプレイヤーならいくらでもいる。だけど「うまくいかなかった時間」がそのまま音色に染み込んでる奏者は、そう多くない。バルネの復帰後の音を聴くと、テナーってのは肺と金属の楽器じゃなくて、履歴の楽器なんだなと思う。そういう音が、深夜のグラスにはよく合う。

フランス語で吹かれたテナー、という発明

もうひとつ、言っておきたいことがある。

1950年代のパリってのは、アメリカのジャズメンがしょっちゅう流れ込んでくる街だった。空気が良かったのか、人種の壁が本国より薄かったのか。事情はいろいろ語られてるけど、とにかく本物がすぐ近くにいた。だから当時のヨーロッパの若手にとって、ジャズは「輸入品」だったんだ。アメリカ語(なまり)で吹けるかどうかが腕の証明だった。

若いバルネも、そこは上手かったよ。すごく上手かった。太くて張りのある、いかにも当時のニューヨークの匂いがするテナーを吹ける子だった。

ところがだ。復帰後の彼を聴くと、様子が違う。

  • 音がでかくない。むしろ息の音のほうが前に出てくることがある
  • フレーズを詰めない。埋めるべきところを、わざと空ける
  • 歌もの、それもフランスの歌や映画の音楽を、ジャズの飾りとして扱わない。歌のまま吹く

これがね、俺が「フランス語で吹かれたテナー」と呼んでるものなんだ。理屈っぽく言えばアメリカ由来のイディオムを土台にしつつ、フレーズの語尾や間の取り方が、母語の呼吸のほうに寄っていったってこと。要するに訳さないで喋りはじめた、ってことだよ。

ここ、初めての君に伝えたいポイントだけまとめておくよ。 「バルネがすごい」のは速く吹けるからじゃない。同じ楽器で、若い頃と晩年でまったく別の話し方をしてみせたからなんだ。だから彼の場合、一枚だけ聴いて「こういう人」と決めるのがいちばん損なんだよ。

今夜のおすすめ4選 — それぞれの「飲み頃」の話

というわけで、四枚出しておく。中身の解剖は後の章でゆっくりやるから、ここではどんな夜にどの温度で飲むかだけ言っておくよ。

① 『Ascenseur pour l’échafaud』(1957年録音/マイルス・デイヴィス) 
いわゆる『死刑台のエレベーター』。ルイ・マル監督のデビュー長編に付けられた音楽で、スクリーンに映像を流しながら、パリのスタジオで即興を積み上げていったと語り継がれている一枚だ。バルネはここで、テナーを吹いている。 
飲み頃:雨の夜、明かりを落として一杯目。バルネの自己紹介としてじゃなく、「彼が最初に立った場所」を確認するために聴く盤だよ。

② 『Barney』(1959年) 

自分の名前だけが表紙に載った盤。ピアノにデューク・ジョーダン、若手だったダニエル・ユメールがドラムに入った編成で、管はテナー一本。いわゆるワンホーンってやつだ。逃げ場がない代わり、二十二歳のこの男が何を持っていたのかが全部出てる。 
飲み頃:まだ酔ってない、二杯目。熱い。強い。元気がないときに聴くと、少し置いていかれるから気をつけて。

③ 『La Note Bleue』(1987年) 
帰還の一枚。長い空白のあとに出てきて、しかも若い頃の熱をなぞらずに、まったく別の場所に立ってた。劇画(バンド・デシネ)の作家との関わりから生まれた盤でもあって、絵と物語と音が同じ方向を向いている。このあたりは第4章でじっくり話すよ。 
飲み頃:三杯目、氷が溶けかけた頃。なんでもないのに少し寂しい夜に、いちばん効く。

④ 『French Ballads』(1980年代後半) 


これはもう、バラード集。ミシェル・グレイエのピアノ、リカルド・デル・フラのベース、そしてサンゴマ・エヴェレットのドラムという繊細なトリオに乗せて、フランスの歌ものをほとんど囁くみたいに吹いている。ブラシの静かな刻みの中で、技を見せるのではなく音色そのものを聴かせにきてる盤だ。

飲み頃:最後の一杯。というか、グラスを空けて、もう帰るって決めたあとに流す。閉店前に俺がよくかけるのは、これだよ。

……順番は好きにしていいよ。押しつける気はないんだ。ただ、もし君が「ジャズって難しそうで」と身構えてるなら、④から入って、②で驚くっていう飲み方を、俺は密かに気に入ってる。

さて。今夜の一枚目、決まったかい?

