第1楽章 ── 序奏:客を迎える
午後三時を少し過ぎた頃だ。路地裏に射し込む陽が、この時間だけ「詩(うた)」の窓辺を琥珀色に染める。外は薄曇り、ときおり雲間から陽が漏れてはまた翳る。そんな煮え切らない天気の日には、なぜだか客足も途切れがちだ。
マスターはカウンターの奥で、ネルの布をゆっくりと湯に浸していた。豆はいつもの深煎りではなく、少し浅めに挽いてある。曇りの日は、後味の澄んだ一杯がいい ― そう思っていた矢先、からんとドアベルが鳴った。
「あ……やってますか」
入ってきたのは二十代半ばだろうか、大きな譜面カバンを提げた青年だった。指先にほんのりとタコができているのが、カウンター越しにも見てとれた。
「どうぞ。お好きな席へ」マスターは静かに言う。「珈琲でいいかね。今日は浅めに淹れてるんだ」
「じゃあ、それを……。すみません、何だかぼうっとしたくて」青年はカウンターに腰を下ろし、カバンを椅子に立てかける。「音大でピアノを。今日、発表会だったんですけど、うまくいかなくて」
「ほう」マスターはドリッパーに湯を細く落としながら、微笑んだ。「何を弾いたんだね」
「モーリス・ラヴェルの……『亡き王女のためのパヴァーヌ』です」
湯を落とす手が、ほんの一瞬止まる。
「ああ」とマスターは目を細めた。「誰もが一度は聴いたことのある、あの曲だね。遠くから響いてくるようなホルンの ― いや、ピアノ版だと右手の歌い出しか。ゆっくりと、行列が過ぎてゆくような」
「そうなんです。パヴァーヌって宮廷の行列の踊りのことだって習って。でも僕、どうしても速くなっちゃって。先生に『君のは行列じゃなくて競歩だ』って」
マスターは声を立てずに笑い、湯気の立つカップをそっと青年の前に置いた。
「その気持ち、よく分かるよ。あの曲はね、速くしようと思わなくても、弾いてる本人が焦れてくるんだ。旋律がこう……もったいぶるからね。実はその『速さ』については、作曲者本人があるピアニストに言い放った、なかなか辛辣な逸話が残っていてね」
「え、ラヴェル本人が?」
青年は冷めかけていた背筋を少し伸ばした。窓の外で雲が切れ、テーブルに淡い光が伸びる。
「せっかくだ。珈琲がなくなるまで、少し昔話に付き合ってくれるかね」
マスターはカウンターの奥、レコード棚のほうへ視線を向けた。「あの曲には題名からして ― ちょっとした誤解がつきまとっているんだよ」
【第1楽章の一枚】まずは肩の力を抜いて、管弦楽版の柔らかな響きから。定番を少しだけ外して
- アンドレ・クリュイタンス指揮/パリ音楽院管弦楽団(1961年録音/ラヴェル管弦楽曲集より)
フランス的な、乾いてしなやかな音色。この一枚を軸に、次章から少し深いところへ潜っていこう。
第2楽章 ── 知られざる物語
マスターはカウンターの内側で、洗い終えたばかりのカップを布で拭きながら、ゆっくり口を開いた。
「まず、あの題名だ。『亡き王女のためのパヴァーヌ』 ― 日本語だと、しんみりして聞こえるだろう。ある王女が亡くなって、その追悼に書かれた曲と思っている人が多い」
「違うんですか。僕もてっきり、実在した王女様がいて……」
「それがね」とマスターは目尻に皺を寄せた。「特定の誰かを悼んだ曲ではないんだよ。原題は『Pavane pour une infante défunte』。ラヴェル自身がのちに語ったところでは、これは追悼曲ではなく、昔むかしのスペインの宮廷で、小さな王女が踊ったであろうパヴァーヌを空想した ― そういう曲なんだ。頭韻を踏んだ、言葉の響きの美しさで選ばれた題名なのさ」
「じゃあ、悲しませようとして付けた名前じゃない」
「ラヴェルはこう言い残している。『題名は音楽と何の関係もない。私はただ、この言葉の並びが好きだっただけだ』とね。彼は感情を垂れ流すのを何より嫌った人でね。スイスの時計職人みたいだと揶揄されたこともある。精密で、冷たいほど端正で」
青年は珈琲を一口すすった。「でも、あんなに切ないのに」
「そこが面白いところでね」マスターは声をひそめた。「作曲者自身はこの曲があまり好きじゃなかったらしい。晩年、自作の演奏を聴かされて、彼はこう漏らしたそうだ。『パヴァーヌはいいが、ラヴェルがひどい』とね。つまり演奏がひどいと言いたかったんだが、言い回しが洒落ていてね」
青年は思わず吹き出した。「本人が、自分の曲の演奏にダメ出し」
「そう。そしてさっき言った速さの話。あるピアニストがこの曲をやたらとゆっくり、感傷たっぷりに弾いたとき、ラヴェルはこう釘を刺したという。『これは亡き王女のためのパヴァーヌであって、王女のための亡きパヴァーヌではない』とね」
