【観測地点:禁書庫の老司書】 私は数千年の時を吸い込んだ羊皮紙の臭いと、湿った沈黙に覆われた禁書庫の番人。Bクンはここに迷い込み、知らぬ間に深淵の音源に触れてしまった新人司書)
第一章:新ボーカル「ダモ鈴木」との遭遇 ― 路上から古城へ
「……しっ。静かに、Bクン。ここでは溜息ひとつでさえ、眠っている歴史の脊髄を逆撫でしかねない」
私は震える指を唇に当て、煤けたランタンの灯りで棚の奥を照らした。そこには1971年という刻印が刻まれた、あまりにも不気味な色彩の記録盤が鎮座している。
Can『Tago Mago』。この名を口にするだけで、禁書庫の空気がわずかに歪むのがわかるだろう?
「君が整理していた1970年代初頭の棚から、それが落ちたのだね。運が悪かった。……いや、あるいはこの盤に呼ばれたのかもしれない。見てごらん。この奇妙な、内臓をぶちまけたようなジャケットを。これは単なる音楽の記録ではない。一種の『儀式』の跡地なのだよ」
Bクンは、私の隣で青ざめた顔をして立ち尽くしている。彼が不用意にその盤に触れようとした瞬間、書庫の静寂が、まるでガラスが砕けるような音を立てて崩れ去った。
「聴こえるかね? 針を落とす前から、空間そのものが波打ち始めている。ホルガー・シューカイの編集という名のメスが、時間を切り刻み、ダモ鈴木の呪文のような咆哮が、論理の壁を食い破ろうとしている。……君が今感じているその『吐き気を伴う高揚』こそが、この深淵への入り口だ」
私は重い革の手袋をはめ、その盤を慎重に手にとった。
「いいかい、Bクン。これから我々は、ケルン郊外の古城、シュロス・ネルフェニッヒ……音楽という名の錬金術が行われた『現場』へと遡らねばならない。覚悟したまえ。この音に一度でも耳を貸せば、君の知る『世界の秩序』は、二度と元の形には戻らないのだから」
第二章:極限のDIY録音 ― 16時間の即興とテープ編集の魔術
「いいかい。この物語の始まりはミュンヘンの路上にある。かつての先導者マルコム・ムーニー が去り、抜け殻のようだったCanの前に一人の東洋人が現れた。ダモ鈴木。彼はカフェの外で大道芸をしていたところを、ホルガーとヤキに『拾われた』のだよ。……驚くべきことに、その日の夜にはすでに、彼はステージの上で言葉にもならない呪文を叫んでいたという」
私は机の上の蝋燭を近づけ、古い地図を指差した。
「舞台はケルン近郊のシュロス・ネルフェニッヒ。中世の古城だ。1970年の冬、彼らはこの城のエントランス・ホールを占拠した。なぜか? その石壁がもたらす『自然の残響』が欲しかったからだ。Bクン、想像してごらん。暖房もない寒冷な城の中で1日16時間、終わりなき即興演奏が繰り返される光景を。それは音楽制作というより、一種の監禁に近い」
私はBクンに、黄ばんだレコーディング・メモを見せた。
「記録機はわずか2台の2トラック・レコーダー。マイクはたったの3本だ。ミキシング・ボードさえ存在しない。彼らはアンプの配置と自分たちの立ち位置だけで音の均衡を保った。『誰か一人が動けば、録音は破壊される』という極限の緊張感……。Bクン、君の背筋が凍っているのは、その張り詰めた糸のような空気が今もこの記録から漏れ出しているからだ」
私はわざと声を潜め、彼に耳打ちした。
「さらに恐ろしいのは、ホルガー・シューカイの所業だ。彼はメンバーが気づかぬうちに、プリプロダクションの断片や、迷い込んだ子供の叫び声、飼い犬の遠吠えまでもを秘密裏にテープに閉じ込めた。そして何百時間という膨大なジャムをメスを入れる外科医のように切り刻み、繋ぎ合わせたのだ。……そう、この『Tago Mago』という怪物は、死体をつなぎ合わせて作られたフランケンシュタインのようなものなのだよ」
Bクンは棚に置かれた盤のジャケットに描かれた『内臓のような模様』を直視できず、視線を泳がせている。
「当初は1枚のLPに収める予定だったが、マネージャーのヒルデガルトがそれを許さなかった。『これこそがグループの真実だ』と。そうしてこの2枚組の呪物が完成した。……イビザ島の近くにある小島『タゴ・マゴ』の名を冠し、アレイスター・クロウリーの影を纏ってね」
第三章:ジャンルの闇鍋 ― 現代音楽、ジャズ、魔術の混血