ところでこの男がどうして一度ジャズから消えたのか、そこは気になるだろ? ニースの海とパリの夜と、それから彼が音楽の代わりに夢中になったものの話。次の章で、そのあたりを話してもいいかい?

第2章:ニースの少年、パリの夜、そして消えた十数年

グラスを替えようか。……そう、さっきの続きだ。

「どうして一度ジャズから消えたのか」。あれね。あの話をするには、少し戻らないといけないんだ。海のあるところまで。

アメリカ人の父とフランスの海 — 早熟の正体

バルネ・ウィラン、本名バーナード・ジャン・ウィラン。1937年3月、南仏ニース生まれ

生い立ちがちょっと面白くてね。父親はアメリカ人、母親はフランス人。つまり彼は最初から、片足をアメリカに、片足をフランスに置いて生まれてきた男なんだ。しかも育った時代が悪い。生まれて数年で戦争が始まって一家はフランスを離れ、少年時代の一部をアメリカで過ごしたと伝えられている。戻ってきたのは戦後だよ。

これがね、後々まで効いてくるんだ。同じ世代のフランスの若手が「輸入されたレコード」からジャズを学んでいた頃、この子は言葉として英語圏の空気を吸っていた。だから「アメリカのなまりが上手い」んじゃない。なまりを覚える必要がなかったんだよ。

十代のバルネはニースでサックスを吹き始め、地元のクラブで場数を踏み、やがてパリに出る。五〇年代半ばのことだ。ここで彼は運が良かった。というより、時代が異常だった

当時のパリという場所について 
五〇年代のパリには、アメリカのジャズメンが次々と流れ込んできていた。長く住み着いた者もいる。理由については色々語られていて、本国より人種の壁が薄かったからという説明もよく聞く。事情の解釈はさておき、結果として「本物」が街のクラブにいたことは間違いない。 つまり若いバルネはレコードで学ぶ代わりに、隣に立って学べたんだ。

サンジェルマン界隈のクラブで、彼は年上のアメリカ人たちと一緒に吹くようになる。ピアノの巨人バド・パウエルとも同じ舞台に立った。ドラムのケニー・クラークやピアノのルネ・ユルトルジェ(René Urtreger)ら、パリで鍛えられた面々とも顔なじみになっていく。十代の終わりから二十歳になる頃には、もうパリで「あいつは違う」と言われる存在だった。
実際、フランスの権威ある賞(アカデミー・デュ・ジャズのジャンゴ・ラインハルト賞)を1957年に受けている。若手に与えられる、その年いちばんの評価だよ。

……早熟の天才、っていうのは便利な言葉だ。だけどこの男の場合、天から降ってきた才能って話じゃないと思うんだ。アメリカとフランスの両方に半分ずつしか属していなかった子供が、両方に属せる場所をひとつだけ見つけた。それがジャズだったって話に聞こえるんだよ、俺には。

1957年12月、暗闇のスタジオでマイルスと交わった夜

さあ、あの晩の話だ。

1957年の秋から暮れにかけて、マイルス・デイヴィスがヨーロッパを回っていた。パリでの仕事の相棒は、地元の腕利きたち — ルネ・ユルトルジェ(p)、ピエール・ミシュロ(b)、ケニー・クラーク(ds)。そしてテナーに、二十歳のバルネ・ウィランが入っていた。

そこへ舞い込んだのが、若い映画監督の依頼だった。名前はルイ・マル。二十代半ばの、まだ長編一作目の男だ。作品は『死刑台のエレベーター』。ジャンヌ・モロー、モーリス・ロネ。完全犯罪のはずだった殺人が、些細な不手際からゆっくり崩れていく話だよ。

録音は1957年12月4日から5日にかけての夜、パリのスタジオで行われた。この現場について語り継がれているのは、こういう風景だ。

  • スクリーンに映画の場面を流しながら、それを見ながら演奏した
  • 分厚い譜面は用意されず、ごく簡単な素材(コードやモチーフ)だけを決めて即興で積み上げたとされる
  • 全部が一晩の作業で、しかも尺の短いパーツをいくつも録っていった

これがどれだけ異常なことか、わかるかい。ジャズマンが映画音楽をやるとき、普通は「テーマを書いて、アレンジして、譜面を配って」やるんだ。でもこの現場は逆をやった。書かないことを選んだ

結果、どうなったか。あの映画で流れるトランペットは、登場人物の気持ちを説明しないんだよ。夜のパリを、女がひとり歩いてる。音楽は彼女の悲しみをなぞらない。ただ、その街の湿度と時刻の遅さだけを鳴らす。説明を放棄したから、かえって不安が客席に伝染するんだ。