「……つまり、死んでいるのは王女で、パヴァーヌ自体は生き生きと運ばなきゃいけない、と」
「まさに。君の先生の『競歩』も、案外ラヴェルの意に近かったかもしれんよ」
マスターは悪戯っぽく笑った。「もっともこれは、一説にはという類の逸話でね。言い回しの正確さまでの真偽は定かでない。ただ、彼が感傷過多を嫌ったのは間違いない」
「面白いなあ……。この曲、思ってたのと全然違う」
「もうひとつ、余談を」
マスターはコーヒーミルに手を伸ばしながら続けた。「この題名に惹かれて、まったく別のジャンルの傑作が生まれたのを知っているかね。キューバの作家、ギリェルモ・カブレラ=インファンテという人がいてね」
「作家……音楽じゃなく?」
「小説だ。彼は『亡き王子のためのハバーナ』――原題『Habanera para un infante difunto』という長編を書いた。ラヴェルの原題をもじって、infanteを女性形から男性形に、Pavaneをキューバの舞曲Habaneraに置き換えたんだね。革命前のハバナの街と青春の恋を綴った、めくるめく言葉遊びの小説さ」
「タイトルの踊りを、まるごと入れ替えたんですね」
「そう。ラヴェルが『言葉の響きで選んだ』題名が半世紀を越えて、遠いカリブ海で別の芸術に生まれ変わった。音楽と関係ないはずの題名が、今度は文学の種になる。なんとも粋な巡り合わせでしょう」
窓の外で雲がまた切れる。青年はカップを両手で包んだまま、しばらく何も言わなかった。
【第2楽章の一枚】「速すぎず、感傷に溺れず」――ラヴェルの美学を体現したピアノ独奏版を。
- サンソン・フランソワ(ピアノ)/1967年頃の録音(ラヴェル・ピアノ作品集より)
フランソワの指は、ここで決して泣かない。淡々と、しかし匂い立つように運ぶ。”王女のための亡きパヴァーヌ”に陥らない、絶妙な距離感の名演だ。
第3楽章 ── マスターの一枚
マスターはカウンターを離れ、奥のレコード棚の前にしゃがみ込んだ。背表紙を指の腹でなぞりながら品定めをしている。やがて一枚を抜き出すと、埃を息で払い、慣れた手つきで盤をターンテーブルに載せた。
「さっき、フランソワのピアノを薦めたね。あれはあれで絶品なんだが」マスターはトーンアームをつまみ、慎重に外周へ運んだ。「今日はあえてオーケストラ版で、ちょっと意外な一枚を聴いてもらおうと思ってね」
針が溝に降りる。ぷつ、ぷつ、という古い盤特有のノイズのあと、遠くからホルンが立ち上がってくる。
「これは……さっきのクリュイタンスとは違いますね。音がなんだか引き締まってる」
「よく聴き分けたね」マスターは満足げに頷く。
「ポール・パレー指揮/デトロイト交響楽団。1950年代後半の録音だ。パレーはフランスの名指揮者でね、若い頃はローマ大賞まで獲った作曲家でもあった。そのフランス人がなぜかアメリカ、それもデトロイトのオーケストラを率いていた時期があってね」
「フランスの曲をアメリカのオケで……なんだか意外な取り合わせですね」
「そこが面白いところさ」マスターは椅子に腰かけ、脚を組む。「普通、ラヴェルといえばパリの、あの霞がかったような柔らかい音を思い浮かべるだろう。ところがパレーとデトロイトは、まるで違う。もっと骨格がくっきりしていて、風通しがいいんだ。感傷でべたつかせない。旋律を『歌わせよう』と粘らない。ただ、行列がしずしずと過ぎてゆくのを、背筋を伸ばして見送るような」
「あ……本当だ。泣かせにこない。なのに、じわっとくる」青年は目を閉じて聴き入った。
「まさにラヴェルが言った『感傷に溺れない』演奏の見本のような一枚でね。パレーはとにかくテンポが淀まない人でね。それでいて冷たくならないのは、根っこがフランス人だからだろう。アメリカの機能美とフランスの気品が、ちょうど半分ずつ溶け合っている。そういう不思議な魅力の演奏なんだ」
「木管が、すごく澄んでますね」
「マーキュリーというレーベルの録音でね。この会社は『リヴィング・プレゼンス』といって、当時としては驚くほど生々しい音で知られていた。楽器が目の前で鳴っているような、あの生々しさ。パレーの引き締まった音楽とこの鮮烈な録音が、実によく噛み合っているんだ」
「不思議です。有名なパリのオケじゃないのに、こんなにしっくりくるなんて」
「そこがレコード漁りの醍醐味でね」マスターは目を細める。「ちなみにこの曲は、最初ピアノ独奏で書かれて、あとからラヴェル自身が管弦楽に編曲したものでね。だから両方にそれぞれの顔がある」
【第3楽章 ── 聴き比べのおすすめ】
- 本命の一枚:ポール・パレー指揮/デトロイト交響楽団(1950年代後半/管弦楽版・マーキュリー録音)── 引き締まって淀まない、風通しのよい「行列」