「この『Tago Mago』という怪物の血管を流れているのは、決して清廉なロックの血ではない。見てごらん、この名前を。カールハインツ・シュトックハウゼン。ホルガーとイルミンが師事した、現代音楽の冷徹な構築者だ。彼らから受け継いだ『電子の前衛』という毒が、この盤の至るところで脈打っている」
私は震える指で、ジャズ界の帝王の名が記された箇所をなぞった。
「そして、マイルズ・デイヴィス。秩序を破壊し、即興という名のカオスを統制する帝王の精神。さらにはアフリカの泥土を思わせるファンクのリズム……。それらが中世の古城という閉鎖空間で煮詰められ、発酵し、この世のものとは思えない『アヴァン・ファンク』へと変貌したのだ」
Bクンが、盤に刻まれた『Aumgn(アウム)』という文字を指差した。彼の指は小さく震えている。
「ああ、そこに気づいてしまったか。それは禁忌の領域だ。アレイスター・クロウリー……近代最大の魔術師が解釈した聖なる音。イルミン・シュミットはシンセサイザーの代わりに発振器(オシレーター)を操り、人間ならざる声で詠唱した。それはもはや歌ではない。空間そのものを歪めるための『呪文』だ」
第四章:深淵の解剖 ―「Aumgn」と「Peking O」の物質的変異
「まず、サイド3を占拠する『Aumgn』だ。Bクン、これはもはや『曲』ではない。音による空間の解体作業だ。聴こえるのはイルミン・シュミットが操る発振器の、心臓を逆撫でするような電子の唸り。そこにダモではなく、イルミン自身の低く湿った詠唱が重なる。……そう、ヒンドゥーの聖なる音『Om』をアレイスター・クロウリーが歪めた、あの『Aumgn』だ」
私はランタンを近づけ、音響の波形が描かれた古い図面を指差した。
「ここにはリズムの救いなどない。中盤から現れるヤキのドラムも、秩序を作るためではなく、混乱を加速させるために叩かれている。加えてホルガーの編集だ。彼はここで、音の『距離感』を殺した。遠くで鳴っているはずの音が突如として耳元で爆発し、次の瞬間には虚空へと消える。Bクン、君はさっきから自分の影が伸び縮みしているように見えないか? それがこの音の力だよ」
「そして、さらなる地獄がサイド4の『Peking O』だ。ここで彼らは、ついに『楽器』さえも捨て去ろうとした。聴こえてくるのは当時としてはあまりに不気味な初期のドラムマシン、リズム・エースの乾いた機械音だ。その無機質な反復の上で、ダモ鈴木の精神は完全に崩壊したかのように叫び、囁き、笑う。言語は解体され、ただの『音塊』へと成り果てるのだ」
私は声を潜め、震えるBクンの耳元で囁いた。
「この2曲は当時のレコード会社の重役たちが、『カットすべきだ』と激怒した代物だ。なぜならここには、音楽が守るべき『調和』が微塵も存在しないからだ。
あるのは剥き出しの潜在意識と、テープの磁性体に焼き付けられた『狂気そのもの』だ。この17分と11分を通過した後では、君の耳は普通のポップソングを『退屈な嘘』だと感じるようになるだろう」
私はBクンの肩に手を置き、冷たく、しかし静かに告げた。
「サイド1からサイド2へ、そしてさらに深いサイド3、4へ……。音楽は次第に光を失い、物質的な異常をきたしていく。『Halleluhwah』の18分間に及ぶ執拗なリズムの反復に脳を削られ、最後には『Peking O』の壊れたリズムボックスとダモの絶叫に、理性を食い破られる。……Bクン、君は今、自分が立っている床が揺らいでいるように感じないかね?」
「ジョン・ライドン、ボビー・ギレスピー、ジョニー・グリーンウッド……後世の表現者たちがこの深淵を覗き込み、それぞれの狂気(インスピレーション)を持ち帰った。だが源泉はここにしかない。この古びた、内臓のような模様の盤の中にだけね」
第五章:黒い遺産 ― 終わらない感染の記録
「見てごらん。この盤から漏れ出した毒は、まず1970年代後半のイギリスへと到達した。パンクという熱病に侵されていたジョン・ライドンだ。彼はこの盤の『自由という名の狂気』に触れ、Public Image Ltd.という冷徹な実験場を築いた。彼の叫びの裏側には、常にダモ鈴木の幻影が張り付いているのだよ」