で、バルネはそこで何をしてたか。

正直に言うとね、この盤で彼は主役じゃない。主役はマイルスのトランペットで、バルネのテナーは影の側にいる。でも、影が薄いって意味じゃないんだ。マイルスが上澄みの冷たさを担当しているのに対して、彼のテナーは下に沈んでる重い方 — 室温、床、階段の踊り場みたいな音を出してる。二十歳でその役目を理解して、しかもはみ出さずに務めたっていうのが、俺には一番おそろしい。

ちなみにこの成功で、彼はいわゆる「映画とジャズ」の仕事に何度も呼ばれるようになる。アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズが手がけたフランス映画の音楽『危険な関係(Les liaisons dangereuses)』にも彼は参加している。二十歳そこそこで、アメリカ最強のハードバップ集団と現場を共にしたわけだ。

……ここまでの経歴、順風満帆に見えるだろ? 見えるよな。だから話が面白くなるんだよ。

レースカー、アフリカ、そして沈黙

六〇年代に入ると、この男の進む方向が急にわからなくなる。

まず、ジャズそのものが揺れた時代だった。コード進行に沿って気持ちよく吹く時代が終わりかけて、フリー・ジャズが来る。エレクトリックな楽器が入ってくる。ロックが世界を持っていく。多くのジャズメンが「どうする?」と迷った十年だ。

バルネの答えは、片っ端から手を出すことだった。

  • フリー・ジャズ寄りの実験
  • エレクトリックな鍵盤やロックの音圧を持ち込んだサイケデリックな録音(六〇年代末、ドイツのMPSに残された作品群がその代表とされる)
  • そして自動車レース

そう、車だよ。彼は本気でモーター・スポーツに惹かれていた男でね、六〇年代末にはF1ドライバーの死をテーマにした作品を作っている。1967年のモナコで事故死したイタリア人ドライバー、ロレンツォ・バンディーニ。エンジン音や現場の音を素材に取り込んだ、いわゆるコンセプト作だ。ジャズマンが「サーキットの音でレクイエムを組む」なんて、まともじゃない。まともじゃないが、俺はこの発想が嫌いになれない。

さらに七〇年代初め、彼はアフリカへ行く。録音機材を持ち込んで、現地の音を拾いながら作った作品も残っている(1972年の『Moshi』が知られている)。そのままアフリカで数年を過ごし、この時期の彼はもう「パリのテナー奏者」ではなくなっていた

そして、消える。

七〇年代から八〇年代の前半、彼の名前はジャズの本線から見えなくなる。理由を一言で説明できる資料は、俺は持っていない。時代とのすれ違い、生活、体調、その他いろいろ。どれも語られているが、断定できる話じゃない。だから俺はこう言うだけにしてる。

十年以上、この男の音は世界から聞こえなくなっていた。 ジャズの世界じゃ、それは普通「終わり」を意味する。

普通は、終わりなんだ。復帰してもたいていは、「昔は良かった人」のポジションに座らされる。往年のヒットを吹いて、拍手をもらって、それで終わり。俺は何人もそういう奴を見てきたよ。

ところがバルネは1987年に戻ってきて、いきなり全然違う音を出した

若い頃の熱を再現しようとしなかったんだ。あの二十二歳の勢いを取り戻しに行かなかった。かわりに吹かないこと、遅いこと、小さいことを武器に選び直した。ブランクを「取り戻すべき損失」として扱わず、そのまま音色の材料にした。これはね、勇気じゃなくてもっと静かな何かだと思う。諦めのあとに残るもの、というか。

La Note Bleue』と『French Ballads
君がさっき気になってた盤は、どっちもその「戻ってきた男」の音だよ。だからあれを聴いて「哀しい音だな」と感じるのは、正しいんだ。感傷で哀しいんじゃなくて、履歴で哀しい

彼はその後、九〇年代半ばまで精力的に録音を続けて1996年5月、パリで亡くなった。五十九歳だった。復帰から数えると、たった十年足らずの晩年だよ。その十年に、この男の一番いい音が詰まってる。

……さて。

そろそろ、音の話をしないとな。「間が哀しい」なんて言葉だけじゃ、君も納得しないだろ? なぜあの音色は湿って聞こえるのか。1959年の熱いバルネと晩年の静かなバルネは、具体的にどこが違うのか。

盤に針を落としながら、その解剖をやってみるかい?