- 対照の一枚:クリュイタンス指揮/パリ音楽院管弦楽団(1961年/管弦楽版)── 磨き抜かれた、しなやかで端正な響き
- ピアノで聴くなら:サンソン・フランソワ(1967年頃)── 泣かない指先、匂い立つ距離感
「同じ曲でも、まるで別の絵画みたいですね」青年はカップの底に残った珈琲を、名残惜しそうに揺らした。
「そうなんだよ。そして面白いのは」マスターは声を落とす。「ラヴェル本人が弾いた録音も、実は残っているんだ。1930年代のずいぶん古いやつでね。それがまた ― びっくりするほど淡々と、どんどん先へ進む。まさに『競歩』寄りなんだよ」
青年が思わず笑った。「じゃあ、僕の速い演奏は……」
「作曲者公認、かもしれんね」マスターも笑う。「もっとも彼の指揮は、正確無比とは言い難くてね。作曲は天才でも、棒はいまひとつなんて陰口も叩かれた。真偽のほどは分からんが。ともあれ、あの淡々とした足取りには彼の美学がむき出しになっているよ。パレーの引き締まったテンポも、案外そこに通じているのかもしれん」
パレーの演奏は終盤へさしかかっていた。最後のホルンが遠ざかり、行列が門の向こうへ消えてゆくように、音が細く、細くなっていく。
青年はもう何も言わず、ただその余韻に耳を澄ませていた。
第4楽章 ── 余韻:客を送り出す
盤の最後の溝を、針がぷつりぷつりなぞっている。マスターは立ち上がり、そっとトーンアームを持ち上げた。店内の客同士が交わす、かすかなざわめきが戻ってくる。
青年はしばらく、空になったカップを見つめていた。やがてふうっと息をついて、顔を上げる。
「なんだか……肩の荷が下りた気がします」
「ほう」マスターはレコードを丁寧に紙のジャケットへ戻しながら、続きを待った。
「僕、ずっと『亡き王女』っていう題名に引っぱられてたんだと思います。悲しく悲しく弾かなきゃって。でも、そもそも誰かを悼んだ曲じゃなかった。ラヴェルは言葉の響きが好きなだけで、演奏はむしろ淡々と運べって言ってて」青年は少し照れたように笑った。「僕が焦って速くなってたのも、あんがい的外れじゃなかったのかもしれない」
「速すぎたのはたぶん、焦りのせいだ」マスターは静かに言った。「でも今の君なら、同じ速さでも意味が変わっているだろう。急いでいるんじゃなく、行列がしずしずと運ばれてゆく速さ――それを分かって弾くのと、分からずに弾くのとではまるで違う」
「行列の、速さ……」
青年は口の中でその言葉を転がすように繰り返した。譜面カバンに手を伸ばしかけて、ふと動きを止める。
「マスター、さっきの……キューバの小説。『亡き王子のためのハバーナ』でしたっけ」
「カブレラ=インファンテだね」
「読んでみます。タイトルひとつが海を越えて別の作品になるなんて。なんだか僕がこの曲をどう弾くかも、それと地続きな気がして」
マスターは目を細めた。「いい聴き方をするね。曲は弾く人のところで一度死んで、また生まれ変わる。題名がハバナで生まれ変わったようにね」
青年は立ち上がり、カバンを肩にかけた。窓の外はいつのまにか雲が晴れ、西日が路地を金色に染めている。
「珈琲、ごちそうさまでした。浅煎り、澄んでて……今日の気分にぴったりでした」
「それは何より」マスターはカウンターの奥で、軽く頭を下げた。「発表会は残念だったが、弾く機会はいくらでもある。次はきっと、いい行列になるよ」
からん、とドアベルが鳴り、青年は光の中へと踏み出していった。
マスターはひとり、ターンテーブルの前に戻った。片付けたばかりのパレー盤をもう一度、そっと取り出す。針を落とすと、再び遠くからホルンが立ち上がってくる。
「王女のための亡きパヴァーヌ、か」
誰にともなく呟いて、マスターは新しい豆を挽きはじめる。ミルの音と遠い行列の旋律が静かに溶け合っていく。西日がカウンターの木目をゆっくりと撫で、やがて翳った。
【本日の一杯に添えて ── おさらいの三枚】
- ポール・パレー指揮/デトロイト交響楽団(1950年代後半/管弦楽版・マーキュリー録音)── 感傷を排した風通しのよい「行列」
- クリュイタンス指揮/パリ音楽院管弦楽団(1961年・管弦楽版)── 端正でしなやかな響き
- サンソン・フランソワ(ピアノ/1967年頃)── 泣かない指先の妙
そして本を一冊 ── G・カブレラ=インファンテ『亡き王子のためのハバーナ』。ラヴェルの題名が海を越えて生まれ変わっためくるめく言葉の芸術を、珈琲のお供にどうぞ。


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