私は書庫の暗がりに点在する「感染者」たちの系譜を指差した。
「感染は止まらない。ザ・フォールのマーク・E・スミスは、あまりの心酔ゆえに『I Am Damo Suzuki』という、そのものズバリの呪文を唱え始めた。さらには、スージー・アンド・ザ・バンシーズの氷のような音響、トーク・トークが辿り着いた静寂の極地……。
これらすべての毛細血管に、ホルガー・シューカイが切り刻んだテープの断片が流れ込んでいる」
私は、震えるBクンの手を取り、壁に投影された現代の地図を見せた。
「90年代になれば、感染はもはや隠しようもなくなった。レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドとトム・ヨーク……彼らが『Kid A』や『In Rainbows』で見せた、あの有機的でありながら機械的なリズムの反復。あれこそはヤキ・リーベツァイトが遺した、『呪われた鼓動』の直系だ。
プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーも言っている。『アメリカのロックとは違う、神秘的でヨーロッパ的な何か』に脳を焼かれたとな」
「Bクン、君が愛聴している現代のオルタナティブ・ロックも、エレクトロニカも、この盤という『ゼロ地点』なしには存在し得なかった。彼らは皆、シュロス・ネルフェニッヒの古城で鳴り響いたあの不浄な残響を、今もそれぞれの楽器で再現しようとしているに過ぎないのだ」
私はゆっくりと、最後の一枚の羊皮紙を閉じた。
「この盤は、音楽を『鑑賞物』から『体験、あるいは浸食』へと変えてしまった。一度でもその毒に触れた表現者は、もう二度と、ただの綺麗なメロディには満足できなくなる……。これがこの盤が世界に遺した、最も残酷で美しい呪いなのだよ」
第六章:審判 ― 剥き出しの神経と評価
「この盤が世に放たれたとき、世界はそれをどう受け止めたと思う? 1971年、メロディ・メイカー誌のマイケル・ワッツはこう評した。『これは頭脳の音楽であり、心の音楽ではない』と。
……フフ、皮肉なものだ。彼らはこの盤の持つ『異質さ』に怯えたのだよ。ピンク・フロイドの『おせっかい(Meddle)』が持つ静謐さとは対極にある、剥き出しの狂気にね」
私は書庫の壁に掛けられた、後世の表現者たちの肖像画をランタンで照らした。
「だが、真の審判を下したのは時代そのものだった。
見てごらん。セックス・ピストルズのジョン・ライドン、レディオヘッドのトム・ヨーク、そしてザ・フォールのマーク・E・スミス……。
彼らは皆、この『Tago Mago』という毒を煽り、自らの血肉とした。ジュリアン・コープは言ったよ。『これ以前にもこれ以後にも、似たものは存在しない。これは無意識の底へと潜り込む音楽だ』とね」
私はBクンの手からこぼれ落ちそうになった記録盤を、優しく、しかし抗いがたい力で支えた。
「2005年、この盤は『死ぬ前に聴くべき1001枚』に刻まれた。30年以上経ってもその『現代性』と『極端さ』は、微塵も色褪せていない。Bクン、君が今感じている、この音楽がたった今作られたばかりのような瑞々しいまでの恐怖……それこそがこの盤が勝ち取った、永遠という名の審判なのだ」
最終章:実験の極北 ― 破壊された音響体
「……さて。もう夜が明ける。いや、あるいは永遠に明けない夜の中に我々は迷い込んだのかもしれない。『Bring Me Coffee or Tea』の調べが、この長い旅の終焉を告げている。……Bクン、最後の一節を読み終えたら、その盤を元の場所に戻したまえ」
私はランタンの火を吹き消そうとして、一度だけ止めた。
「忘れないことだ。一度この盤を開いてしまった以上、君の耳の奥には、ヤキ・リーベツァイトの機械仕掛けのような鼓動と、ダモ鈴木の壊れた言語が住み着き続ける。君が静寂を求めようとするたび、彼らは古城の残響とともに、君の脳裏で再び演奏を始めるだろう」
「……さあ、行きなさい。コーヒーか、あるいは紅茶でも飲んで、この戦慄を胃の中に流し込むといい」
私はゆっくりと書庫の重い扉を閉めた。暗闇の中で、まだ微かに『Halleluhwah』のリズムが刻まれているような気がした。


コメント