第3章:音の解剖 — なぜ、あの音色は湿って聞こえるのか

さて。じゃあ実際に針を落としながら話そうか。

言葉で「哀しい」「渋い」って言うのは簡単なんだ。でもそれだけだと、君は俺の気分を聞かされてるだけだろ? だから今夜は、この男の音が具体的にどう作られているのかをひとつずつ分解してみる。難しい言葉が出たら、必ずそのあとで言い換えるから身構えなくていいよ。

まず、大前提を一個。テナーサックスの音色ってのは、乱暴に言えば二つの成分の配合比で決まる。

  • 芯(しん):金属が鳴る、はっきりした音程の部分。太さ・張り・輝き
  • 息(いき):音程になりきらない空気の音。かすれ、ノイズ、ざらつき

芯を多めに配合すれば、力強く前に出る音になる。息を多めにすれば、近くで囁くような生々しい音になる。 バルネの生涯って、この配合比が少しずつ変わっていく物語なんだよ。

若い頃は芯が多かった。晩年は息が増えた。それだけの話、なんだけどな。その「それだけ」が、人生ぶん動いてるから恐ろしいんだ。

『Barney』(1959):ワンホーンという裸の勝負

一枚目、これだ。1959年、彼が二十二歳のときの盤。ピアノにデューク・ジョーダン、ドラムに当時まだ若手だったダニエル・ユメールを迎えた編成で、管はテナー一本。いわゆるワンホーンだよ。

ワンホーンってのは何かというと、サックスやトランペットが一本だけの編成のこと。当時のハードバップの主流は管が二本、トランペット+テナーの二管が定番だった。なぜかって単純に、そのほうが楽なんだ。

二管が楽な理由

  • テーマをハーモニーで飾れる(一本だと、メロディが裸で出る)
  • ソロを交代できる(相棒が吹いてる間、休める)
  • アンサンブルの厚みで、多少のアラが隠れる

つまりワンホーンってのは、逃げ場を全部自分で取り払う選択なんだよ。テーマの一音目からソロの最後の息まで、全部その人の責任になる。

で、この盤の二十二歳は、それをやって勝ってるんだ。

聴いてみて最初に来るのは、音の押し出しの強さだと思う。復帰後のバルネを先に知った人が『Barney』を聴くと、たいてい「え、こんなに元気なの?」って顔をする。芯が太い。アタックがはっきりしてる。フレーズの終わりを曖昧にせず、ちゃんと着地させる。

この時期の彼の語彙には、大きく二つの血が混じって聞こえる。

ひとつは、ソニー・ロリンズ的な骨格。 ぶっとい音でリズムを噛むように、少し不器用なくらい堂々とフレーズを置いていく感覚。当時の若いテナー奏者がこぞって影響を受けた方向だ。

もうひとつは、レスター・ヤング的な軽さ。 音を張りすぎず、拍の上を滑るように行くやり方。フランスのミュージシャンには、この系譜を好んだ人が多い。

若いバルネはこの「重い足取り」と「滑る足取り」を、曲によって使い分けてる。そこがもう二十二歳離れしてるんだよ。ハードバップの熱いテンポでは前者、ミディアムやバラードでは後者に寄る。同じ人が吹いてるのに、体重が変わって聞こえる。

そしてリズム隊が良い。デューク・ジョーダンという人はね、派手さで勝負しない人なんだ。装飾を減らして、歌えるフレーズを必要な音数で置くタイプ。だからワンホーンのテナーの周りに、余白がきれいに残る。ここにユメールの若い推進力が加わるから、演奏が硬くならずに前へ転がっていく。

『Barney』の聴きどころ、三つだけ

  1. テーマ提示の一音目。伴奏に隠れず裸で出る音。ここでもう、腹の据わり方がわかる
  2. 速い曲でのフレーズの終わり方。若いプレイヤーは終わりが尻切れになるもんだが、この盤の彼はちゃんと言い切る
  3. ピアノとの距離。ジョーダンが引くところ、支えるところの判断。テナーが呼吸する隙間を意識して聴くと面白い

正直言うとこの盤に、晩年の哀愁はない。あるのは、腕と若さと自信だ。だから第1章で俺は、「元気がないときに聴くと置いていかれる」と言ったんだよ。これは勝ってる音なんだ。

『La Note Bleue』(1987):吹かない、という選択

で、二十八年後。

1987年。長い不在のあとに出てきたのが、この『La Note Bleue(青い音)』だ。フランスのインディペンデント・レーベル、IDAから出た盤で、彼の復活を決定づけた一枚として語られている。ピアノにはアラン・ジャン=マリーAlain Jean-Marie)、ベースにリッカルド・デル・フラRiccardo Del Fra)。復帰後の彼を支えた面々の名が挙げられる編成だよ。

針を落として、五秒でわかる。別人だ。

いや、正確に言うと同じ人なんだ。癖は残ってる。でも配合比が入れ替わってる。芯が減って、息が増えた。

具体的に何が起きているか、分解するとこうなる。

1. 音量そのものが下がっている 
若い頃は「吹き込んで」音を出していた。ここでは「息を通して」音を出している。だからマイクとの距離が近くに聞こえる。楽器から一メートル先の音じゃなくて、リードが震えてる場所の音、みたいな生々しさだ。

2. 語尾を、消す 
これがいちばん決定的な変化。1959年の彼はフレーズを言い切っていた。1987年の彼は、フレーズの終わりを息の中に溶かす。言い切らない。だから聴いてるほうが「あれ、いま何か言いかけたよな」と、勝手に続きを想像しちゃうんだ。哀愁の正体の半分はこれだよ。

3. 音を、置かない時間が長い 
専門用語で「間(ま)」だとか「スペース」だとか言うやつだ。難しく考えなくていい。吹くのをやめてる時間が、若い頃より圧倒的に長いってことだよ。

ここが肝心なところなんだ。だから少しだけ理屈を。

なぜ「吹かない」と哀しく聞こえるのか 
音が鳴っている間、聴き手の耳は音を追いかける。忙しいから、余計なことを考えない。 ところが音が止まると、耳は宙に浮く。そこで部屋の残響、ベースの余韻、そして自分の頭の中の何かが、隙間に入り込んでくる。
音を減らすというのは、聴き手の側に仕事を渡すってことなんだ。バルネの晩年の演奏が「自分のための音楽」みたいに聞こえるのは、そのせいだと俺は思ってる。

そしてもうひとつ、テクニックの話を足しておこう。サブトーンという吹き方がある。息を強く当てずに、低い音域を柔らかく、輪郭をぼかして出す技法だよ。当てるべき息をわざと逃がして鳴らすようなものだから、音は小さくなるし、かすれる。かわりに、人間の声のいちばん低いところみたいな質感が出る。復帰後の彼は、この領域の使い方が本当にうまい。

面白いのは、これが衰えではないってことだ。技術が落ちて小さく吹くしかなくなった人の音は、聴けばわかる。音程が甘くなるし、フレーズの構造が崩れる。バルネはそこが崩れていない。吹けるのに、吹かない。 その選択の音がする。

第2章で言った「履歴で哀しい」ってのは、これのことなんだよ。彼は十年以上の空白を取り戻すべき遅れとして扱わなかった。かわりに、空白のあいだに覚えた「音を出さないこと」を、そのまま楽器に持ち込んだ

『La Note Bleue』の聴きどころ、三つだけ

  1. フレーズの語尾。どこで言い切らずに息へ逃がしているかを追う
  2. 休符の長さ。「まだ吹かないのか」と思う瞬間があったら、そこがこの盤の芯だ
  3. 低音域の質感。サブトーンで撫でるように出す低い音。声に聞こえたら、それが正解

『French Ballads』:バラードを「歌」に戻す

静かな曲をもう一枚。俺がこの店を閉めるときにかける盤だ。

French Ballads』。タイトルのとおり、フランスの歌ものを集めたバラード集だ。こちらも復帰後、IDAから出た作品として知られている。編成はピアノにミシェル・グレイエ、ベースにリカルド・デル・フラ、ドラムにサンゴマ・エヴェレット。繊細なトリオを従えたワンホーンの編成だよ。

ドラムが入りながら、なぜこれほど空間が静寂に包まれているのか。そこにこの盤の凄さがある。

この盤におけるドラムの役割と静寂の意味

  • 叩くのではなく「撫でる」ブラシワーク。サンゴマ・エヴェレットのドラムは主張するためではなく、空間の湿度を保つためにシンバルやスネアを静かに撫でている
  • ダイナミクス(音量差)の天井が低い。リズム隊全体が音量を徹底的に抑えているから、サックスは囁くような息の音までマイクに拾わせることができる
  • 拍を縛らず、寄り添う。テンポをグイグイ引っ張るのではなく、バルネの呼吸(ルバート)に合わせて波のように揺れている

つまりこの盤は、第二の盤(La Note Bleue)で獲得した「吹かない技術」や息の質感を、トリオの静かな残響の中で最大限に活かせる部屋を用意してるってことなんだ。設計として、ちゃんと理にかなってる。

で、演奏の話。ここでの彼は、ジャズマンがよくやることをほとんどしない。

普通、ジャズでバラードをやるときはこうなる。まずテーマを吹く。ただし原曲どおりには吹かない。音を足したり、装飾したり、リズムをずらして「ジャズ化」する。それからコード進行に沿ってアドリブに入って、腕を見せる。最後にテーマに戻る。これが定型だよ。

バルネはね、テーマをほとんどそのまま吹くんだ。

装飾を足さない。崩さない。ただ、音色と間だけで喋る。同じメロディを原型を保ったまま、だけど絶対に譜面には書けない呼吸で吹く。これはとても勇気のいることなんだ。だって技を見せるものが何も残らないから。素の音色が良くない人は、絶対にこれをやれない。

そして、レパートリーが効いてくる。フランスの映画音楽やシャンソン — つまり彼の母語で歌われてきた曲だ。第1章で「フランス語で吹かれたテナー」って言ったの、覚えてるかい。あれがいちばんはっきり形になっているのがこの盤なんだよ。

歌詞のある曲を、歌詞なしで吹く。そのとき彼のフレーズの区切り方はコード進行の都合じゃなくて、言葉の切れ目のほうに寄っている。息継ぎの位置が、歌手のそれに近い。だから聴いてると、メロディの向こうに言葉があるような気がしてくる。何を歌ってるかはわからないのに、何か言われた気になる。

『French Ballads』の聴きどころ、三つだけ

  1. テーマをどれだけ崩していないか。「アドリブはどこ?」と思ったら、それが正しい聴き方
  2. 静かなブラシワークとテナーの距離感。ドラムが主張せず、夜の湿度のように背景へ溶け込む瞬間
  3. 息を吸う音。マイクが拾ってる、演奏の前の吸気。あれも音楽だよ

というわけだ。

1959年の彼は、勝つために吹いていた。晩年の彼は、残すために吹いていた。

同じ楽器、同じ人間で、これだけ違うことができる。俺がこの男を三十年しつこく棚に置いてる理由は、たぶんそこなんだと思う。

……ん、もう一杯いくかい?

ならちょうどいい。まだ話してないことが、実はけっこうあるんだ。 あの『La Note Bleue』ってタイトル、なんで「青い音」なのか気にならなかったかい? あれね、一冊の劇画から来てるんだよ。絵描きと、物語と、レコードの話。それから盤の顔。ジャケットの選び方と、いま手に入る形の話。

最後の章で、その裏側をやってもいいかい?

第4章:アナザー・アングル——絵と、紙と、その後の夜

シャッターは半分下ろしとくよ。もう新しい客は来ないだろうし、君の話し相手くらいはできる。

さっきの続きだ。『La Note Bleue』—「青い音」。

あのタイトル、バルネが思いついた詩的な言葉じゃないんだ。先に「本」があった。 それも活字の本じゃない。絵の本だよ。

劇画家ロースタルが描いた「青い音」

フランスにはバンド・デシネ(bande dessinée)って文化がある。日本語だと「劇画」とか「フランス漫画」って訳されるけど、実態はもうちょっと違ってね。一冊が大判のハードカバーで、画集みたいな重さと値段で売られている、大人向けの絵物語なんだ。子供の読み物じゃない。書店では文学の隣に並ぶ。

その世界に、ジャック・ド・ルスタル(Jacques de Loustal)という画家がいる。単純に「絵が上手い人」じゃないんだ。この人の絵は線が少なくて、色が広い。人物の顔もあまり描き込まない。かわりにホテルの部屋の壁の色、夜のプールの水面、車のボディに映る光。そういう空気の温度みたいなものを、べったりした色面で塗ってくる。だから読んでると、話の筋より先に「あの部屋、暑かったな」って記憶が残る。

そのルスタルが、脚本家フィリップ・パランゴー(Philippe Paringaux)と組んで、1987年に一冊の作品を出した。タイトルは『Barney et la note bleue(バルネと青い音)』。

これがね、ジャズ・ミュージシャンの物語なんだ。才能があって、堕ちていく男の話。酒と薬とホテルと女と、演奏と。フィクションだよ。だけど主人公の名前が「バルネ」で、その音楽的なイメージの源に実在のバルネ・ウィランがいた。そういう関係の作品として語られている。

そして、ここからが本題だ。

その本に、本人が音を付けたんだよ。

順序を整理しておくよ。

  • 1987年、ロースタル+パランゴーが『Barney et la note bleue』を発表
  • 同年、バルネ・ウィラン本人が、同じ『La Note Bleue』という題でアルバムを録音・発表(フランスの独立レーベルIDA Recordsから)
  • ジャケットにはルスタルの絵が使われた

わかるかい、この構図の面白さ。

架空の自分を主役にした本が世に出て、その架空の自分に、生身の自分がサウンドトラックを吹いた。

普通じゃないよ。だってバルネは、十年以上表舞台から消えていた男だ。世間から見れば、彼は半分「伝説」になっていた。「昔パリにすごいテナーがいたらしい」っていう、噂の側の存在だ。そこへ、噂を絵にした本が出た。普通なら、そこで終わるんだ。伝説は伝説のまま額に入って、本人は本人のまま黙ってるのが、いちばん美しい終わり方だからね。

でも彼は、楽器を持って出てきた。自分についての物語に、自分で答えた。

だから俺は、あの盤の音があんなに静かなのが未だにこたえるんだよ。あそこで彼は、伝説を演じ直してない。「その男はいま、こういう音を出しています」と報告してるだけなんだ。第3章で君と一緒に聴いた、あの語尾を消すやつ、吹かない時間。あれは物語への返事なんだと思うとね、ちょっと飲む手が止まる。

もうひとつ言っておくと、この関係は「ジャズが絵に使われた」んじゃないんだ。バンド・デシネの側にジャズへの本気の愛があって、音楽の側にそれを受け取る用意があった。フランスという国が、ジャズを自国の文化として抱え込んだ証拠みたいな出来事なんだよ、これは。アメリカから輸入した音楽が、三十年かけてその土地の絵と紙の中に定着した。

盤の顔で選ぶ、という飲み方

ジャケットの話が出たから、ついでに「盤の顔」の話をしよう。配信で聴くのが当たり前になった時代に、こんなこと言うのも爺くさいけどね。俺はこの店に置く盤を、半分は顔で選んでる。

死刑台のエレベーター(Ascenseur pour l’échafaud)。あれは映画のポスターの見本みたいなジャケットだ。ジャンヌ・モローの顔と、モノクロの陰影。だから面白いことが起きる。この盤はジャズのアルバムとしてより「映画音楽の名盤」として棚に並ぶんだ。ジャズを知らない映画好きの家に、この一枚だけがある。そういう家を、俺は何軒も見たことがある。

で、ここは買うときに知っておいたほうがいいことがあってね。

『Ascenseur』を手に取るときの注意 
この音楽、もともとの発売形態はごく短いものだった。映画に使われた音楽そのものが、細切れの短いパーツの集まりだからだよ。 後年に何度も再発されていて、別テイクやセッションの未使用素材を大量に足した「完全版」的な内容の盤が複数存在する。収録曲数がまるで違うものが、同じジャケットで売られていることもあるんだ。 だから曲数を見て選ぶといい。映画の記憶をなぞりたいなら短いやつ。マイルスたちがあの夜スタジオで何度も吹き直した過程まで覗きたいなら、テイクが並んでるやつ。後者は正直、けっこう聴き応えがある。

『Barney』

こっちはシンプルだ。名前だけ。あの潔さがいい。1959年に、二十二歳が自分の名前一語をタイトルにしたっていう事実そのものが、もう作品の一部だよ。ただ、この時期のフランス盤は再発の系譜が少し複雑でね、盤によってジャケットのデザインや曲順が変わっていることがある。買うときは収録曲を確認してくれ。俺も昔、同じ内容を二枚買ったことがある。……笑うなよ。

『La Note Bleue』と『French Ballads』

この二枚を出したIDA Recordsっていうレーベルの話を少し。八〇年代のフランスにあった独立系のレーベルで、大手が拾わない音を丁寧に録っていたところだ。「売れる企画」より「この人の今の音」を残すほうに寄っていた。だから録音がいい。特にサックスの至近距離の空気感、ピアノの減衰、ベースの胴の鳴り。第3章で君に「息を吸う音まで聴け」って言えたのは、そういう録り方をしてくれたレーベルだったからなんだよ。

演奏の中身は、録音の質と切り離せない。あの静けさは演奏だけじゃなく、録音チームの選択でもある。 俺はそこも含めて、あの二枚を評価してる。

バルネが残したもの、そして次に開けるべき一本

最後だ。彼が去ったあとの話をしよう。

1996年5月、パリで死去。五十九歳。 復帰から十年足らずだった。

短いと思うかい。俺もそう思う。だけどね、この十年の彼は本当によく吹いて、よく録ってるんだ。復帰後の彼は『La Note Bleue』『French Ballads』だけで終わらなかった。アフリカ体験を反映させた作品、フランス映画音楽を正面から取り上げた企画、アメリカに渡って一流のリズム隊と組んだセッション。晩年の十年に、方向の違う録音がいくつも残されている。「静かなバラードの人」で片付けると取りこぼす。

そして、彼が置いていったものは何か。

俺の考えを言うよ。「ジャズは、その土地の言葉で喋っていい」という許可だと思う。

考えてみてくれ。八〇年代以降のヨーロッパのジャズって、ある種の共通した気配を持ってるだろ。音を詰めない。速く吹くことを価値の中心に置かない。土着の歌や民謡や映画音楽を、恥ずかしがらずに素材にする。静かな録音で、余白を聴かせる。北欧のレーベルの音を思い浮かべる人も多いだろうし、実際そっちの流れも別にある。系譜を一本に結ぶのは無理だよ。

でも、フランス語圏でその態度をいちばん早く、いちばん自然に体現していた奏者のひとりがバルネ・ウィランだったってことは、言っていいと思う。彼は「アメリカに追いつく」ゲームから、たぶん一番早く降りた人なんだ。しかも降りたことを負けと思っていなかった。第2章で話した通り、レースカーの音でレクイエムを作ったり、アフリカに行ったり、そもそもゲームの外にしか興味がない人だったからね。

バルネ・ウィランという人を一行で言うなら 「上手いアメリカ語を喋れたのに、途中で母語に切り替えた男」。 そして母語に切り替えてからのほうが、圧倒的に良かった男だ。

さて。四枚は伝えた。だから最後に、五枚目の話をして店を閉めるよ。

もし君が今夜の四枚を気に入って、それでもまだ足りないと思ったら。1959年前後の、彼が関わった映画音楽の仕事を探してみてくれ。第2章で少し触れたやつだ。アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズがフランス映画に付けた音楽の現場に彼はいたし、彼自身が中心になって手がけた映画音楽の仕事も残っている(1959年、エドゥアール・モリナロ監督『Un témoin dans la ville(街の目撃者)』の音楽が知られている。ケニー・ドーハム、デューク・ジョーダン、ケニー・クラークといった顔ぶれが参加したとされる録音だよ)。

なぜそれを勧めるか。この男は生涯を通じて、「映像のための音」を吹くのが異様にうまかったんだ。二十歳のときに暗いスタジオでスクリーンを見上げて吹いた経験が、たぶん最後まで残ってる。晩年のバラードが聴いてるうちに勝手に風景に変わっていくのは、そのせいじゃないかと俺は疑ってる。

……ああ、氷が全部溶けたな。

いいよ、そのままで。最後の一枚、かけとくから。『French Ballads』。うん、それだ。コートを着る間に一曲だけ。

外は少し冷えるよ。傘、忘れるな。

また来るかい? ……そう言ってくれると思ってた。次は棚のもう一段下、六〇年代のわけのわからんバルネを開けよう。あれはあれで、とんでもないんだ。

じゃあ、おやすみ。


出典・参考文献

  • Loustal(Jacques de Loustal)/ Philippe Paringaux『Barney et la note bleue』(バンド・デシネ、1987年、Casterman)
  • Barney Wilen『La Note Bleue』(IDA Records、1987年)盤面表記およびジャケット・アートワーク(Loustal)
  • Barney Wilen『French Ballads』(IDA Records、1980年代後半)盤面表記・クレジット
  • Barney Wilen『Barney』(1959年録音)クレジットおよび各種再発盤の収録内容表記
  • Miles Davis『Ascenseur pour l’échafaud』(1957年12月録音/Fontana、および後年の各種拡張再発盤)のクレジット・ライナーノーツ
  • The New Grove Dictionary of Jazz(Barney Wilen、Duke Jordan、Kenny Clarke、Daniel Humair の各項目)
  • Louis Malle『Ascenseur pour l’échafaud』(1958年公開)に関する映画資料・音楽制作経緯についての各種解説
  • Académie du Jazz(フランス)公式発表資料:Prix Django Reinhardt 受賞者一覧
  • IDA Records レーベル関連情報および同レーベル作品のクレジット表記
  • フランス・ジャズ史および1950年代パリのジャズ・シーンに関する一般的な音楽史文献、ならびに Universal / Emarcy「Jazz in Paris」シリーズ各盤のライナーノーツ
  • 本記事作成にあたってインプットされたテキストデータ(テーマ指定:バルネ・ウィラン推薦4作品——『Ascenseur pour l’échafaud』『Barney』『La Note Bleue』『French Ballads』)

付記 本記事のうち、1970年代の活動休止・不在期間の理由、および『Barney et la note bleue』における主人公像とバルネ・ウィラン本人との具体的な対応関係については、資料により語られ方に幅がある。本文中では断定を避け、「〜とされる」「一説には」等の表記に留めている。年号・参加メンバー・レーベル情報は各盤のクレジット表記を優先し、確認が取れない細部は記述を控えた。

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